七 むくいにむくいを








「少し、気を詰め過ぎじゃないのか? お前にしちゃ珍しく」

 アメリカに飛ばされてきたと思えば、血相を変えて仕事詰めだ。

 社長子息にしてはでき過ぎているが、一番弟子としてはまだまだ浅い男に珈琲を指し出す。

「あっちでポカしたらしいが、若い内は良くやる事だ。お前は日本人以上に勤勉なんだ直ぐ取り戻せるさ」

 大体、こっちに送られるのは普通なら栄転だ。ミスで飛ばされるにしては良すぎる場所だ。

「ブライアー・・・用はなんだ?」

 ボンボン学生の頃の方がまだ可愛げがあった。あの頃はまだ仕事に慣れていない所為で偉そうなのは変わらないが、あくまでもこっちが上の人間だった。今回ミスをしたらしいが、それまで東京の活躍はムカつくほどだ。今では師匠と対等とは、

「こっちに来て以来、お前にしては珍しく迫りくる敵をジュードーでイかせてないらしいじゃねーか」

 手近な椅子に腰掛けて茶化しを入れる。仕事以外にも色々と教えてやったが、日本人の癖にそっちの才能までありやがる。その男が仕事一筋のストイック野郎になって戻ってきたとは、ヤバイ病気でも貰ったか?

「何ならお前好みの黒髪美人を・・・・」

「・・・折角の申し出だが、勤勉な日本人は仕事が忙しくてな」

 半ば睨みつけられる。

 日本で何があったか知らないが、余程切迫しているか、余程美味い女でも見つけたのか?









「・・・・・・・」

 家に届いたハガキを見て、衝動的に破り捨てていた。

 義務的な、遅れて届く年賀状。知らぬ間に相手の住所が変わっていた為、こっちからの年賀状も届くのが遅れていたのだろう。

 来年か再来年には前の住所では手紙も届かなくなるだろう。

 帰ってくるハガキには、相変わらず住所は明記されていない。

 きっとこんな年賀状でも出すのも出されるのも億劫なのだろう。

「・・・・・・っ」

 あまりにも情けなくて泣けてくる。

 結婚式当日に消えた新婦の妹から思われても、唯のいい迷惑でしかないのは、とっくの昔に理解している。

「燐火?」

 玄関先で蹲る燐火に不審気に声がかけられる。何でもないふりをしようとしても、できなかった。

「シンドイのか?」

 駆け寄って顔を覗かれる。泣いているのを見られたことよりも、破り捨てたハガキに印刷されている写真を見られた事に動揺してしまった。

「・・・・」

 もうこの家に無理をしている必要もなくなった。母親にも別の支えてくれる人ができた。手を焼く相手もできた。

 あの人のように、代わりを見つけてくれた。

 新しく兄弟になるであろう相手が、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。外国ではどうか知らないが、日本ではあまりこういう慰め方をしないと教えないといけない。

 自分でも思っている以上にダメージを受けた。

 よりによって、笑顔で映っている結婚式写真を年賀状に使わなくてもいいだろう。乙女に夢の一つくらい見せてくれればいいのに、

「・・・」

 馬鹿な女だと解っている。それでも会った時からの一目惚れだった。早々忘れられるわけも諦めれる訳もない。

 弟とはいえ、血の繋がっていない男の子に抱き締められても、何にもならない。ドキドキしない。

 ちゃんと、この気持ちを伝えないと整理がつかない。玉砕でいい、彼の幸せを崩したい訳でない。それでも、気持ちの整理をつけないといけない。









 どう言う事だろう・・・。

 当子は一人、パソコンの画面に目を細めた。乙女チックなあまりにもらしくない自分は頭の端に追いやった。

 どんなに思い悩んでも、夏深にはなれない。どんなに夏深の事を思っても、唯思い悩むならば何もしないのと一緒だ。

 冷静に物を考えると、見えないものも見えてくる。それに新たに入手した情報は、できすぎたパズルのピースで逆に不審だ。

「・・・・・どーゆーこっちゃ」

 どう考えても、草と夏深の苦肉の策略で、もし取り越し苦労だったらかっこ悪いからとりあえず内々で話をつけて企画を頓挫させたようだ。が、確かに無謀だが、最良の策でもあったろう。それでも、少し力ずくな気もするし、何となく、胡散臭くもある。

「・・・・・」

 もし完全な仕事上の話だったとしても、不安は拭い去れない自分が嫌だ。

 夏深なしでは今でも尚寂しくて仕方ない。些細な事で均衡が崩れ、不安に取り付かれてしまう。

 もし、この情報が事実なら、きっと月末には帰ってきてしまう。その時、私は夏深にどんな顔をすればいいのだろうか?

 あんなに も意地を張って、駄々を捏ねて、泣いて、恥を晒した。馬鹿なときよりも、ソレを冷静に思い出す方がバツが悪い。小指が痛む度にあの時の事を思い出して情け なくなる。自分の行動の意固地さには我ながら呆ればかりだ。それでも、負けを認めるのだけは嫌だった。この性格は治した方がいいかもしれない。

 それに、板挟みである事には変わらない。どう足掻いても、夏深は常に有利で、上だ。夏深に嫌われれば夏深だけでなく、他の物まで奪われる。どうしても、コレだけは怖い。

 どうして、夏深に嵌ってしまう前にこのハイリスク・ハイリターンさと危うさに気付かなかったのだろう。らしくもなく、緊張してしまう。まるで失敗した試験結果でも待つようだ。

 どんな顔をすればいいのか、どんな滝神当子でいればいいのか解らないのに、それでも、夏深に会いたい。

 夏深の求める滝神当子に変身して、何の不安もなく夏深の側にいたい。

「くそー」

 どう足掻いても、思考が夏深に向かう。料理を作っていても、夏深は好きだろうかと考えてしまう。本当は料理だって仕方なく食べてくれていただけかも知れないと不安に駆られる自分が嫌だ。

 どんどん自分が醜く見える。

 どんどん情けなくなって、夏深に釣り合わない人間に見えてしまう。






「とっうこちゃん」

 燐火が当子の後ろから飛びついた。

 聊か首を絞められた当子が苦しそうにもがくのを横目で眺めながら、女の子がはしゃぐ姿は可愛いな★と思う。

 折角こんな可愛らしい子羊の群れがあるのに手出しがあらゆる方向からできないようにされているのは悔しいとしか言いようがない。

 生徒会長からは職脅しをされ、自分の子という確証のない子供を産んだ女の兄からは門限作られ、破れば本当に海の藻屑にされかねない。それでも尚色々と色目は使っているのに、結婚した所為か全く女の子にもてなくなった。

「今日はどうされたんですか?」

 いつになくテンション高い燐火に、当子がいつも通りの鉄壁な仮面で聞いた。

「んー、なんか、いよいよ卒業だから当子ちゃんに甘えておこうと思って」

「当子もってもて」

 左九が書き物をしながら言った。

「ふふ、羨ましいでしょう」

 黙々と仕事をする当子を後ろから抱き締めながら燐火が言った。

「燐火先輩、どうしたんですか? 志望校でも落ちたんですか?」

 当子が燐火を見上げながら聞く。当子も整えれば美人だが、やはり燐火は輝きが違う。

「ん? センターは大丈夫だったわよ」

「そう言えば受験生でしたっけ」

 猛がぼそりと呟いた。

「燐火先輩ってどこの大学受けたんですか?」

「んん〜、受かるまで内緒」

 臨時生徒会役員の大静が聞くと、燐火が不適に言った。

 生徒会の女子たちは何とも謎が多すぎる。そこが又魅力でもあるが、もう少し身近な存在の方が有り難い。

 新入生に手頃で可愛くて後腐れない女の子はいってこないかな・・・。








「・・・っくく。ははは」

 誰もいない社長室で、声を殺して笑いを漏らした。

 悪運だけはあると思っていたが、ココまでくると恨めしい。ココまできたら運命的だろう。

「ははははは」

 可笑しくて仕方ない。

 こんな偶然が欲しかった訳ではない。

「ふざけるなよ」

 机に拳を打ちつけた所為で、端に置かれていたカップが床に落ち、砕け散った。その音が、心地よくすらあった。

 覚えのある感情が湧く。

 何もかもがどうでも良く、情けなく、全てを壊してしまいたくなる。

「・・・っそ」

 あの時の感情は間違いで、この復讐心すら諦めろとでも言う事か?

 二つ同時に諦められるほど、諦めのよい人間ではない。








「・・・・・・・・どう言う」

 思わず独り言がもれた。

 一ヶ月を過ぎる前に、一時期間命令がきた。こちらでいつも以上に神経を尖らせ、働き詰め、少しでも株を上げようとしていたが、まだ帰れるほどの功績は出していない。

 これまで唯日本に戻る為だけに仕事をしてきたが、いざ戻れと言われて戸惑っている自分がいる。あまりにも危なっかしい当子が心配で仕方なかった。唯抱きしめて、唯保護したい自分と当子を女として抱きたい自分は相反している。まだ、当子との距離を空けておくべきなのだ。

 高が数週間離れていたのが、至極長かった。同時にあまりにも短い。頭に浮かぶのは当子の照れて拗ねながらも頬を染める歳相応の女の子の姿だけではない。それだけならば、どれだけ心が安らいだだろう。

 当子を唯の女のして好きならばまだマシだったかも知れない。若く綺麗ではあるが、当子は経験値が低すぎる。もっと具合のいい女などいくらでもいる。

「どうした?溜め息なんてついて」

 実践的仕事の基礎を教わったと言っても過言ではないブライアーが何気なく声をかけてきた。

 その地位のわりに十分若いスペイン系のこの男には、当子の事は一切話す気はない。婚約したことは知っているだろうが、あんな一回りも年下の子供に夢中だと言っても信用しまい。

「帰還命令が出た。一時的にだがな」

「それはめでたいな。パパと仲直りでもしたか?」

 この手のジョークが今通じる状況だとでも思っているのか。

「3日ほどで戻ってくる」

 その間に、当子に会う時間が取れるだろうか?






「猛様〜」

 わざとらしい内股で駆け寄ってくる矢崎に溜め息が出た。朝一番には濃い。

 嫌いではないし、一見物凄く馬鹿な男だが別に芯がない訳ではないのも知っている。妙な懐かれ方をしているのは正直嫌だが二年もすれば慣れる物らしい。

 だがやはりムカつく。

「きゃん」

 まるで猛がこける動作をまねる様に矢崎がずっこけてみせる。

「こけちゃっとぅお」

「ああ、スマン見えなかった」

「お前、わざとダロ? 何か、お前は俺様が猛様とうふふあははなのがそんなにも気に喰わないのか!?」

「・・・ハッ」

「鼻で笑った〜」

 矢崎を踏みつけてきた大静が何事もなく近づいてくる。当初、色んな意味一番まともだった大静も、ちゃくちゃくと馬鹿になってきている。

「で、猛様知ってる?」

「いつからの猛様ブームだいつからの」

 クラスでも何故かしら『猛様』ブームが到来している。今まで呼ばれ方は色々とあったが、そのなかでも馬鹿馬鹿しいものを今更定着させようとしているらしい。

「いや、そんな事はどうでもいいけど、燐火先輩、再婚するらしいぞ」

「・・・・東大受ける人間は、もう少し正しい日本語を使おうよ。燐火先輩の親がするなら再婚で、燐火先輩がするなら再は入れないぞ?」

 頭がいいとは思っていないが、理系よりも文系である為一応ツッコミを入れる。

「燐火先輩の親が再婚するらしい」

「へー」

 どこからこういう情報を知るから知らないが、どうにも大静は猛が燐火の事を好きだと思っているらしい。

 色々と複 雑な家だとは知っているが、そう言う事を一切表に出さず、笑顔でお姉さん役をしているのは尊敬する。そういう面でも運動神経がいい面からも、とても羨まし く好きではあるが、面白いほど恋愛感情はない。絵のモデルをしてもらうと、燐火からも色々な哀愁はちらりと見え、唯綺麗なだけでないのが絵を書いて見たい と思った理由かもしれないと思う。

「お待ちになって猛様ぁっ」

 矢崎が言いながら大静の足に向かって低姿勢でタックルをかけるのを一歩離れた位置から見物した。膝の部分を掴まれ、そのまま勢い任せに突進され、なるがままに大静が転倒した。

「てっめ、しばき倒すぞ」

 自分だったら鼻を強打して鼻血ダラダラになっていた事だろうが、大静は反射的に手を付いた為そこまで酷い事にはなっていなかった。がっしりと両足を掴まれた為支えに使った腕は強かに打っただろう。

 何だかんだで、大静も矢崎も仲良しだよなと思う。

 唯、登校時間の廊下で喧嘩するのは凄くはた迷惑だとも思う。

「朝から元気ね〜」

 丁度登校してきたらしい噂していた燐火が矢崎と大静の粗末な戦いなど意に介さずやってきた。

「へんぱいおはひょー」

 大静に両頬を思い切り抓られながら矢崎が言う。どう見ても秀才と呼ばれる男には見えない。

「おはよ。廊下で暴れると、制服汚れちゃうわよ?」

「いや、律儀にこいつらの相手しなくてもいいですよ」

 燐火は基本的にマメだ。

 大静の情報を一々燐火に聞くのも失礼だし、聞くにしてもこんな人通りの多い場所で聞く事でもない。

「でも、こんな楽しいクラスメートと修学旅行なんていいわね?」

 何気なく燐火が言う。

 一月の末から二月を跨いで二年は修学旅行があるのをひしひしと思い出さされた。

「・・・・・・・」

 何故だろう、廊下でノタウッテイル野郎二人を見て、修学旅行に行きたくなくなってきた。






「当子指の調子どう?」

 聞くと当子が小さく唸り声を上げながら左手を上げてまじまじと見た。

 年始に指を痛め、そのまま稽古に出ようとしていた当子を見つけて稽古には出ないように説得した。道場にも部活にも言っている為まともな稽古参加はしていないが、怪我の治りはあまり宜しくないようだった。

 理由を聞いてもドアに思いっ切り指を詰めたと言い張っていた。

「・・・・ん完治完治。」

 当子が指を曲げ伸ばししながら何気なく言う。二年は修学旅行の関係で今日は生徒会には来ていない。

 道場の先生とも話して、当子のあの指は最低でもひびは入っていると結論が出ている。痛いから湿布を貼っているだけだ、腫れはしているが痛くないと言い張っているが絶対に痛いはずだ。一ヶ月経って大分良くなったが、はじめは物凄く腫れていた。

「そろそろ稽古に出てもいいデスか先生。試合出なきゃなんないっぽいし」

「・・・試合か」

 百合乃下杯は左九も出ないとならない様な感じになっているが、主将達が流石にあの髪はとボソボソと話しているのを考えると出来れば出たくはない。

「元々乗り気じゃなかったんだから出ないでもいんじゃね?部員でもないし」

「えー、出たい」

 当子が拗ねた口調で言う。

 まあ見た感じ治っている様だし、指の骨折は一ヶ月ほどで大体治るさも聞いている為、それ程激しくなければ問題はないだろう。

「・・・稽古出てもいいけど自稽古とかかりは禁止な」

「はーい」

 駄目だよ な。当子におねだりされたら強く駄目とは言えない。それに、最近元気がないようだし、少しはストレス発散した方がいいだろう。元々当子にとっては剣道はス トレス発散の一環だ。本人も怪我の具合が余りよくないのを承知している為、我が儘を言って稽古に出るとは言わなかった。平気なふりはしているが、ストレス 解消ができないのは健康にも悪いだろう。

 試合は建国記念日な為、もうあまり日にちがない。二年の坂士が、試合前に修学旅行を入れるなと叫んでいた。

 こんな頭を通している以上、それなりの結果を残さないと拙くはある。

「はあ」

 剣道はプレッシャーでなく自発的に楽しみたいのに、









「ぬ」

 家の駐車場に車が止まっているのを見て、思わず立ち止まった。

  一瞬夏深だと思った。夏深から直接聞いたわけではないが、夏深が一時戻ってくると聞いている。残していた仕事の関係という名目らしいが、やはり、あの事だ ろう。詳しい仕事内容はあえて見ない事にしているが、夏深と草の行動が最良だったと言う結果は出ると見て間違いなかった。

 夏深がいつも乗ってくる車でないのは確かだが、何台もの高級車を持っている四季家だ。違う車でもあまり安心できない。何より、連絡もなく家の駐車場に車を停める相手が他に思いつかなかった。

「・・・・・とーやま」

 運転席に乗っている男を見て、一人ごちった。

 用があったら電話なり定期報告なりで済ますのだが、何かあったのだろうか。やはり、この前の仕事の事だろう。

 窓を軽く叩くと草が顔を上げた。いつもの胡散臭い笑顔を向けられる。正月のあの失態を草も見ていたのを思い出しつつもこちらも平静を装った。

「珍しいわね。何か用?」

 出てきた草がちらりと家の方を見た。

「中でお話しても宜しいですか?」

「・・・ええ」

 まあ、態々来るような用なのだろう。こんな所で話すのは難だ。

 ふいに、以前夏深が家の前で待っていて、妙な誤解の所為で、自分よりも夏深が傷付く様な事をさせてしまったのを思い出した。

 あれは、自分が苦しみたくないが為に犠牲者になったような物だ。

 自分勝手でつくづく酷い女だ。

「お茶くらい出してあげるけど、何かリクエストある?」

 客室に通しても良かったが、今更だろうと居間へ通した。交友関係は広いが、家にまで呼ぶような友達は少ない。たまに来た客くらい多少もてなしても罰は当たるまい。

「珈琲を頂けますか」

「ん」

 手早く準備をし出す。

「・・・色んな意味、そう言うカッコは違和感がありますね」

 言われて、スクールスタイルである三つ編み眼鏡の制服姿であるのを思い出した。

「お褒め頂きどうも」

 ほとんど度の入っていない眼鏡を外して、近くに置いていた鞄の中に入れた。

「三年間見続けてた制服も、たまに見ると新鮮なものですねえ」

 草が昔百合乃下の特待生だったのは知っている。百合乃下きは基本金持ち校だけに金はある。唯の金持ちばかり入れていては色々なものが落ちる為、学力・スポーツその他で抜きん出ている人間は金持ちでなくとも比較的入りやすい。色んな意味貧乏人にも太っ腹だ。

 一学年に一人、授業料その他が免除される。当子も理事長である春夫の計らいでその特待生で、草もその特待生だった。

「オッサン臭いわね」

 棚の中から、貰い物のカステラを出した。最近余り食欲がない為、こんな時にでも出さないと賞味期限を過ぎさせかねない。

 珈琲ができる間に他の用意をして、珈琲メーカーに珈琲が出来次第カップに注いだ。サイフォンで作ると流石に時間も手間も取る。

「昔みたいにお手伝いさんは雇わないんですね」

「昔と違って、今は十分一人でやっていけるからね。変に知らない人に家の中を動かれるよりも一人の方が楽だもの」

  祖父が死ぬまで運転手まで付いていたのだ。とても裕福な子供だった。今も家政婦や運転手を雇う余裕がない訳ではない。それなりの資産もあるし、株は買うが マネーゲームをしている訳でないので、行き成り貧乏になる訳でもない。祖父が亡くなる頃までいた家政婦の人も別の職ができた為今更呼び戻す事もできない。 今更、新しい人間を雇うくらいなら、実際一人の方がいい。

「で、何の用?」

 カステラと珈琲をさし出しながら聞いた。

「あまり急かさないでくださいよ。こっちにも色々と事情があるんです」

 のんびりと珈琲を啜る草にどんな事情だとイラつく。

 家にまで来て直接話さなければならない様な用事の内容が気がかりだ。

「何か遭ったの?」

 催促すると草が少し考え込むような仕草をした。時計を一瞥してから、こちらを見てくる。つくづく人を騙す家系だなと思う。母親の血かとも思っていたが、それだけではないようだ。又従兄弟である草は立派な狸だ。笑顔が胡散臭くて仕方ない。

「お手数ですがこちらにきて頂けますか?」

 草が言うと当子の返事も待たずに持って来た鞄の中を探り出した。

 何なのだろうかと長テーブルを回って草の隣まで行く。

「・・・え」

 一瞬の事だった。

 草が柔道部の主将をやっていたのも、素晴らしい功績を持っているのも知っていた。ただ、実際にそういった所を見た事がなかったし、パッと見た感じは優男で馬鹿力があるとは何となく結びつかなかった。

「大人しくしていれば、傷付けませんよ」

 片腕と長く重厚なテーブルの足とがナイロンロープと括られていた。元々の用意周到と言う事か。

 力いっぱいに右腕を引くがナイロンの縄が予想以上の強度を見せ腕に食い込み、微かにテーブルがズレタだけだった。

「何の悪ふざけ。あたしがこういうくだらないジョークが好きだとでも思ってんの?」

 顔を歪めて草を見上げた。逆行になる所為で、影を作った顔からでも十分に表情が見えた。狸らしい、無感動な瞳の笑顔。

「まさか、俺がお嬢様を許したとでも思っていますか?」

  まだ自由な左手も大きな手でがっしりと押さえ付けられる。狂気と言うには、草はあまりにも淡々としている。生徒会室で襲われかけた時の様な生々しい恐怖 も、夏深のような心の底が麻痺するような感覚も起きない。その代わり、ただただ冷静に、今の状況を大脳が危険だと判断する。

「産まれた時からの環境まで恨まれるのはお門違いだと思うかもしれませんが、俺からすれば、お嬢様さえ産まれて来なければ俺の家族は皆何の苦労もせずに暮らせたんですよ。想像もできないでしょうし、同情が欲しい訳でもないですがね」

 草が抑揚のない声で言う。感情を込めないそれは、少なくとも理解していた事実だ。

 望まれて産まれた訳じゃない事くらい解っている。それでも、生まれてから至極恵まれていた事も知っている。あまり帰ってこないあの変人な母親にも祖父にも愛されていた。生活で心配など何一つなく暮らせていた。

 今更になってツケを払えというのか、

「会社を奪って、家も奪っておきながら、逃げ道を作るような男の言い分にしては今更な事を言うのう」

 苦い言葉が出る。唯右手の自由がなく、左手も自由なんて程遠い、まだ右手の方が自由なくらいだ。他が自由でも、今の状態は圧倒的に不利だ。起き上がる事ができなければ、男ひとりでも中々の恐怖対象だ。危害を加える気のある男ならなおさらだ。それでも、苦い言葉が出る。

「・・・あの時では奪えなかったものがありましてね。忌々しい爺も寿命で死んで、唯一残ったのがあの女性だけでは、本当にお嬢様からは奪いたいものが奪えない状況だった。それが最近やっと壊せて壊す価値のあるものになりましてね」

 それだけで、嫌な先読みが立った。

 それ程引かなかった血の気が、やっと引き出す。空いている片手でブレザーのボタンが自然な手つきで、ゆるゆると外される。

「面白い事を一つ教えてあげましょう。四季夏深が日本にいる事は知っているでしょう?」

 生々しい厭らしい笑みならまだしも、こんな時に微笑むような哀れむような顔をできるのは不気味だ。

 こんな時でも、草が裏で何を考えているのかと考えあぐねていた。草のような男が、こんなちゃちな復讐で満足するのかと自問する。

「今夏深がこちらに向かっている所でしてね。中々いい具合にここに着くんじゃないですか?」

 ちらりと、もう一度時計を見た。

 草の口先を信じるならば、確かに、あの時は持っていなかったものを今は奪えるだろう。そして、ダメージも相当なものになる事は目に見えている。

 憎い相手を辱め、この姿を相手がもっとも見られたくない相手に晒す。確かに、悪趣味で十分に傷付ける事ができる策だ。だが、この男にしてはあまりにもらしくない。草は己の手は汚さず、相手を苦しめるようなタイプだ。あまりにも、らしくない。

 嫉妬心が浅くない夏深が、ついこの前家に連れ込んで看病までしていた男に組み敷かれている自分を見たら、本当に嫌われるのは確かだ。婚約解消程度では済まない。その結末を思うと、更に疑問が浮かぶ。

「婚約が解消されれば、あんたの地位もなくなるわよ。今まであたしから奪い取ったもの全て捨てて、あたしの道連れにでもなるつもり」

 夏深が、草を許さない保障はないが、許す確証など全くでない。夏深がその気になれば、四季以外の会社でもその頭を接げ変えるくらいできるだろう。あまりにも、分の悪い復讐だ。草がそんな事を本気でするのだろうか?

 草が冷ややかに笑うのが見えた。

「それも一興ですね」











   八 メランコリー







 大丈夫。私は、カヨワイ人間ではない。

 諦めの悪い人間なんだから。









「明日、朝一番にそちらに向かいます」

 何時間ぶりかに大地に足をつけて早々に電話を入れた。

『・・・解った、時間を取ろう。全く、上を混乱させて楽しむのは勝手だが、こっちの仕事を一々増やすな』

 溜め息混じりの父親の言葉に苦笑う。こっちだってこんなつもりではなかった。

「以後気をつけます」

 飛ばされたアメリカでお茶汲みをしていた訳ではない。日本の仕事を投げ出し次はアメリカの仕事を投げ出すでは話にならない為直ぐに帰国にはならないだろうが、日本の方も平行的にやらされだろう事が予想できる。しばらくはアメリカと日本を行き来しなくてはならないだろう。

 電話を切ると重苦しく息を吐いた。

  どうしても草へこの仕事について理由を聞かなければならない。その事で電話を入れると当子の家で待っていると言われた。良い方に考えると、当子の策略で草 が当子の事を好きだと言う事にしたと冗談交じりにばらされる。悪い方に考えると、当子も草を好きで相思相愛なため今回の手柄を上げるから見て見ぬふりをし てと言われる。だ。

 どちらにせよ、行かないわけにはいくまい。

 何が待っているにしろ、少しでも早く当子に会う為に長旅で凝った体を解す間もなく早々に車を走らせる自分はやはり馬鹿な男だと思う。









「ぐお」

「集中なさい!」

 扇子でばしりと頭を叩かれる。

 ひっつめた頭に臙脂色の着物を着こなしたこの母親は、華道家よりも極妻の方が似合っていると思う。

「はい」

 剣山に刺した指を見ながら返事だけはしっかりとした。

 自分で言うのもなんだが、華道は全く向いていない。小さい頃からやらされているが、才能0だ。元々男子は家を継がない為下手くそでも大きな問題はないが、母親は意地でもこの才能を開花させたいらしい。

 西澤の息子に芸術の才能があるのが気に喰わないのは勝手だが、とばっちりを受けるほうとしては災難だ。

 基本的にアバウトな人間なため繊細さを求められても困る。

 まあこの濃いヘアースタイルをぐちぐちととやかく言わない代わりに、稽古事はサボるなと命じられている為稽古には出るが、

 着物や袴を着るのは背筋が伸びる為結構好きだが、どうせなら華道より茶道の稽古が良かった。









 無駄な足掻きをしていた当子が急に大人しくなったかと思うと、小さく笑いを漏らし出す。

「気でもふれましたか?」

「気が触れたのは頭山、あんたのほうでしょ?」

 この状況で、当子の目があまりにも冷静すぎる。全く驚異を覚えていないその目にドキリと言うよりも冷やりとする。今なら、当子が多重人格だと言われても容易に信じるだろう。

「大 体、あんたが復讐の為と理由をつけても、高が一人の可弱い女の子犯そうとするなんて、冷静に考えれば考えるほどありえないじゃない。真意が何か知らないけ ど、このままあたしが無抵抗になったら、夏深が着くまで時間稼ぎができないわね? そうなったら、本当に最後までやる気かしら?」

 もし、霊魂が本当に存在するならば、今の当子は桜が乗り移った様だ。元々外見は似ていたが、雰囲気があまりにも違っていた。それなのに、今の当子は桜そのものだ。

「・・・初めから、そのつもりですよ」

 この状況で、それも今し方まで必死で暴れていたと言うのに、どうしてこうも淡々となれるのだろうか。

 くすくすと当子が小さく笑いを漏らした。

「なら、お手並み拝見しましょうか」

 明らかに人を馬鹿にしたような物言いに、心の隅々まで見透かされたような気分になる。汚くどす黒い所だけが見抜かれたならまだマシだ。もっと奥を見透かされたのではないかと思うと、聊か恐怖心に似たものまでも生まれる。

「・・・・・・・・・・・・・」

 しばらく考え込む。別の策があればそちらに縋っていた。唯、手っ取り早く条件に合う策はこれしなかった。ここまでしておいて、今更手を引く気はない。汚い手は十八番だ。今になって、引いたって何にもなりはしない。






 草を過信する気も下げず向きもない。唯、どう考えても、ありえない。危険なときにパニックになっても仕方ない。本当に危うくなると冷静になれる自分には感謝すべきだろう。

「・・・それで、どういうつもりだったのかしら? 夏深にでも頼まれたんだったりしてね」

 起き上がって、嘲笑うように言う。

 解放された右腕を擦る。手首に赤く内出血の痕ができていた。実際に痛いのは左の小指だったが、知らせる気もない。熱を持って又腫れ出している。試合までそう日にちもないのに、

「あれがこんな事を頼む方が有り得ないでしょう」

  草が淡々と返してくる。何を考えてのあの馬鹿げた行動かは知らないが、読みが当たってはいるらしい。復讐の為ならばもっとスマートな方法などいくらでもあ る。道連れになる気かと聞いた時の草に対しては冷ややかな物を感じたが、あれ以外はやはり自分の知っている頭山だった。どこか胡散臭い男。

「・・・・・じゃあ何の目的か教えてくださるかしら?」

 開けられたボタンを指と腕が痛いのを我慢して止めて行く。本当に夏深が来るならば、こんな格好を見せるわけには行かない。唯でさえ、ついこの前に醜態を晒した。戻ってきたら草といちゃついてる等と勘違いをされたくない。夏深に、これ以上愛想を付かれたくはない。

 仕事の件といい今回の事といい、草には聞く事は多いのに、問い質す気力が出ない。草の目的が読めない所為で嘘を付かれているかの判断も取りづらい。

「聞かずに婚約者に助けてもらった方が得策だったと思いますよ」

 勿体ぶった口調にイラつく。他の下賤よりは嫌悪感はマシとは言え、不快感がなかったわけでも恐怖感がなかったわけでもない。この狸に表面づらだけの謝罪の言葉を求める気は毛頭ないが、理由を聞かなければ気はすまない。

 大体、夏深に助けてもらっても、嫌われては仕方ない。

「・・・」

 草が、後方の時計を一瞥した。又、時計の方を見たのだと思った。

「こう言う事です」

 一瞬に間合いを詰められる。

 夏深以外に、こう言うキザったらしい事が似合うのは、自分の知る限り頭山くらいかも知れない。よく考えれば、夏深も草も根本的な所もどこか近いなと思う。なのに、夏深の時の様な感覚よりも、嫌悪感が先に来た。

 又組み敷かれたら、次はどんな口八丁で逃げるかと考えていたが、意外にもあっさりと引いた。

 一瞬間を置いて、よく見知っていたはずの男に行き成りにキスをされた事実に唖然とした。まだ組み敷かれた方が平気だった。

 唇に未だに慣れない感覚が貼りつく。その感触を拭い去ろうと、手で拭う前に、耳に、聞きなれた低い、怒気の含んだ声が入り込んで、身動き所か息ができなくなった。

「・・・どういうつもりだ?」






  付き合っていた女が別れた後か別れる前に弟や別の男に走るのを経験した事がある。肉体関係のあった女が別の男とキスをしている様を目撃した事もある。どう して、あの時のように、どうでもいいと思えないのか? どうして、ここまでこの女に執着してしまうのか、解らない時の方がほとんどだった。

 唯、当子が別の男と口付けている姿に腹の底から沸々と怒りが湧いた。つい数時間前までいた場所ではこの程度の事は親しい間柄ならば唯の挨拶で済むコトだと言うのに、

「どういう事だ?」

 苦く吐いた。浮気現場を押さえ、激怒するにはあまりにも策に嵌った感がある。草が態々ここに呼んだからには、コレを見せ付けるためと考えて違いないだろう。

「見ての通りだろう。思いの丈を伝えている真っ最中に」

 学生時代を彷彿とさせる聊か人を馬鹿にした声で言い返される。

「俺のモノに手を出す事がどう言う事か理解できてなかったらしいな」

 インターホンを押す前に、無用心に開いたままの玄関が目に留まった。当子が草と二人っきりである事実に不安を感じ、勝手に上がってみればこの始末だ。それまでの二人の会話はほとんど聞こえなかった為、どんなやり取りがあったのかが解らない。

 もし草が自分に言ったように当子に対して言ったのならば、当子はどう返すのだろうか。

「生憎、物覚えが悪くてな」

 学生時代、草がよくした微妙な顔をしてこちらを何事もなく見上げてくる。

「次は、本当に会社を潰して欲しいようだな」

  嫉妬心が隠せない。唯でさえ、一ヶ月も当子に会えず不安だった。草が当子を女として好きになったと言った時から不安に駆られていた。当子がこちらにばれる ようなやり方で浮気をできるはずがない事は解っていた。そんな事をすれば、四季家の馬鹿息子から何を奪われるかわかったものではない。それを解らないほど 当子は馬鹿ではないだろう。そうわかっていながら、今の状況を鵜呑みにしそうになる。

 とことん狭量になった物だ。

 もし当子が別の男に走るなら、己の持つ権力をフルに使って自分以外には目を向けられないようにする。どんなモノでも人質にしてやる。

「・・・好きにすればいいだろう?」

 鼻で笑うように返される。

 逃げ場のない怒りの捌け口を暴力に見出しかねない自分を律する。本気になっても、相手が副会長殿なら易々と殺されはしないだろうが、当子を巻き込むかもしれないと言い聞かせる。

 ピリピリとした重い空気の中で、予想外に業を煮やしたのは当子だった。

「私のモノをゲームの捨て駒代わりにするのは、あたしの許可を得てからにしていただけるかしら」

 ドンというこ気味のいい音と足に微かな振動が伝わる。当子が、拳を力いっぱいに畳みに叩き付けて苦々しく言葉を吐いた。

 振り返った当子は、色々な意味で、よく見知った滝神当子だった。

 意志の強い眼差しと、華奢な体に見合わない闘争心と威圧感。拒絶ではなく敵意を感じさせる当子に、今し方までの焚き付けられるような怒りの炎が微かに威力を減らす。

 当子が腕で口元を乱暴に拭う。

「喧嘩したいなら他所でして。あたしの物に手を出す気なら、唯では済まさない」

「・・・」

 怒気の含んだ声を出す当子にどこか安堵している自分がいた。






 予想外の当子の言動に焦る。

「高が形式だけの金で居座る会長に何ができます? 啖呵を切るより、婚約者に尻尾を振っておいた方が」

 言い終わる前に、夏深の方を向いていた当子がくるりとこちらを向き、何の前触れもなく硬く握り締めた拳でもろに顎下から殴り上げられる。行き成りの凶行と思いのほかの威力にかなりのダメージを受けた。女の子なのだからせめて平手にして欲しい。

「じゃぁーしい」

 今までにないほどの冷ややかな目に睨まれる。

 蛇に睨まれた蛙とまでは行かずとも、桜に睨まれたのに近いものを感じる。

「あたしに復讐したいならすりゃいいさ。そう易々とやられるとは思わない方がいいやろがな」

 当子の柄の悪い所を知らなかった訳ではない。それなのに、当子がぶちギレると言う選択肢を計算しなかったのは誤算だ。これならまだ桜のような当子の方が目的に合っていた。

 捻くれた性格上、素直に負けは認められなかった。コレくらいで壊せるなら、確実に将来潰れるだろう。四季は力がある反面、部外者である当子への風当たりは酷くキツイ。夏深でも、全てを消せるわけではない。自分よりも余程性質の悪い人間も少なくはない。

 当子に対する復讐をする事ができなくとも、過去の感情が全て無になるわけでもない。夏深がカッとなれば、滝神を潰してくれるかも知れない。そうなれば、当子と夏深に多少の不信感は生まれる。矛盾だらけの感情に整理が付かなくなる。

 どう転がるかはほとんど運任せだった。唯、この後当子の前から消える事だけは決めていた。最後の足掻きと幼稚で強かな嫌がらせだった。

 あまりにも複雑な自分の感情に、昔から一番印象強く見知っていたこの傲慢なまでの強い当子は見せたくなかった。又揺らぐ。今までの人生の中で運転手をしていた時が一番の安息の時だった事実。






 立ち上がると、頭一つ以上背の高い夏深を睨め付けた。

「爺さんの会社を潰すつもりなら、してみろ。絶対に吠え面かかしてやるから。爺さんが必死こいて守ってた会社を、あんた達の喧嘩に巻き込まれてたまるか」

 本当に、腹が立つ。

 爺さんの会社を潰すと夏深から、この耳で直接聞いて、草の真意の掴めない行動で、いかに自分の生活が不安定で、それなのに今まで守りにしか入っていなかった自分に腹が立つ。草に一発くれてやった程度では気が済まない。

  もう、泣き言が言えない。夏深に嫌われたくないからと、淑やかに、ていのいい女ではいられない。自分で管轄のできる範囲にあるのに、爺さんの会社を潰され る訳には行かない。社長である草は今までちゃんとした仕事をしていたが、倒産でもさせるようなら、その前にこっちが手を打ってやる。

 あのクソ爺が大事にしていた会社は、爺さんの形見のようなものだ。それに、自分が思っている以上に執着している。間違っても、私の目が黒い内は潰させない。社員とその家族を路頭に迷わす事をしては、爺さんに顔向けできない事だ。

「・・・」

 夏深が戸惑うような苦笑う様な顔をする。もう、愛想を尽かされたらどうしようと考える時間がなかった。仕方ない。楽なほうを求めて、自分の事ばかり考える方が結局疲れる。

「出て行って、二人とも。あんた達と同じ空気を吸うのすら疎ましい」

 夏深が手を伸ばしかけて止めるのが解った。

「・・・解った。今日の所は、引こう」

 きつく睨み上げていると、夏深が微かに困ったような表情をした。

 夏深達が出て行かなければ、自分が出て行くつもりだった。こんな微妙な状況にいるくらいなら、寒空で凍えた方がマシだ。それに、口先だけでいる気はない。色々と策も考えなくてはならなかった。何よりも、誰もいない所で泣きたかった。

「・・・・・・・」

 夏深が草に合図を送る。草がため息混じりに立ち上がった。









 携帯電話に着信があって、反射的に通話を押した。

「もしもし?」

『大変なんだ猛!』

「・・・・・・」

 鈍い反射神経ながらに、携帯を耳から離した。行き成り、耳元で大きい声を出されるのは耳が痛い。

「ん、で何?」

『って聞いてなかったのか!』

「・・・田島、声がでか過ぎて耳が痛いよ」

 携帯からやや離れて言う。電話の設定ではボリュームはBにしていたハズなのに、何でこんなに音がでかいのだろう。

 テニス部では怖い部長で通っているらしいが、こう言う一面しか知らないため今一怖い先輩である田島が想像できない。

「さっきノッチにそのテンションでかけたら電源切られて、仕方なく僕の方にかけるなら学習してからかけてくれ」

『・・・何でわかんだ』

 田島がいかにも不思議そうに言った。

 田島は自分よりもノッチの方が何だかんだで仲がいい。このテンションで電話するならまずノッチで次に自分なのがセオリーだ。大静と矢崎は忙しい人間なためくだらない電話では直ぐに切られる。

 本当に仲がいい分、ノッチは田島にキツイ。不機嫌な時や面倒な時は互いにあしらい方が至極適当だ。今日のノッチはきっとご機嫌斜めだったのだろう。

「で、何が大変なんだ」

 取り合えず溜め息混じりに聞き返した。

『それがさ、今知ったんだけど修学旅行って国内なのか!?』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 出発は明日の朝六時半である。

「そりゃ切られるわな」

 矢崎が人工ボケなら田島は天然ボケタイプだ。それも本当の大ボケだ。

『ええ!知ってたのか』

 本気で言ってるのか、冗談なのかさっぱり解らない。

「今更国内かよって何ヶ月も前から話してたよな」

『・・・・ゥッ、うげろ』

「・・・・・・じゃもう明日に備えて僕寝るから。お休み」

 強制的に電話を切った。今まで班分けだとか学年集会だとか、一体どれ程の場所で国内旅行だと知れたろうか。それもスキー・・・

 唯でさえちょっと行くの嫌だなと思っていた最中にこの電話。ちょっと本気で明日寝坊したくなった。









 偉く大人しく外に出た夏深が出て早々に胸座を掴み上げてきた。長身の部類である草だが、それよりも夏深の方がいくらか身長が高い。何よりも、高校の時ならまだしも今では夏深の方が明らかに強い。

「どういうつもりだ」

 一語一語を強調的に問われる。

 当子の反応の所為か、予想以上に夏深の反応は低い。問答無用に殴られても可笑しくないと踏んでいた。なにより、すんなり外に出てきたのは意外だった。

 夏深の問いにどう答えるか考えあぐねる。このまま当子を潰す言葉も、夏深を本気で怒らせる言葉も、自分自身を奈落の底に突き落とす方法も全て手中にある。こんな状況を作って今更最後のボタンを押すことを躊躇する自分がいた。自分が考えているのとは全く別の言葉が出る。

「いつまで俺の猿芝居に騙されてる気だ?」

 低く笑った後出た言葉に、夏深が訝しんだ顔する。どうしてこんな事を口走っているのか、自分ですら不思議でならない。唯、淡々と口を付く。

「本気で、お嬢様に惚れたんなら態々お前に手の内を見せるような事をすると思うか? あんな程度の茶番で本当に仕事を潰してくれるかは賭けだったんだがな」

 夏深の掴み上げていた手が緩むのが解った。

「どういう事だ」

 それでも、低く威圧的な声なのは変わらない。

「ある情報筋であの企画に不備が出ていたのが解ってな。そっちには平気でもこっちとしては相当な痛手だった。もし情報が事実なら、直ぐに打ち切るほか逃げ道もなさそうだった」

 ぺらぺらと出てくる虚言に苦笑いが出そうになる。

「今まで失敗がなかったから今の職から下ろされていないが、直接俺が関わった事業で大損が出れば社長なんて椅子から直ぐにおろされる。かといって100%の確証のない情報で天下の四季との仕事を潰せるほど俺に権限はない。仕方なく、お前から仕事を潰してもらったんだ」

「・・・・」

 探るように目を細めた後、乱雑に夏深が掴み上げていた手を放した。

「お前のやる冗句は昔から笑えないな」

「半分はジョークのつもりだったからな」

 嫌味交じりに返す。

 夏深が易々と信じたとは思わないが、一先ず騙されてはくれるようだ。

「それで、さっき見せたデモンストレーションはどう言い訳するつもりだ」

 さっきよりも、冷ややかな声が問いかけてきた。

 軽く乾いた唇を舐める。

「・・・正月のお嬢様をみて、嫌々な婚約でないのかを確かめておきたくなった。憎い男の孫も子供の時分から見ていると愛着も湧くらしくてな。四季の後ろ盾がなければやっていけない程でもないのに、あの歳で好きでもない相手と無理矢理結婚しろと言うのも酷だろう」

「お前に心配される事じゃない」

 つくづく夏深が唯の男として当子に嵌っている事実を目の当たりにする。結局全てを壊す悪魔にはなれなかった。たった数年の安穏な日々が大きな防波堤になった。当子から本当に何かを奪う事はできない。

 己の思いがけない行動に、思わず当子とよく似た全く違う女性を思い浮かべてしまう。

 本当は桜に対して焦がれていただけだ。

 今更、頭の中で自分が自分に言い訳を始める。

「まあ、本当はどこまでお前が騙されるか試したかったのもあったんだがな。昔は俺の嘘はまず通じなかったからな。 お嬢様が先にキレルとは思わなかったがな」

 昔と同じ性質の悪い扱い難い男でいる方が全てに円満だ。

「キスの一つでお前の顔色がああも変わるとは思わなかったがな」

 暢気にそんな言葉が口をつく。押し倒している姿を見られれば、本当に殺されても可笑しくなかったろう。それでもいいと思っていたのに、

 意気地がないというよりも、運がないのか悪運が強いのか・・・。

「・・・取り合えず、お前の嘘臭い嘘に騙されておいてやる。仕事の件はこっちで処理する。いいな」

「ああ、適当に頼む」

 仕事上の顔が垣間見えたと思うと、一瞬で又冷ややかなモノに変わった。

「お前だろうが誰だろうが、当子をやるつもりもなければ、二度も当子に手を出せば例え誰だろうと許しはしないとだけ言っておく」









 誰もいなくなってから、気が抜けてしゃがみ込んだ。

 どうしようもなく泣きたくなった。もう今更夏深に好かれようと姑息になっても意味がなくなった。草だけでも面倒なのに夏深も敵にまわす言動をした。夏深が爺の会社を持ち出した以上笑顔で聞き流せなくなった。

 草だけならまだ何とかできる自信はある。小さくはない会社だ、草を失脚させる為の駒はいなくはない。だが、夏深が本気になったら本当に足掻いてもまさに無駄な足掻きに終わるのが目に見えている。それ程四季家は強大だ。

 どうすればいいだろう?夏深の父親である春夫は桜ファンなため頼めば何とかなるかもしれない。だが、そんな事を頼めば婚約者を夏深から冬祈に代えられかねない。

「・・・っ」

 行き成り頭を撫でられて、驚いて振り返った。

「・・・出ていってって言ったじゃない」

 鍵をかければよかった。出て行ってから少し時間が経っていた為もう帰ったと思ったのに、

 慌てて涙腺を閉める。夏深の前で泣きたくなかった。たった一年くらいで、桜の次に夏深には泣き顔を見られている。これ以上、弱点は見せたくなかった。甘えたくもなかった。

「取引をしにきた。慰めに来たわけじゃない」

 人の心臓を鷲掴みにするような顔をしてよくそんな事を言う。

「残念ながらこっちには取引材料なんてないわ」

 夏深の手を払いのけ唯でさえある身長差は埋まらないと解りながら立ち上がって夏深から距離を取った。

 こっちは会った当初よりも剣呑に思っているのに、夏深はあまりにも余裕がある。飲まれてしまうのが嫌だ。

「なに、お前の好きなギブアンドテークだ。こっちが欲しいものを渡せば、会社に手を出さない。草へは保障しないがな」

 淡々と言う夏深の取引内容に流石に考えてしまう。

 こちらにある好カードと言える物は桜から得る情報だけだ。このカード以外のものなら、大抵のものを出しても損は出ない。

  なによりも、夏深が爺さんの会社に手を出さないと約束してくれれば勝ち目のない勝負ではなくなる。唯、それは夏深が約束を守ることが最前提だった。その事 に対して、夏深は約束を守ると確信的に思う自分が嫌だ。夏深はついさっき潰すと脅した相手だ。そんな事を言った夏深の言葉を鵜呑みにしてしまう私は哀れ だ。






「・・・そっちの欲しいものによる」

  当子を初めて見た時はこんな勝ち気ではなく、淑やかなモノだった。どこから当子に本気になったのかは自分でもはっきりと解らないが、あの時の無垢で唯可愛 らしい女よりも、素直に負けを認めず、できる事があるならば危険な端でも渡る向う見ずな当子の方がらしい事は解る。その方が、好きでもある。

「安心しろ、そんなに身構えるようなものじゃない」

 草の言葉を鵜呑みにするつもりはない。あの男がどういう人間か知らないわけでもない。それでも、安堵する自分がいた。誰であろうと、自分から当子を奪おうとする相手に容赦する気はない。それがまともに旧友だと言える数少ない相手でも、だ。

「早く言って頂けないかしら?」

 当子が嫌味を言う。

 当子があそこまで過剰に反応するとは思わなかった。当子にとっては優先順位のかなり高いものを盾に取ってしまったこちらとしても痛い。それでも、当子のあの反応で確実に正気に戻れた。

 今更ながらに思う、例え当子がどんなに意固地で我が儘で、ギブアンドテークだと言い張っても、当子に対しては無条件に何でも与えてしまう。当子がソレを嫌がろうとも、当子が思う以上にこっちは多くのものを得ている。

 当子から見ればあまりにも下らない取引に興じよう。






 伸びてきた手を避ける間もなく頬に触れた。

「・・・しばらく拒絶をしなければいい。お前の会社には手を出さない代償としては安いだろう?」

 払い除けてもよかった手が払い除けれないものになった。払い除ける口実が消された。

「・・・・・どうする?」

 間を空けて、夏深に問われる。

 夏深に虚勢を張る口実は置いておかないといけなかった。でないと、飲まれる。ただただ欲しくなるのだ。

 指が微かに唇に触れる。

「・・・・そう言われて、あたしが、拒否できるとでも?」

 噛み付くように言い返すと夏深が苦笑うのが見えた。

「好きにすればいいじゃない。四季夏深ともあろうお方が、こんな小娘に伺い立てる必要もないでしょう?」

 頭に血が上る。目頭が痛くなる。夏深以外の相手なら、こんな申し出を受ける前に逃げ口や策を考えるだろうに、夏深が相手になると頭が回らなくなる。ギブアンドテークがいいといいながら、無条件に愛し愛されたい自分が愚かしい。

「取引は成立だな」

 くしゅくしゅと頭を撫でられる。それだけの事で苦しくなる。

 自分に言い訳する。欲しいものの為であって、自分の甘えではないと。