三   赤目の兎





「何の用だ?」

 私用の携帯電話に大和から着信があった。珍しいといえばかなり珍しい。今は当子の企画を担当している為、その用かと考えていると耳に痛いほどの罵声が飛んだ。耳元のスピーカーの最大出力が出ていただろう。

『最低っ!!!』

 行き成りの事に意味が解らずにいると、次の言葉で血の気が引いた。

『何が仕事よっ。まさか当子ちゃんがいながら二股かけるなんて思わなかったわよ。あんたの事買被り過ぎてたわっ!』

 まさかと頭の中で反響する。一瞬で最悪の想定が頭に浮かんだ。

「どう言う・・・」

 唖然として間抜けな声が出た。

『そのままじゃない。あんたが別の女とキスしているところを当子ちゃんが見たのよ! あたしも!!』

 パニックが押し寄せる。まさか、どうしてあの場に当子がいたというのだ?

「・・・当子は、当子はそこにいるのか!?」

 どんなに格好悪くとも、当子には弁解がしたくて早口で聞くと苦い声がした。

『今家に送った所よ。電話してあげただけでも有り難いと思いなさい』

「家にいるんだな!」

 仕事など構っていられない。あんな些細な事とは言え、大和がここまで怒っているのだ。当子の反応など考えたくもない。

『行っても無駄だと思うけど』

 大和の声が冷ややかに響いた。







 頭が可笑しくなりそうだ。

 あんなキスはただの子供騙しではないか。こんな馬鹿みたいに動揺する必要があるか? お嬢様への接待という「仕事」だっただけではないか。高々、夏深の誕生日に夏深が別の女といただけではないか。唯、謀られただけではないか・・・唯っ

 布団に押し付けた鼻がツンと痛むのは圧迫されているからだけではないと気付くのに時間がかかった。目から涙が溢れて止まらない。

 心臓を鷲掴みにするように、服を鷲掴みにした。震える肺に不恰好な音を立てて空気を吸い込むと次には嗚咽のように息が漏れ出る。

 何でっ、こんなに苦しくなんのよぉ・・・







 ママを放って外で美味しいものを食べてきたと思ったら、帰って直ぐに部屋に閉じこもってしまった。顔が蒼白で必死に涙を堪えているのが解った。

 送ってくれた大和という女性に完結に理由を聞いたが、全く、可愛いったりゃありゃしない。男は浮気をするもので、ウッカリ見てしまうのが悪いのだ。

 丁度サスペンスで2人目が殺された時にインターホンが鳴らされた。深夜とまでは行かないものの人の家に来るには遅い時間だ。

 全く、浮気がばれて大慌てで言い訳をしにくるだけいいではないか。幸せ娘が、

「当・・・」

 夏深が当子にしては大人びている当子の母を慌てて当子と呼びそうになったのを飲み込んだ。門の前に立っている夏深が、一息ついて言った。

「夜分遅くにスミマセンが、当子さんはいますか?」

 シャツが汗で濡れているのは夏の暑さの所為だけではないようだ。自信家タイプの男がこんな情けない顔をするのは可愛くて仕方ない。

「ちょっと待っていらして」

 優美に微笑んでから当子の部屋へ向かった。何だかんだいって愛されているではないか。

 部屋をノックしても何の答えも返ってこないのでそのまま開けると、当子が制服のまま着替えもせずにベッドに突っ伏していた。

「当子、起きてんでしょ?夏深君来てるけど、あがってもらうわよ」

 意地悪く言うと、唸り声が返ってきた。

「追い返して」

 鼻声で顔を見ずとも泣いているのがわかる。

「お母様に物を頼むと高いわよ?」

「解っとる」

 まあ、好き物同士なのだから多少の雨が降った方が地も固まるというもの。まあこのまま土が全部流されるようならそれまでの関係ってだけだ。

「その言葉忘れちゃ嫌よ」

  弱った娘に付け込むあたり素敵な性格だと思う。何せこんな事でもない限り当子は母親に頼ろうとしない。ギブ アンド テイクなんてもっとうを持たせて育て たものだから、ちょっとした母のお願いも何かと交換でなくては聞いてくれなくなった。だから、これで先にカシを与えてしまえばささやかなお願いも聞いても らえる。

 揉めてくれたのは棚ぼただ。態々取引をしなくて済んだ。

 門の前に車を付けて焦りを隠せない夏深に向かって悪い知らせを届けるのも中々楽しい役だ。

「御免なさいね。眠ってしまったみたいなの。急ぎなら起こしますけど?」

「・・・いえ、結構です。明日又来ます」

 一瞬動揺を隠し切れずにたじろいだが礼儀を思い出してしまったらしい。このまま押し入って頭を下げられてはこちらとしてもつまらないからいいが、少しぐらい強引な方が桜的にはタイプだが、

「その様に伝えますね」

 当子が自分を笑顔の悪魔と陰口を囁くのが解る気がする。

 この程度の波瀾で駄目になる位なら、いっそ今駄目になってしまったほうが当子の為だ。持ち堪えられないならそれも良し、持ち堪えれるなら又それもいいだろう。







「横峰と付き合う事にしたって?」

 二学期初日の稽古で主将がさらりと聞いてきた。

 この主将とは以前あんなに面白いくらい揉めたのに今ではそれをさっぱり忘れたように他の部員と同じ対応をしてくれている。もう一人の殴っちまったほうは未だに余所余所しいが、他の部員とも案外仲良くやっている。

「はやいっスね」

 面タオルを水道で流しながら照れもなく返した。

 昨日まで4日間剣道部は短い夏休みをしていた為その休み明けに横峰が言ったのだろう。

「アッサリ諦めたんだな」

 他の部員は型稽古をしているかシャワーを浴びに行っている。遠くに野球部の声が聞こえるが、後は蝉の声だけが響く。空気が、じめじめと暑い。

「何の事スか?」

 しらを切っても意味はないらしい。隠してはいなかったが、やはり当子に対する気持ちは周りにはバレバレらしい。

「会長だよ」

「当子は関係ないっしょ」

 面タオルを絞りながら何気なく返す。

「・・・・」

 何となく憐れんだ視線を感じた。

「別にいいが、横峰泣かしたらうちの連中がキレるぞ。横峰の事好きな奴も何人かいたんだ」

 それは横峰に見る目がなかったのだろう。派手な頭に注意を引かれてきたのが悪いのだ。

「ま、会長を諦めれたのは良かっただろうがな」

 大きなお世話だ。





「・・・進んでませんねぇ」

「おわっ」

 行き成り真後ろで声がして猛が飛び退いた。

「滝神さん」

 当子の急な登場に一瞬肝を冷やされた。

「原案は固まりつつあるけどね。クラスの出し物にも刈り出されたし、生徒会の雑務もあってね」

 我ながら言い訳めいているがどんなに頑張ってものれない時は一筆も下ろせないのだ。

「無理をお願いしているのは承知の上ですから」

 真っ白いキャンバスに一瞥をくれてから、

「お聞きしたいのですが、西澤先輩の横のクラスってMCですけど、どんな状況なんですか?」

「・・・あー、問題児クラス」

 因みに言えば左九は一年の問題児クラス通称MCだ。一年のMCは当初から当子が目を光らせ内部にMCでも異色の左九がいる為さして問題児化はしていないが、二年のMCは何かと噂が絶えない。三年も中々素敵な荒れ具合だったが当子が会長になった頃から急に大人しくなった。

 私立で進学率も運動部の成績もいいが、多少金持ちで頭が良いか運動神経があれば素行が多少悪くとも入学できる。まあ、腐った林檎心理か、問題児はMCに振り分けられる。

「ちょっと五月蠅いかな。文祭の準備はちゃんとしてるっぽいよ。・・・何か問題あった?」

 唐突な問いになんか問題でもあったのだろうかと聞いた。

「いえ、ちょっと気にかかっただけです」

 当子の考えはどこまで先を考えているのか不思議になる。

「そう言えば、滝神さん最近疲れてるらしいけど、今のうちに少し休んだほうがいいよ」

 燐火から聞いた事をさらりと言うと、当子が皮肉っぽい笑顔を見せた。

「それ程疲れていると言う訳ではないですよ。色々と考えるところが多いだけです」

 苦笑いを引っ込めると肩を竦めた。

「生徒会の方は最低限して下さればいいんで、大幕の方お願いします」

 燐火が最近の当子ちゃんハイ過ぎて怖いと言っていたのが解る気がする。確かに今の当子なら生徒会の仕事を全てやってしまえそうだ。

「じゃ、失礼します」

「そう言えばどこか行く途中?」

 当子がここへ顔を出すのは珍しい。たまに来るときは丁度前を通る。

「ええ、抜き打ち検査に」

 当子の眼鏡が蛍光灯の光を反射してキランと光った気がした。







 当子への携帯は着信拒否を受け、家には当子の母桜がいて毎回門前払いを喰った。取り付く島もないとはこの事だ。

 又胃が痛み出しそうで違う意味キリキリする。

 当子の顔どころか声すら聞いていない。高が会えないだけでこんなにも苦しいのに、誤解を受けてこんな事になっているとなるとなおの事苦しい。気が変になりそうだ。







「・・・・・・・・・喫煙は、校則違反です」

 当子は至極事務的に言った。

「あ? あー、生徒会の人」

 喫煙をしていた男子が悪びれもなく言うのを見て、当子が三つ編みを揺らして小首を傾げた。

「新学期早々停学喰らうのと、今すぐソレ捨てるの、どちらがいいですか?」

「あーハイハイ。怖い怖い会長様のご命令じゃ背きませんよ」

 机でごしごしと火を消すと残っている生徒が軽く笑いを漏らした。

 始業式で今日は午前までだったが、文化祭関係者は結構残っている。このクラスもその内だろうが、気に喰わない。クスクス笑いが耳に付く。

「何アレ、あんなんでカッコいいと思ってんの?」

「今時あんなカッコある? 色気ない」

 いつもならハッと流せる言葉が耳に付く。てめえらに負けるかボケと鼻で笑えていたものが、癇に障る。

 馬鹿な女どもがちゃらちゃら言ってんじゃないわよ。

「それと、このクラスから衛星講習に誰も来ていませんでしたから、飲食店の出店は許可できません。新しい企画を明日中に提出してください」

 基本的には荒れてはいないが、一部の生徒は阿呆だ。特に二年のMCはウザイ。

 夏休み中にあった飲食物を出す所は衛星講習に三人以上参加と連絡をしているのに綺麗にすっぽかしてやらすわけには行かない。

「何だよそれ。んなの聞いてねえよ。いいじゃん、ちゃんとやっからさ」

 馴れ馴れしく肩に触れてきた男子生徒の手をパンと払いのけながら、嫌味っぽく笑い返した。

「悪いけど、そっちのミスの尻拭いなんてしてる暇ないの。ヤル気ないならやらないでもいいですよ。期待してませんから」

 低能で馬鹿な男に触られたくもない。

 何もかもが癇に障る。

「何ソレ、ムカつく」

 スカートの短いのに胡坐をかいてパンツが見えている女子が啖呵を切ってきた。ムカついてるのはこっちだ。やる事もせんとギャーギャー喚いてマジでウザイ。

「ちょっとちゃんと話し合いましょうよ会長さん」

 いかにもキツそうな顔の、化粧ばっちりお色気満載の女が至極偉そうに言った。

「日本語を正しく理解して、人格のできている人間が相手ならいくらでも話し合いますよ。馬鹿と話し合っても意味ないですから」

 ソレを聞いて流石に怒ったのか何人かが立ち上がった。

 雲行きが怪しくなったとき、開けっ放しのドアの後ろからぬっと何人かの男子生徒が現れた。

「ひゅー、怖いもの知らずだね」

「止めた方がいいぞ。あいつらに苛められて二人学校やめてっし」

「猛が生徒会長を怖いって言うの何か解るなぁ」

 馬鹿クラスへ行くと言うと、猛もクラスに用があると付いてきた。無茶をしないように彼なりに気を使ってくれたのだろう。

「何よ。違うクラスの奴は黙っててくれる!?」

 女子がケンのある声で言うと、猛のクラスメートが飄々と交わした。

「いやん。怒ったぞヨ!やべえ。鞄に蛙入れられるよ」

 わざとらしく泣きまねをしたり、

「違うクラスは黙っててぇ!」

 学園ドラマの主役のように女子の言葉を真似しながら過剰表現してみたり。

「つかぁ、授業中五月蠅くして迷惑かけられるのを黙ってないといけないのぉ〜ん」

 オカマ言葉を使ってみたりと、堅物の猛が親しいとはパッと見とても思えないふざけっぷりを発揮した。

「お前ら悪乗りし過ぎ」

 後ろで猛が溜息を付いていた。

「いいじゃん。いいじゃん。最近遊んでくんない猛ちゃんが僕ちんを頼ってくれるなんて超うれC★」

「ああ、西澤様のご帰還だ!! 道を開けろ。見事なコントごけが拝めるぞ!」

「お前らいい加減にしろ! おい。矢崎ケツ触るな!!」

 どうして猛がここまで男に絡まれているのか、もとい、親しげなのかが不思議だ。

「・・・取り合えず。明日までに火気・飲食を使わない企画を考えて来てください」

 話の腰を見事に砕かれて、不機嫌マックスのまま挑みたかったのにヤル気が失せてそれだけ言って教室を出た。

「猛のケツって女より形いいじゃん。これで乳があったら言う事ねーのに・・・いっそ豊胸手術を・・・」

「ふざけるのもいい加減にしろっ」

 やたら猛にセクハラをしている男子の頭に肘打ちを喰らわせて避けてからこっちにやって来た。

「でしゃばったマネだけど、ここに来るときは馬鹿か燐火先輩連れてくるようにした方がいいよ、一様。女の子一人で大人数と喧嘩は危ないし。まあ、隣がうちのクラスだから何かあったら叫べば助け行くけど」

「いえ、ご心配して頂いて有難うございます。でも、自由と迷惑を書き違えている所は早い目に粛清してしまわないと後が面倒ですから」

 にこりと笑顔を向ける。猛の妙な所お人好しにのは好意が持てる。何よりどこぞの男よりも「誠実」だ。

「あ、駄目だよ。猛は俺のだから狙っちっ・・・」

 後ろから抱き着いてふざけた事を言う友人の鼻柱に裏拳を入れた後何事もなかったように猛が言った。

「まあ大丈夫だとは思うけど、いくら滝神さんでも無茶のし過ぎはどうかと思う。何か、無理して仕事増やしてない? そこまでしなくても、ここだって常識の範囲でしか規則違反してないし」

 中々鋭いとは思う。仕事を増やしているのは否定しない。兎に角動き回っていたいのだ。

「はなっ・・・鼻が痛い」

 後ろで唸るのを猛が素敵に無視した。

「ちょっと悪ふざけが過ぎるのも実際はクラスに5・6人くらいだし、全員どうしようもないみたいな見方はやめてやってね」

「ええ、それは承知してます。だからこそ、ある程度枝を切る必要があるんですよ」

 肩を竦めると猛の周りのさっきのボケた男子たちが取り囲んで甲子園で負けた選手のような泣きまねをしていた。

「感動した! そんな優しいお前が大好きだっ!」

「お人好し過ぎて馬鹿を見てるお前を見るのが大好きだ」

「て言うか、賞味お前も馬鹿ジャン」

「お前らウッサイ!」

 猛が至極楽しげだったと思えたのは目の錯覚だろう。





「何アレ、ムカつく。一年の癖に」

「ちょっと考え改めさせようぜ」

 口々に罵声が出る中、一人の男子が冷ややかに肩を竦めた。

「無理だって。今の会長、リコール成功したのは理事長の娘と仲良いからだぜ? オマケに剣道部と野球とサッカーとラグビー部にも貸し持ってるし、アイドルやオレンジや横の西澤までいんだ。喧嘩しかけたらこっちが退学だぜ」

「でも、何もしないってちょっとムカつかない」

 山田 次郎が椅子の上であぐらをかきながら、冷ややかな笑いを浮かべた。

「文祭は取り合えず真面目にしようぜ。ここのガッコの評判落としても後々面倒だし。ダチがライブ楽しみにしてるしよ」

 実際、そこまで世を捨てている訳でない生徒が取り合えず反対はない。

 実際、あの生徒会長は中々やる。正攻法では絶対に勝てないバックの固めようだ。

「部としては色々考えてるしな」

 写真愛好会の山田が誰にも聞こえない声で呟きほくそ笑んだ。







 家に帰るとどうにも憂鬱になる。

「当子ちゃんおかえりぃ」

 上機嫌の桜が着替えも済ましていない当子の背を押して、奥の部屋へと連れて行く。

 安いといえば安い代価だが、裏が有りそうで怖い。

「・・・・・」

 ピアノの前に座らされて流石にウンザリする。

  ちゃっかり調律させられたグランドピアノはこの家の一番古い記憶の中にもある。小学校中学年まではここでピアノのレッスンも受けていた。元々自分でやり出 したものでなかったし、将来これで喰っていけるほどの感性がないのを自覚して止めた。父親がプロのピアニストとしての初舞台に立つ前に事故死した事くらい しか自分の父親の事を知らない。明らかにその面影を求めて、桜はやたらと当子にピアノを弾きたがらせた。

 桜が唯一自分に求めるものを理解してからは、桜に対する一番の好カードとしてこれは使ってきた。自分の父親がどんなイイ男だったのかは知らないが、何としても当子に父親の面影を植え付けたいのだろう。

「今日は、この楽譜の曲弾いて」

 至極楽しげな母親はまるで子供のように喜々としていた。

 何だかもう考えるのが面倒で、ただ渡された楽譜を引き出した。聞いた事のない曲だが、さして興味はない。

 注意や指導をするでもなく、やる気のない機械的な演奏を桜は座って聞いているのだ。

 体格の割りに大きい手が淡々と動かされていく。

 動作に集中していればそれほど別の事に頭を回さなくて済む。

 思い出したくない。





 着信拒否のままだとわかりつつも、時間が空くと反射的に押してしまうボタンが恨めしい。

『いい加減に、諦めて頂けないかしら』

 予想していたものとは違う事が起きて一瞬言葉を失った。

「当子・・・」

 拒絶的で排他的口調だが、それでもその声が嬉しい。

『他の女性とのお付き合いがあるのに、ご迷惑をかけて仕事に差し支えてもらっては困りますの。もし婚約破棄したければいつでも仰って下さいね。代わりに四季がバックについて下されば直ぐに解消しますから』

「話を聞いてくれ。あれには理由がっ」

 我ながら間抜けな物言いを、感情のこもらない声が押さえ込んでくる。

『誤解があるとでも? 残念ですけど別に言い訳を聞きたくて電話に出たわけじゃありませんから』

 完全にこちらの言葉を受け付けない物言いだ。

「頼むから理由を聞いてくれ」

『理由をお聞きしても、こちらとしてはもう仕事以外では会う気がないんですよ。その方がそちらも手間が減って宜しいでしょ?』

 人の言葉を聞きもしない。どんな忠告をしようとも一直線に自分の考えを通す。当子のその性格を流石に今日は恨んだ。

 一切の弁解を受け付けず、悪役だと決め付ける。まるで今までこちらが当子と会っていたのは父親命令で仕方なしの事だったんでしょと決める。

 完全に壁を作った当子の言葉の一つ一つがまるで毒のように回って行く。

 毒が恐怖心を刺激して、携帯を持つ手に力が入る。

『・・・・家に来るのも電話をしてくるのも、金輪際、止めてください』

 唯一漏らした感情は微かな苦さだけだった。

『さようなら』

 まるで別れを告げるときのように、当子がその言葉を口にした。

 こちらが息をのむ間に、機械音だけが耳を刺激する。

 手が微かに震え出しているのに気付くのに時間がかかった。

 本がはねるほど強く机に拳を打ちつけた。

 必死で理性が毒に侵された神経をなだめようとする。このまま、当子の元へ行くのは許さない。又、当子を傷付ける。それだけは、それは絶対にしたくない。

 これ以上、当子を傷つけたら、こっちが完全に壊れる。







「落ち込むのに何馬鹿やってるのかしら?」

「勝手に入ってくるな」

 枕に顔を押し付けてく曇った声で当子が唸り声を返してきた。

 全く、母親でも泣き顔は見せたくないっていうのかしら。

「そこまで落ち込むほど好きなら、何であんな事いうのかしら?言い訳くらい聞いてあげなさいよ」

 ベッドの横に腰掛けて、小馬鹿にして言っても顔を上げようとはしなかった。

「五月蠅い。立ち聞きなんて趣味最悪」

 あーあ。何で私の娘なのにこんなに可愛いのかしら・・・ついつい、無料サービスをしてしまいたくなる。

「ゆっくり寝なさい。馬鹿娘」

 後頭部の髪にキスを落とすと、そっと立ち去った。







「当子、目赤くない?」

 どうにも最近元気がないというのか空元気だったが、今日は目が少し赤い気がする。

「ん〜、昨日目に蚊が入ってさあ。中々取れなくって泣いちっゃたからねぇ〜」

「・・・へえ〜」

 何かあったのだろうかと考えながら、やっぱ当子一本にしとくべきだったかなと溜息を付いた。

 だって、若い男子が(片思いではあっても)フリーの時に可愛い子に付き合ってなんて言われて普通ノーなんて言えないしなぁ。まあ長くは続くと思えないけど、

「あ、左九君おはよ」

 噂をすれば・・・、可愛い子なんだけど、何か足りないんだよなぁ・・・

「滝神さんもおはよう」

「おはよー。華ちゃんあたし生徒会寄ってかないといけないから放課後ね」

 付き合い出した事を知っている当子が気を利かせて道を別れた。

「・・・滝神さんとやっぱ仲いいよね」

 ちょっと顔がひく付いたのがわかる。あー、嫉妬か。

  正直一番好きなのは当子であって死に掛けている二人を助けるなら当子は助けてしまうだろう。例え先に横峰を助けろといわれても、当子を助けるだろう。こう 言うどっちどっちつかずも男としては情けないが、実際生きていて第一希望が通らなければ第二希望に甘んじなければならない時だってある。

「幼馴染だし、生徒会も一緒だし」

  よく、不良っぽいと言われるこのダレた口調は、ただのやる気ない物だと理解するのにどれくらい時間がかかるかなぁ・・・それでも好きと言うなら、まあこち らもちゃんと見なくてはならない。盲目状態で好きといわれても、直ぐに冷められてバイバイだ。それなら本気になんてなるのも馬鹿らしい。

「・・・そ、そーだよね」

 こう言う所女の子って可愛い。

 そうは思えど、駄目だよなぁ。当子みたいに濃い奴を好きになっちまうと、後々マジになり辛い。





 流石に・・・流石に諦めてくれたんだろう。

 電話の後、直ぐに来られるのではないかと内心不安で一杯だった。あんな状況ではとても会えはしない。会ってしまえば嘘がばれる。三日目でやっと安堵できた。平静を装うこともできる。

  自分以外の女を好きなら煩わせるのも馬鹿らしい。二股かけられるくらいならいらない。別に夏深なんていなくたってやっていける。ただ、四季家の後ろ盾が欲 しかっただけだ。爺の会社を存続させて、上手くやるには四季家の援助は必須だ。ただそれだけの為だったんだ。夏深がいったわけではないんだから、

「ちゃん・・・当子ちゃんっ」

 呼ばれてハッとした。

「あ、すみません。ちょっとボーっとしてました」

「大丈夫?熱でもあるんじゃないの。ここんとこコン詰めてるし、今のうちに休んだ方が良いんじゃない?」

 燐火の言葉に苦笑いを漏らした。それほど疲労がたまっている様に見えるのだろうか?

「いえ、大丈夫です」

 苦笑いを漏らしていると、放送がかかった。

『滝神当子さん。お客様がお越しです 至急玄関までお越しください』

 二度繰り返されて、そう言えば以前罠にかかったときも放送かかったよなと苦笑った。

 大和か誰かかもしれない。

「ちょっと行ってきます」

「はいはい。行ってらっしゃい気をつけてね」

 小走りで正面玄関へ向かった。

 丁度猛の展示されている絵が見えて、次にそれには目もくれず壁に凭れて腕を組んでいる男が見えた。

 足に自然とブレーキがかかる。

「・・・・夏深」

 こちらを振り向いた男を見間違えれるはずもない。その顔に明らかに怒気の色が見え足が竦む。

 顔を見ただけで又泣きそうになる。それを必死に引っ込めて、完全に顔を繕った。

 冷徹なまでに他人を切り離した事務的顔を取り繕う。

 もう、振り回されるのは御免だ・・・

「何か御用ですか」

 全神経を集中させて、涙を止めて足の震えを止める。

「・・・・学校に来るなとは言わなかっただろう」

 揚げ足を取る言葉に歯を食い縛る。会ったら折角腹を決めたのものが崩れ去る。必死に崩壊を止める。ぎりぎりで塞き止めて来た、馬鹿みたいな嫉妬心に防波堤を壊されてはいけない。泣き付くなんてそんな情けない姿を夏深には晒したくない。

「用がないなら帰っていただけますか? 忙しいんですよ」

 距離を置いて立ち止まる。目を見ただけで、完全に飲まれそうで見上げられない。

「そうやって逃げ切れるつもりか?」

 明きらかに怒っている。

「ちょっ・・・放して」

 腕を掴まれて振り払おうとしたがいっそう強く握られただけだった。

「命令だ。こい」

 頭上から降ってくる言葉に思わず顔を上げた。

 卑怯な目と合ってしまう。呪縛力もここまで来ると怖いとすら思う。

「来なければ、お前の大切な会社を潰す」

 今までにない脅しに息を呑む。どうにもできないような、絶対従うざるを得ない言葉を吐かれる。女狐の情報を駆使しても、その前に潰される。夏深がその気になればたった一言で爺さんが守ってきた会社を潰す事ができる。

 手を放してそのまま振り向きもせずに歩いて行く。

 動揺をひた隠して、その後を付いて行く。

 本気になられれば、こちらは弱すぎる。勝ち目すら見い出せない。

 夏深が、怖い。







   四    愛の印 独占欲の証





 表情を硬くして、警戒する当子を見ていっそこのまま閉じ込めてしまいたくなった。

 間を開けずに当子に会っていれば、例え泣かれても連れ去って閉じ込めただろう。

「・・・どこへ行くんです」

 助手席に乗せられた当子が、淡々とした口調で聞いてきた。

「こっちの話を聞きたくないんだろう」

 子供じみた辛辣な口調で言葉が出る。

 当子が拒否できない脅しを掲げなければ逃げ去ってしまいそうだった。あのまま、はいさようならで済ませられるものならどれだけ単純だっただろうか? このままだとストーカーにでも成り下がりそうだ。

 最後に、どうしても渡したいものがあった。その後は、もうこちらからは会わないつもりだ。最後に我が儘に付き合ったら、解放する。

 このままだと当子を壊してしまう。

 当子が、唇を噛んで言おうとした言葉を飲み込んでから、苦々しい呟きが漏れた。

「どこかへ連れ込んで又襲うつもりですか?」

 流石に、その言葉は堪えた。

 当子がその話を蒸し返す事はなかった。それに安心しきっていた為、その言葉を言われて、吐き気がする。

 当子があの事を気にしないわけがない。言われても仕方がない事をしたのだ。許したのも、ただこちらの利用価値があったからかもしれないではないか。

「安心しろ、もうあんな馬鹿な真似はしない」

 あの事で当子が傷付いていなかったわけがない。





 一番堪える事を言ってしまったと理解するには遅かった。

 夏深が後ろめたく思っているのはこちらが許したからといって消える訳ではない。古傷を抉るような言葉を一番言われたくない相手が言ったのだ、動揺しない訳がない。

 夏深が苦虫を噛むように自己嫌悪的言葉を口にした。

「そうして頂けると有り難いわ」

 それに対して、冷ややかな声が出る。これではまるで、夏深の事が好きで堪らないと言っているのと同じだ。

 嫉妬の嵐で、自分が可笑しくなっている。でなければ、言ってはいけない言葉を口になどしなかった。

 傷つけるのなら、いっそ離れたかった。夏深が、他に好きな相手がいるのならこんな所にいないで、そっちに行けばいい。同情や罪悪感で一緒にいて欲しくない。そんな事は耐えられない。

 地味に見せる為に括っている三つ編みのゴムを取って手荒く髪を解いた。必要もない眼鏡も胸ポケットに入れた。今更無意味だと解りつつ、夏深の横にいても似合いになる様にしたかった。あの時の女よりも似合うように。

 夏深を盗られたくない。







「あれ、当子は」

 帰ってきた左九がいつもの言葉を口にした。未だに当子の事が好きなのに、別の女の子と付き合う左九の対応はどうにも賛成できない。

「お客さんが来て出てったわよ」

「・・・客って?」

 小首を傾げる左九に燐火は肩を竦めた。

「知らないわ。さっきメールで用事があるから少し出てくるって、済んだら戻ってくるって書いてたわよ」

「ふ〜ん」

 やる気ない返事をした後、自分の仕事を済まそうと席に付いた。座る場所は自然と定着して、当子の特等席の側が席が左九の場所だった。

 人の恋路をどうこう言う気もないが、左九は当子に全く男と見られていなかったのだから別の女子に行くのは潔い。何よりも高校生らしいとは思う。

 片思いで相手にもされずに友達の位置にいる左九を見るのも面白いのにと、仕事の手を止めて燐火は一人苦笑った。

 それにしても、当子の客とは誰だったのだろうか?





「やっぱりこんな物を買って頂く訳にはいきません」

 左手の薬指にはめられた銀製の細い指輪を見て当子は呆れたように言った。

 指の長い手だが一般的女性よりも大きい当子の指にサイズぴったりの指輪がはまると、当子が改めて夏深の気持ちを否定してきた。

 それを無視して、夏深は店員にカードを出した。

 やたらと綺麗な顔をした制服姿のままの当子に指輪を買い与える自分はどう見えるのだろう。

「黙っていろ」

 小さな声で言うと命令と取った当子が口を噤んだ。

 店に入るのを拒んだときにも大人しくしろと脅しを交えた上で命令をした。ここで抵抗を受けては一生渡せない。多少の卑怯な言葉も必要ならいくらでも出してやる。その後捨てたければ勝手にすればいい。

 店員が当子の指から一旦外れた細く繊細な指輪を箱に直し包装すると、それを受け取って店を出た。

「こんな物を買って頂いても困ります」

 完全に仮面をかぶった当子が言うのを無視する。

 当子が欲しいのかどうかではない。これは、自分がどうしても渡したかっただけだ。自分のものである印になる唯の輪を、

 今後一生指輪なんて買わなくなるかもしれないと自嘲的な事を考える。当子以外にこのくだらない意味を伴った付属品を買う気にはなれない。

 欲しいのは当子だけで、他の女ではない。

「黙って乗れ」

 促すと硬い表情のまま当子が車に乗った。後部座席に座られるかと思っていたが、当子の指定席である助手席に入った。

 卑怯な人質を取った上での命令に従った当子が終始無言で前を見ていた。

 これ以上当子を側に置いておくと二度と離せなくなりそうで車のスピードをいつも以上に上げた。行き以上に早く、懐かしい母校へ着いた。

 終始固い顔をしていた当子の顔が少し和らぐのが解った。それを見ただけで自分の取っている馬鹿な行動を冷静な自分がマヌケだと批判した。

 綺麗に包んだ紙切れを破り捨てると、指輪を取り出した。

「左手を出せ」

 命令に当子が素直に左手を指し出した。

「・・・・・」

 当子の指が微かに震えているのに気付いて自分の馬鹿さに胸が苦しくなる。

 手を取って、ゆっくりと薬指に嵌める。

 震えを止めようと歯を食い縛って、動揺を隠そうとする当子の薄い唇にただ触れるだけのキスを交わした。

 離した口から声を絞り出す。

「もういい・・・解放してやる」

 当子の体がびくりと小さく跳ねた。

 動揺した目が見上げてくる。

「降りろ」

 できるだけ冷たく言おうとしたが、声が擦れる。

 当子が逃げるように車の外に出、ドアが閉まると同時にアクセルを踏み込んだ。

 門を出て曲がる瞬間に見えた当子は、走り去るでもなく、車の背を見つめたまま棒立ちでその場に止まっていた。





 必死で崩れそうな足に力を込めた。自分の左手を見て泣きそうになる。あんなキスでは足りない。知らない女としていたようなただの触れるキスなんかでは足りない。一緒なんかでは嫌だ。

 白光する唯の金属が全てを束縛してしまうようだった。

 そっと、唇を寄せる。

 こんな物では足りない。物なんか何もいらないから、夏深が欲しい。

 唇から消えた温かさを求めるように、キスをする。ただの指輪に、

 こんなに切ない気持ち、いらない。







 生徒会室に戻る前にトイレの個室で髪を括りなおして眼鏡をかける。態々髪を解いた自分を憐れに思いながら。

 まるで結婚式の儀式のように一方的に嵌められた指輪を引っこ抜いてポケットに入れた。余計な詮索などされたくない。

 トイレの鏡で何事もなかったように動揺が隠れているのを確認した。





「・・・写真展示。写真愛好会と合同でですか」

 遅れて出された企画書に目を通しながら当子が呟いた。

「ただし、展示物に不適切なものがあった場合は中止していただきますから」

「そりゃあちゃんとしますよ。それで、写真に投票制を設けて人気のあった奴は文化祭後もしばらく貼り出ししたいんだけど」

 写真愛好会の責任者でもある山田がにやつきを抑えられない顔で言った。

 前、当子とこの愛好会に抜き打ちで検査に行った時、部屋にはエロ本が数冊置いてあったのを思い出して、流石にアダルト写真なんて貼り出さないよなあと考えた。

 当子が戻って来た少し顔が赤かった気がしたが今ではいつもと全く変わらなくなっていた。誰とどこに行っていたのか気にかかったが、聞いても答えてくれないだろう。

「それは却下です。ある程度で投票を締め切って、文化祭終了までどこか目立つ所への展示をしては? 体育館の壁の一部は使用しても構いませんよ」

「マジで、引き伸ばした奴貼ってもいいわけ?」

「ただし、人に迷惑をかけるものや不快にさせるものを貼り出した場合は責任者には最悪停学処分になりますから。しっかり監督してください」

 山田が軽く頷いた。

 何となく裏が有りそうだよなと、山田の顔を見て左九は一人ぼやいた。





「あれから詩織さんと会っていないそうじゃない」

 弥生の言葉に夏深の不機嫌な声が返ってきた。

『仕事が忙しいので切ります』

 それだけ言ってガチャっと切られた。

「・・・御免なさいね、愛想のない子で」

「嫌われてしまったんでしょうか・・・」

 いかにも不安そうな顔をされて、このままアッサリ引き下がられてはこちらの思惑が上手く行かない。

「夏深ってシャイなところがあるんですよ。仕事一本過ぎて、堅物だから」

 ふと、あの馬鹿息子が行きそうな場所を思い出した。

 夏深の母校でもあり夏深の妹の秋江の通っている学校でもある百合乃下高校で再来週文化祭がある。当子が生徒会長をしている学校の文化祭だ。夏深も顔を出すだろう。





 切ったばかりの電話が鳴って、不機嫌に受話器をとった。

「もしもし」

『偉く不機嫌だな』

 弥生からの電話かとも思っていたが違った。性質の悪さでは弥生にも負けず劣らない旧友の声がして次は何だと溜め息が出た。

「何か用か」

 高校時代の生徒会長をしていたときの副会長であり、当子の又従兄弟でもある滝神草が夏深に軽く聞いた。

『今夜暇かい?』

「・・・忙しい」

 草は当子の亡くなった祖父の会社の社長に納まり当子はそこの会長をしている。ついこの前その会社を潰したくなければと当子を脅したのを思い出して憂鬱になりながら答えた。

 あれ以来当子には一切コンタクトをとっていない。向こうからも何もない。耐えられるだけ耐えてこちらからは何もしないつもりだった。意地になられればこちらが何をしようとも折れないだろう。あのままだとこちらも意固地になりかねない。

 あのままこっちまで意地になっては、当子に何をするか解らない。

『緊急で話したい事があるんだ。悪いが今夜こっちにきてくれないか、社長室で待っているから』

 切羽詰ったような声に眉根を寄せた。

「何かあったのか?」

『ああ・・・電話ではできない話なんだ』

 色々と世話になった友人の頼みを無碍にできない。性格邪魔な時がある。

「解った仕事があがり次第そちらへ向かう」







「そうですね。これなら結構です」

 当子がやっとオーケーを出してから、仕事を終えたと考えた大和が小声で訪ねた。

「あれから、どうなった?」

 あの時の当子を思い出して悪くもないのにビクつきながら聞いた。

 一瞬見せたあの痛々しい顔はそう忘れられない。その後に完全に取り繕おうとする当子は生殺しにあっているようだった。

「・・・その話は止めてください」

 何の感情もなく淡々と言われた。

 こちらは口を噤む以外手がないではないか。

 書類を片付ける当子の手には一切の動揺が隠されていた。大和自身も淡白な性格だが、もし旦那のあんな現場を見たら車を降りて一発くらい殴っただろう。それを考えると当子は冷徹なほどだ。

 だが、嫉妬心がないとはとても思えない。

「・・・・・指輪をもらったわ」

 淡々と告げられた言葉に呆然とした。夏深が、指輪を?

 あの堅物で女心のおの字も理解せずに対人関係ほどにしか考えていない男が?

「そ、それで」

「それだけです。これで満足していただけました?」

 嫌味っぽく言われて、何か相当怒っているのが解る。

「・・・失礼します。他の用事が立て込んでますので」

「ちょっと待って当子ちゃん」

 そそくさと去ってしまいそうだった当子を呼び止めて、何を言うつもりだったのだろう。

「夏深君を許したの?」

 間抜けた事を聞いたと口に出てから後悔した。

「・・・ご存知ですか? 独占欲は持った方が縛られるんです」

 苦く言ってから、当子は部屋を出た。







「・・・・・やべぇ」

 現像室から出てきた山田は思わず呟いた。

「うおっ、先輩誰ですかそれ。目茶目茶美人じゃないですか!」

 引き伸ばした大振りの写真の女子生徒を見てゲームをしていた後輩が思わず歓声を上げた。

「それが解れば世話ないっての」

「俺にも焼いて下さいよ」

 言う後輩に渋い顔をした。

「誰がてめえの為にタダでおかず提供すんだよ」

「金出しますよぉ! 滅茶苦茶色っぽいじゃないですか。燐火先輩よりいいんじゃないですか!?」

 校内のアイドルである新田 燐火の写真は裏で売れる為(体操着や水着姿が売れ筋だ)結構多いが、需要が行き届いてしまいそれほど収入が得られなくなった。今年の一年は可愛い子はいても燐火の様なカリスマ的人気は出ない。今年は駄目だと思っていたが、これは予想外の金の卵だ。今までこんな美人がいたのに気付かなかったのが不思議でならない。

「他にないんスか! この人の写真。むしろ何年何組なんスか?」

「それが解れば世話ねえよ」

 文化祭でやるミス・ミスターコンは他薦なら生徒以外も出られる。賞金として他薦なら推薦者にも商品券が出るのでそれを言い訳にナンパもし易くなった。そこで勝った子がある意味のアイドルになるので、運が良ければこの子もそれに出てくるかもしれない。

 それに、文化祭の時にこの写真も売れる。

 ただ、この写真の女の子に一つ不服を言うなら左の薬指に指輪をしている事だ。まあ、指輪にキスする顔の色っぽさを考えれば男がいても無関係に売れるだろうが、

 偉い高級車が入ってきたと思ってどんな奴が出てくるかと思って望遠カメラを構えたのはラッキーだった。アングルも良かった。ただ撮るのに夢中で校舎に入って直ぐに捜そうと思って下の階に走ったが結局見つけられなかった。

 しかし、この写真を売るのは惜しい。

「やべえよな」

 これほど可愛いと、他人に売るのが惜しい。







「それで、何の話だ」

 入ってきた夏深に、美人秘書がアイス珈琲を出すのを身ながら、深刻そうに草が組んだ手を見つめていた。

 秘書が立ち去ってからもしばらく草は黙っていた。

 沈黙する旧友に苛立ちとも心配ともつかない顔をしながら、夏深が出された珈琲を啜った。部屋に冷房がかかっていない為暑かったのも夏深が早々と飲み物に手を出した理由の一つだった。

「・・・・・・・ハマッたな」

 にやりと草が呟くのを聞いて夏深が眉を顰めたときには既に遅かった。

「・・・・・・もったノか」

 呂律の回らない夏深を他所に、ソファーから立ち上がって、机の引き出しから用意しておいた日本酒のビンを取り出した。ビンに被せていたコップにそれを注ぐと、笑顔で夏深に差し出した。

「さあ夏深、水だ」

 まるで暗示をかけるように言うと、珈琲にもられていた酒に酔ってしまっている夏深がそれを一気飲みして、自滅した。

 血筋で下戸の夏深を酔わせた草が至極満面の笑顔で夏深の横に座ると、ポンと肩に手をやって表情とは裏腹な怒気を含んだ声で囁いた。

「浮気したんだって、会長殿」

 滝神 草の尋問に嘘を吐けるほどの自制心もなく。夏深は呂律の回らない舌でいつもになく饒舌に語り出す。





 完全にノックアウトされた夏深がソファーで眠っているのを見てウンザリする。

 当子と別の女に二股をかけている様ならいっそこのまま濡れタオルを顔にかけてしまおうかと思っていたが、結局は運のない偶然だけだった。何よりも、砂を吐くような当子への思いを散々語られて、一気にテンションが下がった。

「お嬢様を奪う気、失せさせやがって」

 溜息を付く。

 桜さんのお願い(+情報)で夏深にゲロさせたが、予想通りといえば予想通りの結果で面白くないといえば面白くない。

 全くの損役だ。夏深をけしかけたのも当子が夏深の方を婚約者に代えるようになった原因を作ったのも自分なのだ。夏深になら当子をやってもいいと思ったが、ここまでこいつがはまっていたとは思わなかった。

 人の、それも夏深のベタベタのラブ話を聞かされて、ある意味吐き気がする。

 一度略奪愛というのも体験してみたかったものを、







 つっ、まらん。

 桜はイヤホンを外すと一人ぼやいた。

 他の手で真相をつきとめても良かったのだが、一番安値で楽で正確な方法で仕入れた情報は何の意外性もない強いて言うなら聞くこっちの面白みと言えば、始めは怒気の含んだ草の声が最後はウンザリと呆れ返っていく事くらいだろう。

「飯っ!」

 遠くから当子の声がかかった。

 外見や性質は大体が自分似だと思うが、料理中やピアノを弾く時は全く似ていない。父親の面影が見え隠れする。

 あの人が表舞台に立てなかった分当子を出したかったが、当人はピアノよりも金儲けや色々と策を練る方が好きらしい。今では滅多にピアノの前にも座りはしない。せめてもの救いは手先の器用さと記憶力だ。何度か弾けば体と脳で完全に曲を覚える。

 一度くらいは外で弾く姿を見てみたい。アタルさんの代わりに。

「オカン! 飯言うとるやろがっ!!」

「じゃーしーすぐ行くわボケ!!」

 鍵開けとか猫被りの器用さだけならまだしも、素の性格の悪さは誰に似たのやら・・・





 後は天気さえ良ければ問題はないだろう。

 食事を取って風呂に入ってから部屋で予定の確認をしていた当子は自分の計画のヌカリのなさに満足していた。後は予定通り進んでいるかを調べ実際の予定を完璧に形作るだけだ。まあ、それが一番大変なのだが・・・

 問題は、忙しさが一段落ついてからだ。

 この感情を何とか忙しさで押しやっているのに、この仕事がなくなっては、完全にこの感情に飲まれる。

 今でも、物を考えていないと気が緩むと飲まれるのに・・・特に寝る前は憂鬱だ。否が応でも考える。

 何でいっそ嫌いにさせてくれないのだろう・・・

 何で、こんなに苦しいのだろう。こんなに会いたいのに、会いたくない。

 ただの、ただの指輪何て無理矢理渡して、そのまま突き放して、どういう意味かも言わないのは卑怯だ。

「卑怯なのは・・・・・・・私だ」

 目が自然と潤む。

 言い訳も理由も聞かず、一方的に離れようとして、嫌おうとした。

 あのまま放って置いてくれれば、諦めたのに、態々人の感情を縛り付ける物何て渡さないでいてくれたら・・・こんな馬鹿な餓鬼何て放って置いて、もっと素直で従順な女の所へ行っておいてくれれば、良かったのに。夏深が幸せなら捨てられたって良かったのに・・・

「会い・・・たいっ」

 今現在、他の女の所に行っているかも知れないと考えただけで嫉妬で死にそうだ。独占欲ばかりは持ったらキリがなくなる。

 独占欲を持ったら、相手が縛られるんじゃない。その感情を持った自分が縛られる。夏深が、欲しくて堪らない。夏深の髪の毛一本でも他の女になんて渡したくない。

 馬鹿みたいだ。

 馬鹿みたいだ。

 会いたくて堪らないのに会いにいけない。会いたくない。

 顔を見たら、きっと泣きじゃくって馬鹿を晒す。平静なんて装えない。醜い感情が止まらなくなる。

 だから、会えない。







 頭蓋骨の中で土木作業でもされている様だ。

 吐き気と頭痛に起きるのも億劫で蹲ると、そこが部屋でないのに気付く。血が脳に流れるのも痛い中、記憶が浮かんでくる。

 酔っていた時の記憶を鮮明に覚えているのは下戸同様の特技だ。酔った時に何を言い何をしたのかを覚えているのは後々嘯かれる事がないし、責任も取り易い。今まで記憶が残っているのはせめてもの救いだったが、今日は激しくその性質を嫌悪した。

  弥生からの命令で権力者の娘に会ったことや、その相手に口付けされた時を当子に運悪く見られ、それを元付き合っていた女性に報告された事、指輪を買った 事。そこまで話した事はさして問題ではない。その後、酔い潰れて眠るまで永遠当子への思いを語ったのが問題だ。よりによって昔からの悪友に・・・

『当子を殺したい程愛してヒる。他の女なんて、糞くらひだ。・・・あいつさえ居れば・・・他ハ何もいらなヒ』

 熱っぽく呂律の回らない言葉で語る自分の声に、頭をハンマーで殴られた気がした。酔った頭に声が響いただけではない。

「いくらで買う?」

 抱えた頭から薄目を開けて上を向くと、眩しい電灯の下に悪友の珍しいほど楽し気な顔があった。

 バッチリ録音した悪友に辟易する。

 酒を飲まして浮気がどうの聞いた時点で当子がらみから頼まれたか、そう言った情報が回ってきて唯の草の単独でやったかだ。

「・・・・脅し目的じゃないだろう。当子にでも贈ってやるつもりか?」

 自分の声が脳で反芻するようにズキズキする。

「つまらん奴だよ。相変わらず。女たらしの馬鹿息子なら簡単に出し抜けるのにな」

 ぼやく声が遠く感じる。

「・・・褒めて貰えて嬉しいよ」

 学生時代を含めて盛られたのは何度目だろうか? 全く間抜けな話だ。

「まあな。もうこっちの用はあがってるし・・・・・お嬢様にこれを渡されたくなかったら、一日付き合ってもらおうか」

 とんだ悪役を友人に持ったのは損なんだか得なんだか。

 少なくとも体調に置いては大損だ。

「後輩の活動を見るのも中々楽しそうだろう? 会長殿」

「その嫌な性格まで後輩が受け継いでないといいがな、副会長」







 猛のクラスの朝の会話。

「あれ、猛は?」

「缶詰しにサボリ」

「ああ、降臨したんだ」

「文祭って後四日じゃなかったっけ?」

「ああー、じゃあずっとサボリかなぁ」

「今回の奴でかいからな。かかりっきりでないと間に合わないだろうしな。この前まで白紙だったし」

「あーあ、四日間猛のケツを触れないなんて!俺禁断症状で死んじゃう」

「勝手に死んでろセクハラ大王」

「つーか。お前手が厭らしいんだよ。西澤のケツ揉むなよ」

「お前らだってボディータッチしてんじゃん」

 楽しげな男子の後ろで、

「ほんとモテモテよね、西澤君」

「まあ、あのコケップリは素敵ポイントだと思うけど、正直こんなに女の子がいるのにまるで男子校みたいなノリ作るの止めて欲しいよね」

「このまま行くと、うちのクラスだけ女が廃りそう・・・」





「・・・ああ、西澤先輩。調子はどうですか?」

 前触れもなく戸の開く音がして、一人生徒会室にこもって朝早くから最終チェックに忙殺されていた当子が反射的に顔を上げた。

 生徒会室の戸口に立っていた西澤がTシャツとジャージに所々ペンキをつけた姿で立っていた。手にはフランスパンが丸々一本ありそれをむぐむぐと食す姿はいつもの姿からは想像できなかった。

「今日から泊まりで仕上げたいんだけど、届けっている?」

「それはこちらでやって置きますよ。仕上がりそうですか?」

 味気ないパンを貪りながら猛が頷いた。

「文化祭には間に合わせる。悪いけどギリギリまでかかりそうだから生徒会の手伝えないかも。人手足りなかったらクラスの馬鹿達に声かけたら僕の代わりくらいには働くから」

 心ここに在らずだ。どこか魂が飛んでいる。

「いえ、こちらがお願いしたことですから、こっちは気にせず頑張ってください」

「了解」

 こっくりと頷くとふらふらと立ち去ろうとした猛の背を見送った。

 後で燐火先輩にでも栄養のある物を持って行かせよう。

 唯でさえ人手の少ない生徒会で猛が戦力外になるのは痛いが、こちらが頼んだ事だ。それに予定通りに仕上がるなら猛の穴埋めはこちらで何とかしよう。

 忙しいに越した事はないんだ。







 文化祭2日前の放課後。

 生徒会室で当子は物凄いスピードで最終チェック行なっていた。

 その集中を断つと機嫌が悪くなりそうで、珍しく燐火と左九のコンビでチェックに出かけていた。

「・・・左九君さ、彼女とは上手く行ってるの?」

「あー、ぼち。今生徒会でテンヤワンヤじゃん。そうそう遊ぶ暇ないし」

「ふ〜ん」

 不服そうな声を返す燐火に、左九は嫌気が差したように頭を掻いた。

「当子の事をまだ好きなのに、他の女の子と付き合うなんてちょとね。って皆して言いたがるのに、諦めれて良かったじゃん見たいなノリすんのは止めてもらえません。言われなくても俺だって色々考えてますから」

「何だ解ってたの? 自覚ないのかと思ってたわ」

 タッパのある燐火と並ぶと身長差がほとんどでない。こう言う明らかモデル体形の女の横に並んで似合うのも、当子の横同様難しいだろう。

「そういう先輩だって、そんだけモテてて男いないじゃんすか。思い人でもいるんスか?」

 実際燐火の浮き足立った噂は聞こえない。

「いるわよ。思い人」

「・・・学校の人スか」

 アッサリ返された言葉に左九が聞き返すと、燐火が肩を竦めた。

「それは言えないわね。むしろ暴露するのほぼ初めてだし」

「いいんスか?俺に言っちゃって」

「一様信用してるからね」

 笑顔はやっぱり可愛いと思う。

「それはどーも」

「で、本気で付き合えるの。別の女の子と」

「高校生のカップルが将来結婚する為に付き合ってるわけじゃないっしょ」

「・・・シービア。まあ、恋愛なんてゲームみたいな所あるものね」

 ゲームと言うにはナマっぽいが・・・

「何にしても、草葉の陰から応援してあげるわね」

「うーわー、心強えー」

 左九がやる気なく返した。





「・・・・っそ」

 外で生徒の大きな話し声が聞こえて集中が切られて直ぐに頭が別の事で占拠された。

 校内で指輪なんてしていては目立ちすぎる為、態々チェーンに指輪を通して来ているあたり、救い様がないと思う。

 なくすかも知れないしツッコミを入れられる危険もあるのに、肌身離せないあたりが落ち度だ。指に嵌めていなくても呪縛される。まるで呪いの様だ。

「夏深の馬鹿・・・」

 制服の上から指輪を掴んで蹲る。思わず言葉が漏れる。

 夏深にどれだけ会っていないのだろう? 時間の感覚が狂う。気が遠くなるほど触れていない気がする。

 後何日自分を抑えられるか解らない。不安で不安で仕方ない。今あの女と会っていないなんて誰が補償する?

 この指輪が唯の気紛れでない補償がどこにある? 夏深が同じくらい思ってくれてるなんて、誰が解る?

 夏深が会いたいと思っている訳がない。こんな性格の悪い嫉妬深い女。

 目が潤んで涙が溢れそうで、何度も瞬いて堪えた。

「あほくさ・・・」

 会いたい。

 触れたい。

 側にいたい・・

 会いたいっ・・・・っ・・・

 こんな倒錯した感情、どうやったら消せるっ?