三 虎口の難







「たまには横で食べたらどうだ?」

 お膳を並べていると、夏深が唐突にそんな事を言ってきた。

 普段は向かい合って座る事が多い。十分に長さのある長方形のテーブルなので並んで座っても問題はないし、台所側に座った方が物を取りやすいがそれ程不便でもないと言えば不便でもない。

「いいけど?」

 朝の草といい、今まで特に気にしなかった事を変えたがる週間にでも入ったのか?

 並べなおして、料理も全て並べると夏深の横についた。

 時間があまりなかったから、それ程自信作でもないし昼だからそれ程品数も多くない。それでも、手は抜いていない。

「いただきます」

 あんまり 大量に食べるのは得意ではないが、料理を作るのもそれを振舞うのも結構好きである。たまに帰ってきた桜にお手伝いさんに教えてもらった料理を振舞うと過度 なまでに喜んでくれたのがその理由だろう。あの母親は食べられる物で魔物を作るが、死んだ父親は手先がかなり器用で、料理も天才だったと桜が何度となく自 慢をされた。父親に思い入れはないが、料理に関しては母親に似なかったのはこちらとしてもとてつもなく有り難い。あの料理は凶器だ。

 いつも通りもくもくと箸を勧める夏深にすこしほっとする。

 次会えるのは25日だと思っていた為、今日会えたのは少なからず嬉しい。

「急に悪かったな」

 短く言われて変に照れる。

「・・・ホント急だから、あんまちゃんとしたの作れなかった」

 ここで、会いに来てくれただけで嬉しいなんてこっぱずかしい事を言える性格ではない。左側で夏深が微かに苦笑うのが解った。

 どんどんこちらのペースを崩されている気がする。最初は必死に対抗していたのに、今はあまりにもやんわり包み込まれ過ぎていっそ苦しい。

 箸が進まなくなったのはこっちだ。






「美味かったぞ。今日も」

 平らげてから片付けをしようと立ち上がった当子に言う。

 プロの味とまでは行かずとも、当子の料理は美味い。何よりも付加価値がある。

「どーいたしまして」

 あえて感情を抑えた声が返ってきて苦笑う。

 そう言えばこんな昼間のしかも仕事の合い間に来るのは初めてだ。できればこういう時にいるのは避けたがったが、不安で仕事に集中できないよりはマシだ。

 今まで仕事に私情を挟んだ事も、ここまで不安に駆られたこともない。

「・・・後何分くらいいれる?」

 台所に一通り皿を持っていくと、背を向けたまま当子が聞いてきた。仕事の合い間に抜けてきているだけに早く戻ってやる事もあるが、甘え声を出すタイプではないものの、抑制したような物言いには余計にそそられる。

「後20分は平気だ」

「・・・・・・」

 言うと、出していた水を止めてエプロンも外して新しいお茶を持って戻ってきた。とんと目の前にお茶を置いた後、直ぐ横にちょこんと座ってきた当子に微かに顔が綻んでしまう。

 時間を惜しんでくれたと思っていいのだろうか、この場合。

「・・・当子」

 名前を呼んで、横にいる当子の頬に手を這わした。真っ直ぐに見上げてくる目が同じ様に草を見上げていたらと思うだけで嫉妬する。

 例え草でも、誰でも、当子をやる気はない。

 そっと口付けを落とす。微かに今し方食べた当子の料理の味がするのに苦笑いながら、久々に触る当子の感触を確かめる。

 嫌がる様子もないのをいい事に、何度も深く口付ける。

「・・・ん」

 こういう時だけは当子を年下だと自覚する。経験値というよりも、何でもできる割りにこう言う事は至極苦手なのが原因だろう。高がキス一つで翻弄される当子は自分の無防備さに理解しているのだろうか?

「・・・・・ッ」

 唇を放すと、顔を真っ赤にしてしまったのを隠すように俯く当子を更に抱き締めた。

 今まで感じた事もない保護欲と独占欲が入り混じって、どうしようもなくなる。

 いっそ昼間から押し倒してしまいたいが、あの時の震える当子を思い出して欲求全てを圧する。唯でさえ馬鹿らしい不安を抱ええているのに余計な不安を更に浮かばせたくはない。

 それに今日は様子を見にきただけだ。唯馬鹿な不安を当子で麻痺させたかっただけだ。

「・・・・夏深。草の看病の事、怒ってない?」

 甘え声ではないものの、どこか下から探る様に聞いてくる。

 腕の中からするその声に、眉を顰めた。

「ああ」

 何も気付かなかったように声を出す。抱き寄せた腕に力を込めそうになる。

 高々、当子があの副会長を名前で読んだけだ。深く、考えるな。つい、そう読んだだけだ。あいつの偽名以外を読んだ事が今までになかった訳ではない。唯の偶然だ。

 正論を並べても不安が掻き消えない。

「今は、あいつの事は聞きたくない」

 耳元でできるだけ感情を殺した声を呟く。

 そっと、首筋へ顔を埋める。

「?・・・ッ」

 首に歯を立てる。内出血をさせて馬鹿らしい印をつけた。

 動揺する当子が暴れないのをいい事にいくつもの花を咲かせる。

 当子と草を直結して物を考えると馬鹿らしい嫉妬心が沸き立つのがわかる。草の為に今現在も調子を合わせて好きでもない男の相手をしているんじゃないかと証拠のない不安がじわりと湧き出てくる。

「夏深ッ」

 名前を呼ばれて、白昼夢のような性質の悪い不安から目を覚ました。

「・・・・悪い」

 行き成りの行動に、当子が動揺しているのが解る。馬鹿ではない上観察力がない訳でもない、何に対してかわからずとも、思っといた事くらいは気付いたのだろう。

「な・・・・夏深?」

 不安で曇る当子の目が見上げてきて自分の馬鹿らしさに苦笑いしか出ない。

 相手は子供でこっちは大人だと言う事すらあやふやになる時がある。卑しい独占欲に駆られ、早とちって二度とあんな失態はしたくないというのに、又些細な事で嫉妬をする。ただ抱きしめるだけでも満足だというのに、他の男が絡むと無性に不安になる。

 馬鹿馬鹿しい。

「・・・・ごめん」

 そっと、首に腕を回して、当子が小さな声を出す。

 謝るべきはこちらだ。少しは寛大になって、信頼するべきだとわかっていても不安が消えない。

 当子の身体をそっと抱き締める。当子が微かに震えているのに気付いて情けなくなる。

 何をしているんだ俺は。

「看病した事に腹を立てたんじゃない。謝るな」

 自分の不安を当子にまで押し付けてどうする。こんな事をしたい為に態々会いに来たんではない。

「・・・・・・・・」

 どうすれば、守れる。

 どうすれば、当子を俺の手で傷つけないで済む。








「怪我でもしたんですか?」

 朝とは違うハイネックの服を着ている上、それでも隠れなかったキスマークに絆創膏を貼っているのを目敏く聞かれる。

「そんな事より熱は?」

 話を逸らしたくてぶっきら棒に聞いた。

 夏深が今回の事を怒っているのはやはり困るが、今更病人に出て行けともいえない。それに、草に倒れられて一番困るのは自分だ。

「・・・少しマシになりましたよ。できれば今日このまま荷物を持って帰りたいんですが?今夏深の所と少し大きな仕事をしているので、それに差し支えたくないのでね」

「・・・」

 夏深とのやり取りを話す気もないし、自分がやり出した事を自分本位で投げ出すつもりもない。

「私で差し支える様なら私が何とかするわ。あんたは先に・・・この熱下げなさい」

 外はべらぼうに寒いはずなのに、草の額は明らかに熱い。

「・・・・それか病院行って点滴か注射でも打ってもらう? 少し熱長引いてるし」

 草が何とも微妙な顔をするのでそれほどこの家で面倒見られるのは嫌なのだろうかと聞く。

 草が、すいと目を逸らすと小さく言う。

「・・・・・・・・・ね、寝ます」






 あれは、忘れもしない小学校五年の夏。体育の授業で一番高い跳び箱を飛ぼうとしたとき上腕骨の肘関節近くをぼきりと折った。その時の痛みよりも、手術前に打たれた部分麻酔の注射の方が死ぬほど痛かった記憶。

 幼い頃に植えつけられた恐怖はそう易々とは拭えない。

 夏深の下戸を笑ってはいる反面、注射が怖いだなんてそう易々と口には出せない。中学のツベルクリン検査の注射が怖くて受けなかった為に個人的に病院で受けさせられて、素で半ベソをかいた。

 高が熱であの液体を注入する針を血管に刺されるくらいなら、当子の看病という生殺しを受けた方がマシだ。

「・・・・・少し下がり調子になってきてるから、後三日でほとんど平熱に落着くと思うけど、明後日まで熱が高かったら病院行ってもらうから」

「わかりました」

 当子の作った食事をとりながら溜め息が出そうになる。

 栄養のある健康的な物を食べている分大分とマシになってきたのは認めざるを得ない。もっとも、体の調子が戻っても嫌な事実に気付いてしまったのは不幸としか言いようがない。

 よりによって、こんな性質の悪い女。

 あの夏深に仕事を抜けさせてまで家に来させる上、こっちに対して牽制したキスマークまで付けさせるとは、金や地位好きの悪女気取りの馬鹿な女どもよりも性質が悪い。あいつが当子に本気なのも、当子を手に入れることができたとしても多大な損失が出る事も理解している。

 それでも、一度意識をしてしまうともう子供には見えない。

 当子がいっそ産まれなければとまで考えた事もあるというのに、憎しみがあったのも嘘ではなかったのに、

 もう、桜さんの娘だからと言う事さえあやふやに見える。

「・・・」

 性質が悪い。

 そういう感情でさえ見なければ何の害もなかったのに、熱で理性が隠していたモノをうっかり見てしまった。

 親友のモノを欲しくなるとは、最悪の男だ。

 それでも、この感情はそう易々と消せない。

 諦める事も、できない。








「だから、やりませんって」

 終業式の日に生徒会室にやってきた剣道部主将坂士が今日3度目の打診をしていた。

「折角登録したから取り合えず考えて見てよ」

 それを見てウンザリしていた左九に大静がこそこそと聞いた。

「坂士って会長狙ってんの?」

「・・・さぁ〜」

 三年は卒業する為、燐火は後期生徒会に自然と入れなく。開いた席を取り合えず猛の友人である大静が埋めている。進学組みな為、生徒会に入っていたのはプラスになるしと不純動機でオーケーしてくれた。

 後期選挙 は会長は当子だけだったが、後は三人以上立候補者があった。それなのに、得票数が前期メンバー以外は全員足りずに選挙結果は3人しか当選しなかった。規定 で4人以下の場合生徒会長の一任で足らず分を任命できる。それで大静は選挙なしに生徒会には入れたが、ここまで来ると誰かの策略にすら思える。

 前の生徒会と違いあまりにも凄い当子の手腕に一般生徒は新しい人間を入れたくないのかもしれないが、こっちとしては仕事的にキツイ。まあ、文化祭がないだけ後期はマシだが。

 それに、大静と左九が案外仲がいいのもこっちとしては微妙だ。

「つか、あいつって幽霊部員だったんじゃないのか?」

「らしいっスけど、俺が入部した時にはレギュラーでばしばしでしたよ」

「やっば会長狙いで頑張ったのか・・・」

「そんな感じはないんスけどね」

 左九とは基本直接話さない為、大静が左九と喋り出すと何となく浮く。別に燐火先輩ならそれ程疎外感はないが、友達と好かない人間がフレンドリーだと何となく居心地が悪い。

 帰ろう。






 草の熱も下がり、肩の荷が下りた途端に態々又荷を背負うのはゴメンだ。

 それに、試合に出るとなると負けたくないので寒稽古にまで出ないとならなくなる。自由参加で態々地獄の寒稽古に出るほど根性が座っても暇もない。

「うちのガッコの主催試合だから、別に入部しなくても出れんだしどうせだからでればいんじゃねーの」

 左九が暢気に言う。

「・・・・あたしが出る時は、華ちゃんもその頭、覚悟してね」

 人事だと 思っているらしいが、左九が試合に出る場合、流石にこの破天荒な髪の色は染めないといけなくなるだろう。私的には似合っていると思うし人に迷惑をかけてい る訳でも、不良だからと言う訳でもない唯の個性的なおしゃれなのだからいいと思う。髪を染めていない若者の方が珍しい時代だ。それでも、このピンクヘッド は少し時代を進み過ぎてはいる。

「でも、やっぱ無理矢理出さそうとするのは駄目だよな」

 髪の色に妙なこだわりを持っている左九がアッサリと話を打ち切った。

 寒稽古は出ないとしても、最近剣道場にはあまりいけていない。少し身体を動かしてスッキリした方がいいかもしれない。

 夏深のあ の反応に日に日に不安を増長させられる。唯怒っていただけなら対応も楽だが、それだけとは感じなかった。それを考えると、自分のとった行動で夏深を心配さ せた事に気が重くなる。悶々としていても何も解決しないのだから、運動して頭をスッキリさせるのは得策だろう。

 取り合えず、次ぎ会えるクリスマスには少し手の込んだ料理を作ろう。イブに大和と試写会に行く為午前中には下ごしらえを済ましてしまおう。

 食べ物で機嫌は取れないかもしれないが、少しは緩和されるかもしれない。

「・・・」

 素で、機嫌取りを考える自分に厭きれる。嫌われるのが嫌なら、初めから猫を被り続けていた方が楽だった。こんな我が儘で傲慢で可愛げのない腹黒の性格何てばれない自信はあったのに、

「あ、香さんに今年もお正月着付けお願いしますって伝えておいてもらえる?」

 左九から は華道の家元長男坊の雰囲気は全くないが、後を継ぐ左九の一番上の姉の香はいかにもソレっぽいお嬢様だ。ほぼ毎年、その香に着物の着付けをしてもらってい る。一様自分でも着れるがやはり完璧とまでは行かない。今年は特に、四季家へ挨拶に行く予定がある分、髪のセットもキッチリしてもらいたい。

「了解。いつも通り一日の朝?」

「うん、そのつもり」

「・・・うわー、その日姉貴全員いるし」

 いつも、あの姉達は鬼だと左九はゲンナリした顔で言うが、気もいいし優しいし腕もいい。男の子の照れ隠しなのだろう。

 そう言えば、着物姿を夏深に見せた事はない。どう反応するだろうか?








 本当に綺麗な子だなとは思う。

「・・・面白かったです」

「やっぱり当子ちゃんがこういう系の映画が好きなのはちょっと意外よね」

 バリバリのアクション映画が終わり、電気が点くと、思いの外当子の目がキラキラとしていた。盛装をしても着られずに整った顔が良く映える。それが嫌味なく無邪気なのも似合うのは反則よね。

「時代劇の殺陣に憧れて剣道始めたんですよ。・・・外国映画みたいに一度チャカ撃って見たいですよね」

「今度は一緒にハワイでも行って、射撃場行って見ますか」

「駄目ですよ。本気で行きたくなってしまいます」

 始めは とっつき難そうなお嬢様と思っていたが、同年代の友人よりも当子とは気が会ってしまう。互いに何かしていないと落着かず、やる事をしないのはいっそ腹立つ 体質なんかも近い。案外性格は似たもの同士で、当子相手だと子供を相手にしている気がしないのも馬が合う理由だろう。

「どうする?時間早いけどご飯食べてく?」

「・・・その前に、少し買いたいものがあるんですけど」

 観客達が次々と出て行く音の中、当子が少し躊躇した後に切り出した。

「ああ、夏深君へのクリスマスプレゼント☆買ってないのねまだ」

「ち、がいます。元々そんなものを渡す気ありませんから」

 その割りに動揺する当子をかわういと思ってしますあたりおばさんになってしまったのだろうか。

 当子を子供っぽいとは思わないものの、この憂い反応が見たいが為につい夏深の事で突いてしまう。

 夏深君もこんな可愛いのが恋人では首に縄でも付けたい心境なんじゃないだろうか。

 見た目が可愛い子くらいあのタラシ王者は山ほどモノにしてきただろうが、頭が良くて何でもできてプレゼントはするなと言う様なのはいなかったんじゃないかと思う。まあ可愛くて性格のいい子はいたかもしれないが、ここまでタフでもなかっただろう。

 ムカつくくらい似合っているのに距離を測って戦っている二人は、お姉さんとして見ていて面白い。

「嫌だわ。お姉さんセクハラ発言しそうになっちゃった」

 プレゼントはわ・た・しと言うフレーズが流れて流石のあの理性星人も野生化するんだろうなと、もう直ぐ三十路のバリキャリの脳ミソでも予想ができた。

「う、五月蠅いです。あんまりごちゃごちゃ言ってるとその内馬に蹴られますよ」

「まあまあ、ホッペが桃色よ」

 ちゃちゃを入れ過ぎないようさえ注意すれば本当に怒る事もない。今は一旦引き時かなと微かに朱を帯びさせている頬をつついた後は夏深君話題は一時休戦にさせておいた。

 それにしても、本当に可愛い。

 ホント、こんな妹いたら絶対あんな仕事冷徹男の嫁には出さないわ。








 仕事では友達だろうが妥協する気はない。が、私情を挟みたくなる。よい意味でなく悪い意味で、

「・・・もう、体調は万全のようだな」

 喫煙場所で煙草を吹かす草に、自販機の不味い缶珈琲を差し出した。

「お陰様でな」

 手近な長椅子に座る。

 時間が大分遅くなっている為、ほとんどの社員はいない。まあこんな会話をするのには好都合だ。

「・・・相変わらず健康生活だな。酒も煙草もしないとは」

 灰を落と しながら言う草に苦笑う。酒は完全に解毒できないが、煙草も体に合わないらしく美味いと思わなかった為、喫煙の習慣がつかなかった。そんな所で悪ぶった所 で意味もないと中高の頃にさして興味もなかった。何より、ヘビースモーカーのとある知人を人間として絶対に真似るまいと思っていたのも深層心理としてあっ ただろう。

 酒も煙草もせず、今では女まで当子一人とは、金持ちの息子としては聊か健康すぎる。

「お陰で滅多な事では体調を壊さないで済む」

「・・・胃炎以外ではな」

 小さく喉で笑いながら嫌味を返される。

 高校時代のいざこざさえも懐かしい。幼少期からのスパルタ教育の成果で同年代の人間は足元にも及ばなかった。その中で、唯一張り合ってきたのは草だけだった。

「それにしても、当子サンがあんなに料理上手だと高級料亭慣れした舌も通いたくなるのは解るよ」

「・・・・・・ああ」

 唯神経過敏になっているだけかもしれないが、耳慣れしない草の呼び方は少なくとも草がいつも当子を呼ぶときの呼称ではなかった。

 当子も草を頭山とは呼ばなくなった。

 嫌な思考のパズルが又一つ増える。

 何も気にしなかった風を装う。仕事柄素知らぬふりをする事はできる。唯そうするとはけ口なく余計に不安が頭の中で膨らむ。

「・・・」

 紫煙がゆっくりと薄い雲を作る。

「事もあろうに、うちのお嬢様を好きになった。・・・正確には、気付いただがな」

 事も無げに草が言った言葉が、右から左に抜けた。

 こいつが、どんなに滝神源氏を恨んでいるとしても無意識に当子を守る側にいる事も、その事実に気付いていない事も知っていた。それにある種の恋愛感情が潜んでいた事も、

 この試合に勝てる気がしないのは何故だ?








「・・・・晩飯がケーキバイキングって、絶対太りますよね」

 ケーキを盛りながら諦めを込めて言う。

「ここのケーキ美味しいから確実に明日は1.5キロ増ね。いいんじゃない?当子ちゃん細いんだから少しくらい肥えた方が。・・・あ、モンブランはお勧め」

「これでも結構筋肉質なんで太りにくいんですよ。でも、ちょっと痛いですね。これは」

 勧められたモンブランも大皿に乗せた。

 学校の子とかとこう言う所に来た事がない訳ではないが、ケーキのランクが違う。駅前のファミレスとはレベルが違う。

 普段それ程食べる方ではないが、甘いものは別腹だ。

 一通り皿に盛ってから席に着いた。

「いいですね。こういう所に来れる仲間がいると」

 安いとは言い難い上女子高生が制服で来る様な場所でもない。今まで一緒にこれる人がいなかった。大人のあまり気兼ねのいらない知り合いがいるとこういう場所にはきやすい。

「ふふ、そうね流石に旦那や夏深君はこの食べる量見ただけでウンザリされそうだものね」

「大和さんの旦那さんは甘いもの駄目なんですか?」

 うだつの上がらないリストラされて今は建築関係で働いている人とは聞いているが、詳しくは知らない。

「へらった顔してんのに味音痴の激辛党。ケーキなんて見ただけで吐きそうってタイプよ。お陰で誕生日もクリスマスもケーキ食べれないの、酷い話でしょ」

「確かに」

 一度大和の旦那は拝見したい。聞けば聞くほどイメージが変になる。

 夏深は甘いものも食べれる。前の自分の誕生日にはケーキも作ったが普通に食べていた。舌が肥えている分、夏深に料理を作るのは張り合いがあるが、味音痴では一生懸命に料理を作っても豚に真珠だろう。

「でも大和さん料理上手ですよね」

 嫌な出会いの時に大和が作ってくれた料理は不味くなかった。

「料理は昔から作ってたから。・・・苺甘ウマ」

 自身も親が親だけに結構小さい頃から料理を作り出した。やはり大和とはどこか似た所があるのだろう。

「栗もウマですよ」

 モンブランの中から発掘した丸々一粒の栗も美味い。

 女友達がいない訳ではないが、こう電波が合うのは初めてかもしれない。








 この男と何の駆引きもなく純粋無垢な友情があるとは思っていない。それでも、友情の欠片がない訳ではない。いっそ、唯の利用対象のままだったら楽だった。こんな宣戦布告もせず、夏深の気付きもしない間に奪えたかも知れない。

「何の冗談だ」

 大抵の事には冷静さを欠かない性格のある夏深が、冷静を装うのは酷く動揺しているときだ。

 こんな三流ドラマのような感情を抱えるとは思わなかった。

 唯一無二の友人と、その友人の婚約者でそれも憎い男の孫、よくもまあ、こんな板挟みにされるような女を好きになったものだ。

 余程、前世で悪い事でもしたのだろう。

「・・・そのままだ。女としてしか見れなくなった」

 渡された珈琲を足元に置いて、煙草の火も揉み消した。殴られる覚悟はあった。殴られるだろうと予想をした。

「それは、俺を敵に回す覚悟で言ってきたのか?」

 夏深の手のなの缶が微かにへこみ出す音が耳に触った。

 草は高校時代柔道でインターハイでベスト4にまで残った実力がある。それでも、夏深は桁外れの金持ちである故に、実践的な護身術を心得ている。仕事能力だけでなく、原始的な肉体能力でも劣る。

 何一つ勝っていない上、勝機はどう考えてもない。それでもフェアに戦おうとするのはあの馬鹿娘の性質でもうつったのだろう。

 考えれば考えるほど、この感情は自分の身を滅ぼすと結論がつく。そう解っていて、夏深に態々こんな事を言う自分は、馬鹿だ。友人の大切なものを欲しがる浅はかな自分への懺悔だろう。

「・・・・そうだ」

 殴られる覚悟をして言った。

 静まり返っている喫煙場所に大きな騒音が散る。

 ゴミ箱が、けたたましい音を立てて、宙を舞い壁に激しくぶつかった。

「・・・・・・・・・」

 無言の夏深の目に宿っていたのは狂気の色だった。今まで見た事のない色。それを見て恐怖よりも濃い罪悪感が生まれた。

 夏深が無言で立ち去るのは意外だった。鼻っ柱くらい折られると踏んでいたのに。

 俺は殴る価値もない人間で、殴って気の済む様な事でない。あいつの性格を知らない訳でもないのに、態々宣言した。

 どうしようもなく情けない。

 それでも、当子を欲しがる俺は、最悪な人間だ。








「ケーキ明日まで持ちますよね」

 レジ付近のケースに並んだ持ち帰りようのケーキの中に、バイキングには出ていなかった種類を見つけた。

「いけると思うけど? ああ、明日夏深君と食べるの」

 ここのケーキはコテ甘でないし美味しい。また作ってもいいが、どうせだから買いたかった。

 夏深に会えるのが楽しみだった。

「・・・否定はしません」

 別にイベントだからではないが、どうせクリスマスに会えるならやはりケーキは必須だろう。

「あーあ、あの冷徹仮面が当子ちゃんの愛妻料理に涙ちょちょぎる姿、私も見てみたかったわ」

「つ、妻じゃないですし、涙ちょちょぎるって何ですか」

「・・・まだお店開いてるから、今からお姉さんがフリフリのエプロンをプレゼントしてあげましょ。夏深君にはエプロン付きで当子ちゃんを」

 大人の余裕というよりも、大和は既にオヤジが入っている。むしろオッサンだ。これでバリキャリで仕事は完璧だというから、その反動が私生活に寄っているのだろう。ユーモアというよりはオヤジギャグの域だ。夏深の仕事姿よりも大和の働く姿を見てみたい。

 思ってみると、医大卒で医療関係に進まなかったと言う異様な経歴といい、草以上に大和は謎が多い。

「いりませんよ、そんな機能性のない物」

「男なんて、所詮そういったベタなものに弱いのに。あたしは死んでもしないけど似合わないから」

 確かに、大和はばしっとしたスーツの方が似合うとは思う。美人さんというよりもカッコいいタイプの女性だ。

「あ、でもそれは夏深君と同棲するまで取って置いた方がいいかしら」











   四   ノエル







 策など何もない。

 当子もまた夏深に惚れていると理解しながら、あんな事を言った自分は狂ったのだろう。








「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 不貞腐れた。

 夏深が連絡もなく遅れる事も、まして連絡なくキャンセルする事などなかった。それが、腕によりをかけて料理を作った日に限って、定時を4時間過ぎても何ら連絡がない。いい加減待ちくたびれた。

 メールの返信がないので電話をしたら電源が切られているらしい。うっかり事故に遭ってるんじゃないかとも心配するが、もしそうなら連絡があってから嫌でも心配をするのだから今は不安がるのはあえて止めて置く事にした。

「・・・・・・・いただきます」

 お腹も空いたし、もったいない。待っていても遅れるなりいけないなり連絡をしてくれれば待つなり食べるなり保存するなりできるのに、全く連絡してこないのは腹立たしかった。

 箸を取って食べようと思ったが、お腹は空いているのに腹立たしくて食欲が出ない。こうなったら意地でも食べずに待っていてやろうか?

 仕事が忙しいにしても何にしても、メールでいいから連絡して欲しい。

 待つ時間が長ければ長い程、心配する。不安になる。会えると思ったのに、焦らされて、それだけで寂しい。

「・・・・・・・ごちそうさま・・・」

 早く、きて。








 想定の範囲内でもどうにかできるものとそうでない物がある。

「・・・まさに魔物だ」

 四季からの取引中断の知らせに一人呟いた。魔物なのは、夏深ではなく当子だ。ふいに裏切り者への制裁ではないかとすら思ってしまう。何といっても悪女代表の桜の唯一の娘だ、呪いの一つくらいかけれても可笑しくはない。

 今回の夏深の対応は決して向こうに痛みがない訳ではない。ココまで進めた話を唯の気紛れで打ち切れば、今までの仕事には冷静で正確な男という信用が揺らぐ。金銭面でも損失は小さくない。それを承知でやってきた夏深にはいっそ拍手を送りたい。

 これで、全ての人間が黙っていたとして、当子までが触れないと思っているのだろうか?この不利益な一見は時期に当子に知れる。その確証はある。そして、あの頭のいい娘は本当の理由は知らずとも己の責任と思うのだろう。

 怒る事のない人間ではないが、それでもやはり夏深にはどこか常に冷淡で物の把握を客観的にする部分があった。それは、世間への諦めと侮蔑があるからで、その中の最重要は四季夏深であることだけだった。それが当子に代わって、侮蔑的余裕がなくなったのだろう。

 今の自分も同じ様に仕事と言う目標よりも馬鹿らしい所有欲に駆られた。

 それでも、当子との繋がりであるこの会社を潰す訳には行かない。無論それは夏深も同じだろう。

 基本能力が負けていても、素直に負けを認められない自分は餓鬼なのだろう。

 おいそれと、参りましたとは言えない。

 今考えるべきは、次手だ。








「偉く、まあ、遅かったわな」

 玄関先で、当子がつっけんどに物を言う。唯でさえ怒っている当子を更に怒らせるような事をしてきたと知ったら、こんな可愛らしい対応はしてくれなくなるだろう。

 自分の目の前にある当子を見て、無性に抱き締めたくなった。その衝動を焦らすように、当子が背を向けて行ってしまった。

「お腹空いてないやろうから、別に喰わなんでもいいから」

 嫌味を言ってくる当子に苦笑いが出た。

 当子の電話に出る事も、メールを返す事もできなかったのは仕事が忙しかっただけではない。カッとなって、初めて仕事に私情を挟み、おまけに『滝神』との仕事を破談させる為だったとは言えない。態々自分を不利にして、それでもそうでもしなければ気が済まなかった。

 頭の中の被害妄想よりも余程性質が悪い。草が当子を利用しているならば気兼ねなど要らない。その方がマシだった。

 草のあの言葉は予想以上に堪え、イラつき、やり切れない程に腹が立った。

「当子、悪かった」

 テーブルに並んだいつも以上に頑張ってくれたとわかる料理に気まずい思いよりも素直に嬉しくなる。

「別に怒ってなんてないし」

 もっと大人数で囲む為の長いテーブルの一番遠い場所に座った当子が棘のある嫌味を言う。

 怒るのは当たり前の反応だ。それでも、今まで見た事のない拗ね方は可愛いとすら思ってしまう。

「すまなかった」

 そっぽを向く当子を後ろから抱きすくめた。

「・・・知らん」

 そう易々と許す気はないのだろう。

 腕の中の当子の体温が妙に暖かい、外の空気が寒かった為自分の体が冷えていただけではないだろう。

「・・・当子」

 他の女はいくらでもいる。その他の女では意味がない。唯一人当子だけでいい。当子だけが欲しい。例え男として最も認める相手でも、自身の友人だろうが、当子の親戚だろうが、当子を渡す気はもうとうない。

 これは、俺以外には渡さない。

「有難う」

 こんな男 の為にずっと待っていた当子が愛しくてたまらない。それが、もし唯の演技ではと不安が過ぎ様とも嬉しい事に変わりないのに、どうしようもない苦しさもあ る。今まで当子以外にこんな思いをした事がなかった。その所為でどう気持ちの整理をすればいいかが解らなくなる。

 多少禁欲を要しても、自分から当子を守りたい。

「・・・・せめて、遅れる事は知らせて。心配するのも待つのも苦手なの」

「すまなかった」

 仕事でもここまで謝り通す事など滅多にない。女の機嫌をここまで取ることも今までなかった。

 この女だけが、特別だ。






 そう易々と許す気はなかったのに、うっかり絆される。

 理由を聞くのも少し怖い。仕事だといわれれば仕方ないと強制で納得する。むしろ仕事でなかったらと勘繰ってしまう。そんな自分が酷く卑しいものに見える。

 何より、会えただけで絆されるのだから仕方ない。

「・・・・・・・冷たい」

 揚げ物なんかはきてからにしようと揚げないままだっだが、後の料理はほとんど冷めた。待ちくたびれて、揚げる気も温める気も起きない。

「安心しろ冷めても美味い」

 機嫌取りで言われても嬉しくはない。自分で作っても味くらい客観的に見れる。料理はどれも美味さ激減だ。

「・・・下手くそなお世辞言っても無駄やし」

 拗ねた口調に自然となる。

 あまり近づいてセクハラをされるのが嫌で、わざと距離を空けて座ったのはあまり意味をなさなかった。こっちがまだ怒っているのにもかかわらず、夏深が微かに笑いを漏らす。

「あまり可愛い事を言うと、お前から食べるぞ?」

 こんな事を言って似合う男がこの世に居る事自体が犯罪だ。

「うっさい冷めた飯でも喰ってろッ!」

 散々待たされたのが家だったから良かったものの、出かけ先だったらこの程度では絶対に済まさなかっただろうが、夏深が近くにいるだけで待たされた時間の方が短い気がして怒る気が次第に薄れる。できるだけ離れた場所にいないと余計に絆される。

 夏深が笑いを漏らす姿が初めて夏深が笑ったのを見た時の笑い方と似ていて、妙に動悸がきつくなる。








 華家は元来女の強い家系で、家も長女が受け継ぐのが通例だった。特段家に興味がない為それはどうでもいいが、姉が三人というのは嫌だ。

「左九!プレゼントを持って来たお姉様sに感謝のキスの一つもできないの?」

 部屋でテレビゲームを繰り広げている最中に、次女の稔がノックもなしに入ってくる。後ろには、長女の香と三女の莟も控えていた。

「そうよ? お姉ちゃんが編んだセーター、まだ着てくれてないでしょう」

 香は既にマスオサンをゲットして跡目として色々しているようだが、こんな事をしているのを見ると暇なのだろう。

「あたし熱いベーゼはいらないから何かお返しよこして」

 大学受験を控えているはずの莟も、本当に大学受かる気があるのかがよくわからない。

「・・・はぁ」

 溜め息が出る。

 父親は母親にはすこぶる弱いが、自分はもうこの姉達には九割方諦めている。

「溜め息つくとは失敬な弟ね?」

 後ろからギリギリと首を絞めてくる稔は、主将の坂士を彷彿としてしまう。

 この姉達はどれも男っぽい訳ではなく名家のお嬢様な風貌をしている。話し口調もおっとりとしている節があるのに、お淑やかや健気でなくどうしても毒っぽく聞こえる。

 悪魔がいるならきっとこんなのだろう。

「彼女の一人もいない悲しい弟の為に態々クリスマスに帰って来てあげたお姉様の優しさがわからないの?」

 至極優しげな声音も弟の首を絞めながら使うと可愛いでなくいっそ不気味に怖い。

 一人暮らしをしている稔が今日は嫌に絡んでくる。前の大学の先輩とやらにフラレでもしたのだろう。

 たわわな胸が肩から背中に無意識に押し付けられる。こういう逆セクハラの所為できっと年頃の男の子らしい性分が出ないのだろう。こんな事でタっていたら身が持たない。

 この姉達がいなければ、もう少し積極的に当子にアタックする性格になっただろうか? まあ、某変態教師のように万年盛りなのは嫌だが、

「・・・うわー。聖なる夜にミノ姉が態々部屋に押し入って四時間越しのセーブ消しにきてくれたなんて、俺超うれCー」

 ゲーム機の本体を蹴られて、今までの苦労も水の泡と化した。昔から、この姉達が何かと邪魔をするのは今更で、もう慣れてしまった。こんな事で一々切れていたら疲れるだけだ。

「ええい、小憎たらしい子ね!」

「・・・香お姉ちゃん。最近馬鹿左九がどんどんスレテきちゃて、私心配」

「そうね。頭の色が華やかになったのに中身はどんどんおじいさんみたいになって、反抗期の一つも起さないのも変よね。でもそのずれてる所が左九ちゃんの可愛いところなんだけどね」

 仲の悪い姉妹よりも仲がいい方が良いに決まっているが、仲良く弟を虐めるのは勘弁して欲しい。

 正月に又この姉達が当子にいらん事をニコニコ吹き込むのを考えただけで気が重い。








 少しはお許しが出たのか、当子が間を空けてだが隣の席に着いた。

 ほとんど二人で会う事が多い為、当子が草や他の男といる時の様子を知らない所為で、今の当子が特別なのか、それとも普通なのか判断がつかない。

 もし草の方が特別扱いを受けていたらと思うだけで胃が痛くなる。当子が他の男に好意を寄せていたら、何をするかがわからない。

 今まで抱えた事のない感覚に、何度も暴走して当子を傷つけて、これ以上馬鹿をやったら本当に草に持っていかれかねない。

「当子」

 当子が持って来たケーキに乗っていたサクランボの茎を持って差し出すと、当子がそれをぱくりと食いついた。今までした事のなかった当子の餌付けはなんとも可愛らしい。

「・・・・旨い」

 完全に許してはいないのだろうが、少し距離が縮まった。

「昨日の映画は面白かったか?」

「・・・面白かった。一流企業のエリートにああいう得点があるとは知らなかったわ」

 当子が映画好きならいくらでも連れていってやったのに、

「行きたいものがあるなら、言えば大抵のチケットは取って来れるぞ?」

「・・・・・別にいい」

 計算する様な当子の目が見上げてきた後すいとそっぽを向かれた。

「当子?」

 立場が立 場だけあって、大和よりもいい席のプレミアチケットくらい取ってこれる。当子からすれば、これも駄目なのだろう。いっそ、山とおねだりしてくれた方が有り 難い。金や家柄以外で、当子を繋ぎ止める自信はないのにその手を使うと嫌がるとは、こっちはどうしたらいいというのか、

「・・・結ぺた」

 もごもごしていた口から、当子が結んだサクランボの茎を取り出した。今日は絶対にこちらにペースをとらせる気はないのだろう、わざと攪乱してくる。

 まあ、テンぱる当子も可愛いが、

「当子」

 一人分間を空けている当子を何気なく近づけさせる。こちらからも近づいて、文句を言われる前に、口付ける。

 キスだけでも焦るのにそれ以上になると当子は至極焦り出す。こちらも当子に震えてまで我慢させたい訳ではない為苦悶してでも出したい手をできるだけ止める努力をする。こっちは口付けだけでは少しも欲求不満が解消されない。むしろ余計に足りなくなるが仕方がない事だ。

 初めての時にあんな抱き方をすれば、トラウマにもなる。

「あまり、上手くはないな」

 唇を離してから言うと、当子が頬を赤く染めた。

 サクランボの茎を結べる人間はキスが上手いというが、こう言う事が苦手な所為か当子は積極性に乏しい為キスが上手いとは言い難い。

「う・・・・うっさい。変態! 遅刻しといて反省の色なしか!?」

 当子が赤い顔で押し退けながら更に距離まで空けた。妙な所天然に誘い込む方が悪い。無欲でも聖人でもないのに、いつまでもソエゼンを喰わずにいれるタイプでもない。当子でなければとうに別れている。

 それでも、当子以外が欲しくならないのだから仕方ない。嫌われる事を恐れ、当子が別の人間に目を向けるだけでも嫉妬する。合わなければ別れればいいと思っていた昔がいっそ懐かしい。

 唯一人に執着する事がこれ程きつく尊いモノとは思っても見なかった。

「反省はしている」

 もし、仕事は仕事でも草を排斥する為の自分本位な事の為だったと知ったら当子はどう反応するだろうか。

 酷く怒るだろうか、それとも呆れるだろうか?

 当子に嫌われる事を恐れながら、当子に近づくものならば旧友だろうが当子の親戚だろうが消そうとする自分の行動は矛盾と危険を感じる。

「嘘吐き」

 又、距離が開いた。警戒しているのがいっそ面白い。

 あまりケーキ類は食べないが当子にそっぽむいてしまわれた為、なんとなしにケーキに手を付けた。

 ドライフルーツとは別に、拙い味が鼻に抜けた。






 全くもって卑怯だ。

 不意を付いて来た事もだが、それから逃げれないのも癪だ。

 夏深に比べれば大抵の人間はキスが下手くそなんじゃないかとすら思う。経験値の違いも馬鹿にされた事も、今まで夏深は数を知るのも嫌気がする程の女を手玉にとってきただろうあしらいの上手さにもムカつく。

 過去の事を言うのは無意味だとわかっていても、将来に不安は感じる。

 少しでも追いつきたくても、どうしても苦手分野というものはある。むしろああ言う事を恥ずかしげもなくできる夏深の方が異常だ。それに少しでも合わせようと背伸びをすれば訳が分からなくなって余計にドツボに嵌るのだ。

「・・・っ」

 夏深から離れてケーキは口にせずただ突いて拗ねていたはずが気がつくと視界には天井と夏深が映っていた。

「な?・・・ちょっ」

 行き成りの事に恐怖心が脳を侵食する。

 この世で一番怖い人間がいつの間に夏深に変わっていたのだろう。

「・・・な、夏深?」

 見下ろす夏深の目が怒っている。その理由が解らなくて、怒りを宥める術も思いつかない。唯受け身な自分が酷く弱者に見える。

「なつっ・・・」

 さっきの遊ぶようなキスとは全く違う、切羽詰ったような荒っぽいキスをされる。

「・・・・・・・・・・・・・」

 ケーキの甘さとは別に、ブランデーの味が微かに口腔をかすめた。








「夏深・・・、やッ。この酔っ払い!」

 当子が暴れようとするのを乱暴に押さえつけた。

 脳味噌が麻痺する。

 今までの隠してきた不安が増幅されて、捌け口を求め出す。膿の様に汚らしい感情が溢れるのがわかった。

 どうして、それが止められないのかが解らない。

「・・・・ッ。ちょっ・・・夏深!」

 当子を片手で抑えて、空けた手で当子の服のボタンを外す。歳の差があろうとなかろうと、こんなイイ女を手の中にして、抱かずにいられる方が異常だ。今までしてきた我慢の理由が思い出せない。原始的な欲求が膨れ上がる。

「・・・・や。嫌だ」

 今までにない抵抗に苛立つ。

 あの嫌味ですかした副会長の顔がちらつく。今までの当子の行動の全てが草へと強制的に繋げられる。当子が草の事を好きで草の為に今まで茶番をしてきたとしたら?

 今までは証拠がないと抑えてきた感情が、至極本物めいている。

 どうしようもない不安と、どうしようもない怒りが渦巻く。他人に渡すくらいなら、いっそ自分の手で壊してしまいたい・・・

「そんなに、俺に抱かれるのは嫌か」

 抵抗していた当子にそう苦々しく吐き捨てると、抵抗をやめた。代わりに腕の中で震えていた事に気付いてしまった。

 見上げてくる当子の目が怯えている事に自分勝手な怒りが膨れる。

「・・・・ちが」

 否定しようと口を開けながら、怯えた目から涙を溢れさせる。それを誤魔化したいかのように、当子が掌で目を隠してしまう。

 泣いている姿さえ男を誘惑していると理解しているのだろうか?

「プライドの高いお前にすれば、金や権力の為に寝るのはさぞ吐き気がするものなんだろうな。どうせ同じ茶番をするなら、俺にばれない様にして欲しかったものだ」

 今まで抱えていた不安を吐き出したら止まらなくなった。頭のどこかが止めようとしても、止まらない。苦々しい思いだけが頭を占拠する。

「が・・・ちが・・う」

 嗚咽のように当子の喉から絞られる声を奪うように腕を掴んで薄い唇を奪う。隠れ場所をなくした目からはつらつらと涙が止め処なく零れていた。

 解放すれば直ぐに嗚咽と一緒に言い訳を溢そうとする口を何度も角度を変えて侵食する。

 最も大事に護りたい者を追い詰め傷付ける自分を止めようとしても止まらない。怯えている相手を欲しくて堪らない。いつもはどんなに当子が可愛くとも堪えられるのに、今までの欲求不満が一気に溢れる。

「四季夏深の婚約者でいたいなら、せいぜい本心を隠して耐えろ。草の為なら尚の事だ」

 唇を離して喋り出すと、泣く当子に酷く冷ややかな声が出た。

 卑怯者でもなんでもいい。当子を繋ぎとめる為なら何でも使ってやる。利用されるだけでは、当子の口癖のギブアンドテークには反している。当子の欲しいものなら何でもやる。その代わりにこっちの欲しいものを得るのは正しい事だ。








 あのクソ姉が消えてから丁度二年が経った。

 本当なら姉の結婚二周年になるはずの日は、去年よりも寒い気がした。

 クリスマスはずっと楽しい思い出ばかりだったのに、二年前から最悪の日になった。

「・・・・」

 吐く息が、白い。

 文化祭でもしかしたらと思っていた。それでも本当に来るとは思わなかった。あのままとっ捕まえて謝らせたからといって、逃げた事がなかった事になる訳ではない。

「燐火」

 寒空の中待ちぼうけをしていると、名前を呼ばれて振り返った。

 今年のクリスマスもやはり救われない日になった。








 今まで外れていた歯車が噛み合った気がした。

 恐怖心なんかよりも、腹立たしい。

「放せッ」

 思いっきり頭突きを喰らわせた。手加減をするほど頭が回せず、お陰で頭に鈍痛を受けたが気にする前によろめく夏深を押し退けてテーブルを飛び越えて台所に逃げた。

 夏深の力が半端なく強い所為で、フェアに闘えば100%負ける。それでもあんな事を言われて、素直に負けなんて認められない。

 台所にある料理酒の瓶を取り出した。包丁なんてちゃっちな物で喧嘩をする気はない。どんなにムカついても、傷付けたい訳でも夏深に対して生命の危機を感じるわけでもない。唯このまま負けるのは絶対に嫌だ。

 毒を盛って毒を制す。酔い潰すのが最も早い手だ。

「・・・あいつの名前を聞いて罪悪感でも生まれたか?」

 以前一度酒を飲ましてみた時の比でない性質の悪さだ。量が少ない方が性質が悪いのか、今回は偶々怒り上戸だっただけなのか、何にしても性質が悪いのに変わりはない。大体、ケーキの酒で酔うな。そして店も酒を使っていると言え。

 立ち上がった夏深の姿は唯長身なだけでなく雰囲気的に大きく威圧的に感じる。それに気圧される程私は乙女でも無力でもない。

 一升瓶に口をつけて、無色のアルコールを口に含む。そのまま、一杯一杯背伸びをして頭の螺子の飛んだ夏深に口移す。

「・・・ん」

 予想を外して油に水を注いだかもしれない。夏深の喉を酒が流れ落ちたのに、頭を捕まれて深く口付けられる。

 力が抜けて瓶を落としそうになる。手から一升瓶がすり抜ける前に、夏深がくず折れた。

 辛い酒気が喉に焼き付く。酒を飲まない人間に料理酒はきつい。到底旨いとは思えない。

 酒に酔っていようがあの言葉は夏深の本心のような気がした。腹が立つ以上に、涙が出るほど悲しい。

 夏深は本性を隠せと言った。猫被りは止めろと言っておいて、結局唯の人形である方が、いいのだ。

 本当の滝神当子はいらないと言われた。

 他の何よりもソレがムカつく。心臓が痛い。苦しい。

「大ッ嫌い」

 夏深なんてもう嫌いだ。








「・・・強え」

 華左九経由で会長が稽古出るとはメールが着たが、ご乱心とは聞いていない。

「つか、華はやく来い」

 左九から寝坊しました今から出ますと遅刻メールが来ていた。お陰で鬼会長を扱える人間がいない。結果、全員撃沈。真冬に汗だくとか有り得ない。

「主将、サボリ厳禁ですよ」

 背後から女子マネの要らぬ声援が飛ぶ。女子は全員当子のファンに成り下がった。

「はぁぁ〜い」

 最近は午前の後半は部内トーナメントをやるのが流行っている。レベル認識にもなるし案外向上心が養われるのでいい。今日はノリで会長が優勝したら全員で一つ言う事聞くぞ☆と言ってしまった。ソレが失敗だった。

 決勝戦で 主将の坂士が一本は取ったが当子が二本勝ちをした。当子の命令で、私が倒れるまでかかり稽古★をさせられている。部員全員が結果論的には女子の当子に劣る 事になっている為、嫌だなんて言えなくなって、まだ午前の稽古だと言うのに過呼吸がかる奴まで出た。とうの会長はまだ元気が残っている。

 華チャン早くきてこの暴走車を止めないとこっそり坊主頭に刈ってやるからな。








 目覚めた時には当子の姿がなかった。酔った時の記憶がなければ困るが、あったらあったで厄介だ。

 男として最悪だ。当子を傷付けた上、酷い事をした。申し開きのしようがない。それでも、会って謝りたかった。

 鍵はポストにと鍵の横に淡々とメモが記されているだけでどこに行ったのかも解らない。

 こんな馬鹿な男では本当に草に当子を持って行かれかねない。

 携帯が鳴っているのに気が付いて当子ではと一筋の期待で慌てて探った。

「・・・親父」

 立場的には上司に当たる四季春夫からの電話に眉を顰めざるを得ない。それでも内容は頭のどこかで予想できていた。

 跡取り息 子があんな無茶苦茶な事をすれば、この男がおいそれと見過ごす方が可笑しい。よくよく考えればこの結果は予想できた事だ。それでも草と仕事をする事もその まま話を進めることもできなかった。当子を好きになったとぬかすあの男と仕事をするくらいなら、この結果の方がまだマシだと思った。

「はい」

 アルコールの所為で酷い二日酔いをしているにもかかわらず、冷静過ぎるほど冷静だった。

『今どこにいる』

 怒気と言うには父である春夫の声もあまりにも淡白だった。

「そんな事より、用件は何ですか」

 自分が馬鹿だったことも、それに後悔がない事も仕方ない。それに対する処罰なら甘んじて受けよう。

『・・・年始の挨拶が終り次第、アメリカ支部へ出張しろ。年中に仕事の整理をしておくように』

 溜め息交じりの何か諦めた様な物言いに苦笑いが出る。昨日の今日とは流石と言うべきか、

「解りました」

 いつまでかとは聞きたくなかった。

 当子から離れたくない自分と、少しでも距離を空けて当子を傷付けずにいたい自分が闘う。

 四季夏深 でなければならないのに、自分勝手で一つのでかい仕事に穴を開けた。信頼を取り戻すチャンスと、頭を冷やさせる時間もいる。ここまで仕立てた跡取りを些細 な事で潰すのは春夫も躊躇ったのだろう。でなければ、アメリカとは言わなかったはずだ。大学時代からあそこで生の仕事を叩き込まれた。四季夏深を立て直す には一番いい場所だ。

 当子の不要の者になる事だけは避けなければならない。

 例え、当子が草を好きだったとしても、手放せない。

 当子にとって利用価値のある存在であり続ける以外繋ぎ止める術はないのだから。四季家の跡取り息子でいなければならない今までとは違った理由は、今までのものよりも至極重い。

 情けないほど、当子が好きなのだ。