三

 

 当子からメールがあった。

 晩御飯の用意ができていない事と、アイラ・ジェノバにつかまって、四季本家に連れて行かれていると。

 無論、戻りたくもない実家に当子を迎えに来た。

「アイラはどこだ?」

「いつもの客室におられます。滝神様もそちらに」

 迎えに出た使用人が淡々と返す。

 アイラが利用するのは中庭の見える一番いい部屋だ。

 大股でドアの前まで行くと、何度もドアを叩く。ここまでに母親に会わなかったのは運が良かった。愚痴を聞くのはもう飽きた。

「・・・誰」

「夏深です」

 不機嫌に言うと、ドアが開いた。

「あら。久しぶり。相変わらず、いい黒さねぇ」

 髪をつまんで言われる。

「・・・俺の、当子がこちらにいると聞きましたが?」

「・・・・」

 それにアイラがきょとんとした顔をする。

「あっらぁ・・・婚約者って、あの子だったの?」

 本当に知らなかったのかは解らないが、驚いたようにアイラが言う。

「中にいるのでしょう?」

「別に盗って喰うわけじゃないわよ。怒んなくってもいいでしょ?」

 身を引いて、中に招かれる。

「ああ、でも」

 アイラが後ろから何か言おうとするが、無視して中へ進む。

「当・・・・」

 呼びかけようとして、反射的に袖で口元を覆った。

 酒気が立ち込めているその部屋は、そのアルコール臭だけで夏深には凶器になる。

「にゃふみぃぃ」

 ソファーの背もたれから、虚ろな目の当子が顔を出す。猫が名前を呼ばれて現れたような仕草だ。

「未成年に飲ませたのか?」

 振り返ると、にこりとアイラが品のいい微笑を浮かべた。

「誰かと違って、ここまでこぎつけるのは大変だったのよ?」

 もっとちゃんと、当子には忠告をするべきだった。アイラは本気で当子を気に入っていたらしい。

「・・・当子、帰る・・・」

 近づいて、再び言葉が途切れた。

 ソファーには制服が散らかっていて、その上に、下着姿の当子がちょこんと座っている。

「だってサイズがわからないことには何もできないでしょ?」

 悪びれもなくアイラが言う。

「それにしても・・・、四季夏深の婚約者て聞いていたわりに、それほどでもないわね」

 アイラが当子の後ろから、下着越しに胸を包み込む。いやらしさのない手つきでも、腹が立つ。

「当子、服を着ろ」

 アイラを手を払いのけ、当子を引き寄せる。極力、当子から発せられる酒気も誘惑的な甘い匂いも吸わないように、当子に服を着せようとするが、猫のように擦り寄る当子に、うまく服を着せられない。

「んっ・・・なつみ」

 寝ぼけているときよりも何倍も性質が悪い。

 その光景をくすくすと笑い手を出そうとしないアイラにも腹が立つ。

「今後、当子には一切手を出すな」

 苦々しく言うが、アイラはにやにやと笑うままだ。

「今の夏深も可愛いけれど、当子のほうが可愛いわ。それに、その子は仕事が何たるかをもう理解してるみたいだったわよ? 契約を取るためなら、自分を犠牲にする事もカードの一つだって」

 何を話したかは知らないが、当子ならいいそうなことだ。

「・・・俺に無断で、当子に会うな。仕事の話なら俺か向こうの会社を通せ」

「ただの、仕事上の婚約だと思ってたのに、本当にその子を好きなのね」

 アイラが今日一番の厭味な笑みを浮かべる。

「だったらなんだっ」

 何とかスカートを穿かせ、ブラウスに袖を通させる。ボタンを留めようにも、腕を絡めて抱きつかれて、身動きすら間々ならない。思い通りにならない当子に苛立ちを覚えた。

 舌打ちをして、上着を脱ぎ、当子に無理やりきせる。後の衣服は諦めて、当子を抱え上げる。

「たきゃい」

 無邪気に首に腕を巻きつけられる。酒気が一層近くなる。

「改めて、今回の件は意見を申し上げに来ます」

 鼻歌交じりの当子が至極恨めしい。

「あら、もう帰っちゃうの?」

 これ見よがしの言葉にイラつく。

 勢いよくドアを蹴って閉めると、上の階にある自室へ向かう。

 非常に残念なことに酒には弱いと自覚している一口だけで今の当子とさして変わらない状態になれる。今でも危険な状態だ。

「あれ、兄さんかえってたの? いまおじ・・・」

 前から、弟の冬祈が暢気な顔でやってくる。異様な当子の状態と、不機嫌な夏深を見比べて言葉を続けられなくなる。

「・・・アイラ・ジェノバの世話になった」

「あー、ごめんなさい」

 冬祈だけが、実質アイラと血の繋がりのある人間だ。夏深の苦々しい言葉に、冷や汗と謝罪を返される。

 

 

 夏深がゆっくりとふかふかのベッドに降ろしてくれる。柔らかなシーツの質感に心地よさが増す。

 逃げようとする夏深の襟元を掴んで離さない。

「らめぇ〜。一緒にいるろ」

 不思議なほど舌が回らない。頭がくらくらする。けれど、夏深のぬくもりがシーツ以上に気持ちよくて、絶対に離してやらない。

「当子・・・このまま寝なさい」

 年上らしい、柔らかい命令にむっとする。

 人を酔っ払いだと思って。

「いっしょに、ねるろ」

 ぐいっと引き寄せて、夏深にちゅうをする。

 夏深が、驚いた顔のあと、眉根を寄せる。不快と言うよりも困惑だ。

「・・・・っ」

 脱力して、一度唇が離れかけたが、次は夏深から覆いかぶさるようにちゅうをされる。

「んっ・・・ふ」

 口の中には食べ物なんて入っていないのに、隅々まで口の中を夏深の舌が這う。その感覚が気持ち悪いのに、拒めず止められない。

「ぁ・・んっ。も」

 甘ったるい吐息が漏れる。頭の重さを支えられなくなって、ベッドに身体が沈み込む。夏深の体温がその後を追ってくる。

 夏深の鋭い視線で見下ろされて、息を止めた。無造作に、ネクタイを緩め、小さく舌なめずりをする様子を見て、ライオンに襲われてるみたいと、可笑しくなった。

「ふふっ・・・喰べないれぇ」

 夏深の頭をくしゃくしゃにしてじゃれつく。

 夏深の手が、脇腹に触れて、その冷たさにびくりと身体が撥ねる。

「っ・・・めたい」

 手が、服の中を這い上がってくる。

「・・・んっん」

 また、夏深にちゅうをされる。

 

 

 アイラ・ジェノバがハウスと呼んでいたのは夏深の実家だった。

 自分の家と違って、ホテル並みに部屋がある家だ。客人を泊めても大して困りはしないだろう。

「当子は、来たことがあるのよね」

 革張りの座り心地のいい座席も、どこか落ち着かない。横に座るアイラが、どこか物を企む桜と同じ匂いがするからかもしれない。

「私が・・・夏深さんの、婚約者なのはご存知ですよね?」

 気に入ったからと、滝神の会社にデザイン提供も持ちかけて変わりにモデルになれというからには、身辺調査くらいはされているだろう。

「その歳で会社の為に身を捧げるなんて大変ね」

 よく聞く興味本位の言葉だ。

「アイラさんも、同じ境遇だけに同情されますか?」

 こちらを斜に見下ろしていたアイラの顔に笑顔が貼り付く。

 こちらも、美味しい話だけに少しくらいはアイラ・ジェノバの身辺調査をしている。

「同じ? 相手が夏深なら、同情なんて必要ないでしょ?」

 それまでの甘い声よりも、一層演技臭さが増す。

「これじゃあ、私がアイラさんに同情しているみたいですね。立ち入ったことを申しました」

 にこり営業スマイルを浮かべる。この性格はとても損だと自覚している。あえて負けることも必要だと理解しながら、どうにも負けっぱなしは性に合わない。

「・・・ほんと、喰えない子ね」

 アイラが小さく声をもらして笑いながら言う。

 

 

 部屋へ招き入れ、空のグラス二つガラスのテーブルに並べた。

「とてもいいワインが手に入ったの。美味しいお酒は、楽しい時間に使うことに決めているの。少しで構わないから、付き合ってくれるかしら」

 封の開いていないビンをテーブルに置き、ソファーに腰掛ける当子の顔色を伺う。

「未成年ですから」

「お酒を飲むのはいけないけれど、嗜むのは悪いことじゃないでしょ?」

 コルクを抜くと、芳醇な香りが鼻をくすぐる。

 ワインは赤だ。

 白よりも、赤の方が好きだ。

「ね?」

 香りがこもる深いワイングラスに、紅い液体を注ぐ。揺れる水面は血のようだ。

 花のような香りとも芳醇な果実のような香りとも表現できる。酒を飲まない人間でも、飲みやすいものを用意した。

 当子が少し困ったように微笑み、グラスをとった。

 

 

 いままで、まともにお酒を飲んだことがなかった。付き合っている相手が、顔に似合わない下戸で、一切飲めないこともある。無論、未成年であることもだ。

「・・・美味しい」

 初めに飲んだ赤ワインは、今まで飲んだワインの中でも一番美味しかった。

 アイラは、カクテル作りが趣味だと言って、器用にシェーカーを操り見たことのない飲み物を創る。

「カクテルは私の仕事に似てるのよ。同じものを入れても、作る過程や配分を変えるだけで、良くも悪くもなる。その配分を考え、洗練させていく」

 まるで魔法のように、決めの細かい泡の立つトパーズ色の液体がグラスに注がれる。

 ノンアルコールと言われて、興味本位で味を見る。甘いのに少し酸味があって飲みやすい。フルーツビネガーを使っていると言われ、今度買って見ようと思う。

「次は少し変わったチリトマトのカクテル作ろうか?」

 その後、見たことのない飲み物を何杯か飲んで、身体が温かくなってテンションが上がって、その後、記憶がない。

 酷い、耳鳴りがする。自分が二日酔いだと自覚する前に、自分の現状に眩暈がした。記憶をできる限り思い返しても、現状は変わらない。

 完全なる全裸の自分と、全裸の夏深か、ぴったりと肌をくっつけて寝ている。恥ずかしいを超えてパニックだ。

「・・・な、な、なっ・・・夏深」

「ん・・」

 夏深が小さく呻く。

「・・・・もう少し」

 夏深が珍しく目覚め悪く呟き、眉根を顰めてきつく目を瞑る。一層身体を引き寄せられ、密着度が増し、恥ずかしいを越えて心臓がばくばくと割れそうなほどになる。

「・・・な、にが。あったのか、教えていただけると助かるんだけど」

 本当に全く。こんな格好で夏深とベッドにしけ込んでいるのがのが解らない。記憶がない。

「・・・」

 夏深が眠そうな目をこじ開け、見下ろす。心配を超えて真っ赤な顔で動揺する当子を見て、夏深が何度か瞬きをする。

「おはよう」

 冷静な淡々とした声を返される。

「・・・ぉは・・よぅ」

 記憶がないというのは、怖い。声が震えて、涙声に近くなる。

「ふぅ・・・」

 夏深が髪を掻き揚げ、溜め息をつく。いつもの苦笑いが帰ってくる。

「・・・最後まではしていません」

「なんで・・・敬語っ」

 猫でも撫でるように髪を撫でられる。夏深は、起きたら異性と一緒に裸体で寝ていたなんてざらかも知れないが、無理だ。

「思い留まったのを褒めてくれ」

 いつもの声で夏深が溜め息をつく。

「ほ、んとに?」

「ああ、流石に、酔っ払いにキスされたくらいで、我を失うまでにはなれなかった。それに、・・・もなしに、ヤルほど鬼じゃない」

 聞こえなかった言葉を聞き返す気にはなれなかった。

「・・・い、今何時?」

「ん?夜中の三時前だな」

 夏深が少し身体を離して時計を見た。時間にほっとする反面、まだ起きるには早い時間にどうしようかと悩む。頭が痛くて今一考えがまとまらない。

「・・・もう少し、ご褒美をくれ」

 再び抱きしめられる。

 素肌か密着すると、その温かさの気持ちよさに驚く。ほっとすると言うのか、もっとくっつきたくなる。

「ん・・・」

 夏深の胸に、頭を埋める。

 まだ、残っている酒が眠さを誘う。

 

 

 当子が起きる前に、邪念を払うためにシャワーを浴びに行く。

 アイラをどう咎めても、暖簾に腕押し、あまり意味がない。それは昔、嫌というほど身を持って体験している。

「・・・くそっ」

 せめてビールの一杯くらい飲める体質に生まれたかった。今後の人生で、酔っ払った当子を介抱していたはずが、完食してしまうような失態を犯しかねない。

 しかも、当子が正体を忘れるほど酔うと、甘えたになる上、警戒心がゼロになるのはいただけない。それだけは、知れたことに価値があった。今後、人前で当子に酒は飲まさないし、本人も気をつけるだろう。

 例え女性に対してでも、あんな姿をさらしていただけで嫉妬心がこんこんと湧く自分が嫌になる。

「・・・もう少し寝ていてもいいぞ?」

 シャワーを出ると、当子が寝室でシーツを手繰り寄せていた。

 自分の部屋だけで、マンションと変わりない構造をしている。仕事部屋と応接室、奥には寝室と風呂にトイレ。これでキッチンとダイニングがあれば完璧だ。

「・・・・・今後、こんな事がないように気をつけます」

 珍しく愁傷な事を言う。

「ああ、他ならまだしも、泥酔じゃあ俺まで巻き込まれる」

 酒気だけでも駄目だというのに、当子に誘われて断るのは至難の業だ。

「全然、記憶がなくって・・・・。聞きたくないけど知らないのも怖いから、何をしでかしたか教えて欲しい」

 上目遣いに当子が聞いてくる。

 バスローブ姿のままベッドに腰掛ける。ベッドが微かに軋む。キングサイズのベッドでは、当子まで距離がある。

「アイラの部屋で、下着姿で上機嫌。見かねてここへ連れてきたらじゃれつかれて、こちらまで正体を失いかけた。思い留まったがな」

 シーツに包まる裸の女と、シャワーを浴びた男。三流サスペンスの事後かこれからお楽しみの典型的シチュエーションに溜め息が出る。

 それができれば楽だが、大切だからこそ、セックスレスになる事もある。

「ごめんなさい」

 まだ酔いが醒めていないのかと思うほど、当子らしくない素直さで当子が謝罪を口にする。伏した目に長い睫毛の影が落ちて、色香を醸し出す。無意識に唾を飲み込んでしまう。今更ながら、よく耐えたものだ。

「俺が言えた義理じゃないが、酒に溺れるなんてお前らしくないな」

 手を伸ばして、露になっている細い肩を抱き寄せる。

「・・・」

 癖の残る長い髪が、首筋から胸にかけて流れ落ちる。露になったままのうなじと背中から、甘い哀愁が漂う。肩甲骨のラインが、女らしさを強調する。

 一年前は、まだ綺麗な女の子だった。いつの間に、綺麗な女になっていたのかと、今更ながらにハッとする。数時間前に気づかなくて本当に良かったと思う。もし気づいていれば、こんな悠長に当子を怒れてはいない。

「俺以外に、裸をさらすなんて、いい度胸だな?」

 耳元に唇を寄せわざと咎めるように言う。

 当子が情けない顔で見上げてくる。普段強気なだけに、自分の失態が許せないのだろう。珍しいほどに動揺している。

「・・・」

 泣きそうな潤んだ瞳は、男を誘うとまだ理解していないのだろうか?

「嫉妬深さは、治りそうにない」

 優しく唇を重ねると、逃げる素振りもせずに当子が受け入れる。もしかしたら寝ぼけているんじゃないかと思う従順な反応だ。

「まだ、酒臭いな」

 苦笑いがもれる。

「シャワー・・・借りてもいい?」

 まるで借りてきた猫だ。

 

 

 熱いシャワーを浴びる。目の前の鏡に映る自分は、とても情けない顔をしている。

 頭がヅキヅキと痛む。一度きつく目を瞑る。眩暈と吐き気で目を開け、壁に手をついた。ひやりと冷たい感触に身震いをする。

「最悪」

 吐きそうで手を口に当てる。ひどい醜態をさらした。アルコールは懲り懲りだ。アイラに出されたノンアルコールというカクテルも嘘だったのか、何か変なものでも入れられていたのかもしれない。頭が痛くて考えもまとまらない。

「・・・・っ」

 鏡に映った自分の姿、首筋や鎖骨、上腕の裏側、内太腿にまで、蚊に指されたような赤い痣が・・・明らかなキスマークの内出血の痕がある。唯でさえ痛い頭に血が上る。恥ずかしさで今なら死ねる。

 夏深相手でも、こんなに恥ずかしいのに、もしあの醜態を別の人に晒していたらと恐怖心まで湧く。

 記憶がないのは幸か不幸。夏深に触られたであろう肌が焦れる。

「当子」

 扉の外から名前を呼ばれ、反射的に体が揺れる。

「大丈夫か?」

「・・・頭が・・・・痛い」

 シャワーの音に消えてしまいそうな声しか出ない。酒焼けか、喉がぴりりと痛んだ。

「二日酔いだな」

 自分だけが酷く動揺している。夏深は、どこか笑いをこらえた声で返される。いつもは、逆の立場なのにと恨めしく思う。

「・・・もう断る」

 夏深に聞こえない泣きそうな声で呟く。デザイン提供は魅力的だ。だが、ビジネスをする上で信頼ができない相手とは組みたくない。

 




 

 

   四

 

 ベッドにうつ伏せになった当子の髪をタオルで乾かす。相当に凹んでいる当子も可愛い。落ち込んで隙のできている所につけ込む様で気は引けたが、普段強気で甘えを知らない当子が落ち込んでいる時くらい甘やかしたって罰は当たらないだろう。

「・・・夏深のエッチ」

 当子が枕に顔を埋めたくぐもった声で言う。

 そりゃあ、あの痕を見たら言われても仕方ないかもしれない。むしろ、この自制心を褒めてほしい。

「否定はしないが、誘ってきたのはお前だぞ?」

 わざと意地の悪い事を言う。

「・・・もう飲みません」

 不貞腐れた声で当子が唸る。

「そうだな・・・俺の前以外では絶対飲むなよ?」

 髪に口付けをして囁く。

「アイラには近づかない方がいいと忠告しても、ストーカーデザイナーは聞いてくれないからな。気をつけてくれよ」

「言われなくっても気をつける」

 ごろんと寝返りを打ち、当子の双眸が見上げてくる。

「起こしてっ」

 腕を伸ばして強請られる。当子がいつもよりも小さく見える。上腕を掴み、肩を支えて抱き寄せる。風呂上りのシャンプーの香りと、湿った髪も心地いい。

「・・・やっ」

 首筋に歯を立てると、当子が驚いたように身を跳ねた。

「前後不覚の当子につけ込むのはフェアじゃないが、落ち込んでいる当子に手を出すのは悪くないだろ?」

 耳元で囁くと、文字通り耳まで赤くなる。可愛いなと耳を舐めるさ体を離そうともがき出す。

「軽率な行動に、多少は怒ってるんだが」

 目を見て言う。強気に上がる眉尻が、今日は情けなく下がったままだ。

「・・・ごめんなさい」

 素直な謝罪に心臓が鳴る。酔っ払いな当子より、この方が数段可愛らしい。

「駄目だな」

 舌なめずりをしそうになる。

 せっかく起こした当子を、押し倒す。

「これ以上可愛いと、身の保障をしてやれない」

 朝っぱらから、噛み付くような口付けを交わす。

 

 

 今日の当子は眠たげだ。

「・・・はぁ」

 ため息多く、どうも体調が悪いらしい。

「当子、あんま無理すんなよ」

「んー・・・大丈夫」

 ひらひらと手を振って返されるが、顔色も良くない。

「当子先輩、お風邪ですか?」

 かなえが心配げに覗き込む。

「・・・ん? 大丈夫だよ」

 困ったように当子が笑う。

「そいえば」

 静馬がシャーペンを回しながら顔を上げた。

「先輩、荒井って人にコクられたってマジすか?」

「・・・・」

 当子が微妙な顔で静馬を見る。

「それってどこ情報?」

 肯定とも否定ともつかない質問を返す。

「や、クラスでバトミンの女子が喋ってたの聞いて」

「・・・へー」

 当子が気のない返事を返す。

「せっ、先輩お付き合いされるんですかっ」

 かなえが動揺した声を出す。

「それならもっと面白い噂になってるだろ」

 左九が気のないことを言う。

「まー、そゆこと」

「ですよね。もう婚約者いるって聞くし。流石百合乃下の学生だなって」

 何気なく言う静馬の言葉にかなえがガタッと立ち上がった。

「・・・と・・・当子せんぴゃいご婚約されているんですか!」

 噛みながらかなえが悲鳴のような声を出す。

「・・・あー、うん」

 いつもの愛想のいい当子がどこか気のない返事を返す。

「ど、どこの方とっ」

「ごめん電話だ。ちょっと席外します」

 スカートのポケットから出した携帯を見ながら、当子が立ち上がった。

「・・・どこの誰? 当子先輩の婚約者って」

 先ほどのかなえとはまったく違う冷ややかな声色で、静馬に投げかける。くりっとした大きな瞳は冷たく眼光は鋭い。

 

 

 滝神当子へ報告すると、電話口から深々とため息をつかれる。

「向こうから、正式にデザイン提携をするときたんで、てっきり手回しをしたのかと」

 アイラ・ジェノバの事務所からの書類に目を通しながら、聞き返す。

『・・・そうきたか』

 舌打ちをして、当子が苦く呟く。

『今回の取引、私の個人的損得抜きにして、どう思う?』

「ぜひ受けたい。ですね。今回契約をする最大の利点は、無論、提携を結べることもありますけど、他社に先を越されないで済む事ですね。他所に持っていかれるにはもったいなさ過ぎる」

 経営者として、多少の犠牲があっても受けたい話だ。

 犠牲が当子が少し我慢をするだけならば、非常に安いというほかない。夏深との婚約を思えば、可愛い部類だ。

『・・・わかった。その代わり、失敗したら今の椅子から叩き落としてやるから』

 毒を吐かれて、夏深と喧嘩でもしているのか勘ぐってしまう。

『アイラさんにはこっちからも話をしとくから。正式に契約する前に声はかけてよ』

「ええわかりました」

 子供に顎で使われるようでは、社長なんて恥ずかしくていえない。だが、当子が筆頭株主であり、前社長の直系の孫であり、現社長の草の親戚であり、そんな少女が天下の四季家の長男と婚約しているからこそ、今の安定もある。いわば当子を人身御供にして成り立っている地位では強くいえない。今回でも、そうだ。

 当子が、年々異様に美しくなっているのは、痛いほど知っている。このままいけば、当子の母桜以上に綺麗に魅力的になりかねないほどだ。それは、当子にはいいことばかりではない。強い光には虫も多く群がる。

「どうしても契約破棄したい場合は、一声かけてくださいよ」

『わかってる』

 余程の社に損失があると判断しなければ、当子はアイラ・ジェノバの取引を受けるだろう。

 ただの子供ならば、いくら命綱でも当子に頭など下げない。自分の価値と責任を理解した上だ。

 

 

 先手を取られた。だが、草の言うように、自分個人がはめられて醜態を晒しただけで放棄できる事項ではない。

 今日もう一度、四季のお屋敷に足を運んで話はしないといけない。

「はぁ・・・」

 車で学校まで送ってくれた夏深が、アイラに話をするなら俺も行くからと釘を刺されている。昨晩の失敗を考えると、無視もできない。無意識に撫でた首筋にハイネックの襟が触る。制服の下に、白のハイネックの服を着込んでいる。白なら校則違反にはならないが、当子には珍しいスタイルだ。無論、散々付けられたキスマークを隠すためで、それを思い出しただけで顔が熱くなる。

 最後まではしていないといっても、内容を覚えておらず、知らないところに付けられた痣は、自分の浅はかさと、無防備さを呪うには十分だった。

「あ、生徒会?」

 後ろから走ってきた男子生徒に声をかけられて振り返る。

 荒井が少し困ったような顔で笑って立っていた。

「うん。あ、雨降ってるのか」

 ジャージ姿で少し息の荒いのを見て、外を見る。初めて、雨が降っている事に気がついた。運動部は、雨が降ると校舎の中を走る。荒井の後ろからも何人か走ってくるのが見えた。

「えーっと、何か部活の子に告白したのばれちゃって、滝神さんにも迷惑かけちっゃてるよね」

 頭を掻いて、目線をそらして荒井がぼそぼそとつぶやく。

「ああ、いいよ。そんなに気にしてないし」

 実際、付き合いだしたとか会長には本命がいるなんて噂されていないなら別段かまわない。

「アッツイねぇ〜」

「ちょっ、やめてくださいよ」

 三年のバトミントン部部長の、坊主頭の男子生徒が冷やかしを入れて走りすぎていく。

「彼女にウツツ抜かしてんじゃねーよ」

「だから違うって」

 荒井が二年のバトミントン部の男子に軽く頭を小突かれて、再び冷やかさしの言葉をかけられる。

「・・・・断ったのは、皆さんご存知なんですよね?」

 その様子を観察していた当子が、荒井に笑顔で問いかけた。

「・・・・・・」

 荒井の目が泳ぐ。

「・・・残念ですけど、私」

「わーっ言わないで、わかってるからっ」

 手を突き出して静止される。

「・・・ご存知かは知りませんが、家の関係でそういう噂が流れると困るんです」

 この高校は夏深の父、春夫が理事をしている学校だ。春夫ならば噂だけで当子を咎めないだろうが、あまりいい事ではない。

「だ、だよね・・・はは。ちゃ、ちゃんと言っとくから・・・迷惑はかけないよ。ホント、ごめんね」

 慌てて、荒井が走り去る。

 後姿に深いため息をつく。

「最低」

 横を走りすぎた女子が小さく呟くのが聞こえた。

 見た顔ではないが、一年生だ。

「・・・最悪」

 ため息をつく。

 一体、どんな噂になっているのかと二日酔いにも増しためまいがする。

「はあ・・・何だろ、厄日?」

 昨日からへまを踏んでいる。荒井が断られたと言うかはいささか疑問だ。さわやか系だが、プライドも高そうだ。

 

 

 当子が荒井と付き合うのはありえない。脅されてでもいない限りないだろう。

 小学校低学年から当子を見てきて、本質も知っている。

 外面がいいが個人主義者で、好き嫌いが激しい。たいていの事ができるので甘えない。負けず嫌いで、努力を惜しまない人が好きだ。少なくとも、当子が人を好きになるから、その人間がいかに頑張っているかを知ってからだ。荒井がクラブや勉強で頑張っていても、その程度の事は、ほかの人間もしている。それに、外見も特段当子のタイプでもないだろう。

 当子をずっと好きな左九としては、荒井には負ける気がしない。もし、純粋に当子が荒井を好きになって付き合いだしたというのなら、逆立ちで校庭一周しよう。

「えー、でも親の決めた婚約者がいるからって、付き合えないって酷くないすか? あのかったい会長がコクられるなんてそうないじゃないっすよ。折角のチャンスなのに」

 当子がいない生徒会室で、静馬が机の上で伸びながら言う。

「ああ、島頭君は知らないかもしれないけど、滝神さんってもてるよ?」

 西澤猛がさらっと言う。

「えっ、そうなんすか? やっぱ権力?」

 生徒会で唯一標準な高校生がいると、最近静馬を見ていて思う。

「普通に美人だし、テストは学年トップでスポーツも万能。きびきび働く生徒会長様だからね」

 電卓を叩きながら、猛が何気なく言う。会計は一年一人な為、猛が手伝うことが多い。

「僕も、今度モデルやって欲しいんだけど・・・やっぱだめかなぁ」

 独り言のように猛が呟く。西澤の家は華家の分家に当たる。そして、物凄く仲が悪い御家柄だ。華道の家元である華家に対して、芸術の才が抜きん出た猛の存在は、西澤家からすれば鼻の高い話だ。いくつもの賞をとる猛の絵は、来客用の玄関に大きく飾られるほどである。以前は校内のアイドル新田燐火にモデルをしてもらっていたが、今は卒業してしまっている。次にモデルを頼むなら、当子になるのは頷ける。

「・・・はぁ〜」

 深い溜め息をついて、当子が戻ってきた。

「どした」

 左九が聞くと、当子が肩を竦めた。

「んー、最近ついてなくって・・・」

「?」

 珍しく辟易した顔で当子が言う。

「あれ、かなえちゃんは?」

「用事を思い出したからって帰っちゃいました」

 静馬がペンを回しながら微妙な表情を返した。

 静馬が婚約者が誰かまで知らないというと、用事あるからと早々に出て行ってしまった。

 本当に、当子はもてる。それは、いいことばかりではないだろう。

 

 

 家に帰るとすぐに宅配便が届いた。

 それも大きい段ボール箱が二つと、少し小ぶりもものが一つ。

「はぁ〜」

 今までにない面倒なタイプだ。

 ダンボールにはきっちりと畳まれビニールの封のされた衣服が多数入っていた。ぱっと見ても、当子のサイズのものだ。

 差出人の欄には独特なサインだがアイラ・ジェノバと読み取れるそれだった。

「絶妙に嬉しくない」

 アイラ・ジェノバデザインの服は高い。十年ほど前にハリウッドの映画でアイラが衣装の提供をしてからは、名実ともにトップデザイナーの一人になった。そのジェノバブランドの服をこの量買えば百や二百の可愛い額では済まない。

 小さいダンボールにメッセージカードが貼り付けられているのを見つけて、封を開けた。

 昨日のお詫びです。後日改めてビジネスの話もしましょう。と日本語で綴られている。その下にはアイラのサインと招待状が挟まれていた。

 几帳面に貼られたガムテープを接がす。小さいダンボールに入った服にはビニールには入れられていなかった。二枚のデザイン画と一枚の写真が入っている。

 下着と服のデザイン画は箱に入っているものと同じで、写真は幸せそうな顔で酒瓶を持つ下着姿の自分だった。

 恥ずかしさを超えて腹が立つ。

 

 

 居間に、大きなダンボールが積まれている。

「・・・アイラか」

「お詫びだって書いてた」

 当子が教科書を片付けながら言う。

「全部開けてないのか?」

 二つは開いているが一つはまだ開いていない。当子がアイラ・ジェノバのワンピースは着ていたのを見た事がある。ブランドとして嫌いではないのだろう。

「だって・・・」

 珍しく不貞腐れたように呟く。

「それにしても、大量に送ってきたな」

 ダンボールの中を覗くと、当子に似合いそうな仕立ての良い服が入っている。

「よっぽど気に入られたな」

 アイラの服は誰でも買えるが、オートクチュールを請け負うのは余程の金持ちか趣味でだけだ。小さい箱に入った服を取り上げると、裾に小さくアイラ・ジェノバの金糸の刺繍が入っている。アイラが特別に作った服にのみ入る刺繍で、これを作るときは、着る人間を裸にして細かくサイズを測る。昨日当子を裸に向いたのはこれを作る前準備だったのだろう。一晩で服を一着作り早々に贈ってきた余程イマジネーションが沸いたからだろう。

「・・・」

 箱の下に、純白の絹で作られた下着一式と黒のレースでできたガーターベルトとストッキングが見えた。

 頭のてっぺんから足の先まで、揃えるほど、お気に召されたということは、四季夏深の婚約者というステータスだけでなく、アイラ・ジェノバを専属のスタイリストに持つようなものだ。

「・・・」

 今、アイラに対する怒りが急速に鎮火に向かっているのがわかる。

 着物姿や、品のいいワンピース、パジャマ姿やエプロン姿、それら全ての当子は可愛らしく綺麗だが、アイラが寄越した服以上に、当子の魅力を発揮する着衣はない。

 当子がこれを着た姿を想像するだけで、もう外には出したくなる。

「もう、ご飯できるよ?」

 台所からする当子の声で我に変える。

 

 








次は5。