五   雅称







 当子がご乱心になるととばっちりを喰う。理由は稽古を頑張りすぎる為。稽古がきつくなる上、女子に負けていられないと自然いつも以上に頑張らさせられる。

「・・・きつ・・・」

 午前終了時で倒れ込むほど疲れるのは異常だ。

「おい華。試合に出る気にさせろとは言ったが、俺達を疲労骨折させるまで酷使させろとは頼んでないぞ」

 当子は真冬だというのに顔を洗いに行っている為、ここぞとばかりに不平を言って来た。

 坂士の言う通り、なれていなければこの運動量は疲労骨折くらいしかねない。

「・・・さむいっスね」

 冬場はさほど汗をかかないものなのに、まあ夏場までは行かないが汗だくには変わりない。動いている時はいいが、動かなくなると木枯らしが骨の髄から冷やし出す。

「俺は心が寒い。嫌だ。後輩に指導権盗られるわ負けるわ真面目に部活動やってる意味ねー。俺様天下の女マネはべらし放題のエンジョイライフを返せぇぇ〜」

「黙れ幽霊部員。ひょっこり頑張って部長になりやがって、俺の人生プランこそ返せ!」

 一学期の初めに揉めた二年の副部長が、朝の雑巾がけに使った生乾きの雑巾を坂士の顔に乗せた。

「くせぇ! てめ、自分に才能ないからって僻むな!今は真面目な部長様だぞクラ!」

「うっせー、コツコツ頑張ってる俺の身になれ!」

 まだまだ元気あっていいなぁと馬鹿らしい喧嘩に巻き込まれないように倉庫兼部室へ逃げ込んだ。

「なんだまだまだ元気ね」

 戻ってきた当子が部室に入ってくると、先輩どもの暇つぶしを見ておぞましい事をさらりと呟いた。

「・・・俺は元気ない」

「えー、負けといて華ちゃんまで文句言うの?」

 鞄からポカリを取り出して当子が拗ねた口調で言う。

 白胴着だと稽古中に紺胴着の色が移ってしまう為、紺胴着に揃えて色では目立たなくなったが、やはり男子部員の中に一人女子が入ると目立つ。おまけにポニーテールに眼鏡なしでは色んな意味もっと目立つ。

 今は当子のこの格好が学校の奴らに曝されるよりも、何があってこんなにご乱心かの方か気にかかる。

 聞いても誤魔化されて答えてはくれなかった。

「主将が冬場は怪我しやすいし、試合も近いから扱きは程々に頼むってさ」

 道場の方でも結構な練習っぷりを見せていたが、当子の祖父が亡くなった時の荒れ方に比べればマシではある。当子にとって剣道は体を鍛えたり強くなる為以前にストレスの捌け口なのだろう。それを止めろとは言えないし、同じスポーツをするのは嬉しいのできつくも言えない。

「はーい。大きい怪我されたら困るし、少し自重します。でも、一年女子に負けると言う屈辱は受けてもらうけど」

 最後の方はぼそりと呟く。

 確かに、今の当子は危険なほど強い。集中力がいつもよりも高い。最近の試合で勝てたのはほんの数回だ。坂士は一本は入れても中々勝てず一勝だけしたかできていない。後の部員は当子から一本すら取れていない者がほとんどだ。

 剣道の名門校ではないにしろ、決して弱くはない部だ。それに少しは自信とプライドを持っていた部員にしてみれば当子にボロ負けは痛過ぎる結果だ。

 そりゃあ手を抜けないし顧問の先生も文句言えないよな・・・。

「明日から4日間部活冬休み出し、今日は楽しい剣道おさめね」

 その物言いは、今日は手加減なしで倒れるまでやるという意気込みが垣間見えた。

 何が当子をココまで追い詰めるのか理由を聞いても手助けできるとも悩みを解消できるとも限らない。むしろできないと考える方が妥当だろう。それなら無理に理由を聞くよりも当子のご乱心に付き合って稽古の相手をした方が役に立つ。

 当子と一番対等にいられるのは胴着を着ている時だけだなぁ・・・。








 四季の末娘 秋江には、この世の中で嫌いな人間は山ほどいるが、嫌いな部類としては大体三つに分かれる。コンプレックスを感じてどうにも好かないタイプと、冬祈に色目を使う雌豚タイプ、自分以上に性格の悪い人間に別けられる。

 できの良 すぎる兄と優しくてカッコの良い兄の妹として生まれれば、どんなに生まれが良かろうとお金持ちの娘であろうと、己のできの悪さは嫌でも目に入る。どんなに おべっか使いが可愛いだ綺麗だ秀才だ才色兼備だと褒めそやそうと、四季本家であるこの家族に囲まれれば全てが嘘である事くらい解る。そのお世辞がどれ程嫌 いかなんて、この場の屑達に解って欲しいなんてくだらない事は思わない。

「秋江ちゃん、お久しぶりね」

 毎年恒例で家の大広間で開かれる新年の儀。基本的には親族のみの集まりとされているが、血が繋がっているのかどうかも解らない人間も多々来ている。実際名前も知らない人間の方が多い。まあ、天下の四季本家の新年会ともなれば当たり前か。

 挨拶回りは他の兄弟や親に比べれば大分と少ない。その為暇を余して端でぼうっとしていると、好かない人間が声をかけてきた。

「・・・お久しぶり、ええっと、菊子さん」

 わざと思い出した風を装う。

 菊子は秋江の母である弥生の弟の娘で、従姉妹に当たる。この近い親戚の女は大嫌いだ。

「大学合格おめでとうございます。私ずっと心配していたので受かったって聞いて自分のことみたいに喜んだんですよ?」

 反吐が出る。

 親戚内でも一番の美女と言われている菊子は確かに美人だ。淡いピンクのドレスも違和感なく着こなしている。雰囲気も一見では柔らかくいかにも良家の良い娘だ。唯、秋江もビックリな超性格ブスだが、

 一学年下の菊子の物言いの裏からは、よくその頭で大学に入れたわねとさげずんだ考えが用意に伝わってくる。

「有難う。来年は菊子さんが受験よね。やっぱり日本の大学なんかじゃ物足りないかしらね?」

 菊子も頭は悪くはない。自分と同レベルだ。菊子にも多少のコンプレックスを抱えていた事もあったが、今は唯の性格の悪い雌豚としてしか見ていない。滝神当子に比べれば、この女は唯のオノボリサンでしかない。

 あの女に比べれば今までのコンプレックス対象などゴミ屑だ。

「・・・」

 新年の会も半ばになった頃、一瞬視線が入り口に集まった。おおぴろではない無言の偵察。

 菊子の肩越しにそのコンプレックスを見て小さくほくそ笑む。やはりこの菊子ですら当子と見比べると見劣りがする。

 深紅の着物を纏った美女。四季夏深の婚約者になった無血統の娘の御登場だ。






 相変わらず、見目麗しい。

 年甲斐もなくトキメキを覚えてしまう。

「明けましておめでとうございますおじ様」

 屈託のない笑顔は、この腐りかけた林檎のような上流社会に咲く一輪の純白の花だ。いや、今日は濃朱の着物に身を包んでいるが、

「おめでとう。済まないね新年早々」

「いえ、お久しぶりにおじ様に会えて嬉しいです。夏深さんのお仕事も忙しそうなので、おじ様も療養がとれていないのではと心配していたんです。でもお元気そうで」

 その気遣いに涙が出そうだ。流石は桜ちゃんの娘だ。

「夏深」

 別の客に挨拶をしている夏深に、声をかけた。

 なにぶん ホスト役である以上当子の相手をずっとしていたいがそうも行かない。それに、当子をこの場でたった一人置いておくわけにも行かない。誰も見ていない所でど んな嫌がらせをされるかわかった物ではない。何かされても、桜ちゃんの娘である当子がほいほいと言いつけにきてくれるとも思えない。それならば予防線は張 らねばならない。

 婚約者である夏深と行動を共にするのは何もおかしくはない。

「あけましておめでとうございます。夏深さん」

「・・・ああ」

 きた夏深が一瞬微妙な表情をした。

 先日の夏 深の行動はあまりにも合点の行かないものだった。『滝神』を仕事相手として優先的に契約するならまだしも、話の進んでいた仕事を急に取り止めるとは可笑し い。二人の仲は悔しい事にいいはずなのだ、その中でのこの行動。その所為で『裏』に何かあるのかとその行動の意図を読みかねている。今まで仕事は上手くこ なしてきた夏深を信用はしているが、不安要素に変わりはない。

「夏深、当子さんをしっかりエスコートするように。すみませんな、できることならば私がエスコートした所ですが、今日は不肖の息子で我慢してください」

 それに当子がくすくすと可愛らしい笑い声を漏らした。

 嫌味のな い純粋無垢な宝石のような当子と婚約できた夏深は幸せものだ。当子ちゃんを幸せにする為にもこの馬鹿息子には立派な跡取りになってもらわねば困る。今回の アメリカへの出張で他の重役の持った疑問の目を払拭し、もし立て直せないような軟な男なら、当子の婚約者にも四季の跡取り息子にもいる価値はない。

 もっとも馬鹿息子ならば多少の難程度で潰れはしないだろうが、








「・・・?どうかなさりました」

 当子が会った当初と変わらない声音と表情で見上げてくるのはどうにも異様だ。

 人前や外出時でならばこの当子も見る事があったが、やはりあの当子に慣れてしまうと微妙なズレを感じてしまう。

「いや」

 親族の集まりの中、草がいるのは最早何の不思議もない。結婚はしていなくとも、婚約をした時点で滝神も四季の広い親戚の部類には入っているのだ。何より、今日のこの場で何度も草の姿は目端に入っていた。ただ、その時は横に当子がいなかったのだ。

 当子が来る時点で当子の護衛役もしなければならない事は解っていた。これが、あんな失態の後でなければ何の違和感もなくこの役目を勤めれただろうに。

 この場では当子に謝る事も、当子の本心を知る事もできない。

「夏深さん」

 声をかけられて振り返ると、従姉妹である菊子が立っていた。流石はあの母上の血筋の人間だけあって、とてもいい性格であるらしい。四季夏深の婚約者と言う大きなポジションを狙っていた一人である菊子が当子に対していい感情を抱いていないであろう事も容易に想像がつく。

「あけましておめでとうございます。・・・そちらの方は噂の婚約者さんですか?」

 以前の婚約披露の時は本当に公表と顔見世程度しか当子にはさせていない。元々当子に社交界への強制をしたくはなかった。当子がいい思いをするとは思えない。それでも、親族のこの集まりは嫌でも出る必要はあった。

「はじめまして、滝神当子です」

 当子が笑顔を向けて言う。

「・・・そういえば、夏深さん明日からアメリカに行かれるって聞きましたけど。お帰りになるのはいつ頃ですか? 私の誕生日会には帰ってきて頂けませんか?」

 さらりと菊子が当子をスルーする。いつもはもっと上手く人を馬鹿にする小娘が夏深の前でここまであからさまに嫌悪するとは、余程血統書のない年下の女に狙っていたものを取られたのが腹立たしかったのだろう。

 菊子の反応に当子は変わらず笑顔を向けていた。

「残念ですが仕事が立て込んでいますので、帰国しても暇がないんですよ」

 つい苦笑いそうになる。こんな餓鬼の誕生日を祝うくらいなら当子に会いたい。

「そうなんですか、お仕事は大事ですものね」

 菊子が至極残念そうにだが物分りの言い風に言う。

 言われずとも仕事がなければ一人の男としては価値のでない事は解っている。こんな女の為でなく、当子を繋ぎとめる為にもアメリカで形成を立て直す自信もある。






 夏深の側で淑やかな笑顔を振りまく。挨拶回りの間、横で猫を被っておくのは婚約者の仕事見たいな物だ。別にそれに対して不満もない。

 唯この表面的な自分の方が結局は夏深の求める女であるのに嫌気がする。それを解って猫を被る自分がもっと嫌だ。

 こんな場所以外でも夏深が望むならずっと猫を被っていてやる。もう、夏深なんてどうでもいい、四季夏深の婚約のカード以外求めなければ何も怖くはなくなる。初心に帰ってしまえばいい。もう夏深なんていらない。欲しいのは四季とのツテだけだ。

「出るぞ」

 ある程度夏深の挨拶回りに付き合って、自分の挨拶も済んでから夏深が小声で指示をしてきた。言われるままに煌びやかなホールから外へ促される。

「・・・どこへ行かれるんですか?」

「外だ」

 短く言われる。この寒い中態々外に行くのは嫌だが無言でついていく。

 大丈夫、お望み通り本心なんて見せないでいられる。ギブ・アンド・テークだ。相手が求めるものを渡す代わりに欲しいものをもらえばいい。

 自分が原 因で『滝神』に影響するのは許し難い。桜の情報で夏深が『滝神』との仕事を急遽取り止めにしていたのを知って驚いた。夏深との関係はある意味で会社やその 周りとは無関係だと過信していた。今まで自分の態度一つで夏深があんな事をしてくるとは思わなかった。ショックは受けたが裏切られたとは言えない。所詮私 も唯の四季の後ろ盾と力が欲しいだけの下賎な女でしかないのを忘れていたのが悪かっただけだ、気を抜き過ぎていたのだ。

 唯の態のいい女が良かったなら初めから猫被りを止めろ何て言わないで欲しかった。勘違いをするのも大金持ちのボンボンに振り回されるももう嫌だ。

 家もでかいがそれ以上に四季の庭はでかい。正直全部どうなっているか解らない。行った事のない所がほとんどだろう。方向音痴の気がある為下手に迷い込むの恐ろしくて中庭と温室が行って精々だった。

 大広間から少し離れた場所にある大きな池の前まで来ると夏深が向き直った。

 この距離なら、確かに人に話を聞かれる心配はないだろう。

「・・・当子・・・悪かった」

 夏深が躊躇しながら言葉を紡いだ。背の高い夏深を自然と見上げる事になる。

「謝らなくてもいいです。悪かったのは私の方なんですから。・・・あんな対応では不安になるのは当たり前ですもの」

 いいながらどうしようもない違和感が出る。それでも完全に自分を潰して易々と言葉が出る。それを聞いて、夏深が体を強張らせた。

「もう拒む事も、子供みたいに泣きもしませんわ。夏深さんが嫌いなのではなくて、私にまだ幼稚な部分があっただけですから」

 柔和な笑顔のままできるだけ柔らかい声で言う。見上げる夏深の顔が微かに歪むのを見逃せるほど馬鹿ならよかった。

「俺が、悪かったから。お前が幼稚なんじゃない」

 夏深なんてもうどうでもいいんだ。だから、傷付こうが知ったことではない。これを望んだのは夏深だ。

 確かに夏深と婚約したのは自分の為で結局は『滝神』の為だった。その当初の目的が完全に揺らぐほど、はまり込んでは駄目だった。自分の行動一つで爺の会社が潰れるのだけは許せない。他の人間ならまだしも夏深に潰されるのだけは嫌だ。

 そうなれば、私は身動きが取れなくなる事くらい容易に想像がつく。

 それなら、自分を殺してしまった方が楽な事に気付いてしまった。

「・・・夏深さんは優しい方ですから気遣って下さるのはわかります」

 私なんか、もういらない。

 嫌われて、夏深を脅威に感じるくらいなら、そんな私はもういらない。

「・・・・」

 夏深が身を屈めてそっと口づけてくる。

 もうこんな事でうろたえてやらない。それを夏深が嫌がるならいくらでも隠し通してやる。






 当子の鬼門であるこの行為で少しでもこの仮面を崩したかった。

 会った当初の当子が嫌なわけではない。だが今まで進歩したといっていい関係を少しでも取り戻したかった。

 それでもただ触れるだけしか手を出せない。あまりにも壁を感じて触れる事すら怖くなる。

「・・・・」

 唇を離れて見上げてくる当子の目が色なく唯闇のように底がない黒でしかない。何の感情も出さないように押し殺したその瞳に、やった事への罪意識が軽かった事をひしひしと感じた。

 酷い事を言い酷い事をしようとした、それでもこれは無理矢理犯した時よりも罪は浅いと思っていた。酔った時の事だと赦してもらえるんじゃないかと希望的考えもあった。今回の事で本当に嫌気をさされたのだろう。

 こんな馬鹿な男にいつまでも寛大な人間なんている訳はない。

「・・・・・・・・・・・・・」

 自分の価値が当子に会って増えたと思っていた。当子を失えば、今までの価値までも崩れる事実に気付いてはいなかった。

 これ以上当子を無理矢理に繋ぎとめて苦痛を与えて何になる?

 今までも十分に苦しめてきたというのに、それでも当子を放せない自分は途方もない自己中心的な人間だ。

 無反応無感動な当子にしてそれでも側に置きたい自分に腹が立つ。

 そんな自分から少しでも逃げたくて、当子を残して広間へ戻った。早くても数ヶ月は帰国できない。だから今日あの失態を当子に許されておきたかった。その為に態々人気がない庭まで出たというのに、

「っそ」

 風が冷たい。

「くそっ」

 あの狡猾な副会長の方が余程当子を幸せにできる。

 当子が草の事を好きなんじゃないかと不安に思っていた。そうではなかった、俺は当子を幸せにする自信がなかったんだ。あいつの方が余程幸せにできそうで、当子に対する最良の道のように思えて、怖かったんだ。

 俺みたいな人間では、当子を幸せにできる自信がないのだ。






 涙は出せない。

 唇に残る感覚に苦しくなる。

 他の人間には感情を隠す事も体面を取り繕う事も当たり前のようにしていた。息をするような当たり前の事だったのに、息の仕方を忘れたようだ。

 苦しい。

「・・・っ」

 気のせいだ。苦しくなんかない。

 なんともない。このまま夏深が望んだように本心なんて見せず、文句のいいようのない婚約者でいてやる。

 必要なモノを得る為にいるなら、感情くらい捨ててやる。

 夏深なんてもうどうでもいいんだ。

 苦しいのも泣きたいのも、気のせいだ。

 苦しくなんて、ない。これくらいは我慢できる。

「当子サン」

 本当に今又夏深の顔を見たら泣きそうで、池の水面を唯凝視していたのに、急に平衡感覚に傾きがでた。

 あまり耳慣れしない声が呼ぶよりも早く背を、強く押され、本当に息ができなくなった。

 この季節の池の水は、流石に冷たい。








 つくづく馬鹿だったとは思う。

 熱に浮かされ頭の中が片付く前に夏深にあざとくも当子を好きだと宣言した。

 本当に当子を夏深から奪うならば初めから綿密な計画を練り時間をかける必要があった。それを根底から不可能にしたのはどこかで唯見ているだけでいいと思ったからだろうか?

 もし、冬祈のまま婚約に至っていれば何かと楽だったろう。もし婚約を解消してもそれ程大事にはならなかった。当子が夏深との婚約を解消すれば会社は完全に傾く。当子を欲しがると言う事は、今手に入れたものを自分だけでなく当子にまで手放せと言う事だ。

 当子の全てを手に入れた後、捨ててしまえ真の意味で復讐はできるのだろう。桜がいなければ本当にそう言う事をしたかもしれない。情さえ移らず当子という人間を知らなければ、全てを奪って己の手で当子を叩き壊せた事だろう。

 滝神当子が憎い気持ちが完全に浄化された訳ではない。駒として必要だからこそそのままにしていると最初は思っていた。

 まさかその女を好きになるとは。桜に対しては恋愛に限りなく近いものを感じていたのは認める。それでも初めから雲の上の人間だと理解もしていた。

 唯、桜の代用品として当子に焦がれるのかも知れない。

 純粋な感情を考えれば考えるほど嘘だったように思える。

 この感情は嘘にするべきなのだろう。

「それにしても、源氏氏のお孫さんがあれ程の美人だとは思いませんでしたよ。出し惜しみするのもやっとわかりましたよ」

 何度となく言われた言葉を又言われた。

 お世辞抜きに美人なのだから返す謙遜も又空々しくなる。








 水の中でもがく赤い影が見えた。その中に、黒い影が乱れ入ってしばらく後、落ちたときと同じく飛沫を上げて当子が浮上した。

 何とかして岩に縋り付き、それ以上あがれないらしくそのまま何度も水面下で足をもがかせていた。

「かはッ・・・っ・・げほげほ」

 水を飲んだのか大きく咽る。何度となく咽び苦しむその顔に微かに口端を上げた。やっぱりこんな卑しい凡民、夏深さんの婚約者には似つかわしくないわ。

「・・・・大丈夫?当子サン。急に池に飛び込むんですものビックリしましたわ」

 何人かの金魚の糞の女子と一緒にくすくすと取り囲んで見下しながら笑いを漏らす。

 愚民がめかし込んだ所でこんな場所似合わない。強いて言うなれば流石は四季様のお庭だけあって手入れが行き届きすぎで水が澄んでいる事は残念だ。こんな女には泥水の方かお似合いなのに、

「・・・・・・・手を、貸して頂けませんかしら?」

 当子が解け顔に張り付く髪を掻き揚げながら真っ直ぐに見上げてくる。

 こんな格好になっても尚変わらない顔。到底真冬の池に着物で落ちた人間の目とは思えない、気圧されない目が微かに嘲笑いまで含んで見上げてくる。

 勝ち誇ったままのその顔がムカつく。こんな名前も聞いた事のないような女に見下されるのはプライドが許さない。

 一歩早ければ、夏深と婚約していたのは私だったかもしれない。父親が四季家にその話を打診しに行こうとした矢先に婚約が発表された。よりによって、天下の四季家の長男をこんな下世話な女に盗られたと思うと腹が煮える様だった。

「ごめんなさい。わたくし達のドレスが濡れてしまうのよ。あなたの着ている安物とは違うの」

 外気だけでこれ程冷たいのに、どうしてこの女は震えないのだろう。

 後ろにいる女達には目もくれず、ただ真っ直ぐに菊子を見上げてくる。その目には明らかな哀れみが見えた。

 何の恐怖も悲愴感もなく見上げてくる女にいよいよ腹が立つ。

 当子の岩を掴む細く長い指に足を乗せた。高いヒールが当子の指を痛め付けていく。

 細いヒールに徐々に体重をかけていく。相当痛いはずだろうに、やせ我慢で表情一つ変えてこない。

「・・・・」

 どうして、苦痛で顔を歪めない。

 当子の左手が菊子のヒールに踏まれている事などない事実のように、苦痛で表情一つ変えない。

「では人を呼んで来て頂けないかしら?深くて足が届かないんですよ。それに着物が水を吸って重くて上がれないんです」

 この状況にして形勢を考えさせない当子の落ち着き払った物言いと、真っ直ぐ見上げてくるこの目にこの世の物と思えない色が浮かぶ。

 風が頬を掠める。まだ日が出ているはずなのに、刺すように寒い。芯まで凍らせるような全てを見透かした目がじっと見てくる。

「あ・・・あなたみたいな、下賤の女にはこっちの方がお似合いね。夏深さんのような高貴な方には私の方が・・・余程・・・・」

 自然と毒を吐いてしまっていた。

「・・・・・・・・御忠告、有難うございますわ」

 女神のような優しく美しい笑顔で返される。

「っつ」

 この女は異常だ。普通ではない。

 足が竦んで、徐々に力を入れていた右足が引けた。再び右足をついた時、当子の指を踏んだのか足をぐねって無様に尻餅をついた。

「き、菊子さん」

 後ろの金魚の糞が驚いたような声を上げる。助けようとする手を振り払った。

 こいつらは、この女が怖くないの?

 敵意を向けられたのは私だけなのだろうか・・・

 目の前にいるのは、人間ではない。

「・・・大丈夫ですか?」

 足を?まれて引き込まれると思った。怖さのあまり駆け出した。足が痛いのも気にはできない。








 菊子が青い顔をして走るのが見えた。

「・・・き、菊子さん」

 壁に凭れて素知らぬ振りをして聞き耳を立ててみる。

「あ、あの、あのまま放って置いて大丈夫でしょうか」

「平気よ。もうあの女の話は止めて」

「でも、凍死してしまうんじゃ」

「・・・見てなかったの? あの女、震え一つ出てなかったのよ? それでどうやって凍死するって言うのよ」

 菊子が声を殺して言うのが聞こえた。取り巻き見たいな連中が珍しく困った声を出す。

 流石は秋江も認める性格ブス。自分よりも綺麗で夏深の婚約者になった当子にちょっかいをだしたのだろう。普段は格上達の悪口大会に混ざってはやし立てる連中なのに、この当子を気遣った物言いを考えると当子につきたい人間も何人かいると言う訳だ。

 親の力としては菊子も相当なモノを持っている。当子を虐めたくらいで困った事にはならないだろうが、真の意味で唯では済まない事だろう。

 今は当子が冬祈に色目を使っていないし、実際悪い事をしたとも思っている。夏深が珍しく当子には御執心な為もあってもう何の嫌がらせも手出しもしていない。それに、会長をしている当子には素直に負けたと思っている。

 それに、あの糞燐火と同じ様に嫌いだが、菊子よりは嫌いではない。

「・・・でも真冬の池ですし」

 あーあ、菊子の会話なんて聞き耳立てなければ良かった。

 うちの池には冬祈の育てている睡蓮がある。そこで誰かに死なれては冬祈が可愛そうだ。








 何とか自力で池から出ようとしたが、脱出できずに何度も手まで外れて池に沈んだ。服くらいなら問題ないが着物となると話は別だ。それに実際深い上、水面と岩の高さも低くない。何よりも、この季節の水温は体力を急速に奪うには十分だった。

 昔読んだ小説で真冬の井戸に落とされて女が死ぬと言うのがあったのをふいに思い出す。水死体はあまり綺麗なものではないと聞くので流石に嫌だ。

 手が悴んで、上手く握れない。せめてもの救いは踏まれた左手を冷やす水はいくらでもあるくらいだ。ぎりぎりと踏まれた時よりもけっ躓いてこけた時小指をやられた方がキツイ。折れてはいないがひびくらいは入っているかもしれない。

 素敵な激痛に顔を歪めないよりも、夏深に都合のいい女を演じる方がキツイと言ったら私の頭は可笑しいと言う事だろうか。

 この婚約を芳しく思っていない人間は山ほどいる事は解っていた事で、戦場で油断したのが悪い。そしてその敵の姑息な攻撃に対して表情を崩し負けを認めるなんて死んでもゴメンだ。

「・・・っ」

 どんどん右手の感覚が鈍くなる。左手だけは鈍痛が止まず、至極熱い。

 このまま死ねば夏深は少しくらい悲しんで泣くだろうかとしょうもない事を考えた。

 叫んだら、夏深は助けに来てくれるだろうか?

「・・・・なつっ」

 右手が岩から外れる感覚がした。体が水に捕まる。

 水がここまで凶器になるとは知らなかった・・・。

 夏深・・・ッ











   六   副作用







 服が濡れるのも構わず震える当子を抱き寄せた。

「み・・・夏深?」

 耳元で聞こえたうわ言の様な小さな囁きに怒りと失望に近いものが浮かんだ。








 きつく目を瞑る。

  左手以外の全身が、お湯から刺すような痛みと熱いのか冷たいのか解らない様な熱さを受ける。昔雪が積もって日が暮れるまで遊び回ってからお風呂に入った時 の痛さと似ている。唯アレよりも痛さがきつい。それに、右手だけはそれを上回る痛さで、お湯に入れるだけで激痛が走った。

 生き返ると言うにはあまりにも生々しい。

「・・・っぁ」

 吐き気がする。湯船の中から逃げ出したくすらなる。自己防衛的に足を抱えて蹲った。

 助けられて気が緩んで意識はあった事にはあったが今一どうしてここにあるのかは思い出せない。どこかの部屋に通されて、ずぶ濡れの着物を剥がれて、痛い思いをさせられている。ソレくらいしか覚えていない。解らない。

「大丈夫か?」

 凍りそうな程冷たくなっていた髪にやっくりとお湯をかけながら、優しい声をかけられる。

「・・・平気」

 無意識に唇から言葉が漏れた。どこまでが強がりなのか自分で解らなくなる。

 ズキズキと指が鼓動に合わせて疼く。

「・・・・痛い所はないか?」

 近くから耳を擽る言葉に、ゆっくりと瞼を上げて優しい声のする左側を見た。

 すぐ側に夏深の心配しきった顔にあった。当たり前に側にいる夏深に安心しきって涙が出そうになる。

「夏深・・・キスして」

 膝を付いて目線を合わせようとしている夏深に、恥ずかし気もなく言葉が漏れた。唯甘えたくなった。

 一瞬複雑な表情をされて迷惑をかけた上我が儘が過ぎたのだろうかと不安が過ぎった。身を屈めて無言で夏深がそっと口付けてくれる。それだけで冷え切った脳が温まった気がした。

 あんな状況にさらされた時は緩くならなかった涙腺が、夏深の顔を見ただけで開いてしまう。それでも、今泣いたりしたら夏深をもっと困らせてしまう。

 もう一度きつく目を閉じてから意識を左手に集中させた。全身への痛みは身体自体が温まると同時に和らいで行った。ただ、左手だけは変わらず痛みを感じる。血の流れに同調してドクドクと痛みを波紋の様に広げていく。

「・・・ごめんなさい。ご迷惑を、かけてしまって」

 夏深に甘えるのは至極楽で心地好過ぎる。一度慣れてしまったらどんどん自分にまで甘くなる。何よりも、甘えてそれに返してくれても、私が返せる物で大したものなんてない。

「俺が今、謝罪を求めてここにいると思っているのか?」

 苦く怒気の含んだ声を返される。

 なら、どう反応すればいい?泣いて縋り付いて怖かったと言えばいいのか、それともあの女共に罰を与えてと懇願すればいいのかわからない。

  夏深との関係に爺の会社が加わる事で均衡が崩れた。自分の失言や失態でもし潰されたらと思うだけで怖くて仕方なくなる。どうするのが正解かと考えると自然 と世話のかからない女を演じようとしてしまう。世話のかからない絶対服従の女にでもなれば夏深は満足すると思っているのに、それも駄目だと言われた気がし てどうすればいいのかが全く解らなくなる。

 依然左手の引かない痛みの所為で考えが纏まらない。

「・・・・」

 不意に自分が裸である事に気がついて恥ずかしさが込み上げる。今は蹲った状態でもその前は隠すものも暗がりもなく夏深に見られていた。どうしようもなく恥ずかしくなる。

 全身の急激に温められる痛さが引いた分、脳に考える余裕が出来た。自分の置かれた状況とマヌケ嫌がらせの末路に羞恥心が沸く。

「め・・なさい」

 泣きそうな声が無意識に零れてしまう。謝罪は要らないと言われたのに、

 お湯に鼻先が付きそうな程顔を伏せる。本当にマヌケだ。池で凍死しかけた時よりも、夏深に裸体を見られた方が動揺しているなんて、

 大体、夏深も自分もそんな事を気にできる状況ではなかった。仕方がないとか今更だと思っても、消えない。

「・・・悪かった。お前に怒ってる訳じゃない」

 夏深が心配し、自嘲すら含んだ声を出す。それでも顔を上げる事ができない。恥ずかしくてならない。

「気分は、悪くないか? 痛い所は?」

 手が痛いと素直に言えばこれ以上心配させる事になる。もしかしたら病院にまで行かされるかも知れない。少なくとも言えばもう大広間へは戻れないだろう。このまま帰るのは私的に物凄く癪だった。卑怯な相手に逃げるのも負けるのも大嫌いだ。だから、痛みを悟られたくはない。

「・・・もう、大丈夫です」

 夏深にこれ以上世話をかけるのも甘えるのも嫌だ。自分がどんどん弱くなる。一人では耐えられなくなる。だから、お願い気付かないで、優しく、しないで。






 つくづく嫌われ信用をなくしたものだ。

 一糸纏わぬ格好で外傷を隠せるとでも思っているのか?

 手足についた擦り傷に左手の異常に気付かないでいられる訳はない。そこまで疎くも洞察力に欠けてもいない。怪我よりも冷え切った身体を温める事を優先したが、とても大丈夫ではないはずだ。気が付いていないと言うなら別だが、

 せめて、嘘を付かず痛いなら痛いと答えて欲しかった。我慢してでも隠してくる当子にこっちが苦しくなる。

 ずぶ濡れの当子を見て、菊子への怒りと草と秋江に対するやつ当たりでしかない怒りまで生まれた。弱った当子が震える身体を小さく丸めて草にしがみ付くのを見て、こんな時まで嫉妬し、先に草に知らせた秋江にも大切なものを扱う様に当子を抱き上げている草にも、腹が立った。

 醜い感情が外に出る前に押し留める。ここで騒げば当子に恥をかかせる事になる。唯でさえ己の目が行き届いていなかった所為で当子をこんな目に遭わせたと言うのにこれ以上辛い思いはさせられなかった。

 客室に入ってから草から当子を奪い、脱衣所で当子を着飾っていたモノを剥ぎ取った。湯船に入れる前に微温湯で死体のように冷たい体を熱に慣らした。意識はあるのだろうが顔面は蒼白でされるがままの当子に酷い自責の念と後悔に押し潰される。

 これ以上当子を傷付けたくはない。怖い思いをさせ辛い思いをさせ、碌に守れもしなかった分際で、それでも側に置きたい衝動は止まない。

「十分に身体を温めてから出て来い」

 肩にかかる濡れた髪を撫でてから立ち上がった。

 俺は、つくづく最低な男だ。








 夏深が出てくると、当子によく似合っていた紅い着物を使用人に渡し何か指示をする。

「当子サンは?」

 部屋に誰もいなくなってから、声をかけた。

「意識もハッキリした。発見が早かったお陰で凍傷にはかかっていない」

 それは唯の不幸中の幸いでしかない。当子がこんな目に遭う必要はなかった。この男さえしっかりしていれば、当子に実害は加わらなかったはずだ。

 夏深の事を買い被り過ぎていたのだ。

「・・・犯人くらい知ってるんだろうな」

「ああ」

  夏深の性格のいい妹君が行き成り暇ならちょっとこいと言って来たのを断らなくてつくづく良かったとは思う。本当に当子が池に嵌められたと知ると直ぐに夏深 を呼びに行ったのを見ると、保険で連れて行かれたのだろう。それを考えると秋江が犯人ではないだろうと予想は出来るが誰がやったのかまでは解らなかった。 夏深は秋江に犯人を聞いたのだろう。

「俺にも、どこの馬鹿かは知る権利があるだろう?」

「知った所で、オマエにどうこう出来るのか?」

 唯でさえ権力も財力も桁外れの四季の身内の集まりで起きた事だ。その中の人間に滝神草が真っ当な仕返しをできない事くらい嫌でも解っているのに、わざと突きつけられる。

「なら、お前が代わりにどうにかするという訳だ」

 聞いた所で答えは分かっていた。

 つくづく、生まれの悪さを呪う。

「俺が、タダで済ませるとでも思っているのか?」

 夏深が今回の事に後悔も反省もしない屑男なら、いくらでも当子を奪うチャンスはあるというのに、

「明日には日本にもいられない男は、仕返しをできても守る事はできないんじゃないのか?」

 嫌味が出て仕方ない。

 学生時代は冗談めいた嫌味はいくらでも言っていた。その時のような毒のない唯の冗談ではなく、己の弱さを相手の所為にした口先しか立たない男の嫌味が出る。

「お前なら、守れるとでも言いたいのか?。当子を裏切った事のあるような男がよくもぬけぬけと言えるな。 大切な『お嬢様』なら初めから俺の手に届かない所に置いておくんだったな!」

 夏深が荒らげそうになる声を必死に押さえ付けるのがわかる。苦々しく最もな事を返される。元はと言えば全て自分が悪い。いや、元々はコレで問題はなかったはずだ。

 計算が、当子の所為で崩れていく。

 足が泥にとられる様だ。身動きがとれず、もがけばもがくほど、底の知れない沼に沈み込む。そんな自分の行動にも感情にも苛立つ。目の前の自分の欲しいものを全て持つ男にも、同じ苛立ちを持つ。

「今のお前に、俺を責める権利はないはずだ」

 俺ならばもっと上手く当子を守れたとは言えなかった。

「責める権利はなくとも、お前から当子を守る権利はある」

 病み上がりでも熱がある訳でもないのに、夏深の胸ぐらを身体が勝手に掴み上げる。

 柔道に打撃はない。普段ならしない行動をした。思い切りに、夏深の横っ面を殴っていた。

 行き場のない感情と、己の不甲斐無さにイラついた。障害である夏深が邪魔に見えて仕方なかった。

 こんな始末の悪い感情は殺した方がいいと、殴った手の痛みで自覚した。

「その方が、らしい」

 喧嘩慣れはしていただけに、上手く威力を逃がした夏深がよろけただけの体勢を直すと、苦く吐く。

 殴り返される前に、当子のか細い声がした。






 夏深が出て直ぐ左手を見た。小指が小指でない太さになっている。恐る恐る触診する。痛いが骨折した時はもっと痛かった気がする。多少は曲がるし、折れてはいないだろうが骨の表面は傷が入っているかもしれない。あのヒールで踏まれてよく折れなかったものだ。

「・・・イタイ」

 大丈夫、この程度では泣きはしない。何とか、誤魔化す努力をしよう。痛みよりも、優しくされる方が泣ける事もある。今泣くのは嫌だ。

 思っていたより長風呂をしていたのだろう。指先がふやけている。夏深に裸を見られていると意識すると恥ずかしくて堪らなかったのに、いなくなると急に心細くなる。夏深が外国へ行く為、次いつ会えるかもわからない。それが余計に寂しさを作り出す。

 もう体に冷たさがない。これ以上入っていなくてもいいだろうと、風呂から上がった。濡れた髪を絞ってから脱衣所にあったバスローブを着た。

 相変わらずでかい家だ。ここがどこかもわからない。この家なら風呂付の部屋くらい山ほどあるだろう。それにしても風呂場だけで一般家庭の4・5倍あるのはつくづく無駄だと思う。

 戸を開けると、丁度鈍い音がして夏深がよろけていた。一瞬、何があったのか解らない。判断が付かなかった。

「・・・、夏深ッ!」

 口端に血が滲む夏深に、判断する前に駆け寄っていた。

「お嬢様・・」

 草と夏深の間に割り込む。

「何を、してるの」

 声が震えそうになった。状況がわからない。何で、草が夏深を殴っている?

 又、私の所為。

「夏深は、悪くない。私が、マヌケだっただけよ」

 夏深が仕事を潰したのも、殴られたのも、私が悪い。

 草を睨み上げる。自分が傷付くよりも、怖いのは何故なのだろう。

「当子、お前は関係ない」

 頭一個分も高い一回りも年上の男を庇うなんて馬鹿らしい。夏深が後ろからやんわりと退けようとする。それも触れば壊れるとでも思っているほど、優しい。

「じゃあ何の話だって言うの?」

 振り返ると、夏深が微妙な顔をしていた。やはり、こんな手のかかる性格の悪い女、面倒を見るのは嫌なのだろう。

「・・・今日は、このまま草と帰りなさい」

 優しい声で言われる。邪魔者はとっとと帰れと言いたい訳だ。

「嫌です。私に、このまま逃げ帰れと仰るんですか」

「・・・ここにいて、何になる」

 苦く返される。確かに、会場に戻ったからといって、何にもならない。唯、このまま尻尾を巻いて帰るよりはマシだ。

「その格好で恥を晒しにか?」

 夏深に嫌味を言われる。腹がたつ。

「ここなら、ドレスの一着や二着お貸し頂けるでしょう」

「・・・貸すつもりはない」

 護る為に言っているのか、唯邪魔で返す為に言っているのか解らなくなる。馬鹿らしく期待するのは嫌だ。気遣いでも邪魔者扱いに聞こえてしまう。そう聞こうとする。

「解りました」

 タオル地の紐を解く。乱雑にバスローブを脱ぎ捨てようとする。

「誰がストリップをしろと言った!」

 脱ぎきる前に夏深が襟元を掴んで前を閉じる。驚き、明らかに怒っている。

「俺一人じゃないんだぞ!」

 小学校時代から知っている人間など大して気にもなりはしない。草が後ろで面喰っている事だろう。

「私に貸す服はないのでしょう。私の着ていたものを返して下さい。アレを着ます」

 幼稚だ。自分でどれ程馬鹿な事をしているのかくらい解っている。

「餓鬼みたいな我が儘を言うな」

 呆れて愛想尽かしているかも知れない。このまま、勝手にしろと投げ遣りになられるかも知れない。いっそ嫌われて、修復できないまで嫌われて、そうしたら諦めが付くだろうか?

 機嫌取りをして、夏深の求める行動を取って、人形になって、そんな事をしてでもしがみ付きそうになる。あまりにも自分らしくない。

 無様な姿に涙まで溢れそうになる。

「・・・態々これ以上傷付く必要はないだろう」

 苦しげに言われる。気のせいだ、呆れてるだけだ。

「私は、夏深が思ってる程弱くなんてない。私は、誰かに護られなければ生きれないほど、弱くない」

 泣きたくなるのを必死に堪える。

 自分が今馬鹿らしい意地を通す為に我が儘を言っているのも、唯の強がりを言っているのも解っている。馬鹿みたいに呆けて、馬鹿な女に池に落とされて、夏深に助けてもらって、裸まで見られて、馬鹿みたいに強がる。

 今日の私は情けなさ過ぎる。

「・・・・・解ったから、悪かった」

 今抱き締められたくはなかった。指が痛いのを忘れそうになる。痛い指まで必死に曲げて、夏深にしがみ付きたくなる。

 草がいつの間にかいなくなるのも気付きはしなかった。

 お願いだから、夏深のイラナイモノにしないで。








 当子が背の開いた淡い桃色のドレスに着替えているのを見て、どうして着替えたのかと疑問に思うよりも菊子と似た感じのドレスだなと思った。

 今まで菊子は可愛いと思っていたし、秋江よりも一つ下なのに落着いていて偉いなあと感心していたが、当子と比べると陰が薄くなってしまう。

 菊子よりもさらに一つ下で、夏深の横で凛と立つ姿はどうしても垢抜けている。夏深も今まで見せた事がないほど当子を気遣っている。こういう場所にほとんど出た事のない当子が微かにはにかんだ笑顔を見せる。

 同じ様なドレスに身を包んでも、菊子とイメージが全く違う。菊子と違って、当子の雰囲気は柔らかい。その外見でも尚奢らず夏深に寄り添う姿は健気で、それに普段見せもしない優しい顔をする夏深と当子はあまりにも仲睦ましい。

「仲いいよね。当子ちゃんと兄さん」

 横に張り付く秋江に何気なく言うと、秋江が見上げて鼻で笑ってから肩を竦めた。

「コレじゃ、他所の女も入る隙間なしね」

  確かに、夏深を狙っていた女の人も多かった事だろう。父親の不倫性はどちらかと言うと夫婦仲が悪かった為だから、これなら夏深が他所に女は作らないだろ う。当子にまで自分の母親の様な思いをしてもらいたくはない為、夏深と仲がいいのは良い事だ。秋江も性格に難はあれども可愛い妹だが、当子も身内になる予 定なためか妹のように可愛い。

 そういえば、いつから、妹みたいだって思ったのだろうか?秋江とは全く似ていないのに、いつの間にか、妹みたいに思っていた。

 まあいいか。








「・・・すみません迷惑をかけて」

 当子がいつになく覇気のない声で言った。

 夏深からの電話で再び当子の看病を頼まれたが、どうにも夏深から看病を頼まれる時はこの二人に亀裂が行っている時らしい。正直迷惑な話だが、放っても置けまい。夏深はあまり逆らいたくない様なお偉い上司だし、当子は当子で個人的付き合いもできてしまった。

「私は別に構わないけど、どうしても病院は嫌?」

 以前当子が熱を出したときも病院には行きたくないらしいからと呼ばれた。

「・・・できれば行きたくないです」

 当子が唯の子供のダダをするようには思えないが、トラウマか嫌な思い出があるにしろ今回は病院に行った方がいい。

「患者の意見は尊重すべき何だろうけど、今回はちゃんとした医者にかかった方がいいわ。折れてはいないだろうけど、念の為に」

 高い金を払って医大に行った為、経験はなくとも素人よりも知識はある。折れていないにしてレントゲンくらいは撮るべきだ。

「本当に平気です。唯強く挟んだだけですから」

 このでき過ぎた作り笑いには流石に騙されそうになる。

「お正月で忙しい時にご迷惑をかけてしまってすみません。大袈裟に連絡しただけですから」

 痛めた指をさり気なく見えないように庇うのを見て、夏深が態々連絡をよこしてくれたのは正解だと思う。

 当子はあの四季夏深と並んでも何ら引けをとらず、あの文化祭の働きから十分有能だろうとはわかる。何でも一人でできるとこういう時人に頼れなくなるのだろう。

「こっちは上司に頼まれた以上、当子ちゃんをちゃんと病院に連れて行って少なくともソレは治してもらわないと困るの。これはビジネスなの、仕事で正月が潰れるなんてザラなんだから変な気は使わないで。仕事は終るまで帰られないし、帰る気はないわよ」

 当子には気兼ねをすれば直ぐにペースをもって行かれる。

「・・・解りました」

 当子が渋々に了承した。

「でも、できればあまり大きな病院は避けてもらえませんか?」

「ええ」

 流石に今日は救急しか開いてないだろうから、あまりこじんまりした病院は開いてないだろうが、ほどほどの所はあるだろう。

 御節や正月の準備は全て口煩いお義母さんがしてくれている。別に嫁一人いなくても一日くらい正月はできるだろう。

 まあ実際急な仕事だと出てきた為しばらく帰らなくても問題ないだろう。








 当子の事を心配で仕方ないと言うのに日本にすらいられない自分は至極情けない。

 父親命令であるのもそうだが、四季夏深である以上馬鹿息子ではいられない。それでは当子に不利益でしかない。それこそ当子に捨てられる。

 他の男に頼むくらいなら、大和に頼んだ方がマシだろう。とりあえず安心はできる。

 当子の体の事は勿論心配だ。もし今回も高熱を出すような事があったら、どんな手を使っても帰ってくるつもりだった。例え、当子が求めているのが他の男だったとしても。

「・・・」

 直接当子をあんな目に遭わせたのは別の人間でも、原因は自分にある。菊子にはそれなりの報復処置はするつもりだが、原因には一体どんな報復になるのだろうか?

 当子を失う以外なら何だって報いを受けよう。当子が例え別の男を思っていたらと考えただけでもこれ程恐ろしいのに、もし目の前に事実を付きつけられたら、感情を抑えられるだろうか? 今まで持った事のない感情に翻弄され、何度となく失敗を犯してきた。

 たまに当子の扱いをどうすれば、いいのか解らなくなる時がある。基本は他の女の扱いと同じなのに、なくしたくないと思えば思え程、要らぬ所に力が入る。大事にすればするほど、欲しくて堪らなくなる。

 今まで味わった事のないような甘さと、知りもしなかったモノに振り回されっぱなしだ。

「・・・・・・・・」

 どうすれば自分勝手に放棄した仕事の穴を埋め、尚且つ新たな仕事を消せるだろうか?

 どうすれば、当子を自分一人のものにできる?

 どうすれば、当子は俺を見てくれるのだろうか?四季夏深でない唯の男として、








 ほんの去年まで病院は苦手ではなかった。

 親しい人間を亡くす事をそれまで味わった事がなかった。祖母が亡くなってのは小さい頃でうる覚えで、父親の死すら知らなかった。これ程引き摺ってしまうとは思っていなかった。

 大きな病院に行くとその時を克明に思い出しそうでできる限り行きたくなかった。

「・・・大丈夫?」

 救急できた所為で、あの病院ではないのに雰囲気がダブる。

「平気ですよ」

 平静を装って言う。

 大和に連絡をしたのは卑怯だ。見知らぬ人間ならまだしも知っている人に構われたくはない。

 泣きはしないが、それでも人に弱った所も見せたくはない。指はいまだにズキズキと痛むが、ソレよりも、自分の失態と弱さに腹が立って仕方ない。夏深に嫌われたのではと考えただけで気分が悪くなる。ココまできたら異常だ。

 中学の時に好きだと言ってきた男子生徒もいたが、その感情が今一つ解らなかった。仲のいい人は多かったが、特段に好きな人間はいなかった。嫌いな訳でも利用価値がない訳でもなかったが、付き合ってまで誰かから何かを欲しいと思うものはなかった。

  返せる見込みもないのに唯欲しがる自分に腹が立つ。あの頃の自分が懐かしい。唯の婚約者で好きな相手に何てしなければ良かった。好きになればなるほど、貪 欲な自分自身に愛想を付かしてしまう。どんどん自信がなくなる。今まである程度の事は何でもできた。自分が納得行く程度までは勉強でもスポーツでも努力を できていた。今まで作ってきた自信がどんどん薄くなる。

 どんどん自分が無力になる。

 唯一人の人間に縛られるなんて御免だった。婚約者なんてどうとでも扱えるはずだった。

 四季夏深と婚約した事で祖父さんが残した会社も問題なく存続させられると思っていた。あの会社を第一に考えられたら自信も取り戻せるだろう。猫くらい被って、夏深に頼んで、少なくとも滝神が不利になるなんて事はさせなかった。

「っ・・」

 指の痛みよりも、板挟みの状態に苦しくなる。

 どちらかを諦める事も、どちらかを切り捨てる事もできない。どんなカードを使えばいいのか解らなくなる。

 夏深が求めているカードが解らない。猫っ被りで、見栄えして素直で聞き分けのいい女なら満足してくれるのか、他にもっと注文があるのかが解ればまだ打つ手はある。

 ソレがわからなければ、次手の打ち方がわからない。

 どうしようもない。








 あんな当子を見た事はない。とても演技には見えなかった。

 これが復讐ならばどれ程快かったろう。

「・・・・」

 目を閉じ、深く呼吸をする。

 違う。これは、復讐だ。

 今までの源氏のしてきた事を、ただ社長になれたからと許せる訳がない。

 復讐なんて不毛な事だと見ない不利をするべきではなかった。唯、当子は憎い男の唯一の血縁者で、苦労も知らずあの狸に無条件に可愛がられていた人間が憎くない訳がない。

「あれは、唯の復讐だ」

  夏深に当子が好きだと言った事で、重大な仕事を夏深から潰させた。珍しいほどに当子が肩入れしている相手が少なからず不利になった。しばらく夏深は当子の 側にいられない上、二人の間にも亀裂が入っている。このまま打撃を加えれば完全に修復できなくできるのではないか? どんなに硬いものでもヒビが入ると途 端にもろくなるものだ。修復される前に力を加えるチャンスはいつでもできたではないか。

 祖母の式部は、源氏に自殺するほどに追い込まれたのだ。あの日の光景をおいそれと忘れられるはずはない。

 当子は無関係ではない。源氏が死んだ以上、当子以外に復讐相手はいなくなった。

 計画し、土台さえ硬く築けば、当子を追い込む事などたやすい。こっちは護るものも大切なものも、弱点すらない。今の地位と滝神という名すらいらない。捨て身の人間は、護るものを持つ人間よりもいくらでも性質が悪くなれる。

 当子を又傷付ける事など、容易い。

 汚い手なんて使い慣れている。嘘で人を騙す事にも罪悪感はない。今更改心した所で地獄行きは変わらない様な生き方をした。高が子供を失意に落とし、持っている大事なもの全てを叩き潰した所でなんでもないはずだった。はじめはそうするつもりだった。

 当子が桜の娘でなければよかった。

 純粋過ぎる感情も、しがらみも、見たくも欲しくもなかった。唯欲しかったのは力だけだった。友情すらも疎ましい。

 全てを捨て、己の大事なものまで潰してでも当子を傷付けるつもりだった。

「くそっ」

 車のハンドルをヒステリーに殴りつけた。体を痛めつけた所でどうにもならない。袋小路な思考にストレスが溜まる。

 目的の為に、相反する感情殺せばいいだけではないか。

 当子を傷付けた所で、こっちまで痛くなる手はずではなかったのに、

「・・・・・・」

 当子に対して感じたものは、偽りだ。欲しかったもの全て持っている当子を手に入れれば、それら全ても得る事ができると思っただけだ。飛んだ思い違いだったんだ。

 この感情は純粋なものではない。