七   反旗





「・・・・・・嘘だろ」

 山田は一人呟いた。

 写真部の写真は卒業写真としても使われる為、義務的に撮った生徒会長の写真と指輪の君の顔立ちがあまりに似ている事に気づいて、山田はショックを受けた。

「マジかよ」

 それほどブスだとは思っていなかったが、美人のオーラもない唯のガリ勉だと思っていた。こうして並べなければ気付きもしなかっただろう。

 あの写真の少女へはアイドルに対する擬似恋愛感情と同じものまで生まれていた。実際に会う事がない手に届かない相手だと思っていた。それが、こんなに早く見つけて、それもあの会長だったとは・・・

 いくら好かない女だったとはいえ、髪型だけでこうもわからなくなる物なのだろうか。

 手の届く範囲の相手なら、擬似恋愛で終わらす気など毛頭ない。

 多少汚い手を使ってでも手に入れてやる。






「うっわ〜。華ちゃん桃色ファンシー。でも何でそこまで濃い色似合うんだろねぇ」

 敬老の日の休明けの火曜日、ドオレンジ頭からドピンク頭に染め替えた左九に当子はいつも通りに声をかけた。

 文化祭の片付けを終えてからそのまま染に行った為初お披露目だ。

「傷心ピンク」

 どこからか当子には別れたと言うのが回っていた為、隠しもせずにそんな事を言う。

 オレンジ頭に慣れた頃に次はドピンクに染めてきて、より一層回りに引かれて登校するのは何とも面白い。それに比べていつもと変わらない当子には相変わらず惚れ直す。緑頭で始めて道場に言った時も顔色を変えなかったのは当子だけだった。

「あーあ、道場行ったら又先生に怒られるぞぉ」

 色頭を渋々許していても、染め替え時期は毎回怒られ直される。世間が冷たい目で見るのは何となく勝手にしてくれだが、道場の先生に怒られるのは嫌ではない。

「うっお!馬鹿色が! なにピンクパンサーしてんだよ」

 丁度下駄箱前の廊下を通った貞月が、ピンクの頭を見咎めた。

「ああ、貞月先生ご結婚おめでとうございます」

 横の当子が礼儀正しく礼をする。

「結婚って?」

 貞月が硬直したのを見て、左九が当子に問いかけた。

「クラスの友達がね、貞月先生には内縁の妻がいると教えてくれたの。むしろ、昨日婚約届けを出しにいったんだって」

「へー、それはめでたい」

 これでうざい男が一人減る。

「・・・どうして、そんな事まで知ってるのかな?当子ちゃん」

「生徒会長様の情報力を舐めてはいけませんよ」

 笑顔で当子が返すのを見て、文化祭終了後もご機嫌だったが今日もご機嫌な所を見ると文化祭で何かいい事があったのだろうか? ただの仕事からの解放ならもういつもの冷静なものに戻っているだろうに、

「又今度生徒会の方からお祝いさせて頂きますね」

 涼やかな笑顔で当子は貞月の横を通り向けて言った。

「あ、華!お前が派手な頭すっと学主に俺が愚痴言われんだぞっ! せめて人並みにして来い」

「新妻さんに慰めてもらったらいいスよ」

 そう言えば、学年主任の先生には前呼び出しで説教喰らったっけなぁ・・・生徒会入ったら言われなくなったけど、

「ああ、放課後に写真愛好会の家宅捜索に行くから、生徒会室でね」

  流石に、あの写真は没収しないといけない。あんな写真を男たちに売られて夜の共に何てされたら流石に嫌だ。当人には無断での販売はまず間違いなくやってい る。家宅捜索して調べればその証拠も出るだろう。出なくとも、当子の写真の無断使用の苦情でと言えば家宅捜索は正当化される。

 今まで当子は生徒会長の特権を使って退学はしていないから、今回も愛好会の解散かハンディでも付けるのだろう。

 桃色の頭はいつも行く散髪屋のにいさんとノリノリでやったが、回りの反応はオレンジより奇妙なものに感じる。

 まあ当子の反応は普通だからいいか。








 当子と会う約束が有ると自然と仕事もはかどる。

 自分で自分が気持ち悪いほどだ。

「何かいい事でもありましたか?」

 有能で仕事の速いお気に入りの秘書が何気なく聞いてきたが、それほどわかりやすい顔をしていたのだろうか? できる限りの堅物顔のままのつもりだったのだが、

「ああ」

 苦笑いが浮かぶ。

 この有能な秘書は顔には出さないものの相当引いていることだろう。






 夏深の秘書である染崎 多恵は部屋を出てから手で顔を覆った。

 冷静、冷徹で有能な夏深のあんな表情を始めて見せた。ストイックで年齢以上に大人びた身のこなしの品のある夏深が、よく観察しなければわからない程度だが、どこか子供っぽい柔和な顔をしていた。

 夏深を見て始めて可愛いと思った。くそお、仕事中にこんなに動揺させられたのは久々だ。







「どうも、生徒会です」

 左九を引き連れてやってくると、ドアを開けた山田が待っていましたと顔を歪めた。

 既に証拠は隠されたかなと眉を上げると、山田がちらりと左九に目をやった。

「丁度良かった。こっちも生徒会長に話があったんだ。・・・できれば人に聞かれたくねーんだけど?」

 左九は邪魔だという事か、

「・・・華ちゃんここで待機してくれる? 直ぐに呼ぶわ」

 まあ何であってもこいつに負ける気はしない。完全に男に捻じ伏せられて以来、剣道以外に護身はやった。一人くらいなら溝内一発で悶絶させる自信がある。

「何かあったら叫べよ」

「オッケー」

 左九に軽く返していると、鍵はかけられなかったが戸をきっちり閉められた。

「聞きたいんだけどよ。どうしてわざわざそんなキモイ格好してんの?」

 キモイなら、てめえのその髪型センスもどうかと思う。左九のあの頭は似合っているし色んな意味許せるが、お前のその微妙なロン毛、似合っていると思ってるのか?散髪に行け散髪に!

「そんな事を話したいのなら、すみませんがこちらの用を先に済ませていただけます?」

 当子が不機嫌に腕を組んでいると、背を向けて山田がカチカチとパソコンを弄り出した。

 眉を顰めていると、山田が画面をよく見えるように横にどいた。

 並んだ三枚の写真は、あの文化祭で貼られていたのと同種の写真と、バンダリのライブ時の写真。そして、この格好の写真だ。

「バレたくないからそんなカッコしてんだろ?」

 パソコンの画面の中の三枚は明らかに同一人物と解るように少しは加工されている様だったが、ベースはほとんど変えていないだろう。それを見せ付けて、山田が勝ち誇った声を出す。

 なんだ、もっとヤバイ事実を突きつけるのかと思った。

 だが高がその程度の事だ。こんな証拠で鬼の首を獲ったとでも思っているとは、余程の馬鹿だ。

「ばらされたくなけりゃ俺の言う事聞いてくれるよな」

 やばい、噴く。笑い出しそうになるのを数学の公式によって相殺するのにこっちは必死だ。これでこいつは格好いいつもりか?

 ここまで来ると素敵な本物のバカだ。自分の手にしたカードの価値もわからないらしい。今までの商売は見逃してくれる代わりにネガは渡し、ばらさないならまだ聞いてやっても良かったが、こんな態度悪く脅されてわざわざ言う事を聞くような恐怖のカードではない。

 むしろこの格好は趣味とカメレオン効果を狙っただけのものだ。

「・・・・言う事を聞けって、ヌード写真でも撮って高値でお売りになりたいつもりかしら?」

 嘲りの笑いを含めて言うと、山田が気持ち悪い笑顔を見せた。

「安心しろよそこまでゲスイ事じゃねーよ」

 その割りに顔が厭らしい。

「俺の女になれよ。取りあえずそれでばらさないで置いてやる」

「ぶっ!」

 ついウッカリ噴出した。

「・・・お前、いいんだな。ばらすぞ」

 腹を抱える当子に山田が顔を赤くして唾を飛ばして叫ぶが、駄目だ笑いが止まらない。

 こいつは如何わしい本でも読み過ぎなんじゃないのか?

「ああ・・・ふふっ。どうぞご自由にばらして下さい。華ちゃん入ってきて」

 左九に声をかけると、笑いを必死に堪えた左九が入ってきた。こちらの身を案じて壁に耳でもくっ付けてこちらの話を盗み聞いていたのだろう。

「さて、本題に入らせて頂きます。今回の写真展示で体育館に張り出した写真のモデルから苦情がありまして、ネガを没収させて頂きます」

 思ったよりも早く仕事を済ませられそうだ。

 夏深と会う約束があるのだ。早く帰りたい。

「ついでに色々と不正がないかも調べさせて頂きますよ」

 バカたれ一匹くらいとっととカタをつけてやる。






 生徒会長が段々と不機嫌になるのは面白い。

「おいおい、もう捨てちまったって言ったろ?」

 悠々と椅子に胡坐をかいて言うと、左九がキッと山田を睨んだ。

「・・・・・西澤先輩ですか?滝神です。まだ学校におられたら写真愛好会の部室まで来て頂けませんか?」

  当子がとうとう応援を呼んだ。人数が増えようとも問題はない。あの写真が生徒会長だと解ってから、直ぐに始末をしたんだから当たり前だ。気付いたのが朝 だったから家に持ち帰る事はできなかったが、帳簿はクラスのロッカーに持って行ったし、今日は掃除がないから廊下のゴミ箱の底に隠した。もし捨てられても 困らないように最低限ネガはパソコンにコピーしておいた。

「でもよぉ。真面目に活動してんのに何?無断販売とか濡れ衣着せられて、オマケに犯罪者見たに家捜しまでされて、いくら天下の生徒会でも酷くねぇ?」

 当子が隙間を覗き込んでいた顔を上げた。

「火があろうとなかろうと、煙が上がったら一様確かめないとなりませんので」

 当子がすっと背を伸ばして頑とした声で言う。

 不機嫌であっても焦りはないと言いたげないつも通りだ。

 山田は唇を舐めてから、嫌味な笑みを見せた。

「俺のじいさんさぁ、ここの理事長とはオトモダチなんだよねぇ。この事聞いたらいくら生徒会でもやばいんじゃねえの?」

 実際そのコネでここへ入ったようなものだし、祖父は結構有名な政治家だ。じいさんが一言言えば生徒会長どころではいられまい。それが嫌なら、さっき笑い飛ばした申し出を飲むしかなくなる。

「・・・・・・・中々面白い申し出ね」

 怯むなんて言葉を知らないのか、当子が体の向きを変えてすっとこちらを見た。座っている山田は自然と見下ろされる。

「でも、そう言う血縁者の権力を振りかざすのは、少し情けないんじゃないかしら?」

 皮肉な笑顔を見せた後、当子が腕を組んだ。

「それに残念ね。あなたみたいなチンピラのご心配なんていらないわ。それに、あなたの持っているカードは全て、私の持っているものよりちゃちい上に、格好の悪いものばかりよ」

 あの艶っぽい写真とは全く違う、肉食動物のような顔だ。

 当子の後ろで、前のオレンジ頭よりもさらに派手なドピンク頭の当子の金魚の糞が当子の発言に親指を立てて顔には『かっくいい』と書いているような表情をした。

「・・・んな大口叩いて、後で泣きついたって知らねえぞ」

 何でこんな悠然と構えていられるんだ? こっちがホラを吹いているとでも思っているのか?

「少なくともあなたには泣きつきませんからご安心を」

 当子の後ろで鬱陶しい左九がブラボーと音を立てずに拍手の真似をしているのが目端に入る。

 丁度ノックがされて、返事を待たずにドアが開いた。

「ハーイ。皆大好き猛ちゃん親衛隊のとぅ・・・」

 現れた隣のクラスのお調子者がバカな事を言いながらポーズを決めると、それに猛が運痴な割りにいいパンチを喰らわせた。

「・・・滝神さんごめん。変なのが付いてきた」

 後ろに後二人も野郎を引き連れている猛が溜め息混じりに言った。







 早めに仕事を終えて、少しでも早く当子に会おうと思ったら嫌な相手から電話がかかってきた。

 予想していたよりも遅いくらいだが、どうせなら昨日にして欲しかった。態々当子に会う前に電話をかけてこなくともいいだろう。

「何の用です」

『あんたの大好きな魔女と一緒に今晩こっちにきなさい。命令よ』

 単刀直入に言葉に苦い顔になる。この母親は折角の幸せ気分を全て崩して行きたいらしい。

「文句を言いたいなら俺一人で十分でしょう」

 当子を選んだのは自分だ。それで当子を責めるのは実母とはいえ耐え難い。

 保護欲で無駄な喧嘩も売りかねない。

『あら? いつ私が文句を言いたいなんて言ったのかしら、息子とその婚約者を夕食に招待して何が悪いのかしら? それをまさか断るなんていわないわよね』

 どちらが魔女だ。これで当子をつれて行かなければ、義母になるかもしれない相手に挨拶一つしないできの悪い女と悪いレッテルを貼るのだ。

「・・・解りました。当子と一緒に行けばいいんでしょう?」

 まだ当子一人で弥生と対決させるよりは、自分が側にいる方が守りやすいだろう。

『じゃあ待っているわよ』

「一つ聞いておきます」

 電話を切ろうとした弥生に、夏深が声をかけた。

「息子と婚約者を招待する場に他人の同席はないでしょうね?」

  詩織とその親にでも同席されたらこちらの策が無駄になる。あのまますんなりと事無く終るほど性格のいい女には見えない。弥生が父親に厄介なお願いをして も、この地位から引き摺り下ろされる訳にはいかない。それに、当子や当子の祖父の会社に手を出される訳にも行かない。何かと厄介な女に惚れた以上、気は許 せない。何とかして守り通すしかない。

『安心しなさい。私だけよ』

 冷ややかな声がする。

 俺は余程この母親には嫌われているらしい。







「ハッハッハ 物を隠す天才にかかればちょろちょろよん★」

「こいつ小学校の時誰彼構わず上靴隠してたんだよ」

「うっわ。一人攻撃よりバカらしい無差別攻撃してたのかよ!よっぽど荒んだ人生送ってたんだな」

「・・・・・・・・・何で僕がこんな阿呆どもに構われなきゃならないんだろう」

 猛が脱力した声で呟いた。後の三人はそんな事気にも止めていないようだった。

 まあ、ネガを見つけてくれただけでも有り難いのでこちらももう何もツッコム気にはなれない。

「・・・・では、予定通り没収させて頂きますよ」

 ネガを透かすと間違いなく自分だ。それに燐火の映っているものもある。流石にミス百合乃下をとっただけはある。

 売買の事実を示すものはないが、写真の種類からしてとてもやっていないとは考え難い。

「だから捨てたんだよ。それをあさって見つけただけだろ」

 確かにゴミ箱から発見されたが、とても捨てたとは思えない。

 後は証拠は家にでも持っていかれたか? それともどこかのゴミ箱にでも隠しているのか・・・? 誰に売ったか解らないと回収もできない。あんな写真がもし人手に渡ってでもいたら、笑えない。

 部室になければ、後は教室辺りか? 隠すなら鍵が付いているに越した事はない。

「無断販売の事実が欲しいんですけどね」

 そうなれば山田のじいさんに言いつけても無駄だ。まあ、理事の春夫は夏深の父親でもあるし、ベタベタに気に入られてもいる。学校への影響力はこちらが俄然上だ。

 大体、退学になったとしてもこんななんちゃって男に泣きつくくらいなら潔く退学届けを書いてやる。馬鹿な男に見せてやる涙何ぞない。

「あ、何?そんなの捜してたの」

 軽い調子で猛の友人の一人が言うと、山田があからさまに表情を変えた。

「俺こいつからたまに買ってるぞ」

 何の悪びれた様子もなく言われて、山田がさらに表情を歪めた。

 猛は正直生徒会でもどうでもいいポジションだったのだが、意外な手立てで役に立った。

「それは中々面白い情報ですね」

 こんな形で情報が漏れるとは思っていなかったのだろう。当子もこんな形でカタをつけれるとは思っていなかった。

 これで、あの恥ずかしい写真を回収できる。






 帳簿をロッカーから回収した当子は上機嫌に見えた。

「じゃあ明日」

 何でだろう。今日の当子は妙に上機嫌に見える。

「明日」

 施錠をして、別れを告げると小走りに当子が去って行った。何か用があったようだから急いでいたのだろう。思ったよりも時間を喰ったのにもイライラしていたし、

「なさけないなぁ」

 告白する勇気のないタイプでなく。恋人関係以上にこの関係に満足している自分がバカっぽい。

 せめて歳らしく性欲一杯に当子を見れたら若さゆえに押し倒したりもできるのに、

 おれ実はもうあんま若くないのかなぁ・・・・・・・







「ただいま」

 当子が帰ってくると直ぐに風呂場へ直行した。

 あーあ、デートだけで可愛いんだ。

 実際あの二人はどこまで行っているのかいささか疑問だ。誰に似たのかその手の話にはてんで弱い当子を弄る楽しいが、その当子相手に夏深は今の所餓鬼が成長するの待ちといった所か、

 まあ、何にしても秒読みよね。

「ぎゃぁっ! 覗くなエロ狐!!」

 漫画の覗きみたいにドアの隙間から娘の成長っぷりを眺めていたら、これまた漫画みたいに桶から水が飛んできた。

 さらりとそれを交わすと、何事もなかった様に脱衣所から出た。

 まあ自分の娘だけあってまだ発育途上とはいえ中々の上玉だ。

 これだと、夏深がそう我慢できるはずもあるまい。そんな事を考えているうちに、チャイムが鳴らされた。

「げっ」

 風呂場から当子が唸る声が聞こえる。

 インターホンの影像に夏深が映っていた。

 さて、私もそろそろ出かける準備をしないとね。







「悪いな」

 車の中で短く詫びを入れた。

 弥生の家へ行くのを了承した当子は文句一つ言わないが、それで当子を態々不快にさせに行くのに気が軽く訳ではない。いっそ、そんなとこには行きたくないと駄々をこねられた方がマシかもしれない。

「平気よ」

 当子が助手席から見上げて優しい声で言う。

 可弱さを見せないで一人でも立っていられると言う様に聞こえた。それが心配をかけまいとしてでも、少し寂しいものがある。





「全く。面倒を起こすのが大好きなようねぇ」

 猫撫で声で弥生が囁く。

「・・・・いいかげんにしたらどうです。大人気ない」

 夏深が、フォークを置くと冷ややかに弥生を睨み付けた。

「そ うよね。当子さんはまだお子様だったわよね。詩織さんのようなちゃんとした方が相手なら、私もこんなことは言わなくて済んだのに、本当にあの人も面倒な事 ばかり好きだわ。だから当子さんのことも気に入っているのかも知れないわね。ああ、それとも本当はあの男が嫁にもらいたかったのかも知れないわね」

 あの男とは夏深の父親で弥生の夫である春夫の事なのだろう。夫婦間は冷め切っているらしいが、お互い立場上離婚はしていない。

 弥生と全く違い春夫は怖いほどによくしてくれた。私的には春夫の方が好きである。

「・・・当子、帰るぞ」

 夏深が業を煮やして立ち上がった。当子の椅子を引こうと手をかけたときに弥生が冷笑を含んだ声で囁いた。

「そう言えば『滝神』への融資を知り合いの方が打ち切ろうかという話をしてたかしら」

 その言葉に背筋が冷たくなる。

 弥生が銀行界には顔が聞くことは知っている。これは夏深や夏深の父親にも阻止しきれない分野だ。

 祖父が死んでから又従兄弟である草が社長に就任してやっと軌道に乗れ出した時に融資を打ち切られては終わりだ。筆頭株主である当子への直接的ダメージもある。

 何よりも、あの会社を潰させたくない。

 椅子から立ち上がることができなくなった。

「それに詩織さんのお父様が、四季の跡取りは夏深よりも冬祈君の方がいいんじゃないかって話もしていたかしらね」

 弥生の一言一言に寒気がする。

 自分が立っている場所が蟻地獄のように沈み込むようだ。

 このままこの女の逆鱗に触れたままでは、リスクが大きすぎる。どうして、詩織の前であんな事をしたのかとなじった。

 夏深を誰かになんて渡したくはない。だからと言って、夏深のお荷物になりたい訳じゃない。そんなのは御免だ。

「詩 織さんと夏深が結婚するのが一番均衡の取れる事じゃないかしら? 別に当子さんが無理をして夏深の婚約者でいなくても、ちゃんと後ろ盾をしてあげるわよ。 それが欲しくって夏深なんかと付き合っているんでしょう? 地位も権力もある男でなきゃ用がないんなら今別れた方が宜しいんじゃない?でないと、あなたの 破滅どころか夏深まで被害を受けるのよ」

 頭を鈍器で殴られた気がした。

「夏深も、こんな魔女とはとっとと別れて、詩織さんにお詫びをしてきなさい。考え直させるからってあなたが不利になるのを喰い止めて上げたのよ」

 これが親と子の関係には思えなかった。

 桜とは普通の親子関係ではないと自覚しているが、精神的な面ではちゃんとした親子だ。苦手であっても嫌いではない。

「・・・・解りました」

 声が震える。

 嫌だ。

 嫌だ。

 イヤダッ・・・・・・・・・





 そっと当子の耳を後ろから塞いだ。

 こんなドロドロした親子の喧嘩を聞かせたくなかった。

「残念だが、あなたとはどうやっても相性が悪そうだ」

 苦く吐くと、冷徹だと言われる目で真っ直ぐと自分を産んだ女を見据えた。

「俺は何の力もない唯のガキじゃないんだ。そちらがその気なら、こっちにも考えがある」

 これは余計な喧嘩かもしれない。当子を切り捨てて面白みのない弥生のような女を妻にすれば事は全て丸く納まる。

 それが、できたらどれほど楽で、どれほど虚しいだろう。

「あなたに、何ができるって言うのかしら?」

 明らかに動揺を隠し切れていない母親が微かに震えた声で言う。同情はあるが、守りたいのは弥生でも面目でも地位でもない、小さな体の震えを必死に堪えている唯の女だ。

「やられる前に潰せないとお思いなら、とんだ計算違いだ。俺が継いでいるのは四季の血だけではないんですよ」

 弥生がこの地位を築いたは半分は家柄のお陰だ。どれだけ嫌われていようとその血を半分は受け継いでいる。オマケにもう半分は天下の『四季家』だ。貴族制がない時代とはいえ、この事実は大きい。

 夏深が本気で反旗を翻せば完全に勝てなくとも、弥生はただでは済まない。

「そんな子供に、そこまでする価値はないわ。考え直しなさい」

 母親のような事を言う弥生と話し合うつもりはない。こっちは折れる気がないのだ。

 呆然とする当子を抱えるように立たせると屈んで目線を合わせる。

「行くぞ」

 今にも泣きそうな顔をされて、微妙な心境になる。







   八   witch








 全く、ふざけている。

 やっぱりあの悪魔のような女の娘なんかと婚約させたのは間違いだったのだ。

 夏深が当子と一緒に帰っるのをゾッとする思いで見つめた。確かに、夏深が形振りかまわずかかってきたら、ただでは済まない。が、向こうだってそれは同じだ。こちらより深手を追う率の方が高い。

「馬鹿息子ッ」

 弥生が毒づいて自室に入ると、夏の終わりの風がふわりと頬に触れた。

 窓なんて開いている筈がないのに、カーテンがゆっくりとはためいた。カーテンからマジックのように現れたのは、魔女だった。








 核心を突かれた。夏深を全く優良物件視していないとは言えなかった。

 震えが止まらない・・・・。

「あんたのママの言う通りよ。あたしは、夏深が欲しいんじゃない。『四季夏深』が欲しいの。力も金もないただの男が欲しいわけじゃない・・・。あの女と一緒よ・・・あたしも所詮はそんな女よ」

 自分に吐き気がする。あんな事を言われて否定できなかった。

 四季家との婚約は祖父さんの会社の為で、夏深から冬祈に変えてもらったのは乗っ取りを企んでいた草より優位に立つ為で、後々の経営を考えての自分の為だ。

 十二分に、不純ではないか・・・

 こんな自分に腹が立つ。嫌気がする。悲しくなる。

「金と権力のある俺が欲しいならそれでいい。俺が努力すれば良いだけだ」

 何事もなく車を走らせながら、夏深が事も無げに言う。

 私は卑怯だ。夏深が傷付いているかもしれないのに、こんな事を言わせる。いっそ、もっと夏深に似合う人が現れればいいのに、そうすれば夏深から離れてくれるのに、

「泣くな」

 大きな手が伸びてきて頭を撫でた。涙が、止まらない。

 何で、夏深の前だとこんなに涙腺が緩くなるのだろう。こんな姿さらしたくないのに。何で、馬鹿みたいにこんなに安心してしまうんだろう。

 涙が流れ落ちる。

 私から、夏深を放す事なんて・・・できない。







 例え今の言葉が本心でも構わない。こちらは当子が必要で、当子はこっちを利用したいならすればいい。そう割り切ってしまいたいと思いながら、どうしても不満が燻ぶる。ここまで欲深になるとは考えもしなかった。言葉だけでなく当子の全てが欲しい。

 女一人にここまで欲望を抱くとは思わなかった。

 ちらりと当子を見て、又厭らしい満足感が顔を出した。

 今まで別れ話やくだらない事で女に泣かれるのはウザイとすら思っていたのに、自分の前でだけ見せる当子の泣き顔は嫌いではない。

 そっと当子の頭を撫でた。そんな可愛らしい顔で誘惑をするな。








「どうやって入ったの」

 引き攣った声を弥生が出した。

 優雅な仕草で、バルコニーから部屋へと入る。

 月明かりから蛍光灯の下へ出ると、ゆっくりとした仕草で礼をした。

「お久しぶりというよりは、初めましてかしら? こうやってお話しするのは初めてですものね」

 桜がゆっくりと微笑むと、弥生はそれとは全く違う引き攣った声を出した。

「答えになっていないわ。何でこの家にいるの!」

 事を急かす弥生にやれやれと肩を竦める。

「少し面白い事を知ってしまったので、ちょっと取引をしてもらえないかと思いましてね」

 つつっと汚れ一つない壁を触りながら、何気なく言う。

 以前夏深が倒れる前に当子から弥生についての情報が欲しいと言って来た。その時調べた物にとても興味深いものが一つ。当子に教えても良かったがネタがネタだけに持ち出すかは解らない。使うか解らないカードを渡して無駄にさせるには惜しい程の好カード。

「私はあなたと話したい事なんて何もないわ。不法侵入で警察に突き出さないでと頼む方が懸命ではなくて!?」

 イライラとした声がする。

 夏深が当子を選んで宣戦布告をした時、当子にこのカードを上げなくて正解だったと痛感した。

 そんな夏深に対して当子が夏深の兄妹をコマに使って弥生を陥れるとは思えない。そこまで、当子は薄情にはなれない。夏深に上げたとしても、悩みを一層深めさせるだけだ。

「何がおかしいの」

 クスクス笑いを浮かべる桜に弥生がヒステリーな声を出す。

 さて、このカードはどれくらいの好カードかしら。

「夏深君の妹さん、確か秋江さんって仰ったかしら?」

 急な話の振りに弥生が眉を顰めていると、くすりと笑いをこぼした。

「不思議ね。それまで春夫さんとは不仲だったのに、秋江さんを身篭った少し前から急によりを戻しているなんて」

 弥生の頬の筋肉が強張った。

「・・・それが何っ」

 今にも人を呼ぼうとしていた弥生が体の向きを変えた。

 そりゃあ、人を呼ぶわけにはいかないお話だものね?

「それに、早産だった割りには体重が重いわ・・・あら、大丈夫?顔色が悪いわ」

 わざとらしく気遣った声を出す。

「あなたは何が言いたいの!」

 顔色が真っ青になっていく弥生に止めを刺した。

「試しにDNA鑑定をしたら・・・あら不思議、春夫さんが父親ではないじゃない」

 わざとらしく驚いた声を出す。

 今し方の夏深の宣戦布告に続いたあまりにも予想外なダブルパンチに完全に血の気が引いて弥生は今にも倒れそうだった。

「・・・・・何が目的なの」

 プライドからか、最後の力を振り絞って震える足をしっかりと地につけていた。

 話のわかる女で助かる。もう、何でDNA鑑定まで!?と言う爽やかなツッコミも出ないらしい。ツッコミを入れてくれたら色々と説明したい事もあったのに、例えば誰が本当の父親だとか・・・

「私もこれでも母親よあなたの子を思う気持ちが全くわからない訳じゃないわ」

 まあ自分が母親でなかったとしても、アタルさんの子供なら命懸けでも守ってあげるけどと母親らしからぬ事も胸中で呟いた。

「簡単な交換条件よ。この事実を口外しない代わりに、うちの娘にちょっかいを出さないでもらえるかしら? もちろん夏深君との仲も含めて」

 弥生が嫌 いな男のもとへ行くという茶番劇までして産んだ秋江だ。今さら父親が違うとなると、いくら弥生の子とはいえ立場が変わる。それほど春夫は悪い男ではない が、周りが黙ってはいない。弥生の立場も四季との繋がりが悪化する事で悪くなる。そんな状況で夏深と戦っては弥生は勝てまい。おまけに春夫の実子である夏 深の位置は弥生との子であっても貴重価値で上がる。次男に経営の才がないだけで確固たる地位にいる夏深だ、母親が誰でも父親が春夫である以上今更その位置 からはそう揺らぐまい。

 今夏深との喧嘩を止め、今後ちょっかいを出さないで置くか、愛娘と一緒に破滅するか、悩むような選択ではない。

 全く、ここまで悪女の似合う女は私以外にいないんじゃないだろうか。

 子煩悩の悪女同士、弥生とはこれから仲良くしていただかないと。

 弥生の背筋が粟立つ様な妖艶な笑顔を桜が見せた。






 腕の中で眠ってしまった当子を抱えて、脳の自制心を総動員して体を抑制しようと試みる。

 当子を家へ送り届けたはいいが、そのまま涙を流す当子を一人置いて帰る事はできなかった。宣戦布告をした以上、早々に対弥生計画を進めなければならないというのも解っているのに、一度抱きしめてしまったら強い磁石が引き付くように離せなくなった。

 小さい体 を抱きしめていると、子供が遊び疲れて親の腕の中で眠ったような印象を受ける。小柄の体をさらに縮めて、泣きながら眠りに落ちた当子酷く弱い生き物に感じ る。当子がいくら子供っぽくないとはいえ、まだとても大人とはいえない年齢なのだとつくづく実感させられる。そんな当子に、欲情している自分はいっそ哀れ だ。

 未発達な少女に今までそういった感情を覚えた事などないのに、当子だけはまだ15だと理解しながら欲しくて堪らない。

 自分の中でだけ当子を泣かせたい。他の男には見せない顔をして欲しい。

「・・・?」

 髪のかかったうなじの間に光るものが見えて興味本位で引き上げた。

 鎖を通し た指輪を見て一層自制心を働かせなくてはならなくなった。こんな物を見せ付けられて、思い切りに抱きしめてしまいたいのに、せっかく寝付いた当子を起こし そうで、その衝動の抑制もしなければならない。あの写真だけでも十分にそそられる物を、こんな形で指輪を持っている事実が酷く心地好い。

「・・・好きだ」

 起こさない程度の声で囁いた。

 背にかかった艶っぽい髪をそっと撫でる。

「好きだ。当子」

 今なら女の為に死ぬ男の気持ちが解る。






 朝目を覚ますと、家は静まり返っていた。

 桜も夏深も源氏の気配もない。どうしようもない孤独だけが漂う。

 ぼうっとした頭で、からからになった喉を潤そうと台所へ向かった。ついでに顔も洗おう。

 机の上にスペアキーを借りていくと夏深のメモ書きがあった。

 少なくとも記憶のある間は夏深が側にいてくれたのは覚えている。まるで小学生の様な醜態をさらした。そんな自分に腹が立つと同時に、夏深を側に感じるのは酷く心地好かった。

 夏深が側にいないだけで今朝は至極寂しさがある。

 冷蔵庫を空けたら牛乳に手紙とディスクが一枚貼り付けられていた。この手口は桜だ。

 それをひっぺがして、パックに口をつけてミルクを流し込んだ。

 冷蔵庫の唸り声だけが大きく聞こえる。

 その場に蹲って、吐き気にも似た泣きたい感情を必死に押さえつけた。泣いたって、何も得られない。泣いて頼んで桜を困らせるのは馬鹿らしい。泣いてお願いしてもじじいが生き返る訳じゃない。

 泣いたからって、許されるわけじゃない。夏深が現れる訳じゃない。

 何も解決しないのに、泣いたって、無様なだけだ。

 手紙を広げて、目を通す。

 泣きそうだった顔が、母親譲りの妖艶な微笑みに変わった。

「欲しいものは、自分で手に入れるわ」

 泣いても無駄なら行動あるのみ・・・だ。









「当子ここんとこ元気ないな」

 生徒会室に行きがてら、左九が小首を傾げた。

「そうでもないよ?」

 いたって何事もない顔で当子も小首を傾げるが、何か悩みがあるのは見てればわかる。

 まあ、教えてはくれないだろうけど。

「あーあ、でも次体育大会だよぉ。無理があるのよ。文化祭の後に体育大会って」

 一ヶ月くらいしか猶予がない体育大会の用意も無論当子はしている。体育大会は生徒会中心というよりは、生徒中心でその補佐を生徒会がしている。応援団は向こうから要請がない限りはほとんどノータッチだ。競技種目の調整くらいが体育大会での生徒会の主だった。

「文祭に比べりゃマシだけどな」

「まあね」

 途中運が悪い事に階段を下りてきた横峰と鉢合わせになった。

「あ、滝神さん主将が試合の件で話しあるから暇な時にきてって言ってたよ」

 一瞬目が合ったから、何事もないように横峰が当子に声をかけた。

「まだ言ってるか!?あの人は」

「先輩が百合乃下杯はうちから優勝を出すって意気込んでるから逃げ切れないと思うよ」

 剣道部のマネージャーには当子は人気が高い。ムサイ中で戦う当子はいっそ可憐だ。

「うわぁ嫌だなぁ・・・あ、教室に筆箱置いてきた。鈴ちゃんバイバイ」

 気を使ったのだろう。当子が回れ右をしてこちらの返事も待たずに小走りで去って行った。

 当子に無理矢理二人にされて、急に息詰まる。

「左九君。髪ピンクだね」

 横峰が視線を外して気まずい空気の中ぼそりと言った。

「この前、取り乱してゴメンね」

 目を伏せて言う横峰にこっちがバツ悪くなる。

「クラブの方、気にしないで来てくれたらいいから。あたし気にしてないし、左九君が試合してるの見るの好きだし」

「サンキュウ」

 性格は悪くないし可愛いのに、どうして横峰に恋愛的好きが生まれないのかは男として疑問だ。

 何となく変なわだかまりを持ったもの同士で見つめて軽く笑いあった。

 まあ、恋愛でなければ横峰とはいい友達になれるかもしれない。

「それに、あたし滝神さんのファンでもあるから、左九君が好きになるのも解らないでもないし」

 横峰も以前もめた時の当子と主将の試合は見ている。あれを見たら女でも惚れるだろう。特に剣道をやった事があってルールを知っている人間ならなおさらだ。

 当子のファン層の広さは予想外に広いのかもしれない。

「滝神さんにふられたら慰めてあげるからね」

「・・・・それはキツイなぁ」

 横峰の嫌味に、ピンク色に見事に染まった頭を掻いた。

 さて、クラブに顔を出したら、主将とかにどういう顔されるだろうか? 特にアノ先輩、小手と称して二の腕思い切り打たれたら嫌だなぁ。

 何にしても、横峰が性格が良くて助かった。これで嫌われるならまだしも、当子にまでとばっちりが行ったら流石にキツイかった。









 弥生から会社に出向いてきたのは意外だった。

「何の用です」

 冷ややかに聞くと、目の下に隈をつけた弥生が微かに震えた声を出した。

「昨晩、考え直したわ。・・・今後あなたと当子さんとのお付き合いについては口出ししないわ。実の息子と争っても意味がないしでしょう、それに、これ以上四季との確執は作りたくないのよ」

 平静を装う弥生がそう申し出るのに眉を顰めた。この女なら確実に潰しにかかってくると思ったのに、この180度向きを変えた態度は不可解だ。

「次は何を企んでいらっしゃるんで? 今更そんな事を言われてこちらが後に引けるとお思いですか」

 この喧嘩で被害を受けるのも長期戦になるのも承知の上だったが、先に白旗を振ってくれるならそれ程ありがたい事はない。だが、唯のフェイントでない保証などこの母親にはない。

「抜け目がないというよりは、私に信用がないんでしょうね」

 疲れた声で弥生が言うと、持って来た鞄から書類を取り出した。

「これだけすれば、満足かしら?」

 微かに赤い目で弥生が投げ槍に言った。








 九月でも夕方の日差しはまだきつい。

 あの馬鹿な女からの呼び出しで、大学近くの喫茶店の窓際で待たされていた。

 何で、私が待たされなきゃなんない訳と毒づきながらも、謝罪に来るあのガキの姿を想像してほくそ笑んだ。

 何分も経たない内に、店内の視線が出入り口に集まった。

 そう多くない客が横目ですらりとした女に目を奪われている。

 あの糞餓鬼がひらりとしたワンピースを身に纏って、あまりにも優雅に歩いてきた。

「お待たせしてしまいました」

 柔和な笑顔を向けられて、自然と頬が引き攣った。

 優雅な仕草で椅子に座るとオーダーを取りにきたウェイターに微笑みかけた。

「紅茶をお願いします」

「あ、はい」

 ウェーターが見惚れていた為に慌て頷いた。

「それで、お話って何かしら」

 あのウェーターからはサービスで何かつけたりされていたが、明らかに自分の態度と違う。

「もちろん夏深さんとの件です」

 動揺の色一つなく当子が微笑む。

 むかっ腹が立つ女だ。

「私もその事ではあなたとお話したかったのよ。何か誤解しているようだけど、私は夏深さんのお母様にお願いされたんですよ。いくらなんでも夏深さんを十も下の子供とおままごとさせるのは可愛そうだって」

 首をかしげていかにも迷惑そうに言ってやるが全く涼やかな笑顔を崩さない。

「でも、夏深さんは私とそのおままごとをする方が詩織さんと茶番劇をするよりもマシみたいですわね」

 この餓鬼と胸中で毒づいた。パパは少し待てば向こうから謝ってくると言ったのに、この餓鬼からはそんな気配がない。子供だからこんな事をしたら後々どうなるかなどわかっていないのだろうが、今日帰ったら直ぐに潰してもらわないと気が済まない。

「そりゃあ、夏深さんは妹みたいに可愛がってるそうですものね。でも、女として見れないなら婚約者は失格よね?」

 目の前の子供が、背筋の凍るような笑顔を見せた。

 気付かないうちに冷や汗が流れた。

「お、お待たせしました」

「あの、アイスは私では」

 ウェーターが来ると、さっきの表情が幻だったように紅茶と共に置かれたアイスを見てはにかんだ困り顔を見せた。

「い、いえ、サービスです」

 顔を赤くして裏返った声でウェーターが言うと回れ右して慌てて去った。

 こっちは以前パフェをサービスしてくれたんだと言いたくなったが、そんな情けない言葉は飲み込んだ。

「ありがうございます」

 愛らしい笑顔で会釈をすると、そのままの笑顔でこちらに向いた。

「それで、何でしたっけ?」

 わざとらしく聞き返す当子に詩織の頬が微かに攣った。

「オマケにどんな男にでも尻尾を振るんじゃ、結婚しても夏深さんが大変ね」

 それに、当子がクスクス笑いを浮かべた。






 堪えた表情はしなかった。

 きっと、こんな事でダメージを受けているなんて思ってもいないだろうし、顔色を変えて態々弱点を教える気にはなれない。弱点を突きにきたのは私なんだ。

 どんなに背伸びしようが変えられない、変わらない事実はある。歳の差は、いくら経っても追いつけない。それがどんなにももどかしいなんて教える必要はない。

「ああ、今日は以前少し不躾な態度をとってしまった事はお詫びしておこうと思ったんです。私の思い違いでとても失礼な事をしてしまいましたわ」

 思い出したように言うが、謝る気なんてさらさらない。せっかくのアイスをスプーンですくうと、口に含んでゆっくり味わってから再び口を開ける。

「でも、その事で恨みまで買う覚えはありませんの。正式な婚約者は私なんですもの」

 確かに、態々この女に見せ付ける必要はなかった。だが、夏深の隣にいて胡散臭い笑顔を振りまかれるのは癪に触った。

 馬鹿みたいに嫉妬したのは我ながら情けないが、

「あなたも夏深さんも大変ね。まともな恋愛結婚もできないなんて」

「私たちの場合はそうでもないですよ」

 言っておきながら、不安が過ぎる。

 この性格の悪いお嬢さんと一緒にいるとどんどん不快になる。とっとと止めを刺してしまおう。

 もう一口アイスを口に含んで味わった後、当子が軽く唇を舐めた。

「それで、お話というのは、私の先日の非礼の侘びに面白いものをお見せしようと思いまして」

 当子が懐から書類を一部取り出した。

「私としても、今後この事でシコリが残るのは色々と面倒ですので」

 書類を出されて、不審顔をしながら詩織が受け取った。

 当子がにこりと笑って詩織の反応を見ながら、残りのバニラアイスをゆっくりと味わい出した。

 口内に甘いミルクの味と冷たさが広がる。

 今の真情と同じ様な冷たい感情に甘い誘惑が混ざった味がする。

 数分も経たない内に、詩織の顔から血の気が引いていった。

「で、でたらめよ」

 興味なさそうに机へ投げると、煙草を取り出して火を点けた。

「こんな侮辱初めてだわ」

 肺一杯に紫煙を含んでからきっと睨んできた。

 声だけでなく指も震えているのが紫煙の揺れでわかる。

「・・・勿論裏付けもあるんですよ。これはほんの一部ですもの」

 最後の一口のアイスを飲み込んでから、日常の会話でもするような涼やかさで当子が答えた。

「な、何が目的よ」

 引き攣った声に当子が愛らしい無邪気な顔をした。

 親の力を使ったという面ではさして変わらないなと思うが、これは文化祭での報酬で得た情報だと正当化する。何よりも、喧嘩を売ってきたのはあちらが先だ。それに黙ってやられるようなタマではないのだからこうなったのは仕方ない事だ。

「別に詩織さんから物を脅し取りたい訳じゃないですよ。人から奪い取るのは趣味じゃないんです。同様に、自分の物を人に盗られるのは大嫌いなんですよ。だから、夏深との件は忘れてください。父親に『この事実』を知られたくないんでしたら、もう一度お願いしてくださいね」

 桜が、人間生きている以上、幾つかの表には出せない秘密を作ってしまうものだと言っていたのを思い出した。特に、こういう種類の人間は誰かを陥れる時に何らかの悪事が産まれるらしい。それについては、人の事を言えないのだけれど、

 煙草を揉み消して、詩織が疲れたように髪を掻き揚げた。

「解ったわ」

 力なく答えた。

 当たり前だ。こんな情報が公になったら、人にちょっかいを出している場合ではなくなる。何より、こんな事が父親に知れたら唯では済まないと理解したのだろう。

「安心してください。喧嘩を売られさえしなければ、態々他人の秘密を使って何かをしようなんてしませんから。こちらも、揉め事は嫌いなんですよ」

 これで、平和的解決ができた。

 夏深の重りになるなんて真っ平だ。

 妹と思われるのも、女と思われないのも、嫌だ。真っ平だ。

 こんな女の言葉に惑わされる自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。









 弥生が渡してきた書類はある意味で逆に裏が有りそうな代物だった。弥生が持っていた有力株の幾つかを譲ってきたのだ。他にも弥生に戦意がないのを示すように白旗ついでに謙譲品まで持って来た。正直この譲歩は気持ち悪いな。何か企んでいそうだ。

 かといって調査は欠かす事ができない。何か手を出してこないとも限らない。

 何にしろ、あちらに戦う意思がない以上喧嘩をしてもなんの得もない。揉めないに越した事はないのだ。

「全く」

 溜息を付くと、携帯を見てメールが入っていたのに気づいた。

 当子からのメールだ。馬鹿なお姫様の件は方をつけたと書いていた。当子のやる事に不審を持つ訳ではないが、何でもできるというのも考え物だ。

 こちらも向こうにその気がない以上、喧嘩をしても損失が出るだけだ。動きがないかは注意が要るが、これでやる筈だった仕事がさっぱりと浄化されてしまった。戦争準備をし出していた分、拍子抜けだ。

 結局当子を守る為に何もしていないなと溜め息が出た。

 当子は守られるだけのお姫様でいたくないのだろうが、たまには全て任せてもらいたいものだ。

 この分だと俺が捨てられるのもそう先ではないかもしれない。

 その時、当子を放す自信がない。あれ以上大切にしたい女はいない。生涯他に現れるなんて希望的考えもない。

 好きで好きで仕方ない。その反動でふざけた嫉妬で当子を犯した事に酷い罪悪感が消えない。それでも、当子を抱きしめている時何度も当子を手中で泣かせたくなった事か。

 壊したいほどに愛して止まない。倒錯した愛情に狂いそうになる。

 ここまで女を抱きたい衝動に駆られたのは初めてだ。

 欲しくて堪らないのに、こちらからは求められない。このまま行くと、又馬鹿をして罪の意識で死ぬか、欲求不満で死ぬか、だ。








「当子ちゃん。三連休の間に生徒会で打ち上げしない?」

 生徒会室で文化祭の後始末をしていた燐火が甘えたような声で聞いた。

「・・・・そうですね。文化祭で着服したマネーが結構ありますから、ボーリングでも行きますか?」

 いつの間に着服したかは知らないが、この生徒会長なら学校行事でもタダ働きはしそうにない。一学期には知らない間に冷蔵庫が生徒会室に入っていた。

「あ、僕金土は無理です」

 文化祭の代休は土曜に入っている為、秋分の日と日曜の間に代休が入って三連休になっている。その内明日、明後日はクラスの打ち上げと家の用事が入っている。

「じゃあ日曜行こう」

 結局、文化祭の終わりまで捜したが燐火の姉は見つからなかった。その日は落ち込んでいたが、今は空元気と言った所か、

「左九君もいけるよね?」

「いいスよ」

 アンケート集計をしているフザケタ色頭の左九がやる気なく返した。

 つくづくふざけた奴だが、性格を全く無視すれば、変な色に染めていても不恰好ではない。似合っていてもいなくても、学生で(一応校則違反)それも生徒会役員がこんな頭をしているのはどうかと思う。当子が容認しているので何か言う気はないが、やはり人として好きな奴ではない。

「日曜のお昼過ぎに学校に集まります?それか現地集合かどこか別に集まりますか?」

「うーん。自転車で学校集合でいいんじゃない?」

 細かい事を当子と燐火が決めていると、誰かの携帯が鳴った。

「っと、少し失礼します」

 当子が慌てて出て行くのを見送ってから燐火が猛に身を乗り出して聞いてきた。

「彼氏かしら?」

「・・・先輩、おばさんみたいですよ」

「ひどー。そんなんだから彼女できないのよ!」

 無意味な八つ当たりを受けて、事実だけに苦笑いしかでない。






「・・・もしもし」

 人が来ないのを素早く確認してから電話に出た。

『今晩暇か?』

 声を聞いただけで、胸が詰まる。

「一応開いてる」

 純粋に嬉しい電話なのに、あの言葉がどうしても離れない。

 ドロドロした感情に気分が悪くなる。

『久々に外食に行かないか?』

「行く」

 夏深の言葉に即答した。

「できれば素敵なお母様がいないと嬉しい」

 高々夕食の誘いだけで子供みたいに喜んでいるのを誤魔化すような、嫌味が出る。

『その事でも少し話があるしな』

 夏深があの母親に宣戦布告をしたのを聞いて嬉しかったのは失態だった。あんな事を言わせたかった訳ではないのに、言われて、泣きたいくらい嬉しかった。

 弥生が実の息子だからといって手加減するわけでもない。自分の味方に付いたが為に夏深の立場が悪くなるのに、喜んだ自分がつくづく嫌になる。

「ごめ・・・何時くらいに来るの?」

 謝りそうになったのを慌てて飲み込んだ。

 謝ってどうなる訳でもない。謝るくらいならとっとと別れてしまったら良かっただけだ。人質を取られて別れると言わないとならなくなった時、止められて喜んだのだ、礼は言っても謝るのは可笑しい。

 それに謝って何かの足しになる訳じゃない。それで、返せた訳ではない。

 どんどんギブ・アンド・テークから離れていく。







   九   愛をもっと






「どうかしたのか?」

 ほとんどと言っていいほど食の進まない当子に声をかけた。

 元々どちらかと言うと小食だが、今日は少し異常だ。それに、どこかよそよそしく上の空だ。

「何でもないわ」

 高熱を出しても平気だと言い張る当子のその言葉をどこまで信用していいものか疑問だが、顔色は悪くない。

 ちょっとぼうっとしてただけだと言いたげに、当子がとても15には見えない優雅な手つきで食を進めていく。

「そういえば、そっちも降伏してきたってどう言う事?」

 何事もなかった様に当子が小首を傾げた。

「そのままだ。今の所それが本当らしい」

 それ以外に言う事がなくて肩を竦めた。

  あのまま弥生と対立してタダで済むとは思っていなかったが、黙って引き下がるつもりもなかった。同時に当子の求めている金と権力のある男でなくなる危険も あったが、それで捨てられたらそれはそれで考えるしかなかった。何もせずにあっさり当子と別れて別の女と結婚なんて考えられない以上あの行動以外に手はな かった。

 喧嘩を売った事に後悔はないが、一度は喧嘩を買った母親が掌を返した対応は不思議でならない。むしろ不気味だ。

「わざわざ無駄に潰す訳にはいかないから、しばし様子見に徹するしかないわね」

「そう言う事だ」

 無駄に質問攻めにしたりおどつく訳でなく歳不相応に肝が据わっている。頭がいいのは認めるが、それ以上に芯が強いのだろう。

 とても、男の庇護が必要に見えない。言ってしまえば一人が似合う女だ。それでも、そんな当子を守りたいなどと、お節介もいい所だっただろう。

 食事時はベラベラと喋るタイプでない当子が、細い唇に白身魚を運ぶのを見ながらやはりいつもと違う気がした。

 体調を壊しているのかもしれない。あの微笑の下に何を隠しているのか正直掴めない事の方が多い。注意深く観察して、目を凝らさないと風邪を引いているのかも解らないだろう。

 これでは婚約者としては合格でも、恋人は失格だ。






 自分の馬鹿さに吐き気がする。

 夏深の言葉ではないと十分理解しているのに、頭から呪の様に離れない。

 こうしているのも、夏深の唯の罪悪感や責任感でないと保障がない。義務で優しいだけかもしれないではないか。

 妹みたい。

 女として見られない。

 唯の言葉に心臓が締め付けられるようだ。

 あんな女の言葉でここまで動揺しているのは、どこかでその不安があったからだ。それが肯定されたわけでも否定されたわけでもないのに、怖いのだ。

 他人の言葉にこんなにも動揺させられたのは初めてかもしれない。

 夏深が気遣って優しく接する度にまるで子供扱いを受けている錯覚を覚えて涙が出そうになった。

 中毒は中毒でも、致死量に達している。夏深が足りない。一緒にいても不安なのに、少しでも側にいたい。

 人目を気にせず懇願したくなる。妹でいたいわけじゃないと、子供扱いしないでと泣きそうになる。

 情緒不安定にこんなに動揺したのは祖父さんが死んだ時以来だろう。あの時と違うのは絶望と喪失感だけで一杯でない所だ。

 嬉しい事が反面的に恐怖を生む。夏深を好きであるが為に、どんどん落ちていく気がする。不安に駆られて、他人の些細な嫌味までが脳を腐らせていく。

「熱はないな」

 不意に夏深の手がおでこにやられて、行き成りの事に驚いて見上げた。

 いつの間に目の前に来たのか解らないほど、今の私の頭は混乱しているらい。つくづく落ちたものだ。たった一人の男にこんなにも不安にさせられるなんて、

「文化祭とか色々あったから、少し気が抜けているのよ」

 顔色を変えず目の前に来た夏深にこんなにもドキマギさせているなんて知られないように顔を取り繕う。

 あんな言葉にこんなにも動揺している自分が情けない。知られたくない。

 こんなに弱くはなかった。いつからこんな事になった?

「・・・・飯はもうよさそうだな」

 あまり進まないディナーを見て皮肉っぽい苦笑いを浮かべられた。夏深が優しく腕を掴んで席を立たされる。

「行くぞ?」

 ディナーの途中だとか、もったいないとか、色々な事がわからなくなる。夏深の優しい声音に操られるように付いて行くしかなくなった。

 今日の私はオカシイ。






 今日の当子は酷く疲れているようだった。

 熱はないが食欲はなさそうだ。何よりも、心ここにあらずだ。

 生徒会長をしていた事がある為、文化祭後の脱力感と無気力感は覚えがある。おまけに直ぐ後にあんな事まであっては、いくら当子でも疲れが出て当たり前だろう。

  レストランを出てエレベーターに乗り込むと、当子がまるで幽霊でも掴むかのように恐る恐るに手を伸ばしてきた。微かに震えている当子の手が夏深の手を掴 む。そんな子供染みた行動を取る当子が物珍しくて、力を入れ過ぎない様に気を付けながら握り返す。顔を覗き込むとどこか血の気が引いた様な顔をしている。

 やはり気分が悪いのだろう。

「大丈夫か?」

 ただただ心配で声をかける。

「・・・・平気。ちょっと疲れてるだけだから」

 髪を耳にかけながら見上げて何事もないように言うが、当子の平気やちょっとには信用がない。

 無理も無茶も笑顔で堪える性分があるのは嫌と言うほど見せてもらっている。やはりこのまま当子を誰もいない家に一人置くのは心配だ。

「お前の平気は信用ならない」

 不服そうに見上げてくる目を悪びれなく見つめ返していると、軽い重力を感じて当子がぱっと手を放してしまった。

 人前で甘えるのは嫌なのだろうが、当子の手の感触がなくなってどこか寂しいものを感じた。

 頭が良くて肝も据わっているが、こう言った甘える事には特に抵抗が強いらしい。これだけは当子の盲点らしいが、それでも手を繋ぎにきたのは十分進歩したといっていいだろう。至極可愛いと言ったら怒るだろうか?

 これ以上成長を急かすのは酷だと思いながら、十も年下という事実を忘れさせる当子の歳不相応さを見ていると、こちらの我慢が酷に思えてくる。

 まさに葛藤だ。






 車の方向が違うのに気付いて見上げると聞く前に返された。

「俺の家へ行く。あそこなら親父が当子の部屋をおいたままだし、何の用事もしなくてすむだろう。ぼーっとしたまま指でも削ぎ落とされては堪らんからな。・・・疲れているなら少しは休養しろ」

 軽く肩を竦められて言い返す言葉を飲み込んだ。

 気を使ってこんな事までしてもらってはもらい過ぎで返せなくなると思いながら、夏深の側にいたい欲がごちゃ混ぜになって間抜けた事を口走りかねない。

 確かに、休養は必要かもしれない。こんな不安定な状況ではどんなミスを犯すか解ったもんじゃない。








「こんばんは秋江さん」

 声をかけられて、一瞬嫌な顔をしそうになったが当子の後ろに立っているでかい夏深が先に嫌そうな顔をしてきた。家に堂々と女を連れ込む男にうざがられる覚えはない。

「・・・言われなくたって邪魔なんかしないわよ」

 冬祈が女を連れ込んできたら何としても妨害するが、夏深がどれを連れ込もうが関係ない。

「当たり前だ。人にちょっかいを出す前に受験だろう」

  家に有り余っている金を使えばどこにでも行けるが、夏深も冬祈も完全に実力だけで進学している。夏深がどう思おうが構わないが、冬祈に失望はされたくない と頑張ってはいる。それでも、できのいい兄とは違って全然勉強が進まない、それを知っていて嫌味を言う夏深にムカついた。

「ムッツリ詐欺師が偉そうに言わないでよ」

 通り過ぎる時に後ろから蹴っ飛ばして逃げながら叫んだ。

 落ちたら今までの夏深の女性遍歴写真を、夏深お気に入りの当子に送りつけてやる。





「格好悪」

 当子が小さく笑いを漏らしながら言った。

「全く、躾けの悪い妹だ」

 あれで当子よりも年上なのだから情けない話だ。

 もっとも、当子の様なできのいい妹がいたら後継者争いに加えてシスコンにまでなりかねない。少し馬鹿で憎めまではしない程度が、妹としては丁度良いのかもしれない。

「何かあったら内線で呼べ」

 部屋の前で別れを告げようと髪を撫でたら、当子が微かに顔を歪めて泣きそうな顔をした気がした。

「・・・おやすみなさい」

 そっと離れた当子が囁くような声を出した。

 手の中から、当子の髪の感触が消えた。

 離れていくのは常に当子からだ。こう言った時はどうしても個人として欲せられていない気がしてならない。

 当子の後姿がどうにも寂しかった。

「・・・・っ!」

 衝動的に当子が部屋に入る前にそっと抱きしめた。当子が腕の中で息を詰めて身を硬くするのを感じて、警戒を感じ取ってしまった。それが無性に悲しい。

 こう言う事をすると身を引くのは強要する様な馬鹿な男が相手なら当たり前の反応だ。大抵は引きたい衝動を隠せても、唐突の行動にまで感情の制御ができなかったのだろう。

 襲うならこんな人目の多い場所でなく、今日のレストランのあったホテルにでも連れ込んでいる。純粋に当子への心配で家に連れてきたのに、この反応は心苦しい。

「おやすみ」

 そっと当子を解放した。当子が微かに震えているのには、胸が押し潰される様だった。

 今ではそれ程気にしないようにしていた。それが罪悪感を薄める為の身勝手な事だと認識させられる。当子があの事でどれ程傷付いていたのかを、再認識させられて腹にナイフでも突き立てられた気分だ。







 頭の歯車の回転が狂う。油が切れて、鈍い音を立てて歯車がズレる。

 心臓が痛い。






「待って」

 声が震えるのは解っている。こんな動揺したまま何を言っても本心に捉えてもらえないんじゃないかと一層不安が募る。

 あまりに心地よかった腕から突き放されて、動揺と不安で夏深の服を掴んだ。

 今まで堪えていた感情が沸き立つ。自分でも自覚しきれていなかった感情が一度現れると、溢れ出すと止まらなくなる。

 ここまでドロドロした気持ちがあるなんて思わなかった。想像よりはるかに汚い。

「一人にしないで・・・」

 涙は必死に堪えた。泣いては駄目だとそれだけは必死に言い聞かす。それでも、震えまでは完全に止まらない。喉が震えて不恰好な声を出したくなくて短く声を絞り出す。

 こんな状態で唯一人取り残されたら、本当にどうにかなりそうだった。不安に殺される。

「わかった」

 苦笑いなのか優しい笑顔なのか解りかねる表情をされる。目が潤んで微かにぼやけて見える。

 こんな弱い自分は大嫌いだ。返せるものなんてないのに、欲しがってばかりで、貪欲で、唯の重りではないか。






 何か遭ったんじゃないだろうか? 自分の知らない内に、何かあったんではないかと気にかかる。

 ここまで当子が弱っているのは異常だ。当子の祖父が死んだ事でしばらくは動揺がぶり返す事はあった。最近では大分心の整理ができた様でそんな事もなくなっていた。

 誰かに何かされたのか、言われたのだろうか? それともどうしようもないトラブルでもあったんじゃないかと訝しんでしまう。

 こういう時くらい、少しは力になれるかもしれない。

 何よりも、側にいる事で安心させられるならいくらでもいてやりたい。

「何かあったのか?」

 できるだけ優しく問いかける。

 頭を振るう当子に余計な不安を煽られる。取り越し苦労のデパートの様に色々な不安が浮かぶ。馬鹿な妹が仕掛けた罠の事を思い出して、ゲスイ物までが頭に回って吐き気がする。

 だが、全てが妄想だと否定できない。

「答えてくれ。何かあったなら・・・・」

 一先ずソファに座らせた当子の目線に合わせる為に、膝を付いて屈む。身勝手な不安を取り除きたくて何としても何か聞き出そうとしたが、途中でぎこちない動きでキスをされ言葉が切れた。

「おね・・がい。子供扱いしないで・・・あたしは、妹じゃない。夏深の庇護が欲しいわけじゃないっ。夏深の金や、権力が・・・欲しいわけじゃない」

 唇を離して、当子が間近で今にも泣きそうな声を出す。

「これ以上、不安はもう嫌だ」

 涙が、当子の目から零れ落ちる。

 何が言いたいのかがはっきりと理解できる前に、当子が悪魔の様な事を呟く。

「お願いっ、抱いて」

 喜びよりも怒りに近い黒いものが押し寄せてきた。

 いつ、子供扱いをした?秋江に対するような態度を取った? 常に女としてしか見れず、どれだけ罪の意識で触れるのを躊躇った事があるか知っているのか? 金と権力のない俺に用がないと言いながら、そんなものはいらないとまで言う。

 当子に不誠実に接した事もない。

 今までの事が全て信用できないとでも言うように、抱けだと!?

「お前が、そんな馬鹿な勘違いを起こすとは思いもしなかった。 俺が、俺がどれだけ当子の事を思っているのか全く知らないとでも言うのか!?」

 今までに見せた事のない獰猛性が隠しきれなくなり、当子の肩を掴んで手荒く背凭れに押し付けた。

 とてつもなく無様だ。

「・・・・・・って」

 上手く言葉を紡げなくなった当子が喘ぐように意味を成さない言葉を漏らした。

 怯えた目をしている当子を見て、正気の部分が総動員で本能を押し付け当子から見えない位置へ押しやろうと努力する。

「風呂に入ってくる。それまでに今の言葉に後悔しているなら逃げるなり隠れるなりしろ。でなければ、どうなっても知らないぞ」

 ギリギリの自制心で言葉を吐くと、当子から手を放した。ハンマーで頭でも殴られたような顔をする当子から顔を背けて、今すぐに喰ってしまいたい衝動を律した。

 今日の当子は様子が可笑しい。それにつけ込む様な事はしてはならない。

 頭を冷やす必要がある事は確かだ。






 一人取り残されて、恐怖が体を蝕み出した。

 あの時の事は事故だと頭で消化し切れていると思っていた。なのに、あの時と同じ夏深の目を見てどうしようもないほどに怖くなった。

 今、私は何を言った?

 訳がわからずに頭を抱えた。

 怒らせたかった訳じゃない。ただ、怖かった。あの女の言葉が呪のように頭に渦巻いて、まるで次第に事実のように感じてしまう。それが酷い恐怖になった。この恐怖の方が何より怖かった。

 ある意味で自分の一番本音に近い部分が涙と一緒にこぼれた。夏深は優しすぎて、与えてくれ過ぎて、それに何も報いる事ができなくて、ギブ・アンド・テークなんて調子のいい事を言って、矛盾した自分を感じてどうしようもなくなった。

 いつもと違うのも、実際疲れているのも認める。それでも、嘘や倒錯して思ってもいない事を口走ったわけじゃない。

 離せなくなったのは指輪だけではない。普段ははめない指輪を薬指にはめた。

 不安で押し潰されそうで、少しでも逃げたくて本音が出たんだ。

 怒らせたかった訳じゃない。

 嫌われたかった訳じゃない。

 唯、この不安から逃げる方法が思いつかなかった。夏深が、私と同じ様に自分を欲して欲しかった。何でもいいから少しでも返したかった。恐怖を払拭してしまいたかった。

 嫌いにならないで・・・・っ。






 温度のない水が雨のように頭から降り注ぐ。

 熱を帯びた感情を凍らせたいかの様に、凍えるような冷水をかぶった。

 あのまま当子の側にいたら、又、傷付ける事等容易い。そして、それを回復するは一生以上が必要になる。

 当子に求められるのは純粋に嬉しい。だが、あんな弱った当子を犯すような事はしたくない。例え同意の上でも、二度とあんな事をするのはゴメンだ。ただただ泣かして、脅威になりたい訳ではない。

  当子を壊れ物のように扱っていなかったとは否定しかねる。一度壊してしまっては二度と戻らない。だが、餓鬼扱いも妹扱いもしていない。常に欲の対象で、絶 対に傷一つ付けたくない大切なものだった。力加減を一つ間違えれば崩れるもろい関係の様で、手を出せなかったのも否定しない。

「クソッ」

 何故高が女一人にここまで動揺させられなくてはならない?童貞でもあるまいし。

 戻って、当子がまだいたらどうする? 怯える当子を抱かないでいる自信などない。オマケにこのままボイコットすれば、当子の言った不安を増長させるだけなのだ。

 当子が逃げてくれる事を祈るなんて、つくづく馬鹿だ。








「全く、使用人か何かと勘違ってるよ」

 父の春夫が帰ってきて早々、当子が来ているのを知ると直ぐに呼んで来いと命じられて冬祈は一人不平を漏らした。

 階段を上がった時点で、濡れた髪をタオルで乱雑に拭いている夏深を見止めて何気なく声をかけた。

「あ、兄さん。丁度良かった。父さんが当子ちゃんに会いた」

「今日は無理だと伝えろ」

「―――あ、ぁ・・・はい」

 言い捨てられた言葉に、文句を言うのはごくりと飲み下した。

 基本的には無関心だが、腹違いでも何でも軽蔑はしない夏深の目が、獰猛な猛禽類の様に睨んできて危険を察知して回れ右をした。

 ご機嫌斜めと言うよりも、危険な程に機嫌の悪い域だ。

 理由とか、春夫への言い訳よりも、夏深の目の前から消える事が先決だ。








 失望していいのか、喜んでいいのか解らない。

 逃げてくれれば良かった。広い家だ、逃げ場所なんていくらでもあっただろう。そんな所で小さくなって、狼に追い込まれた兎のようにならずとも十分逃げられる猶予を与えてやったというのに。

「逃げていればいいものを」

 声を聞いて初めて気付いたように小さく肩を震わせて、抱えた足から顔を上げた。せめてもの救いは、もう涙を止めていてくれた事だ。怯えている上泣かれては、嫌でもあの時を思い出す。

「・・・身の保障はできないからな」

 そもそも、家になんて連れてくるべきではなかった。

 これなら一人きりの家で倒れている方が余程マシだっただろう。

 当子を抱え上げて、寝室へ運ぶ。まだ生きている理性がそっと当子をベッドへと下ろす。

 抱えて気付かない訳はない。微かに震え、怯えている。まさに追いやられた兎だ。狭い檻の中の小動物を狩るのは容易い。

 相手がこんな馬鹿な男なら怯えて当たり前だ。

「夏深っ」

 喉を震わせて、名前を呼んでももう止められる自信はない。後は殴り飛ばして助けを求めるか、大声で叫んで運よく助けが入るかしか当子に逃げる道などない。

 当子の髪が蜘蛛の巣のように広がる。罠にかかったのはどちらかと皮肉気に考える。

 震える腕を伸ばして、そっと頬に当子の指が這う。一部だけ硬く冷たい感触がして、左手の指輪に気が付いた。そっと手を取って目を細めて観察すると、あの時の指輪で泣きそうな程嬉しい演出にいっそ泣きたくなる。

「き。好き」

 泣きそうに潤んだ眼でそんな事を囁いて、唯で済むと思っているのか?

 こんな男相手に愛を囁いても無駄だ。

 愛しすぎる女から求められて手を出さないでいられるほど間抜けではない。欲が浅くもない。

 できるだけ自制をかけて不器用なキスを落とす。

「俺から、一生逃げられると思うな」

 今にも流れそうな程に涙を溜める目尻に口付けして、しっかりと目線を合わせた。

「俺には当子以上に愛する人なんて現れはしないんだ」






 怖がっては駄目だと言い聞かせても体の震えは止まらなかった。夏深の手が凍えるように冷たくて余計に震えが出る。

 夏深が好きで好きで、失いたくないのにこんな事では駄目だ。夏深から逃げる気などはなくても、こんなに怯えていてはそう思われても仕方ない。放す気がないのは、私も同じなのに、

 体が言う事を聞かないなら言葉で言うしかないではないか。

「身も心もあげるから、嫌わないでっ」

 目尻から水滴が溢れた。

 女に見られないより妹に見られるより、夏深のいらないものになったらと考えると恐怖が止まなくなる。

 人の気持ちはあまりにも不確かで、捕らえ所がなくて、常に変わるからいつそうなるか解らなくて、怖い。

 少しでも夏深の必要なものになりたかった。

「嫌いにだけはならないで」

 呪縛される。







   エピローグ






 雨の音で目が覚めた。

 意識がハッキリして、夏深の腕に抱かれて眠る自分が裸で夏深もそうであるのに気が付いて心臓が早鐘のように打ち出した。

「・・・・・・・っ」

 無意識に涙が溢れてきて、嗚咽を上げそうになって、必死に唇を噛んだ。

 違う。

 私は何を勘違いしていたのだろう。

 これで、夏深が繋ぎ止めれるわけじゃない。夏深の全てを得られるわけじゃない。何の保障にもなりはしない。

 また一つギブアンドテークから離れただけではないか。結局自分は与えられるだけではないか。

 こんなに、こんなにも近いのに、何で、何で夏深はこんなにも遠いの・・・








 声を立てず、身を小さくして泣いているのに気付かない振りをした。

 こんな綺麗な動物を腕の中にして眠れるはずもない。

 あんな混乱した当子を抱いて、後悔がないと言えば嘘になる。今泣く当子を肌に感じて、胸が締め付けられる。

 当子が嫌いにならないでと言った言葉が重い。

 いっそ嫌いになってしまいたかった。こんなにも唯一人の人間を思うのはどうしようもなく恐ろしい事に思える。ただ側にいたいだけで、それが何よりも愛しいのに何よりも恐ろしい。

 もし、当子がこちらに嫌気が差したとしても、放せる自信がない。抱くだけでは足りない。それでも、今泣いている当子を見ると、苦しくてならない。

 つられて涙が溢れそうになる。

 こんなにも愛しているのに、それを突き放すように、芝居の合い間の本性のような涙を見せられて、どうにもならない感情が湧く。

 どこまでが当子の本心かが解らない。

 当子は、金も権力も庇護も要らないと言った。それをどこまで信じていい?唯の男として求めている証拠がどこにある?

 これ以上焦がれたら俺はおかしくなる。

 当子を壊してしまいたい程に、愛しい。






 こんな陶酔状態が三年で終るなら、次は倒錯した状態にでもなるんだろう。