九 本懐






 情けなくて泣けてくる。

 泥酔で車を運転しながら全くの無事で家に帰った様なものだ。自分に損失も怪我も無く、結果的には誰も傷つけず、何も壊さずに済んだのはいい事な筈なのに腑に落ちない。結局酒に酔った自分が馬鹿だったのだ。

 今更戻る事もできない線路だとつくづく実感した。どうせ駄目ならば性質の悪い監視役に甘んじよう。

 どっちにしろ桜も当子も自分にとっては憎い相手であるべきなのだ。









「・・・」

 自覚するのが嫌だ。こんな自分が有利に立てない相手に安心してしまうのが嫌だ。

「寝ぼけているのか?」

 家に泊まり込む割りにキスどころか触れても来ない夏深に妙な不安と、安堵と、苛立ちを覚えた。一度は部屋に寝に行ったのにイライラとドキドキで眠れずいっその嫌がらせで今までと何ら変わりなく寝ぼけた振りをして、当たり前のように夏深の布団に潜り込んだ。

 無言でいると寝ぼけていると判断したのか、何も言わずに布団を肩まで上げてくれた。

 もう、いっそどうとでもなればいいと思うのに、夏深は大人過ぎて、こっちが少しは大人になるのをいつまでも待ちかねない。夏深なりの謝罪か罰なのかもしれないが、それが、嫌でもあり至極嬉しいのが悔しい。

「・・・」

 何の匂いと訳ではないのに、夏深の匂いは落着く。唯側で丸くなっていると落着く。今し方まで冴え切っていた目が、うとうとと重く成り出す。

「おやすみ」

 夏深が小さく呟くのを遠くで聞いた後、あっさりと、あまりにあっさりと睡魔に囚われた。







 当子が至極可愛いのは今更で、天然的な悪女であるのも今更な事ではある。

「・・・偉く、早起きね」

 台所に立つ当子に自分はどうなのだと言い返したくなるが苦笑いしか出てこない。

 当子が目覚める前に逃げておく予定だった。実際にまだ早朝の四時だ。それなのに、当子の方が一足早く起床し、何やら料理に勤しんでいる。

 当子が、唯のお姫様や計算高い悪女にはなりきれないのも、今更なのだろう。

「・・・お前が、怒るのも仕方はないが」

「怒ってるのは、夏深の方でしょ?」

  当子の好む取引を無理強いした事に、プライド高い当子が易々と許すとは思っていなかったが、それでも、あのまま当子を一人にしておけば、今までの関係が本 当に崩れそうだった。自分の行動は正しくなかったとは思わないが、まさに切り返す様な当子の物言いに少したじろぎかける。

「怒っていたなら態々戻って来る訳がないだろう」

「・・・」

 次は当子が無言で見上げてくる。

 何を考えているのかよく解らない目。たまに、当子はこんな風にどこまで見ているのか解らない真っ黒い瞳で見上げている時がある。そんな時はいつも、妙な気分になる。落着かないと言うのかも知れない。品定めをされているようだ。

「全く、何にも怒っていない?」

 当子は感情を荒らげて、人間らしい解りやすい反応をする所を何度も見てこれた。それでもたまに、とてつもなく冷静に推し量ってくる。

 怒ってなどいないと言いかけた口が止まる。

 台所に立つ当子に近づいて微動だにしない当子の唇をそっと撫でた。

「俺と、草はお前にとってなんだ?」

 当子の薄く血色の良い唇が滑らかに動く。

「恋人と兄弟」

「・・・俺はどっちだ?」

「兄弟になれるとでも思うの?」

 当子がやっと苦っぽい言葉を漏らした。

 衝動的に、それでも当子が逃げたければ逃げられるようなキスを落とした。

「・・・今からもう何も怒ってない。お前はまだ怒ってるんだろうがな」

 今し方までの不安感が払拭される。兄弟の方が当子に近い立場かも知れないが、求めているのは近い立場ではない。兄弟とやらへの嫉妬心はあっても怒りは自然と薄れる。

 離れると当子がむっつりと顔を顰めているのが見える。

「あたしは、夏深ほど心優しくも寛容的でもないわ」

 こんな心の狭い人間が寛容的なら世界の大半の人間は心が広い事になるなと苦笑いが漏れた。

「・・・・・・・・・・もう、嫌いじゃない?」

 しばらく沈黙した後当子が唐突に聞いてくる。

「嫌う訳がないだろう?」

 あっさり言い返すと当子が微かにはにかんだ笑顔を見せた。そんな小さな変化にドキリとしてしまう。

「おやすみ」

 背伸びをして当子が頬にキスを落としてから満足そうに呟くと、とてとてと寝ていた布団に戻っていった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 当子が意味不明な生命体なのは今更だが、意味不明の生命体はやはり意味不明な行動をとる。

「新しい寝惚けのパターンか?」

 唖然と呟いた。









「・・・・・・眠ぃ」

 修学旅行にわくわくとする前に、矢崎は低血圧で不機嫌に見えた。

「おいノッチ梅干もったか」

「言うな、今から車酔いしそうなんだから」

 はしゃぐ田島とノッチはいつもの事だが、車が鬼門のノッチはバスに乗ったら屍になるのだろう。

「・・・大静が一番わくわくしてるっぽいね」

「そんな事ないって!」

  ぞろぞろと集まりだした二年生の中でも、修学旅行+スキー合宿を楽しみにしているランキングでも大静は上位だろう。一部金持ち校として有名である百合乃下 が国内のそれもスキーになったのは、噂では大静の我が儘が通ったらしい。大静の家は二年の中で一番寄付金を積んでいるからこう言った行事には鶴の一声らし い。まあ一部の金持ちのその寄付金は色々と生徒に還元されているのを、生徒会業務で目の当たりにしているので、これくらいの特権は有りだとは思う。でも、 どうせなら海外に行きたかった・・・。

「・・・大静って今回の修学旅行なに楽しみ」

 いつもは淡々としている方な大静がはしゃいでいるのは気持ちが悪いなぁと思ったりする。

「・・・蕎麦」

「・・・・・・・・」

 大静が若干キラキラとした目で言った。

 そういえば、スキー以上に謎な事に、蕎麦の体験打ちと椀子蕎麦食べ放題が修学旅行のメニューに入っていた。

 蕎麦が為に僕の海外美術館めぐりの夢は儚く散ったのか・・・・。









「・・・・」

 目が覚めて夏深が横にいない事に気付くと反射的に身を起していた。

「・・・夏深」

 気付かなかった事に対して、無性に口惜しさがあった。

 怒らない方が可笑しいのは解っていると、今更ブルーになる。

 根っからの金持ちで、嫉妬深くて、消化器が弱くて、仕事ができるあの夏深が本気であんな現場を許すとはあまり思えない。あんな口上文句を信じきって甘えた自分が馬鹿だった。

「・・・・いかん」

 ぼそりと呟いた。

 物凄く、マイナス思考になっている。あんまりにも冷静さを欠いている。

 夏深の事が好きなのは認めておくが、それでおもっきり冷静さを欠いて判断ミスばかりしている。

 夏深がいない方がいっそいいかも知れない。少しはちゃんと脳味噌を使える。

 とりあえず水を飲もうと台所へ向かった。

「・・・・・・・・」

「・・・珈琲くらいは入れられるようになったぞ」

 居間に入ると夏深が新聞を広げながら、珈琲を飲んでいた。

「・・・・・な」

 一瞬何でと言いかけたが、飲み込んだ。色々と気に病んでいたのに夏深のどこか飄々とした態度に腹が立った。世に言う逆切れだろう。

「まだ、あのしょうもない取引って続いてるのかしら?」

「・・・ん?」

 夏深がカップを置くと、新聞も置いて向き直ってくる。

「どの取引だ」

 こちらを見もせずしらじらしく言う。

 夏深の態度の急変に動揺よりもイラつく。私にどうして欲しいというのか。

「もういい、知らない」

  夏深に対して喧嘩腰になるのは今更ながらに甘えだと自覚する。他の相手にはここまでつっけんどな態度はしない。夏深なら許してくれると思っている部分が あって、無駄にちょっかいをかけたがる。冷静さを取り戻して今の自分を見たら凄く子供染みて見える。唯でさえ空いた年の差を埋めたいのにまったく埋まって いい。

「しばらく滅多に会えなくなるんだ。今くらい愛想よくしてくれても罰は当たらないと思うが?」

 夏深が至極素っ気無く、何事もないように目線も向けずに呟いた。

「・・・・・・」

 それをあえて無視しようとした。ふと台所の鍋が目に付いて覗くとぬるくなった豆腐とワカメの味噌汁が入っていた。夏深が作れるはずもなく、この家に勝手に入ってきそうな桜が作ればこんな一見でも食べ物に見えるものなんてできていない筈だ。

「・・・・・」

 昔、寝ぼけてお菓子を作った事を思い出す。もし寝惚けた時に夏深が起きていたらと思うと嫌な想像が出た。

「・・・・・・あたし、寝惚けてた?」

「ああ」

 ぼそっと呟くと夏深が短く返答してくる。

「・・・俺の事が好きで好きで堪らないからずっと傍にいろだとか言っていたな」

「う、嘘や」

「嘘だと言う証拠が?」

「ホントだって証拠もないじゃないッ」

 強気で噛み付きながら全く確信が持てない。昔桜が寝惚けているのをビデオに撮って大爆笑しながら見せられたのを思い出すと、とても嘘とは言い切れない。

「・・・当子が欠片でもそう思っていないと思うなら嘘かも知れないな」

「―――夏深は、うちの会社を盾に取った。そんな人、好きじゃない」

 又泣きたくなる。

 どうあっても戻ってこない大好きだった人間の残したものを壊すと言ったのが夏深である事を思うと泣きたくなる。

「・・・じゃあ、どうすれば許してくれる?」

 夏深がやっと顔を上げて聞いてくる。

 どうすればと聞かれても何も出てこない。やっぱり考えをまとめて落ち着く時間が欲しかった。

「――――」

 意固地なのは自覚している。何かを要求したい訳でもないのに言い訳を探すように無駄な事ばかり考えてしまう。

 夏深が新聞を脇に置くと緩慢な動きで立ち上がった。

「・・・・・」

  段々とあの季節が近づいている。履き慣れなかった靴が靴擦れを作ってその痛みも慣れたのに、自分が望んでいない気に入らない靴にふと目が行って、やはりど うしようもなく気に入らない靴で、それがどうしようもなく不服で気持ちが悪い。履き慣れだした靴に諦めを付けたのに履き出した季節になるとどうしようもな く気分が悪くなる。不安で仕方なくなる。

 まだ爺さんが死んだ日まで日がある。なのに、爺さんとのふざけた会話を何の気兼ねもなくできていたのはまだ寒い時期だったから、それが恋しくて懐かしむ自分に吐き気がする。

 心のどこかが、大事な人を作りたくないと言う。あんな思いはしたくない。

「・・・・っ」

 夏深はいつまで無償で一緒にいてくれる? いつまで消えないで目の前に存在してくれる?

 子供みたいに涙が溢れて、格好が悪くて近づく夏深から逃げて自分の部屋に駆け込んだ。

 自分の行動の訳がわからない。

 むしゃくしゃする。涙が無駄に流れる事で心が安堵する。







 部屋の隅で蹲って泣く当子を見つけて、どうにも泣かれると胸が苦しいと思った。今一つ理由が掴めないが、やはり自分が悪いのだろう。

 せっかく寝惚けた当子の告白で気分が晴れたというのに再び叩き落される。

「・・・」

 アルマジロの様に硬く縮こまった当子を無理矢理に抱すくめるのも難で、どうしたらよいのかわからずため息が出かけた。

「爺さんのあの会社は・・・あたしが守らないといけないのッ」

 顔も上げずに当子が鼻を啜りながら言う。

「・・・悪かった」

  俺と婚約をしてでも守りたい大事なものだろうからなと、後少しで口を付きかけた。それをうっかり口走ってはいけないと口を噤んだ。実際に当子からしてみれ ば大きな問題だ。当子が元の社長だった祖父とは仲がよかったのも知っている。そして遺した物をとても大事にしているのもわかっている。この家も滝神の会社 も、当子にしてみれば新しい祖父との思い出を作れるものなのだろう。

 今更に罪悪感が重く圧し掛かる。慰めの言葉も浮かばず、当子の横に並んで座った。当子の事だ。本人が落ち着かなければ誤っても許してくれないだろう。お許しが出るまで近くで待とう。









「珍しいじゃん朝練一番乗りなんて」

 同学年の部員が洗ってきた完全には臭さが抜けない着古した胴着に着替えながら声をかけてきた。

 二年は今日から修学旅行になる為いつもの一番乗りの部長は既にバスの中だ。

「何か、今日はこー、嫌な予感で目が覚めて二度寝する気なんなかったかんな」

 こう、胸騒ぎと言うかぞわぞわと嫌な予感がしたのは事実だ。既に素振りをいくらかした為胴着が汗っぽくなって若干気持ち悪い。

 試合が近いし、二年が修学旅行に出るからその関係で、もしかしたら当子が着てるかもしれないとも思ったのもある。

「・・・まだ誰も来なさそうだからさ、暇潰しに一本勝負しね?」

 時計を一瞥して出された提案を何となく呑んだ。どうせ暇だし。

「いいけどアップなしだと怪我するぞ?」

「チャリで走ってきたから大丈夫だって。それよりよ、どうせだから賭けしようぜ」

「なにを」

 ジュースか飯か掃除でも賭けるのだろうと何気なく聞いた。

「俺が勝ったら髪黒く染めてくるっての」

「・・・部長の差し金か?」

 いぶかしんで聞く。こいつは、一年の中で一番強い。当子も中々技が決まらないとぼやいていた。

「嗾けられたのもあんだけど、実際どんくらい強いのかも知りたいし。正直、最初にあれだけ揉めといて特別扱い受ける資格があるのか知りたいんだよ」

 そこまで敵意をもたれているとは思っていないが、部員が100%好意的だとも思っていない。この頭の色を筆頭に普通ならば浮く存在になるのだ。浮いたり特異的な人間は普通のタイプよりも多少痛い目を見る事が多い。それでもこうも真正面から挑まれるのは好意的な方だ。

「時間無制限二本勝負。自己申。俺が勝ったら、学食Aランチ一週間分デザート付き」

 このポリシーは非難を受けやすい。茶髪が一般化してもこのド派手な頭はまだ受け入れられ難い。だが、そんな理由でやすやすと普通な色にする気はない。

 負けなければいい。








   十   IDEA







「・・・ちょっとま・・・てい!」

 実は7本目を入れられたと思った後、もう情けなくなって構えをといた。

「妙に強くないかお前。いや、絶対稽古中の手抜いてるだろ!」

 実力的には正直1・2本ちょろまかせば勝てると思っていた。なのに全く歯が立たない。

「道場で半殺されるから、余力は残してる・・・かも」

 竹刀を肩に担ぎならが左九が暢気に言う。

 この奇怪なピンク色の髪なのにこの妙な暢気さには調子を狂わされる。オマケに不良どころか普通のよりもクソ真面目ときている。成績も悪くないし遅刻もサボりもない。中身は常識的なのにどうしてこんなお洒落を逸したヘアースタイルなのかがわからない。

「俺に勝つ気なら俺の行ってる道場土曜だけでも通ったらいんじゃね? まあ、うちの先生鬼だから最初血反吐出るけど、リアルに」

 生徒会長が稽古に出ても、女子なのに案外ケロリとしていた。左九と同じ道場出だと聞いていたが、本人が凄いより道場が凄いのかもしれない。

「・・・う、今の稽古でも結構きついんだけど俺」

 そこまでやって身が持つ自信がない。

「もー時間だし今日は俺の勝ちって事で、一週間奢りよろしく」

「・・・Aランチって別名王子ランチだよな」

 恐ろしいほどの金持ちも庶民に紛れている学校で、そいつら用の高級ランチ、酷い時は万ころする卒業間近かめでたい事がなければ普通の人間は食べられないような伝説のランチ。

「Eランチ、デザートジュースつきに負けろよ。一本とったんだから」

 実際始めの方で微妙だと思ったが左九が一本だと認めた。それ以外いけたか?と思うようなものはなく、やられたと思っても自己申告せずちょろまかしたりしたが一本は一本だ。

「じゃあCランチで手打とう」








「・・・」

 一瞬躊躇しながらも優しく髪を、頭を撫でられる。

 鼻をズズズと啜る。

「・・・・・・ゴメンなさい。取り乱した」

 これ以上泣いたら目が腫れて学校で誤魔化すのが面倒だと、泣いた所為でズキズキする脳に言い聞かす。

 泣いてスッキリしたよりも、夏深がずっと側にいてくれる優しさに恥ずかしくなった。

 子供だと思い知るような駄々を捏ねて、我が儘を言うのはあまりにも格好が悪い。全責任を夏深に押し付ける訳には行かない。何よりもちゃんと誠意を見せて訂正と謝罪をしてくれている。ずっと妥協せずこちらの思い通りにならない事に腹を立てては夏深が可愛そう過ぎる。

「少しは落着いたみたいだな」

 目尻に残った涙を親指で拭われる。

「ちょっと情緒不安定になったの。もう・・・、平気だから」

 素直とまでなれなくても必要最低限で、思っている事は自分の口から伝えたい。

「・・・夏深があの会社に手を出さないなら、売り言葉に買い言葉だってちゃんと、割り切る」

 ずっと責めたって仕方ない。それでも、もし爺さんの会社に本当に手を出したら、その時は許せる自信がない。大切なもの同士が潰し合ったらどんな結果でも平然とはしていられない。

「解った」

 真っ直ぐ目を見てくる夏深に又泣きそうになる。

 本当にもう大事なものなんて作りたくなかった。大事なものを失うのは、骨を折ったり怪我をするよりももっと痛い。だからもうあんな苦しい思いはしたくなかった。なのに、もう、夏深を手放す事自体が苦しい事になっている。

「お前の好きな『平等な取引』だ。ちゃらにしてもらうのにタダじゃ申し訳ないだろう」

 夏深が優しげに言う。ギブアンドテークだと常々言っていた自分に気を使っている事を重々承知しながら、不満だった。

「いらない」

「?」

「もう、そういう取引はナシにする」

 酷い自分勝手だろう。出会った当初から夏深とはそんな事ばかりやり取りしていた。なのに今更ナシなんて都合がいいかも知れない。

  それでも、無条件で側にいて無償の関係でいたいのがきっと本音だ。夏深とは資産も地位も寛大さも脳味噌ですら劣っている。それで無条件なんて自分の利益ば かりだとわかりながら、それらが欲しいが為に夏深と一緒にいる状況は嫌なのだ。四季の株が暴落して夏深が四季夏深でなくなっても、根本的な感情は変わらな いのに、夏深の持っているものが目当てだと思われたくない。

「・・・じゃあ、もうギブアンドテークはなしか?」

「駄目?」

 泣いた所為で鼻が詰まってとても甘えた声なんかにはならない。不安な色しかない声になる。

「まさか」

 そっと触れるだけの口付けが落ちる。

 私は他の男ではキス一つで幸福感なんて生まれないんだろう。

「こうなると当子の兄弟の処遇も考えないとならないな」

 夏深が小さく呟いた。

「兄弟?」

「・・・そして俺はコイビトらしい」

 夏深が苦笑いながら囁いた。








「・・・こんなはずじゃなかったんだ」

 悲愴な声に青ざめた顔、メンタル面でも身体面でも疲労のピークなのがよく解る。

 普段こんな弱音を吐かない人間が、苦しそうなのは異様だ。

「・・・お、お仲間だな」

 逆の窓際でダウンしていたノッチが大静にボソリと呟いた。

 バスの最前列にいる大静とノッチのもしもの時要因で前に座った西澤と田島はビニール袋と目隠し用の紙袋のエチケット袋セットを常備しながらウンザリとしていた。

 矢崎はバスに乗った直後に爆睡。大静は昨日のほとんど夜寝なかった所為か、パーキングエリアを出てから酔い出し、今では直ぐ吐きたい状態だった。

「まあ、僕的に静かでいいんだけどさぁ」

「運痴な割りに乗り物強いよな猛」

 田島はコンビが組めない所為かいつもよりまともだ。

「三半規管がイカレてるのかも、きっとその所為で僕平衡感覚悪くなったんだよ。だから運動神経が少し鈍くなったんだ」

 トンネルを越えるとビュンビュンと通り過ぎる景色に雪が乗り出した。

 ジェットコースターなんかの絶叫マシーンは平気だ。車で本を読んでも酔わないのは一種の特技だ。

「いや、猛の運痴は生まれ付きだ間違いなく」

「・・・・」

 否定できないのは何とも悲しい。

「や、ヤバイ・・・・・・吐ッ」

 到着や休憩を待たずして惨事は起きた。あらかじめ朝食をとらなかったノッチの胃液と、貰いゲロをした大静のしっかりとった朝食の消化中の内容物と胃液臭をもろに受けた。

 バスの窓が外気の寒さにも関わらず一斉に開いた。








 祖父と祖母と父親の入っている仏壇に御飯とお茶を供えながら溜息を付いた。

 いつまでも子供でいたいピーターパンシンドロームと言うかマリッジブルーに近いというか。微妙な心境だ。

 唯解っているのはちゃんと大人にならないといけない事だ。いつまでも子供じみた我が儘を言って夏深を困らせられない。何よりもそんな自分は嫌だ。逃げたりせずちゃんと向き合いたい。

 暖房の入っていない部屋は酷く寒い。何となく道場を思い出す。ずっといるのは嫌だが、この冷たい空気を吸い込むのは嫌いではない。気持ちが凛とする。

  父親は全く知らないし、おばあちゃんの記憶は少ない。爺の事は今思い出しても泣きたくなるほど尊い。きっとこの寂しさは薄れても消えないだろう。唯、死ん だ時、爺さんにだけはせいぜい馬鹿なりに頑張ったようだなと、昔みたいに素直には絶対に褒めない憎まれ口を言ってもらえるようにしたい。

 滝神とか四季の嫁に恥じない人間とか、そんな事よりも唯爺さんの孫で恥じない生き方をしたい。

「おはようございます」

 それに今は、夏深も横にいてくれる事に気が付いた。






「・・・」

 夏深がご機嫌なのが解る。

 久しぶりに帰国してテキパキと仕事をこなす姿はいつもと変わらないが、とても機嫌がいい。珍しく遅刻はしてきたが、そんな事は意に介さぬ仕事ぶりだった。

 しばらくこの爽快な仕事の鬼を見ていなかったのもあるが、やはり惚れる。いや、むろん恋愛感情ではないが、

「あ、多恵」

 夏深が戻ってくるとやっておきたい仕事が増える。夏深は的外れでなければやっただけの仕事に評価を与えてくれるから遣り甲斐が出る。時間を惜しんで外に出ず食事は食堂で取ろうとしていると前に大和音が座った。

 大学が同じで今もプライベートでは飲みに行ったりする。

「久しぶり。珍しい所で会ったわね」

 確か毎日弁当を持参していたはずだ。

「ああ、昨日から缶詰で家戻ってないから愛夫弁当ないのよ」

 男勝りにさばさばした大和がよく結婚できたと思う。

「夏深君が帰ってくるんでもー資料集めに翻弄されてさぁー」

 大和と夏深が短い期間だが付き合っていた事実は未だに信じられない。仕事のできる所は大和も大した物で、女性を対象にした企画では夏深と頻繁に仕事をしていた為そこで親しくなったのだろうが、この大和は女の目から見たからか、野郎の部類だと思う。

「そーいえば、一時帰国らしいけど、本格的に戻ってくるのってどれくらいになるのかしらね」

「さあ、それは上の考え次第でしょ。アメリカ支部でも欲しい人材でもあるし、少なくとも今のプロジェクトの間は向こうが中心でしょうね」

「そっか」

 何となくしょんぼりとした様に見えた。

「ちょっと、あんた旦那持ちでまだ未練持ってるわけ?」

 小声で小突きながら言う。

「違うわよ。当子ちゃんへのいい報せにならないだけよ」

 大和が小さい声で返した。

「当子ちゃん?」

 聞き覚えのある名前に眉を顰めた脳内シナプスに素早く電気が走る。

「それって滝神当子さん? 婚約者の」

「・・・あれ、前飲んだ時うっかり言わなかったっけ? 主治医さんごっこしてるって」

 大和がしれっと言う。正直、大和からは信頼されているし、信頼している。親友と言う部類よりも戦友に近いが、あまり隠し事がない。お互い、仕事上他の人間にはこんなに口は軽くないが、大和と多恵間では酒の席で色々と秘密裏な事が飛び交っていたりする。

「・・・・・・・聞いた、気がするわ」

 以前夏深に大和が呼び出され内容を、何の用だったのかと後に聞いた、他の子に言っても信じてもらえないでしょうけどあんたならうっかり信じそうねと、アッサリとその事を教えてもらった。

 酒の力で忘れていたが、確かに噂の婚約者の話を聞いた。

「結構あれからも仲良くしててさ、ちょと中身はあんたに似てるかも」

「信じ難いわね」

「でも、当子ちゃんの方が可愛いけどね」

「五月蠅いわね。どうせ悲しい独り身よ」

 あの夏深が惚れる様な女はどうにも想像できない。

「でも、遠距離恋愛なんて大変ね」

 しかも相手がアレでは。上流階級の人間は不倫などステイタスと思っている人間も少なくない。その婚約者の女性も可愛そうに、気が気ではないだろう。

「そうなのよ。夏深君がかわいそう」

「・・・・・・」








 情けない。

 どう転んでも桜さんの娘だった。

 如何なる恨み言を並べても、当子個人を陥れる事も、奪う事も、傷付ける事も、自分勝手に愛する事もできない。

 己の感情を唯押し付け、縛り、幸せになどしないのに夏深から引き離す事ができない。

 相手が夏深でなければ、自分を言い包められたかも知れないが、当子を特別に思えば思うほど、後方支援の唯見たいるだけの保護者で居たくなる。

 当子が草を解任する事は容易にできるだろう。四季家の跡取り息子がバックに付けば上は首を横に触れるはずがない。

「・・・何をしているんだか」

 いつクビになり、路頭に迷うとも知れないのに、せっせと働く自分はマヌケだ。

 もし、チャンスがもう一度あるなら。

 もう不毛な復讐心を捨て、この会社だけに生きたい。余程楽で、真の目的だった。『滝神』を指揮し、持てる能力の全て賭けてどこまでできるのか確かめて見たかった。

 又自分の指からこの地位が抜け落ちると解ると、本当にして置きたかった事が見える様だ。

 何よりも、『お嬢様』が大事にし、あの偏屈な祖母が執着した会社を当子ならまだしも、それ以外の別の人間が手中に納めるのは我慢ならなかった。

 きっと、あのじゃじゃ馬娘の次にこの会社が好きなのだろう。

 無論、一番憧れるのはあの妖かしの様な女性だが、








  今日か明日にも草には話を付けておきたい。又アメリカへ行かなればならないし、直ぐに帰国できる訳でもない。これ以上当子に要らぬちょっかいを出させる気 はないが、草に対して相応の代償を払わせる気力も萎えた。何にしろ少しばかりだがあいつの得体の知れない行動のお陰で当子との距離が縮まったのだ。

 まだまだ当子を完全に捕らえていないなら、これから惜しみなく時間をかけてじわじわと落とせばいい。

 こっちは当子なしなんてあり得なくされたんだ。当子にも夏深がいないなんて有り得ないくらいになって貰わないと困る。

 長い長い、死ぬまでの時間をかけてでも、やる価値のある一大プロジェクトだ。