一 子供のアマエ
財閥系の金持ちで、その跡取り息子の長男坊。おまけに10歳近い歳の差に日本人離れした長身顔良し頭良し。そこまでそろった婚約者に滝神当子は気にしていない風に聞いた。 「・・・まずい?」 元々食べながらあまり喋らないが、食べ終えてから一言二言美味かったとは言ってくれる。今日は箸の進みが妙に悪く何となく不安になる。 別に味付けはいつもと変わらない。まあ、初めほど豪勢でも2日がかりで下ごしらえをしたものでもない。舌の肥え切った四季夏深にしては物足りないだろうが、そこまで不味いものだとも思っていない。 「あ、いや」 仕事が忙しい中時間を作ってくれているのも知っているし、こっちがまだ子供なのを色々と考慮してくれているのも知っている。それでたまたまぼうっとしていたとしても攻める事でもないが、気にはかかる。 「うまいぞ」 苦笑いと言うよりは誤魔化し笑いをされる。 「・・・少し仕事が立て込んで寝不足になっただけだ」 こちらの不安を払拭する様に夏深が優しい声を出す。それが、不安を煽る。 仕事関係で何か考え込んでいるなら、夏深に進言できる事はない。何よりもそう言う事をされるのはいかにも嫌いなタイプだ。ただ、自分に何か問題があるなら多少なら直す事もできる。 「夏深でも寝不足なるんだ」 特技が仕事の様な男が寝不足で倒れる姿はどうにも想像できない。胃炎で倒れさせた事はあるが、 「当たり前だ」 会った当初はもっと壁を感じたが、今は壁というよりも過保護的だ。 家の環境というか母親の子育て上放任で育った為、それ程気を使わなくともある程度は放任でも耐えうるのだが、それでも夏深に甘やかされるのは嫌いではない。甘え過ぎるのは自分の性格上許し難いが、どうしても頭のどこかが夏深を求めてしまう。 この男に会うまでは、ここまで持続した人恋しなんてなかった。親の不在が多くお手伝いさんくらいしか家にいない生活で小さい頃は良く泣いたしたまに帰って きた母親にダダもこねた。それでも、それは子供だったからで、親の愛を欲しがるのは生存本能として当たり前だ。夏深に対するものもある意味本能的で、それ でも、母や祖父に対するものでなく、どこか違うものがある。 甘える事があまり得意でない性分な為、そんな自分に違和感がある。 「ただでさえ胃腸が弱いんだから飯食って栄養付けなあかんし、まずくっても残さず食べてよ」 ここでもっと可愛らしく言う事も猫を被ればいくらだってできる。夏深以外に本性を隠して優しくするもの罪悪感もなく容易くできるが、夏深に対しては素直で ない嫌味な地を出してしまう。唯でさえ今までの自分らしくない行動に、少しでも自分らしさを見出したいようにも思える。 別に猫っ被りをする気もなく、素で媚を売りそうになるのはどうにも嫌だった。 「ああ」 いつもの苦笑いを漏らされて、変に照れそうになる。 最初は自分の足場を築く為に夏深と婚約したのに、今では理由が変わってしまったのはやはり癪だ。 第一にただ一緒にいたいのは至極癪だ。
当子と会う時は、できるだけ翌日まで開ける努力をする。一度顔を見ると、ただ食事をして、はいさようならと直ぐに離れるのは困難になってしまっているのが最大の理由で、これで情事の為でないと言うのが男として笑えないポイントだ。 枯れた訳でも当子に対して欲がない訳でもない。ただ、欲以上に当子を抱く事で感じる矛盾と、それでも放せない恐怖が混じるのを避けたい。 あの日、抱いて以来、腕の中で縮こまって一人泣く姿が脳裏に焼きついて離れなくなった。守り抜きたい存在がこちらを謀り、ただ利用する為の手駒を手懐ける 為に餌を与えられている気がしてならなくなる。それが思い込みでそんな事はないと思っていても、あの時の涙が不安を確信に変えさせてしまう。 「・・・・」 自分が眠ったと思って、布団に潜り込んできた当子の髪をゆるゆると撫でながら、苦しくなる。 寝ている人間にまで嘘を付く為にこんな行動を取るとは思い難い。当子はそんな女ではないと言い聞かせても、愛しければ愛しいほど、無駄な路頭に迷わされる。 実際、最近仕事が立て込んではいた。忙しさで余計に頭が参ってしまっているんだと決め付けて、自身の抱える当子への裏切りのような考えを切り捨てる。それでも、当子が裏切っているのではないかと不安の波はちゃくちゃくと寄せては返してくる。 「当子・・・」 呼びなれてしまった一回りも年下の子供の名。その響きはあまりにも甘くて、毒が潜んでいても解らなくなる。
「寒ッ!」 もう直ぐ二学期末テストになるようなシーズンだ。寒いのは当たり前だが、木枯らしが吹くとついそう言ってしまう。何よりも、この季節の剣道は、キツイ。 床は氷上並みに感じる程冷たいのに、その上を素足で、おまけに多少の分厚さの違いはあっても冬でも夏でも同じ格好の胴着。夏場は袴に熱気が篭るが、冬場は足元がスースーする。 冬場は汗が滝のように出ない代わりに体が温まりにくい為怪我もしやすくなる。正直冬は剣道向きの季節ではない。 「稽古より稽古後の雑巾がけ!あっちのがヤだよな!」 同じ一年の男子部員が、剣道部どころか学校内でも異色を放つどピンク色に頭を染めた華左九に愚痴をこぼした。 外見ほど変でもなく、どちらかと言えばぬぼんとした左九は当初と違い案外剣道部とは打ち解けた。 素晴らしい校則違反の頭だが、他校に比べると権力の強い百合乃下高等学校の生徒会書記に納まっている左九は教師にも厳しく黒に染め直す事を要求されていない為、この強い個性をそのままに生きていられている。 「汚い氷水に手を突っ込むのと一緒だもんな」 夏場はバケツの水がもっさりしているが、冬場の水は手が赤くなるほどに冷たい。適当に会話をして稽古の開始を待った。 「はなちゃ〜ん。今度の百合下戦、個人枠入ってもらうからなぁ〜」 3年が卒業して、新主将になった坂士が唐突に後ろから羽交い絞めをかけながら猫撫で声をかけてくる。 「ぐっ・・・・・・・・・・・入る時言ったスけど、この頭、染め直しませんから」 首を絞められ危うく決められそうになった為、振りほどいて距離を開けた。前の主将よりも幾分細くなったが、馬鹿力で男に容赦がないのは一緒だ。あの腕なら軽々と人の頭蓋骨を握り砕く事ができるだろう。 「あんまり我が儘言ってると、五分刈りに刈上げるぞ★」 腕は確かだが、この茶目っ気た不気味さが怖い。機嫌がいい時はまあ害はないが、キレたり機嫌が悪かった時の稽古は最悪になる。正直迷惑で苦手な相手だ。 「いいじゃないですか。左九君のピンクファンシーも見慣れると可愛いですし」 「横峰とか女マネが甘やかすのが悪いんだぞぉ」 以前左九が一時だけ付き合った事もある同学年の女子マネージャーの横峰鈴に、坂士が拗ねたような口を尖らせた。 「だって、左九君可愛いですもん。それに一番甘やかしているのは当子ちゃんですよ」 「あ、そういや華!会長も個人戦出てもらうように頼んどいてくれ」 また話を戻されてつい溜め息が出た。 「当子は多分出ないと思いますよ。道場も月二くらいしかこれてないスから」 生徒会長である当子とは小学校の時から通っていた剣道場で友達になって今に至る。最近は色々とやる事があるらしくあまり剣道はしていないが、当子が本気に なれば女子の中ではかなり強いのは変わらない。インターハイでは流石に優勝できないだろうが、百合乃下杯でなら十分にイイ線は行くだろう。 ただ、昔からあまり公式の試合には出ていないのを見ると、興味が薄いのだろう。 「そこを丸め込むのがお前の役目。まあこっちからも頼んでおくけど、あんなに強いのに試合に出ないのは惜しいからな」 「・・・・・・・・言うだけ言っときます」 確かに、試合時の当子はべらぼうにかっこいい。正に惚れる程だ。ただ、三つ編み眼鏡と地味な格好をしていて生徒会長以外では特に目立たないが、それを態々目立たせるのも嫌な所だ。 三学期は大きな行事は二年の修学旅行と卒業式くらいで、直接生徒会が絡むのは卒業式だけだ。それを考えると、やたら働く当子が暇を持て余して試合にでかねない。 まあ、当子の行動の制限なんてできっこないけど、 「うっし、体操始めるぞ!」 主将の声でだらけていた部員がさっと弧を作る。こういう所は、この部が好きな所だ。それに、明日からはテスト期間で稽古はない。それもあって今日は気合が入っている。
「燐火先輩、これでどうですか? 卒業式ではあまり突飛な事できませんし、やはりベタな方がいいかと」 生徒会役員は卒業したが、三年の代表をしている為生徒会室に来る事は多い新田燐火に書類を差し出した。 運動神経はずば抜けてよく、運動部には顔が利き、性格も良くてミス百合乃下に輝いたような美女。生徒会としてはいいマスコットだったのに、卒業されるのはつくづく惜しい。 「うん。卒業式っでごちゃごちゃするよりもいいと思うわ」 「では予定通りに進めます」 燐火にじっと見られて、当子は小首を傾げた。 「何ですか?」 「ん。今年は楽しかったなって思って」 唐突な振りに軽く苦笑った。 「・・・偉く唐突ですね」 「三年の三学期って、ほとんど時間ないし、やる事ないし、何か走馬灯のように浮かんじゃって」 燐火が裏表のない人間だとは言わないが、自分ほどではないだろう。 「遊びにきたらいいですよ。いつでも」 人間建て前も嘘も必要だと思うが、それがない事に越した事はない。 「当子ちゃんカッコいいからセクハラしてやるぅ!」 「・・・女子同士でああ言う事やっても殴られないのって、羨ましいよな」 燐火が当子に抱きつくのを見て、生徒会顧問の貞月薫がぼそりと呟いた。 「これで取りあえず仕事終了なんで、明日からは生徒会もテスト休みで」 適当に燐火を引き剥がす。
滝神 草は、仕事に忙殺される日々が続いていた。元々慣れない仕事な上、実力のない新参者等すぐに潰される。おまけに人望も人脈もない後釜に座った若輩の男に優しい所はない。唯一の頼みの綱が陥れようとした又従兄妹の当子とは全くもって情けない。 「・・・洒落にもならないな」 小さな独り言が口をついた。 当子の運転手をしていたのは一年も前ではない。今の座にいるのも、憎んでいた祖母の弟の源氏と当子の母桜がいたからだ。特に桜がいなければ確実にこんなトントン拍子には行かなかった。 今では自分で車の運転をする事も減った。 高校卒業後の進路は桜の提案で、今思っても最も有用だったが、桜の策にも見事に嵌められている。会った事もない小娘ならばいくらでも路頭に迷わせてやったものを、完全に思い入れをさせられた。 「・・・・・・・・」 何よりも、人生観を変えた女性とそっくりな子供を憎み切れる訳もない。 「社長、着きました」 車の後部座席で仮眠を取りつつ移動していた草に、昔は自分もやっていた車の運転手が声をかけてくる。 「ああ」 型崩れのないようにハンガーにかけていた上着を着込み、少し崩れた髪を正す。 いくら、昔の旧友に会うにしても、仕事では立場にあまりに差がある。それをわきまえないほどの世間知らずではない。 今思うと、特待枠のある百合乃下に入れたのも桜のコネだったのかもしれない。あの学生時代がなければ、個人的に『四季』へのツテもできなかっただろう。 つくづくあの女性は策士だ。 敵に回る事を考えると、馬鹿な御偉い男達よりもよっぽど怖い。
「・・・・大まかな予定はコレで結構です。ただ、後はこちらで微調整をします」 相変わらずの仕事の速さと的確さと言った所だ。唯の私的な贔屓で仕事をしてこっちが痛手を受けるくらいなら例え旧友でも打ち切らなければならない。 夏深がいくらサラブレッドだからといって、二十半ばの浅い人間、おまけに家柄を鼻にかけたお坊っちゃんという陰口もある。そういう意味では、草以上に重圧はある。 もっとも、地盤の違いで全く失敗が許されないわけでもなく、顔が利かないわけでもない。 「解りました、その通りに」 中々大きいプロジェクトで結構な額の金も動く、それを考えなければ、高校時代の生徒会を思い出す。あの時のような小さい世界でなく、リスクも成功報酬も桁違いになった。それに、犠牲も多くなる。 規模が大きくなって、流石の副会長も疲労困憊と言ったところか、
夏休みは文化祭の準備やら何やらでまともな休みはなかったが、三学期は卒業式くらいしか大きな行事がない為冬休みは完全に休みになっている。 「うわー、当子またトップ☆な顔じゃん」 テスト明けで生徒会に来ていた左九が当子の微かに上機嫌な顔を見て言うのを横目に聞く。 この生徒会長の頭の良さはテストにも十分反映されている。今の所、ずっとトップを取っているだろう。 「んー、まあまあ」 何かの書類を鞄に詰めながら当子が謙遜の言葉を交わす。 「すみません今日用事がありますんで失礼します。ラストの方施錠はきっちりお願いします」 施錠は大抵当子が行なうのに人に頼んで先に帰るのは珍しい。 「うぃー」 やる気があるのかないのかわからない返事を左九が返した。 「デートかしら」 もう役員でもない燐火が当子が消えてからぼそりと呟いた。 生徒会副会長という肩書きはある西澤猛は、今年は去年に輪をかけて、妙なグループに入れられたものだとつい溜息を付いた。 好かない従兄弟にアイドルのような先輩、それにずば抜け過ぎて明らかに高校生ばなれした一年の生徒会長。おまけに不快な友人達。 今年は色々とあったが、何となく来年もこの微妙な位置にいさされるような気がしてならない。 「はあ」 「猛君。溜め息一つで幸せが逃げるわよ?」 幸せよりも平凡が欲しい。
滝神草が社長になって悪い所は、強いて言うならエンジンの吹かしすぎだ。 「夏深といいあんたといい、無茶しいよね」 何だかんだで会長職に納まっている当子は定期的に草から報告を受ける。その回を追う事に草が着々と憔悴するのが見て取れる。 小学校の高学年から桜がお稽古事で遅くなると帰りが危ないからと、あの母親の言葉にしては気持ちの悪い事を言って草を運転手につけてきたが、あの頃からす でに当子の祖父の会社の乗っ取りを計画していたのだろう。それにあの女狐がたっぷりと関わっていたのも容易に想像できる。 それに草は嫌いではなかったし、馬鹿社長な訳でもなくむしろ身を削って働いている。自分が高校生社長になるよりもよっぽど良い方法だった。今では納得がいっているし、元をただせばうちの爺様が悪いのだからこれでチャラだ。 「あれ程ではないでしょう」 肩を竦める草に無理が全くない様にはどうやっても見えない。 「会社の情勢は大体知ってるけど、何かある?」 社長室のソファーは案外座り心地が悪い。 「今の所大きな問題はないですね」 ここまで頑張ってその問題を全て叩き潰していこうとしなくてもいいだろうに、 まあ、頑張ってくれるに越した事はないが、おっちなれては困る。 「・・・ご褒美のいつもの」 草の働き以上の価値のあるヤマシイ情報の入ったディスクを鞄から取り出す。 人間の頑張りも重要だが、あらゆる意味で情報はどんな宝石よりも値打ち物になる時がある。それを定期的に仕入れられる事は、自分が思っている以上にラッキーなのだろう。だが、あまりコレに頼り過ぎてしまうのは癪だ。何より危険だ。 「助かりますよ。色々と」 人に見られては困るだけに、パスワードがいる。それを二度間違えば消えるし、一定の時間が経っても消えるようにはしている。これで自分の首を絞めるのだけはゴメンだ。 「・・・」 何となく、草の顔色が悪く見える。 「何です?」 「・・・じっとして」 腰を浮かせて、テーブルを挟んで前に座る草のおでこに手をやる。 「・・・・・・・・・・・・・・38度過ぎ」 明らかに平熱でも微熱でもない。 人の事を無茶をすると言う割りにお前はどうなんだ? 桜と自分が狐なら草は狸だ。 渋い顔をすると、肩を竦められる。 「気の所為でしょう」 そのしれっとした物言いに一層渋い顔になる。 「薬は?」 「・・・飲みましたよ」 「何時?」 「昼食後」 溜息を交えた面倒臭げな物言いをされる。 人を子供扱いするが、子供よりも、限度を知らない大人の方がよっぽど性質が悪い。 「・・・今日のこの後と明日の予定は」 「秘密ですよ」 「・・・・・・・あっそ」 顔色が悪い癖に、いつもの胡散臭い笑顔を向けられ腹立たしくなる。 立ち上がって、部屋を出て隣接する秘書室に入る。 「どうかなさいましたか?」 礼儀正しい草の趣味らしい美人の秘書に笑顔を向ける。 「これからの草さんの日程を見せていただけますかしら」 死なれるのも困るが、倒れられるのはもっと困る。
「いや、構わない」 夏深は電話を切ると奥歯をぐっと噛み締めた。 草がそろそろ倒れる頃だとは思ってはいた。当子がそれを見て、はい頑張って仕事してと放って置く訳もない。ただ、それがわざわざ当子の家に泊めて看病するとは考えていなかっただけだ。 他の男にそんな慈善事業をすると言い出したら、断固としてそんな事はさせないだろう。もっとも、草が安全な男とも言い難いが、 きつく瞼を閉じる。 嫉妬ばかりして、当子から自由を奪って嫌われたくはない。それでも、他の男が当子に近づくのを笑顔で見逃せ等できない。 それが最も信頼する旧友が相手だとしても、だ。 こっちの気苦労なんて当子の知った事ではないのだろう。女一人にここまで不安を覚えた事はない。 誰も居ない家に、当子が俺以外の男とたった二人で一夜を過ごす。その事実だけで、胃が、捩れる。
相変わらず、お嬢様は傲慢で自分勝手で、的外れな事をしない。性質が悪い程自分を通すのも相変わらずだ。こんな小娘を相手に、あの会長殿もひと苦労だろうよ。 「はい、食べられなくても食べれるだけ食べて」 暖かい雑炊が湯気を揺らめかせる。 こういうモノを人に作ってもらうのは何年ぶりだろう。 「食べたらそっちの客間に布団ひいてるから寝ておいて、ちょっとポカリ買ってくるから・・・あ、寝ずに仕事してたら首にネギ巻くからな」 「はいはい解りましたよ」 そそくさと出て行く当子を見て、軽率だよなと苦笑った。 「俺ならあんな女はゴメンだな」 誰となしに呟く。 頭が鈍重いのも最近流石に無理がたたっていたのも解る。成人していても若造には代わらない。いくら当子からのおいしい丸秘情報があると言っても仕事が有利になるだけで減る訳ではない。 「・・・・ぅまい」 社長職について立派な店に行くようになった変わりに、こんなにもアタタカイ食事は取れなくなった。胃に沁みるならぬ身に染みる味だ。 女の一人暮らしの家に恋人以外の男を泊めて看病するなんて知ったら、あの恋人殿はどんな顔をするか見てみたいものだ。 一度は最悪の時期に裏切った男を又信頼してくれるのは有り難いがお人好しにも程がある。 直ぐに処分をしているだろうが、当子の情報源に関するものや情報自体がこの家にある率はない訳ではない。それを今なら捜す事もできる。ちまちまと渡される情報は恐ろしく魅力的なものだ。 「・・・・」 もう、裏切らないと思っているお嬢様を裏切る事など容易い。それをすると一時は得をしても結果大き過ぎる損をする。結局、生まれた星が違い過ぎるのだろう。あちらには幸運の女神こちらは唯の悪運だけだ。 「風邪なんて何年ぶりだ」 出されたものを全てたいらげると、言われた通りに客間に用意された床についた。 今まで気力で抑えていた頭痛に増して久々に物をまともに食べた所為か、妙に熱い。体から湯気が立つ感覚がするほどの中、布団を被る気にはならない。 「もう・・・若くないな」
やはり、あの声は怒っていた。 少し度が過ぎた嫉妬をする夏深に態々今回の事を言うのは一瞬躊躇った。それでも、黙っていてばれたときの方が怖い。 他に面倒を見る人間もいないようだし、他人の家よりも部屋の余っているこちらに草を持ってきて置いた方が何かと楽だ。 「・・・・・・・・」 携帯をまじまじと睨みながら、やはり夏深に対して悪い事をしたと気が重くなった。 夏深が自分を過保護なまでに大事にしているのも独占欲が浅くない事も理解している。そんな夏深相手に、例え夏深の友人でも家に持ってきて看病するのは不味かったかもしれない。それでも、直球型で爺みたいに死ぬまで働き詰める様な草を放っても置けまい。 まさか、こんな事くらいで嫌いにまでは・・・ならないだろう。 結局は、夏深に甘えている。
二 見るべきではない感情
仕事をいつも以上の集中力で早急に済ます。 己の価値は悲しい事に理解している。今ここで、馬鹿な男の嫉妬に翻弄されて職場放棄をする訳にはいかない。そんな事をして自分の価値を下げる訳には行かない。 予定よりも幾分早く仕事が済んだ。済ましてから、よくよく思う。今から態々当子の家へ行くのに理由がない。他の男を家で看病する時点で心配で仕方ないのは男として可笑しくはない。それでも、相手は良く知っている男で、当子がこうも堂々と他の男を連れ込むとは思えない。 「・・・・・」 一度きつく目を閉じる。 いや、思いたくない。 当子がそんな女だとは思いたくないが、もし、俺と婚約するよりも先に別の男が好きだったとしたら? とてつもなく馬鹿らしく、最悪な考えが一瞬目の前を過ぎた。 今まで考えもしなかった不安が頭に渦巻き出す。 だが、それなら幾つかの回路が繋がる。 アノ時の当子の涙にとてつもなく解り易い理由を付けられる。 そして、あんなに震えてまで『四季夏深』を繋ぎ止めようとした理由の中で、もっとも立ちの悪い相手を加えれば至極シンプルに事が済む。 吐き気がする。 こんな事を想像する自分にも、考えれば考える程ドツボにはまる様な仮説にも、当子をどうしようもなく好きになればなる程、信じられなくなる自分にも、吐き気がする。 自分の妄想だと理性が正論を唱える。 女にうつつを抜かす所か、唯の対人関係程度にしか女と付き合っていなかった。同じ女なのに、当子だけは全く違う。今までの自分らしくない反応に、動揺する。大事にしたいと思えば思うほど、傷つけている。 それが、もし、思い違いの一方通行であったら救いようはないな。おまけに、もし当子が草と会社の為に己を犠牲にしているなら、こっちはとんだマヌケだ。 「・・・・・っそ」 考えが空回る音がする。 どちらにも証拠がない。当子の夏深に対する普段の接し方には明らかに好意がある。普段は怯えた様子もない。嫌悪も見せない。それでも、当子は猫くらい被れる。嘘が下手な女ではない。
「・・・・37度9分。微ッ妙なとこやのう」 体温計を見て、当子が溜め息交じりに毒づいた。 「お陰様で大分と楽ですよ」 実際、昼間は立っていると震度3の揺れが断続的に起こっている気がしていたが、今は地面は平常通り動いていない。 「薬飲んでるから今はいけるけど、夜になったら又熱が上がるかも知れないからちゃんと寝てて」 「はいはい」 全く、始めて会った頃から当子は世話焼きな子供だったが、高校に入っても今だその性質は変わっていないらしい。親しくない人間には強化ガラスのようなない 様に見えても弾丸でも壊せないような壁を作るが、親しくなると壁が透明なアクリル板くらいまで硬度を下げてくる。一時は鋼鉄の壁を敷かれたというのに、今 では昔と同じアクリル板にまで下がっている。有り難い事だが複雑だ。 人を見る目がないとは言わない。それでも、本人は自身が鈍感な所があるのを理解しているのだろうか?
当子が次に買う株を検討していると、電話がかかってきた。一瞬夏深かと思ったが着メロが水戸黄門で、ディスプレーには大和 音と出ている。 「もしもし」 『あ、当子ちゃん』 文化祭でお世話になって以来、大和とは案外仲がいい。企画部のバリキャリである大和が高が高校の文化祭の担当になったのは少なからず夏深が絡んでいるのだろう。 さばさばした性格と、あまり飾らない所が好感を持てる。何より、同年代よりも年上の方が気が楽で夏深以上に年上だが案外気も合う。 「どうしました?」 『二十四日なんだけど、暇あるかなって思って』 聞かれて、頭の中で予定表をめくる。 「多分暇だと思います。今の所予定入ってないんで」 流石に草の熱も下がっているだろうと計算する。それに、クリスマスは夏深と会うが二十四日は予定が入っていない。 『この前言ってた試写会の券、取引先から頂いたんだけど、当子ちゃん暇なら一緒に行かない? 見たいって言ってたし』 「でも旦那さん放って置いていいんですか?」 かなり見たい映画で、イブにプレミアム試写会があるのも知っていた。仕事柄そう言うチケットもたまに貰うと大和と話している時にその映画の話も出た。 『いいのいいの、ウチのは映画とか見に行くの嫌いな人だから、当子ちゃんと行く方が楽しいし』 「じゃあお言葉に甘えていいですか」 『いいわよ。あ、でも夏深君と会うんじゃないの?』 別に隠している訳ではないが、そういうネタを人にふれ回るのも喋るのも趣味でない為、大和は知り合いの中で夏深と婚約しているのを知っている数少ない一人でもある。 「いえ、その日は約束してませんから」 『ああ、二十五の方なのね』 「・・・・・」 さらりと言われるが、こう言う話が苦手なのを知っていながらたまに振ってくる。返答に困っていると電話の向こうから小さく笑いを漏らすのが聞こえた。 『取りあえず予定決めたら又メールでもするわね』 「・・・お願いします」 『ごめんごめんちょっかい出さないから拗ねないで。じゃあまたね』 用件を済まして大和からの電話を切ってから、今自分の顔が絶対に赤らんでいると眉を顰めた。 色々と仕事が忙しいらしいのに、年末年始は空けられないからと無理をして空けてくれた。特に苦労しているのを見せないが、気を使ってくれているのも、態々空ける為に努力してくれたのも解らないほど疎くない。 別にキリスト教徒でもなし、イベント事もそれ程重要視してはいないが、無理をしてでも空けて会ってくれるのは嬉しくない訳がない。 それでも、ただ会うのが楽しみなのには恥ずかしくなる。 「・・・・・・」 結局心配でほとんど眠れなかったなど、マヌケだ。 こんな事ならいっそ押しかけてしまえばよかった。唯の取り越し苦労である事も、自分の馬鹿げた考えである事も理解しながら、それでも不安を完全に払拭できない。 人間としては信用していても、草は男としては信用ならない。高校時代に何マタをしていようとも女に恨まれる事なく、尚且つ後腐れもなく別れる特技を持って いた草を男として信じる程お人好しではない。ただ、略奪も女を泣かせるような事もしたのを見た事も噂を聞いた事もないが、実際どうか等わかったものではな い。 そんな姿を知っているからこそ、当子に自発的に犠牲になるように草が仕向けているとも考えられた。あの天性の女タラシなら当子ですら手玉に取れるかも知れない。 それでも、流石にそれはないと自分に言い聞かせる。 何よりも、当子の不意に見せる反応が嘘だとは思えない。自分の目が眩んでいる状況では、唯の希望的観測であるかもしれないが。 「・・・・・・」 今晩は、何とか早く仕事を済ませて当子の家へ行こう。理由を考えるのに時間を費やしても仕方がない。もし今晩も草が当子の家にいるのなら、当子の疲れが溜まるといけないからとでも言い訳をすればいい。
「大分と熱が下がったけど、このスケジュール以外は無駄な事しないように。終ったら帰って寝てろ」 熱が出たのでお休みしますで済む立場でも代わりがいる訳でもないのは承知しているのだろう。瀕死にでもならない限り仕事を最小限に減らして、後は安静にする以外手はない。 「でなきゃもうプレゼントは渡さないから」 この脅しが一番効くのは確かだ。当子なら笑顔で情報を渡さないと言いかねない。おまけに脅迫や金に屈するようなタマでもない。 「解りましたよ。いってきます」 肩を竦めて玄関を出ながら、溜め息が出た。 このなんちゃって新婚生活情景を夏深が見たら今進めている仕事を打ち切られかねない。仕事に私情を挟むような男ではないが、お嬢様が絡むと話は変わるかもしれない。 何と言っても桜さんの娘だ。あの謎だらけの女性が唯一言おねだりをしただけで、どれだけの人の上に立つ立場の男が言いなりになる事か。 この仕事をやる以上、当子ははまってはいけないモノの一つだ。
熱は大分とマシになったが、昼間働いたら熱が上がるかもしれない。自分の体調管理くらいしっかりして欲しい物だ。 夏深から連絡が全くないのは意外と言えば意外だが、仕事も大変だろうし、相手が草な為それ程心配などしなかったと言う事だろう。 夏深にカマを駆けて嫉妬が欲しかった訳ではない。電話をした時不機嫌な声を出されて怒っているかもと不安になったが、すこし安心した。 空気の入れ替えをしようと窓を開けると冬の冷たい風が吹き込んできて、小さく身震いをした。唯でさえ寒い季節なのに、雲が灰色で厚い。直に雨が降っても可笑しくない。 庭の掃除は午前中に済ませた方がいいかもしれない。 「寒いなぁ」 冬は好きではない。 妙に寂しさが込み上げる。以前は正月は祖父の元で過ごしていたが、色々と人の出入りが激しかった為、普段祖父の家に遊びに来るときのように相手をしてもらえなかった為暇だった。それに、今年は爺がおっちんだ為そんな侘しさすら感じられない。 夏深の家へ挨拶には行く予定だが、他の予定はほとんど建て前の挨拶参りだ。 クリスマス意外今年は夏深に会える機会はないし、正月は向こうの方が忙しい為少し顔を見せるだけで帰る予定だ。 学校内で付き合ってるクラスメート等はウザイくらいに毎日会っているが、正直少し羨ましい時がある。夏深以外が欲しい訳ではないし、不満があるわけではないが、わかってはいても少しでも側にいたい。 「はあ・・・」
普段から綺麗にはしているが、当子の家に戻ると一層綺麗になっていた。 「はい、熱計って」 帰って早々に体温計を渡される。 部屋の中は外から見ると天国の様に暖かい。当子に上着を奪われ、まさに新婚夫婦のように当子がコートをかける。 料理途中だったのか、フリル一つない質素なエプロンをしている。 「・・・・大分と熱は下がってきたわね」 額と喉もとに手を触れてくる当子はなんとも無防備だ。 それにしても、一年前は唯の中坊で餓鬼臭かったというのに、たった数ヶ月のうちに一層母親に似てきた。最も、桜はこんな素で無防備ではない。自分の価値も 使い道も何もかも計算しつくして、あの美しさを器用に使っている。触れることも躊躇わせるような雰囲気すら出す桜と違い、当子は撫で回したくなる。 「お風呂どうする? 昨日入ってないかシャワーくらいなら浴びてもいいわよ? それとも先ごはんする」 何より、桜にこんな家庭的な一面はない。むしろこんな大きな子供がいると連想ができない女性だ。 「・・・37度4分。思ったより上がってないわね」 「先、お風呂頂きますよ。汗臭くなってるんで」 「ん、解った」 まさか、この家で風呂に入る事になろうとは思わなかった。 小さい頃、至極憧れた。大きく歴史のある家。まともに入ったことがあるのはたったの二回だけだった。一度目は、喜びで胸がつまり、二度目に憎しみが湧いた。当子さえ生まれていなければココに住んでいたのは自分だった率が高い。 滝神源氏の一人息子が死んで、跡取りのいなくなった源氏が草を養子に迎えて、行く行くは社を譲ろうと思うと母親に言っていた一度目の訪問、二度目は桜が当 子を身篭っていると知り慌てて撤回をした時だった。源氏の姉で草の祖母である式部は源氏が謝罪の印に渡そうとした金をその場で池に放り込んだのは未だに脳 裏に焼きついているセンセーショナルな出来事だった。 あの二人に何があったのかは知らないが、式部が源氏の所為で今の貧乏暮らしだと愚痴を溢してはいた。理由は知らないが、裕福とは言えない経済状況の中、祖母が札束を投げ捨てるのはあまりにも衝撃的だった。 それを思い出すと、あの時感じた何もかもがどうでも良くなる情けない気持ちを思い出す。どうでも良くなって、不意に、全てを壊したい衝動が湧く。 「トーヤマ?」 ぼうっとした草に当子が小首を傾げて呼びかけるのに、我に返った。 熱で少し頭が可笑しくなっている。あんな事を思い出しても今更だ。 何年もの間頭山と偽名を使い源氏にばれない様に当子の運転手をしながら、桜の力で今のポストを手に入れた。アノ会社を乗っ取って、目的はもう果たしたのだ。ただ、桜に手を差し出されたお陰で、当子への復讐はできなくなっただけだ。 「何でもないですよ」 愛想笑いを浮かべて、風呂場へ向かった。 今更な考えだ。 当子をどんな形にせよ不幸に叩き落せば、桜だけでなく夏深までもが敵に回る。そうなれば勝機なんて0だ。 何より、この子供にそんな事をしても意味がない・・・。 今更なんだ。
「そういえば、夏深って高校の時どんなだった?」 鍋焼きうどんを頬ばる草に何となくそんな事を聞いた。 高校時代からの旧友であるとは資料上では知っているが、実際二人がどんな学生だったのかはよく知らない。知っていることといえば、夏深が生徒会長で草は副会長をしていてた事くらいだ。歴代の生徒会の中でも長期政権で改革派だった事くらいだ。 「・・・無愛想で秘密主義者で、王子様でしたよ」 餅を食べながら容易に想像できる事を言われる。今度学校の資料室から夏深の卒業アルバムでも探してこようかと本気で考えた。 高校時代もさぞもてた事だろう。 「今とあんま変わんないのね」 「・・・安心してください。あいつが女一人で満足してた事はありませんでしたから。お嬢様に対するような執着心も持ってませんでしたし」 見透かされたように言われる。慰めているようで、全く慰めになっていないのも解っての事だろう。全く性格の悪い。 「別にそんな事聞いてないし」 「ああ、これはお節介を」 大概こいつも性格が曲がっている。 別に歳が離れている事を嘆くつもりはないが、昔の夏深は見てみたかった。最初の頃のあの傲慢さと人を玩具のように見下す目といい余程女慣れしている上、別 に女なんて人口の半分もいるとしか思っていないのだろう。それを思うと高校時代の夏深が既にそんなクソ餓鬼だったのかは気にかかる。 それにしても、夏深は自分のどこが良かったのだろう。まあ父親命令があったとは言え、草や桜ではあるまいし、それくらいで他人に笑顔で優しさを振りまくとは思えない。そう言えばいつから、夏深は軟化したのだろうか? 「・・・・あの冷徹男が人間に惚れたのも意外ですけど、お嬢様がああいうタイプが好みだったのも意外ですね」 汁をれんげで啜りながら言われて、どうして他人の事に口出ししたがるのかと思う。それも聞かれたくない事に限って聞いてくる。 「っさいな。早く食べて寝ろ。こんだけ元気ならもう明日には完治よ」 「はいはい」 もう草に夏深の事を聞くのは止めよう。変に突かれるのは嫌だ。
思っていたよりも早く仕事を済ませられた。無論手抜きなどしていない。 帰ると言おうとした時不幸の使者が駆け込んできた。 「・・・っそ」 半べその部下(年上)が駆け込んできた後直ぐに緊急の会議を招集した夏深は、誰にも聞こえない小声で毒づいた。 仕事を速く済ませたのに、部下が不備を起した。しかも用があるので抜けると言って帰れる桁ではない不備だ。 当子の家に行けるとしても夜中だ。 こんな事なら昨日行けばよかった。 駄目だ、今心配をしても何も始まらない。こっちのカタを付けて、当子に電話を入れるか明日にまで持ち越さないようにして明日こそ行くか、だ。 何にしてもこれは重大なミスで直ぐにでも立て直す必要があるのだ。こんな馬鹿げたミスで自分の株を下げる訳には行かない。それは当子の求める四季夏深の株が下がると言う事なのだから。 仕事でも何でも、一度逃したチャンスは戻ってこないとこんな時に再確認はしたくなかった。
加湿器で湿度は高くしているがそれ程部屋が暑いわけではないのに、妙に熱い。枕元に用意された体温計で熱を測ると38度後半にまで上がりだしていた。 吐き気はないが頭がくらくらする。体が熱い。 「・・・・っ」 仕事中一度39度にまで上がったが、その時よりも自分の体が自分の身体に思えない。この家には安心感があり過ぎて神経を尖らせていられないのだろうか、 ふらふらのまま便所へ行って、帰りしなに居間にまだ当子がいるのに気が付いた。 「・・・・・・はぁ」 テーブルに突っ伏している当子が規則的に肩を上下させて眠りについているのに気付いて溜め息が出た。 今日は大掃除でもしていた様だったから疲れて寝てしまったのだろう。 人にとやかく言うのも結構だが、こんな季節にこんな場所でうたた寝している小娘には言われたくはない。これで次当子が熱を出して看病をしろなんていわれても困るぞ。 熱でふらふらなのに、一度客間に戻って押入れから布団を引きずり出して居間へと広げた。今使っている当子の部屋がどこか知らないし、今うろつく元気もない。 車で何度も寝られた経験上、一度寝たら多少動かしても目覚めないのは承知している。流石に熱が出ていると節々も痛いし力が上手く入らない。それ程背が伸び ても太ったようにも見えないのに、どっしり重く感じる。平衡感覚がオカシイ中、当子を抱き上げて何とか近くに引いた布団へ当子を寝かせた。 歳を追う事に当子は母親に似ていく、その癖無防備なのは卑怯だ。警戒心0で眠る当子の顔はあまりにも桜では連想できないものなのに、どうしても目が放せない。 会った頃はほんの子供だったのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろうか? 週に何度も顔を合わせていた頃は近くにい過ぎて解らなかったが、一年弱離れただけで妙に成長している気がする。元々垢抜けた外見をしていたが、高校に入ってから子供っぽさが完全に抜けた。あんな子供の頃から見ていた子供だというのに、女に見える。 長いまつ毛に細い輪郭、不公平なほど良質の遺伝子で作られた女性の娘、雰囲気はまるで違うのにやはり同族だ。年頃になって変なフェロモンでも出している気がする。 頭が痛い。 熱でぼやけた脳味噌が唯本能に促される。 自然と微かに開いた淡い桃色の薄い唇に己の唇を重ねていた。 無意識に唯触れるだけの、あまりにも短いキスをしていた。 「・・・・・・ッ」 気付きもせず静かに眠る当子から、熱に侵されていない脳が飛び退かせる。 この娘が唯綺麗なだけなら良かった。そんな人間ならこの世にはいくらでもいた。 最も信頼できる親友の婚約者で、憎んだ男の孫で、妹の様でもあった子供。そして、絶対に手の届かない憧れる女性の最愛の愛娘。
絶対に気が付いてはいけなかった感情。 最も愛してはならない女への本当の感情を見てしまった。
「・・・・・・・・・ふあ」 当子は朝の光で目を覚ました。微かに肌寒い空気の中、自室でない事に気付く。 夏深が連絡をしてくるかもと思っていたのと、草の様子が見やすいように居間で冬休みの宿題をしていて、それも終えて暇で、ぼうっとしていたら眠くなって少し寝ようとしたのは覚えている。それで爆睡してしまったのだろう。 布団を引いた記憶がないのを考えると、病人に面倒見てもらったわけだ。これじゃあ看病している意味がないじゃんとマヌケにぼやいた。 起き上がって、草の様子を見ようと客間を覗くとスヤスヤと眠っていた。起すのも何なので、そのまま取りあえずは放って置く事にした。 今日も無論草は仕事がある。正直後2・3日で体調を戻さないと色々と困る。仕事もいつまでも減らしたままでいる訳にはいかない。 「・・・・」 朝ご飯何作ろう。
「今日の昼、開いてるか?」 何とか、昼に時間を空けられると計算して、朝電話を入れた。まだ早い時分にかけたのはやたらと早起きな当子がいつも通りに起きているかという姑息な理由もある。 『・・・・うん』 小さな返答声についにやけそうになる。 「草の方はどうだ?」 体裁を整える為に聞く。あいつが死ぬとすれば、男に後ろから刺されてだろうと予想している為、実際は心配などしていない。 『今寝てる。・・・まだ完治とまではいってないけど、マシにはなってる』 こっちがもし熱を出しても、家で休めと言われるだけだろう。今まで、草に腹を立てたことはあったが、ここまで羨ましく思った事はない。 そこに、あの最悪なシナリオを組み込まないように意識する。考え出せばドツボにはまる。又当子を傷付ける。そんな事をしない為に、自分の疑惑を誤魔化す。 「昼食は何を食べたい?」 『・・・決めてないなら、何か作ってもいいけど』 電話の向こうからする声は何気ない風を装っているが、言いながら照れているのが容易に想像できる。 「じゃあ昼頃にそっちに向かわせてもらおう」 『・・・急だからあんまり期待しないでよ』 「ああ、じゃあな」 電話を切ると、苦笑った。 余計な心配があろうがなかろうが、こっちの感情は残念な事に変えられない。
「・・・夏深からですか」 草が背後から行き成り声をかけてきた。顔は見られていなかったのは幸いだ。こんなにへらった顔、人には見せられない。 「熱は?」 表情をできるだけ消してから振り返る。 「37度前半まで下がりましたよ。お陰さまで」 やはり熱があるといつもの胡散臭い笑顔も切れが弱い。 「その割りに顔色悪い・・・」 本当かどうか首元に手をやろうとすると、笑顔で腕を?まれて阻止される。 「頭山?」 今までになかった行動に小首を傾げる。 「そろそろ、この呼び方止めませんか?」 昔、頭山と名乗っていた草を未だその名で呼んでいたのは嫌味と今更呼び方を帰るのも変な感じがしたからだ。草も当子の事はお嬢様と昔の呼び方で嫌味の応戦 をしてきていた。何となくそのままできていたのは別に支障がなかったからだ。行き成りのこの申し出はいささか不可思議だ。 「・・・別にいいけど、偉く突拍子ね」 「ずっと『お嬢様』と呼ぶのも変でしょう」 言われて見れば、実際は又従兄弟である草がお嬢様と呼び続けるのも変だろうとは思う。 「ん〜、まあいいわ。起きたなら取りあえずご飯食べて薬飲んで」 「はいはい、当子さん」
頭が重い。 大株主で会長である当子が直々に仕事を減らしてくれたのはあり難い。他の重役連中は表面的には文句を言えまい。 この地位につけたのは桜達の援助があってこそだが、その後は不介入が条件だった。他の重役連中も、四季夏深の婚約者である当子を社長に立てるのは避けた かった所で一致した。学生である当子が形だけでも社長になれば、絶対的に四季が深く介入してくるのは目に見えた事だった。 今では、この若造が大穴でも開けて、辞職し後釜を狙えないかと目論んでいる強かな連中が少なくない。 体調不良で判断ミスをしましたなど言い訳にはならない。 何より、やっと日の目を見、今までこの仕事をする為の努力もしてきた。遣り甲斐も生き甲斐も感じている。それをおいそれと他人に手渡す気はない。そういう 意味、四季と繋がりのある当子が会長をしているのはあり難い。未成年とは言え、四季の後継を持っている大株主だ、とても軽視できる子供ではない。 夏深のように、生まれた時から王になる為に育てられてきた人間とは環境があまりにも違いすぎるが、それよりも、あいつの才能に対してひがみがある。自分の能力の低さは嫌というほど見た。見たからこそ、ひがみがある。 同じ家でも、日和見な冬祈のような坊っちゃんとは明らかに違う。それを見ると環境が違うというのは言い訳にできなくなる。家柄だけでなく生まれ持ったものまでもが違う。 奴本人は嫌いではない。それでも、高校のときから互いにライバル心はあった。あの頃は、むしろ優勢だったのに、たった数年で大きく差ができた。この世界では元々スタートラインがかなり後ろだった事もあるがそれを引いても差は大きい。 それでも、まだ負けを認めるつもりはない。サラブレッドどころか、こっちは唯の雑草だったとしても、負けを認める気はない。 気付くには遅かった感情だからといって、勝ちを譲る気はない。後だ先だと言う物でもないのだから。 スタートラインが後ろにあるからといって、絶対に不利だとはいう訳ではないのだから。 |