五

 

 校内で会長と荒井が付き合いだしたとか、会長は誰かに片思いしているという噂が出だした。

「会長。あのスポコン系と付き合いだしたってマジぃ?」

 写真愛好会の山田は階段で当子と捕まえて冗談交じりに聞く。

「まさか」

 当子が溜め息混じりに言う。

「じゃあ片思いの方か」

「・・・あたしみたいなのの恋話で盛り上がるって、余程楽しい事がないんですね」

 当子が溜め息をついた。

「そりゃ、可愛い会長の浮いた話は気になるって」

「気持ち悪いこと言わないでください」

 いつものクールさで当子が返す。

「じゃあ、会長の好きなやつって、ここにいるやつ?」

「しょうもない」

 毒っぽく吐くと、そのまま階段を上がっていく。長いスカートを愛用する当子の下着は階下から見上げてもちらりとも見えはしない。膝裏と太腿がちらりと見えるだけでもチラリズムといえるが、

「やっぱ、餓鬼じゃないよな」

 例の写真を思うと、少なくとも高級車を乗りこなす大人だ。

「・・・いい女なのになぁ」

 最近、会長のよさがわかる人間が増えてきた。行きつけの店がテレビに出るような少し複雑な気分がする。

 

 

 余程他に面白い事がないのだろう。

 そして、荒井にふられたのかと聞いたら肯定しなかったと言われたという情報もある。

 好意を持ってもらうのはありがとうというが、いさぎの悪い人間は御免だ。

 それに、アイラ・ジェノバという問題も抱えている。今までの人生で、ある意味一番相性の悪い人間かもしれない。完全に飲まれている。

 アイラが送ってきた招待状は、アイラ・ジェノバの業界向けの新作デモの物だった。参加の際にはあの特注の服を着てこいという意味なのだろう。

「はぁ」

 最近、溜め息ばかりついている。これでは幸せが逃げてもおかしくないほどだ。

「当子先輩。あまりお気になさらないほうがいいですよ」

 かなえが心配そうに聞いてくる。文化部の様子を見て回るのに、かなえもついてきていた。その先で、何回かあの噂の真意を問われて、辟易しているのを知っているため、控えめに元気付けてくれているのだろう。

「・・・まあ、噂なんてその内消えるでしょ」

 笑って見せるが、心配そうな顔のままだ。

「ありがと」

 小さいかなえの頭を撫でる。夏深がたまに頭を撫でるのは、こんな感じなのだろう。自分よりも小さい人間を元気付けるとか構いたいからだ。

 ショートボブの髪をくしゃくしゃにされたが、気にもせずかなえが照れたように笑顔を返した。

 

 

 今日もまた雨が降っていた。しんしんと降る雨を鬱陶しく感じながら、荒井は足を速めた。毎日、ランニングも兼ねて走っているが、本降りになる前に家に帰りたい。

「・・・?」

 部活帰りで暗い夜道。電灯の下に小柄の男が立っているのが見える。傘を差さずにレインコートを着てフードを目深にかぶっていた。こんな時間のこんな天気に何をしているのだろうかと眉を顰める。横を通り過ぎる前に道を塞がれる。

「? なんですか」

 ポケットに手を突っ込んでいた男が、ゆっくりと手をポケットから引き出す。一瞬ナイフでも持っているのかと思ったが、何も持ってはいない。変わりに、両手には包帯だろうか白い布で覆われていた。

 構えるわけでもなく。だらりと下ろした両手が何度か空を握る動きをした。

「ぶっ・・・」

 何かが当たった。

 あまりにも一瞬の事で何があったのかはわからなかった。

 口元から顎にかけて、ぬるりと雨とは違う生暖かい感触がする。

「だっ・・・誰か」

 倒れた荒井に、ゆっくりと男が近づく。

 逆光で顔が見えない。ただ、一瞬笑っているように見えた。

「い・・・ぎゃぁっ」

 

 

 毎日、当子に会えるのは嬉しいが、いつまでも迷惑をかけているわけにも行かない。

 今回、アイラの目的が当子ならば、夏深が家に帰っても被害はそうない。それに、今回父親との喧嘩は本当にしょうもなく、アイラの世話を押し付けようとする父親への反発が主だ。もっとも、そのお守りが当子に回っては意味がないが。

 当子の家に戻るが、誰も出てこない。どうしたのかと居間に入るとほとんど完成している夕食があった。今日は中華らしい。

「当子?」

 声をかけるが反応がない。少し心配になって当子の自室に向かった。そこも誰もいないようだ。

 雨とは違う水音がして、浴室を覗く。

 スリガラスの向こうに、肌色の影が動く。

「当子?」

 黙っていては唯の覗きだと声をかける。

「はあい?どちらさま?」

「っ・・・失礼」

 声は当子に似ていたが、当子のそれより艶っぽく大人びている声が返る。

「当子なら奥の部屋にいてるわ」

 クスクス笑いを漏らして、女が言う。

 柄にもなく赤面しそうになる。

 当子の母、桜は当子に負けず美人だ。それも性質悪く妖艶だ。

 浴室の戸をきっちりと閉め、家の奥へ向かう。この家は元は武家の家らしく、かなりの年期が入っている。改築は重ねられていても、間取りはあまり変わっていない。手入れのされた美しい中庭の横の廊下を抜け、その奥にも部屋がある。夏深がそこに入ることはなかった。一人暮らしでは、奥の部屋は不要だと当子が使わない事もあるが、不思議と敷居を高く感じていた。

「あ、おかえりなさい」

 エプロン姿の当子が部屋から出てくる。

「母さんが急に戻ってきて・・・」

 当子が困ったように肩を竦めた。

「そうらしいな」

 苦笑いがもれる。

「押しかけ亭主は帰った方がよさそうだな」

「ごめん・・・大丈夫?」

 見上げられて、謝る必要はないのにと頭を撫でた。

「離れがたいが、これ以上迷惑はかけれないだろう?」

 屈んで額にキスを落とす。

「恋人の家に居候するのがこんなに当たり前に楽しいとは思わなかったな」

「・・・大した物もお出しできずに」

 照れたのか不貞腐れたのか当子が皮肉を返す。

「確かに、メインは結局食べ損ねたな」

 揶揄した表現に当子が顔を赤らめる。

「えっち・・・」



 

 唐突に母親が帰ってくるのはいつもの事だ。

「あっらー、どーしたのこの服」

「お母さんには関係ないでしょ?」

 笑顔で返すと風呂上り母親がそれ以上の笑顔を返した。

「そんな寂しい事を言わないでよ」

 パジャマ姿にノーメークの女は、それでも十分に綺麗だから腹が立つ。

「これなんて素敵じゃない」

「あげないからね。勝手に着ないでよ」

 ぴしゃりというが聞いてはいない。

「夏深君。これなんて私の方が似合いそうでしょ?」

 袋からあけた白のワンピースを合わせて見せる。夏深が困ったように笑顔を返すだけだった。

「・・・はい、ご飯。いらないならとっとと寝に行って」

「ラブラブ生活を邪魔されたからって邪険にしなくってもいいでしょ?」

 夏深が居座っているなどといった覚えはない。それでも、夏深の荷物の量で推察できたのだろう。

「えー、エビチリより天ぷらの方がいい〜」

 出した料理を見て可愛らしい声で不平を言われる。

「近くの蕎麦屋で食べてきたら」

 これから産まれてきたのがたまに嫌になる。

「当子ちゃんのい・け・ず」

 親子喧嘩をここで始めても仕方ないとぐっと堪える。

「親子で仲かいいのは羨ましいですね」

 夏深がお世辞か本気かわからない声で言う。確かに、夏深の家よりは一般的かもしれないが、うちはうちで異常だ。

「そりゃアタルさんの子供だもの、可愛くて仕方ないわ」

 にこりとのろけた声で桜が言う。桜は、自分がお腹を痛めて産んだ事よりも、当子の父親が誰なのかが大事らしい。その感覚はやはりどこかずれていると思うが、桜があまりにも幸せそうに父の名を呼ぶ時に少し寂しくなる。当子は一度も父親を見た事がない。父もまた、当子を抱くことができなかった。

 父親が死んでから、当子は代わりの様に産まれた。

「・・・そういえば、どんな方だったんです?」

 一度当子が聞いたことがある。延々のろけ話をしゃべられたので、当子からしてみれば禁句事項だが、夏深はそれを知らない。

「春夫さんと取り合うくらいのいい男・・・いい人かな」

 予想外に、桜が短く返す。

「・・・父と?」

「春夫さんはアタルさんに私を盗られたみたいに言うけど、逆よ? 恋愛的な意味じゃないけど、私よりもあの人を大切に思っていたから」

 にこりといつもの笑顔で言う言葉は、当子も初耳だ。夏深の父と自分の父が知り合いなのは知っていたが、春夫は桜の事は好きだが、父や祖父の事は好いていないと思っていた。

「旧友としか聞いてませんでしたが、確かに、子供同士の縁談を無理矢理作るくらいですからね」

 夏深が苦笑いをもらした。

 四季のような大財閥と中級企業の血筋が婚約する事自体が異例だった。それは、春夫の一存で、やむを得ずとはいえ、当子を大事にしていた祖父や桜が容認するからには、春夫が決して悪意や策略だけで決めたことではないからだろう。

「でも、血かしらね。心配してたけど二人が仲が良くってよかったわ。これで、アタルさんと春夫さんと私と弥生さんという、毒々しい遺伝子を受け継いだ孫が見れるんですもの」

 言われてみて、うわーっと微妙な声が出た。

「高校なんて辞めて、いっそ子作りに励んだ方が将来のためじゃないかしら」

「それが、母親の台詞かっ!」

 それが子供に対する提案かと、流石に怒鳴り声を上げる。夏深がお茶を咽た。

「ほらっ、もう冷める。出すのくらい手伝ってよ」

 話を打ち切るほうへ持っていく事にした。

 

 

「あの人の話は聞き流していいから」

 玄関先で当子が呟く。

「確かに、性格の悪い当子が産まれたらと思うと少し怖い気はするな」

 当子の顔で自分の母親の性格だったら、一瞬怖い想像をしてしまったのは事実だ。

「なんか、平凡な子は期待できない気がしてきた・・・」

 いつもよりも近い位置に立つ当子が、廊下の端を見たまま言う。

「気の早い話だな」

 桜の言うような、当子から自由を奪うようなことはできない。余程のことがない限り、年齢差がある限り成長待ちはやむを得ない。

「アイラの招待は受けるのか?」

「受けざるを得ないでしょ。本来なら選択権は向こうにある話だし。正直、今回のプロモーション中に決まれば、どちらにもいい宣伝になるわ」

 アイラは、誰もが綺麗になる服よりも、誰かしか着れない服を作るほうが好きだ。それが初心だと聞いたことがある。

「自分が我慢すれば万事上手く行く・・・か」

 無意識に口に出た。それに、当子が怒ったような目で見上げてくる。

 自分との婚約を示したつもりはなくても、不安になってしまう。

「耐えられない自己犠牲を払えるほど、私は大人じゃないわ」

 まっすぐに見据えられる。この反発的な目に引かれたことを思い出す。

 失態を晒して愁傷な当子も可愛いが、当子がもっとも魅力的になるのは、何かと闘う時だ。

 無意識に当子の唇を塞いでいた。

 以前に比べて気軽にできるようになった行為でも、いくらしても足りない。

「俺は、もう少し堪えることを覚えたほうがいい大人だな」

 離した唇から苦笑いが漏れる。挑戦的な瞳が、照明の鈍い光を湛える。

「嫌なら、とっくに逃げてる」

 当子の腕が首にまわると、引き寄せられる。

 

 

 血のついたさらしを紙の袋に入れる。拳を固めていた布をはずし終えると、両の手をゆっくりと握る。

 まだもう一仕事残っている。

 ポケットから新しいさらしを取り出すと、右の手からゆっくりときつく巻いていく。

 

 








一年も更新忘れてた…