一   恋愛陶酔  





「・・・・・・恋愛的陶酔状態は持って3年って言う結果、知らないの?」

 高一とは思えない落ち着き払った物腰と、整い過ぎた外見を持ち合わせた滝神 当子は眉根を寄せて唸り声を上げた。

 直ぐ横に座ってと言うよりは当子に凭れかかって座って物珍しい漫画を片手に、四季 夏深は当子の皮肉につい苦笑いを漏らした。

「陶酔というにはあまりにもアッサリしていると思うが?」

「そうでもないと思うけど?」

 高校の生徒会長である当子は文化祭企画書に黙々と目を通しながら感情を殺した声で受け答えをした。

 髪を書き上げながら、夏深は全くこんな情けない姿は会社の連中が見たら引く事だろうなと再び苦笑った。

  冷徹なまでに冷静で通っているというのに、10近く年下の小娘に惚れてしまっている時点で夏深としては不本意この上ないが、どうこうできる感情ならばとお に押しやれている。それができないのは、意外だった。まさか自身がこんな色恋沙汰に翻弄される性質だとは思っても見なかった。

「・・・お待ちどうさまっ」

 炊飯器が炊き上がりを告げたのを聞いて、当子が書類を脇に押しやって凭れかかっている夏深を押しやって台所へ向かった。

 仕事柄丸一日空けて会う事もできず、当子は当子で何かと忙しい為会う時間と言えば夜だけだった。毎度外食など行かされては太ると言う当子の批判とある種の好意で当子お手製の夕食を二人でとるのは最近ではそれ程珍しくはなくなった。

  諸所の事情により亡くなった当子の祖父の家に一人暮らしをしている当子の手料理は、予想外に何でもイケル。その上自分が高校生をやっていた時は考えもしな かった企画を安々と考え付き現実にする。この歳でここまで何でもできると将来が恐ろしくすらなる。最近では別れる事があるとすれば、確実に当子が自分を捨 てるのだろうと常に頭に付き纏うようになっていた。

 我が強くやると決めれば意地でも通し、それをやるだけの力もある。猫被りをしていなければ、とても男の庇護が必要なタイプには見えない。

「どうかした?」

 吸い物を持ってきた当子が不思議そうな顔で小首を傾げた。よほど神妙な顔でもしていたのかもしれない。いつともあるとも知れない別れを考えて憂鬱になるなど、つくづく馬鹿になったものだ。

「いや、なんでもない」

 誤魔化すと一瞬納得の行かない顔をしたが、直ぐに自慢げな笑顔に戻った。

「キノコの炊き込みご飯と、アサリのおすましっしょ。それと豚の角煮とお刺身」

 当子が炊きたてのご飯をつぎながらいつもよりもトーンの高い声で告げた。

 淡々としているようで変な所可愛いからこちらは困る。






「文化祭は第三日曜か?」

 食後、夏深にそんな事を聞かれて肯定しつつもつい反発が出た。

「そうだけど、態々くる何ざ言わないわよね?」

「予定が空けば顔出しくらいはするだろうな」

 しれっと言われるが、流石に来られるのは色々と困る。

  いいとこのボンボンでありながら有能だという事を言わずしても、十分嫉妬心を煽りそうな外見を持った男だ。嫉妬でなくとも校内では堅物優等生系で通してい る為、それがこんなイイ男がいるなど興味をそそるネタこの上ない。何が嫌いって、他人に恋路を話す事自体が正気の沙汰には思えない。井戸端会議のおばさん 達よりも性質の悪い興味で根掘り葉掘りと問われる等考えただけでもサブいぼが立つ。

「・・・・くるのは勝手だけど、校内では完全に他人としてしか接しないから」

 その物言いに怒るでもなくいつもの苦笑いを漏らされる。

  困った事に、夏深をただの優良物件として見られなくなってしまっている。唯の駒と思い割り切ってしまえばいくらでもおべっかを使い猫をかぶり相手を上手く 使う事もできるだろうが、そう割り切る事ができなくなった。きっと街中で夏深が女の人と並んで歩いていたら嫉妬するだろう。相手の動作を観察するでなく、 一喜一憂させられてしまっては終わりだ。

 3年でこの感情が冷め切ってくれた方が有り難いくらいだ。

 こんな扱いにくい感情は困る。

「お前の仕事の偵察はしても妨害をする気はない」

 そっと髪を掻き揚げられる。広い手から自分の髪が流れ落ちるのを感じて、それだけで恥ずかしくなる。

 そっと額にキスされて、相手の手に顔を上げられて、そっと口付けられる。

 至極いやらしい動作に感じる。

 この女慣れした動作には当分慣れそうもない。このまま押し倒されれば大した抵抗もできずに流されそうなものだが、大抵はここで止まる。夏深がこれ以上は手を出すことを自身で禁止しているのか、見事な自制をしてしまう。

 理由はこの男らしい度の過ぎた過保護と気遣いと気負いが理由なのだろう。この優しさが不安を感じさせているなど知りもしないのだ。

 最近では夏深から貰ってばかりで、何も返せていないと感じる。ギブ アンド テークなんていいながら、甘え過ぎてしまっている気がする。

 どうしようもなく怖くなる。

「今からあまり無理をするなよ?一週間を切るとさながら地獄だからな。今年は特に神経が擦り減る仕事もあるんだ」

 学生時代は同じ高校の生徒会長をしていた夏深が優しい声音で囁く。背筋がぞくりとして、この攻撃は卑怯この上ない。こちらの攻撃力を著しく低下させる。

「ご忠告どうも」

 甘えられない性格が最近では疎ましく思う。昔から自立精神大勢に育てられた為、今更甘える等プライドが許さない。

 苦笑いというには柔らかいそれでいて皮肉っぽい顔を見せると、見透かしたように抱きしめられる。力強いが優しい腕の中が酷く心地よくなっているのは失態だ。抵抗力が消え失せて手懐けられた猫のようになる。

「・・・・・・・」

 離れられないと実感する。






「駄目です」

 滝神当子の一撃は厳しい。

「それではこちらの考えが全く入ってません」

 どう考えても歳を誤魔化しているとしか思えない当子が大和 音ににこりと告げた。

 文化祭の企画としては大掛かりだが、前例がないわけでもない。ただ、ここまで生徒が首を突っ込む事は珍しいだろう。おまけに妥協はしても一切引かないときている。

「でも・・・ね?」

 子供を諭すように大和が言葉を濁すが、当子はただ笑顔を返すだけだった。

 以前会った時の人形のような感じではなく、いかにも硬そうな眼鏡に三つ編みといつの時代の優等生かと聞きたくなるような格好をした当子が自分以上のできる女に見えるのは少し癪だ。

「文化祭である以上、校内出し物を唯の付属品の的屋みたいにはしたくないんですよ。あくまでもベースは文化祭で行かないと意味ないじゃないですか」

「確かにそうだけど、メインは今回の企画で行っているのだし、多少前に出るのは仕方ないんじゃない?」

「それは承知の上です。ただ、そこまでタイアップされると、学生側としては逆に引きますよ」

  当初は生徒会顧問の教師が付いていたが、セクハラで大和のブーイングを出した為今では打ち合わせは当子一人だけだった。普通こういう事は教師の監修の下行 なわれるのだが、校内では信頼を勝ち取っているのかセクハラ教師の代わりも立てていない。まあ十分一人でやれているのでこちらも文句はない。流石と言った 所だ。

 あの冷奴が惚れるだけはある。

「・・・・もう一度検討してみます」

「良いご返事が頂けると信じていますわ。何せ変更の最後のチャンスですから」

 これ以上日にちが経てば確かに変更は厳しいが、この自身ありげな顔を見ると、裏で通るようにされているのかも知れない。

 社長の長男の婚約者と言う加重のある位置を取っている当子の意見は上にはすんなり通りそうだ。

 それにしても、こんな子供に完全に優位に立たれているのはウンザリする。うさ晴らしについ、松浦アヤの2○才疑惑と同じく当子にもそんな事を思う。

「・・・そう言えば、夏深君の誕生日はどこかに行くの?」

 ちょっとはでき過ぎる年下の上司に対するような嫉妬心は感じるが、基本的にはできる人間は好きで、当子自体も結構好きだったりする。ついつい気に入っている相手にはちょっかいを出してしまうのは大和の悪い癖だった。

 予想通り、夏深と同じ『仕事』に対しては冷静な当子が一瞬だが動揺を見せた。

 当子がこう言った話題にかなり弱い事を感知して以来、打ち合わせで当子に会ったときはこの類の話を振る事にしている。

 一様は社でも上の地位で、将来は社長座に座ると思われる男の婚約者だという事を知らない大和の部や、当子の学校関係者がいない二人きりの時を狙ってちょっかいを出す気遣いはしている。

「向こうの行事でその日は社交辞令で終わります」

 動揺を隠し切った当子が平静とした顔で淡々と告げた。

「あら、確か夏深君、そんな子供じゃあるまいしってそういう事はしないはずよ?」

  財閥系でもある四季家だが、あの金持ちっぷりでよくあんな仕事好きに育ったものだとつくづく生命の神秘を考えさせられる。夏深は社交よりも仕事を取り、金 遣いが特段荒いわけでもない。女癖もさほど悪くない。あんなでかい家の子供は屈折し金遣いが荒く馬鹿でないとこの世の不公平がさらに増すと思う。

 一時だけでもあの夏深と付き合っていた事もある大和だが、仕事第一で自分が盲腸になろうが気にもしない冷徹男にはついていけないと別れたが、あの男も所詮は人だったらしい。

 なんかもう。ああも情けないほど惚れてるなら好きにしてくれって感じよね・・・

 ついつい懐かしい事を思い出し胸中でぼやいた。

「当子ちゃんも文化祭前っちゃ前だけど、一日暇にできないほど近くないのよね。・・・あたしも旦那と誕生日デートでもしようかしら・・・」

 去年結婚したての大和がしみじみ言うのを当子が動揺を完全に押さえつけて肩を竦めた。

「むこうは至って忙しい身。大和さんの思うような恋人をしている訳じゃありませんから、そんな行事事は興味ないんです」

 夏深が当子にゾッコンなのは気持ち悪いほどに見せ付けられたが、当子が同じく夏深の事を好きなのかは疑問に思っていた。最近では極度の照れ屋であって、他人が心配する事はないと悟っている。

 こういう時だけ当子をまだまだ青い若い娘っ子と、微笑ましく見られる。

「少なくとも、あっちは当子ちゃんの誕生日には何かプレゼント買うんでしょうけどね」

 夏深にプレゼント等という気を使った事をされた事はなかったが、当子相手なら当子が頼まずとも悩みに悩んで何か考えるのだろうなと思うと噴出しそうになる。他を知っている分、夏深の当子に対するベタ惚れぶりは最早笑いを誘う。

「そういえば当子ちゃんの誕生日っていつ?」

 何気なく聞くと、当子の表情が一瞬固まった気がした。が、直ぐに答えが返ってきた。

「秘密です」

「えー、いいじゃない」

「そろそろ戻らないといけませんので」

 当子が笑顔で取り繕った。

 どう考えても話を逸らしていると解りつつも、今度会った時用にツッコミは取って置く事にした。

  真意の感情は完全に隠しきろうとする当子をつっついてそれを崩すのはどうにも楽しい。こんな可愛い子相手に夏深が行き過ぎたちょっかいを出していないな ら、つくづく大事にしているのだろうと思うし、しているなら奴も所詮は男だと思うだろう。どちらもありそうだが、どちらもやはりらしくないとは思う。

 ああも人に執着する夏深はやはりどうにも妙だ。

 この筋で夏深に打撃を加えるのも楽しいだろうなぁ・・・

「あ、当子ちゃん。先方の方が下見に来たいと言ってたから近い内にお邪魔してもいいかしら?」

 とっとと出て行こうとする当子にもう少しで伝え忘れるところだった事を言った。

「・・・以前にも来られたはずですけど」

 不審顔の当子に肩を竦めた。

 確かに、既に向こう側は一度下見が来ていた。

「下見は正しくなかったわね。確認よ」







 《Vandali》のライブを企画したのは当子だった。

 別にそのバンドが好きなわけではなく。むしろJ‐POPにさして興味を持っていない為、何度かテレビに出ているのを見た事がある程度だった。

  文化祭会議の第一回目で企画書と内定まで取った上で発案し、どうせなら他のアイドルを呼びたいという女子の意見と、コアなバンドを呼びたいと言ったクラス 代表など、反対と言うよりは願望は出たが、基本的に知名度が高く人気もある為大きな反対はなかった。むしろ、生徒会企画は毎年行なわれていてその一環であ ると言われれば一般生徒が反対してもどうこうできる訳でもない。生徒会メンバーもマジ?とは言われたがマジである事がわかると反対どころかむしろノリノリ だった。

  好きでもないのにバンダリを呼ぶと決めたのは単に、今年の夏に四季系列の会社から出される飲料水のCMでこのバンダリの起用が決まっていたからだ。四季が 理事をしている学校である上、夏深の父でもある四季春夫には当子はかなり好かれている。その当子が聞こうと思えば聞ける頼みすると、春夫は易々と聞き入れ てくれた。

 普通の学生では理事や校長に頼み込み、運が良ければ会議で話し合ってもらえるが、こう上手くはいくまい。

 使えるものは使うにこした事はない。お陰で文化祭の予算は大分と勉強が必要な物となったが、客寄せは十二分にできるのだ、今まで以上に露店を増やし、各企画で元が取れるようにすれば問題はない。

 従来の生徒会長よりも負担は重く仕事も半端ではないが、遣り甲斐は十二分にできた。

 ただ、派手な企画だがあまり前に出し過ぎたくはない。あくまでも生徒がメインでなければ意味はないのだ。

 企画がでかいだけにその塩梅が難しい。

「ぬぅ・・・」

 色々と気をとられるところがあって、考える事は尽きない。

 おまけに、企画で呼ぶのは人間だ。相手の機嫌を損ねても成功しない。いくら向こうがプロでも人間だ。

 楽しいくらい考える事は多い。





「おかえり」

 生徒会室で番をしがてら仕事もやってしまい暇になった華 左九が漫画を読んでいると、少しばかり難しい顔をした当子が帰ってきた。

「何か問題?」

「う〜ん。ちっとねぇ」

 ぼやくところを見ると、何かあったのだろうか?

「ここ代わっとくから華ちゃん剣道部行ってきていいよ」

 指定席に座ると、当子が悶々とした顔で言った。

 当子の悩み事を解決できる頭も力もないのが悲しい所だ。自分よりも能力が上な当子が解決できない事を出来るわけがない。聞くくらいは出来るだろうが、当子は悩みを話したがる性質でもない。そうそうでない限り聞いても言わないだろうと思うと何となく情けなくなった。

「・・・様子だけ見てくる」

  髪の色をそのままでいいと言う条件付で、左九は幽霊部員として剣道部に入らされていた。主に団体戦の怪我人の穴埋め用としてだったが、本当は個人戦にと言 う話も着ていた。道場に通ってはいるが、学校のクラブには滅多に出ない左九がそこまででしゃばるのは一生懸命部活をしている部員に悪いと断っていた。何よ り正規の大会に出た時他校の教師にとやかく言われるのも、他校の生徒に物珍しい顔をされるのも嫌な為、本当は大会にも出たくない。

 当子が勧めなければ籍も置かなかったかもしれない。

 考え事をするのに自分がいても邪魔だろうと、左九はのろのろと生徒会室を後にした。

 当子が幸せなら別に無理に男に見られなくてもいいかなと思うが、好きなものを嫌いになれるわけではない。それに、男として好いてもらえないからと言って当子を不幸にしたいなどという倒錯した自己満足的考えが全くでない為、結局現状維持だった。

 左九は頭を掻きながら一人ぶらぶらと体育館に向かって歩き出した。まだこの時間だと基本打ちくらいだろうなぁと思いつつ道場に足を向ける。

  文化祭は左九にも役割が結構来ていた。副会長の猛が当子命令で大幕を書かされているためその仕事も回って来ている。実際運動神経はないが芸術的センスはず ば抜けているらしい。猛の賞を取った絵は玄関にも飾られている程で、とても高校生が描いた絵には見えなかった。漫画の絵でも描いているのかと思っていた が、写実的であまりのできにケチのつけようがなかった。

  左九は華道の家元の子で猛とは親戚でもあるが、猛と左九の家とは派閥争いがあるらしく仲は悪い。幼少期に植えられた刷り込み学習で、何となく喋らない。芸 術センスの高い猛がいるのは西澤側としては鼻高々らしかった。正直、どうでもいい。女が強い家系で、姉が家を継ぐ事になっているし、華道等興味がない左九 には蚊帳の中の話だ。自分はその外で日向ぼっこでもしておく。

 それでも、何となく猛とは仲が悪い。今までほとんど喋った事もない上タイプが違う為話題もない。今更仲良しになるのも微妙だ・・・

「あ、華君」

 ぼけっと歩いていると、声をかけられた。

 剣道部マネージャーで同じ一年の横峰 鈴が水道の水をバケツに溜めている所だった。

「道場に持ってくの?」

「うん。近いところの水とまってるから」

 そういえば、当子が午後の何時間かは点検で体育館の水道が止まるとか言っていたのを思い出す。

「華君は生徒会の用事?」

 小柄な横峰が名前の通りの鈴の音のような声で聞いた。

「少し暇できたから剣道部に顔出しに行くとこ」

 このままどこかでふけようかなとも思っていたのだが、このまま見てみぬふりも悪いと思ってバケツに七分目まで溜まった水を横峰が止めた後、それを持ち上げた。

「あ、いいよ」

「どうせ行くとこだったし」

「・・ありがとう」

 素直に礼を言われ、こちらも素直に可愛い子だと思う。

 道場で当子に同じ事をしたら「男女差別ぅ」か「ああこんくらい平気」と軽く拒否されるだろう。そしてやすやすとバケツを運んでいくのだ。

 あれはできるだけ人を頼らない。まあ人を使うのは荒いけどと胸中でぼやく。

「華君って剣道強いよね」

 横峰が横を歩きながらのほほんとした声で言った。

「それ程じゃない。俺より強い奴結構いるし」

 道場の先生に本気出されたら流石に勝てないし、年下でも強い奴には負けるときもある。

「滝神さんとか?」

「当子となら俺のが微妙に強い」

 勝率だけなら上だ。

 当子がいなかったらここまで続いて、強くなれたか微妙だ。餓鬼の頃、やたら頑張る同い年女の子に負けるのが嫌で頑張っていた為、当子がいなかったら早々と辞めていたかもしれない。

「・・・仲いいけど、滝神さんと付き合ってるって噂・・・ホント?」

 まあ、生徒会もやっている上剣道友達でもあり付き合いが古い為に仲もいい、が、付き合ってないんだよな・・・と胸中でぼやく。

「・・・唯の友達だけど」

 今はまだ。とこっそり付け足す。

「あ、そうなんだ」

  別に噂が流れても構わないが、現実でない為情けない。横峰が何気なく言うのを聞きながら、やっぱ当子じゃ別れるなんてそうないよなと溜息を付きそうになっ た。婚約者が相手なのかそれ以外かは知らないが、当子が一時の気の迷いで誰かと付き合うなんてありえない。そうそうな事がないと別れまい。

 勝算0だよな・・・





「・・・・・・アホくさ」

 一人残った生徒会室でぼやいた。

 やる事がある時はそちらに集中できるが、ふいに集中力が途切れたりやる事無くのべーっとしている時は妙な寂しさに囚われる。今までにそういう感覚を覚えた事がないとは言わないが、ここまで酷くはなかった。理由など考えるまでもない・・・。これだから嫌だったのだ。

 中毒は摂取量に慣れるとより多くを求め出す。貪欲で無様で破滅するまで止まらないレールに乗せられたようだ。はまってしまうとそう簡単に抜けられない・・・だから、嫌だったんだ。

「はぁ」

 かなりの忙しさにすれば少しは気が紛れると思ったのに、何で、こうなるのか・・・

 少しでも会いたい。

 ・・・涙まで出そうになる。






 生徒会会計、新田 燐火は生徒会メンバーでは唯一の3年だった。スポーツ万能で端正なマスクで校内のアイドル的地位を得ている彼女は詰まらなさそうに副会長の西澤 猛を眺めていた。

「・・・つまらなかったら戻ってくれて構いませんよ」

 同じく唯一2年の猛が溜め息混じりに燐火に言った。

「ん〜」

 机に座って足をぶらつかせながら生返事が帰ってきた。

 猛はもう一度溜息を付いてから広々とし過ぎたキャンパスに視線を戻した。

 当子からの命でこの教室一杯にある大きな幕を一人任されたはいいが、どうにもイメージが湧かない。ポスター原画は思いの他スラスラと描けたが、こっちはもはやエグイほどに進まない。調子にノリさえすれば、いくらでも描けるのだが、これを前にすると一向に手が進まない。

 こんなでかいものに描けるのはいい機会だと二つ返事でしたが、これほど苦戦するとは予想だにしなかった。

「猛君」

「・・・何ですか?」

 燐火のいつもと違ったどこか寂しげな声がした。

「誰も相手してくれないの」

「・・・・・・・・・・・・・・・仕事なら一杯もらえるんじゃないですか?」

 甘えた声を出す美人に釣れない訳ではないが、身分不相応な恋で悩むなんて性に合わない。「遠くの鯛より近くの鰯」が猛の格言であって無駄に無理はしない事にしている。その為、素っ気なく肩を竦めた。

「ホント、猛君ってつれないわね」

 拗ねたような声を出しながら、燐火が机から下りた。

「で、何の御用ですか?」

「息抜きと様子見よ。当子ちゃんも仕上がりは文化祭までにしてくれればいいって」

  スカートから出た太股は意外と筋肉質で、見た目ほど華奢ではない事が容易に想像できた。実際、運痴な猛からしてみれば不思議なほどに燐火はどんなスポーツ もこなす。一つの部にとどまるでもなく、色々な部に顔を出しては助っ人等をしている。普通なら部員から反感を買いそうなものだが、人徳かむしろ好意的に受 け入れられている。

「そう言ってもらえると助かりますよ。無理なときは何しても無駄なんで」

 一向に進まず真っ白いキャンバスを見るとたまに辟易する。

「そっちは順調ですか?」

「もちろんよ。マシーンのような会長様がいらっしゃるもの」

 確かに、当子は有能だ。一人でぱっぱか事を進めてしまう。ライブの話も始めは冗談だと思ったが、現実にしてしまった。末恐ろしい。

「良かったじゃないですか、最後にしては上出来な文化祭になりそうで。ミスコンも復活しますし」

「・・・・そうなんだけどね」

 何となく寂しそうに見える顔は演技ではなく思えた。

「でき過ぎでやる事がないですか?」

「・・・・・・意見は取り入れてくれるし、ちゃんと周りにも気を配ってくれてるし、思っていた以上に楽しくなりそうよ」

 指先を弄りながら、

「でも、なんか足りない気がしてならないのよ」

 真夏の昼の校舎の中は電気を点けていても逆に暗く感じる時がある。

「完璧すぎるんですか? それとも、お姉さんよりもでき過ぎてますか?」

 少し意地悪な質問をした。

 燐火の姉は以前ここの生徒会長をしていた事がある。そのできた姉が行方知れずだという事も、

「・・・かも知れないわ。私の目から見ても怖いくらいに何でもできるしね」

 おどけた口調で言うが本心も入っているだろう。

 そこまで詳しいわけではないが、全く知らないわけでもない。

「リコールはある意味失敗ですね」

 肩を竦めて言うと、燐火が急に声のトーンを上げた。

「あれは成功よ! あの馬鹿に一泡吹かせれたんだもの!!」






 思わず溜め息が出そうになる。

 恋煩い等と気持ちの悪い言葉は使いたくないが、否定はできないのが全く持って情けない。

 どう頑張っても会えるのは週一か二週間に一回だ。おまけにまともに出かけている訳でもない。デートらしいデートもしていなければ、セクハラ制限もある為手出しもできない。

  当子に対する後ろめたさよりも嫌われ愛想付かされる事への不安による物だからつくづく始末に終えない。ここまではまってしまうと、まるで右も左も解らない 餓鬼の様だ。こうなると本気で籠に入れてしまいたくなる。そうすれば逃げられる事はなくなる。こちらに利用価値がある限りは捨てられる事はないだろうと皮 肉っぽい考えも浮かんでしまう。

 こう言う考えは女の専売特許であってくれたほうが有り難い。こんなドロドロした感情に吐き気がする。それでも、離せないのだ。

 今まで以上に仕事のミスが出ないよう極力注意力を払い、できる限りの手で仕事を成功させる事に努力するのは当子が原因で、その為にその当子に会えなくなる時すら出ているのだから皮肉なものだ。

「・・・・」

 吐息とも溜め息ともつかぬ息を吐く。

 数ヶ月前までは当子を翻弄する側だったのがいつの間にやら完全に形勢逆転されている。十近く離れている子供にここまで感情を乱されるなんて考えもしなかった。

 いっそ狂えてしまえれば楽なのだろう。もっとも、もう自分の所為で当子を泣かせるような事はしたくはない。心配によるものならばまだしも、恐怖で泣かせるなど絶対に許せない。

 トチ狂って、あんな事だけはしない絶対にしてはならない。

「・・・・」

 会いたくて仕方ない。






 四季 弥生は優雅に口端を上げた。

 夏深の実母である弥生は目の前のご令嬢の話しに耳を傾けつつ、中々良い算段を思いついた。

 そして、優しい笑顔で言った。

「私から話をしますわ。あなたの様な気立てが良くて由緒ある方なら夏深だって直ぐに気に入りますわよ」

 にこりとした笑顔のまま、

「主人の手違いみたいなのもので婚約しただけですもの」









   二   運のない偶然    6/8up





 何故か、電話に出る前に不吉な予感がした。

 それがあの嫌味たらしい母親からの電話だというだけが理由ではない気がした。

「何ですか」

 一様は仕事中である。特に手が離せないわけでなかったので、どうせしつこくかけられる電話に早い内に出た。

『23日、空いてるわね』

 出て早々のこの命令口調にウンザリする。縁を切りたいとすら思う。

「残念ですがその日は予定が入っています」

 決まって約束をしているわけではないが、その日は会いたい人間がいた。何より、散々な目に会わされた人間の言う事素直に聞く気にはなれなかった。

『なら予定を変えなさい。その日にどうしても会いたいのよ』

 猫撫で声に嫌気が差す。

 これで銀行系統に影響力を持たないただの女ならどんなに楽な取引先なのだろう。

 数分前までの、当子には何の意味もない日なのだろうと、どこか投槍に考えていたのがせめてもの救いになろうとは・・・

「時間によります」

 夏深が溜め息混じりに言う。

『そうね。夕食をついでにしたいから、夕方くらいからは開けて置いて』

「・・・今後は最低一週間前にアポを取っていただけますか」

 あくまでに事務的に言うと、上機嫌な弥生の笑いが聞こえた。

『ええ、気をつけるわ。じゃあ明後日』

 電話を切ってから、又何か企んでいるのだろうかと訝しんだ。

  あれは産みの親でありながら夏深を好いていない。何よりも当子との婚約を至極面白く思っていないのだ。そのお陰で数ヶ月前は散々な目に遭わされた。結果当 子の姿勢が軟化したのは有り難かったが、あれで母親が手を引くとは思えない。そんな優しい女ならとうの昔に優しい母になってくれていただろう。ただ、当子 への直接攻撃を止めさせるのはあまり気が進まない方法だができた。当子は夏深の父親 春夫にベタベタに気に入られていて、弥生よりも力の強いその春夫を当 子と弥生の間の壁にしてしまえば言いだけの事だった。他力本願であまり気乗りできなかったが、仕方のない時もある。

 当子が駄目になれば、当子側から出なく夏深側から妨害をする事くらい考えられる話だ。

 春夫が夏深にまで保護層を作りもしなければ、こちらもそんな所まで手を焼かれる気などさらさらない。







「・・・もしもし」

 大和に言われたからという訳ではないが、確かに夏深なら当子の誕生日には無駄な気を使ってくれるだろう。唯でさえギブ・アンド・テイクから外れているのにこちらが何もしないのは有る意味癪だ。

 そろそろ、仕事が終わっているだろかという時間帯に電話をかけた。

『どうした?』

 淡白だがどことなく優しい声がして、何となく照れる。

「急なんだけど、明後日空いてる?」

 さっきまでの声が急に強張った。

『いや・・・その日は仕事が詰まっている』

「あ、ならいい。大した用でもないから。じゃ」

 仕事と言われてはこちらは何も返せない。唯でさえ忙しいの相手に餓鬼っぽい事で煩わせるのは嫌だった。

 相手が何か言うよりも早く、電話を切った。

 心のどこかで、会えない事への寂しさがあるのが解っていて無視をした。他に考える事なら一杯作っている。いくらでも、気をまぎらわせられる。

 高が一回無理と言われただけで、落ち込んで等いない。

 私はそれ程弱くも馬鹿でもないんだ。





 こんな運のない事はない。

 当子からの電話は唯でさえ少ない上に、あの手の誘いは今までに数回しかない。今までは多少の無理をしてでもそれに答えてきたが、それを数時間前の弥生の電話に先を越されたがために無駄にしたのだ。

 それも、態々こちらの産まれた日にだ。

 そこまで誕生日に思い入れがあるわけでもないが、当子がそう言った事を気にかけてくれるのは意味が全く違ってくる。

 それを、棒に振ったのだ。こんな事なら否が応でも断って置くべきだった。例え取り越し苦労に終わっていたとしても、だ。

 折角かかってきた電話も、止める間もなく切られてしまった。

 運がないにも程があるだろう・・・・







「あ、当子ちゃん。大和ちゃんから連絡あったよ」

 朝の生徒会室に生徒会顧問の貞月薫が珍しく顔を出した。

 臨時の教師だったが二学期からは常勤になるらしい。数ヶ月前までは、当子と燐火に過度のスキンシップをとり思い切り犬猿されていたが、それが少し柔らかくなっていた。

 噂で当子が貞月を手懐けたと言うものがあるが、燐火は正直そうなんだろうと思っていた。

「聞いてます。明日の午後から少し抜けますから」

「それがさ。接待みたいなものだから当子ちゃんの代わりに貞月さんでも結構ですよって」

 貞月は案外マゾッケがあるのかもしれないとこの頃思う。バンダリの件でたまに打ち合わせに来る大和にもこの前ひっぱたかれたばかりだというのに懲りないらしく楽しげに言う。

「いえ、その必要はありません」

 至って淡々と言っているようだが、当子の顔が一瞬強張った気がした。

 ちゃんとすれば可愛いのにそれをわざと低減させるような堅物スタイルの当子は動揺とか不安や恐怖の類は一切を隠し通そうとする。仕事の愚痴や不平も滅多に出さない。

 それでもたまに隠し切れない上機嫌の時やマックス不機嫌の時くらいは判断が付く。今日はブルーデーの様だった。

「大和さん、この前来たばかりなのに早いのね」

 何気なく聞くと、当子が肩を竦めた。

「バンダリ側が確認に来るそうです」

「もう一ヶ月ないものね」

 例年は二学期が始まってから大抵のクラスが文化祭準備に大わらわするのだが、今年は当子の政策で8割方の所がかなり前に用意をし出している。

 どういう手を使えばこうもヤル気をださせるのか不思議でならないが、面白みのなさそうな堅物のふりをしてここまでやはり当子自身の実力なのだろうか。

「何か問題でもあったの?」

「いえ、そういう訳ではないと思います。向こうも仕事ですからいくら文化祭ライブといえども大手が噛んでくる以上無茶は言わないでしょう。今回は多少の調整だと思います。」

 この件は当子にまかせっきりだが、当子がこう言うからには大丈夫なのだろう。さっき強張って見えたのはやはり気のせいだったのかもしれない。

「ところで、西澤先輩の方進んでますか?」

「んんー、難しいっぽい。入賞した時もギリギリまで煮詰まってて、最後何日か貫徹で描いてたから、文化祭には間に合うと思うけど」

 たまに絵のモデルをしてあげている為、猛の事は少しは知っている。ただの林檎か石膏のようにしか見ずに淡々とかかれるが、あの絵を見せられては描かれるのが悪い気がしない。高校生であそこまで描けるのは絵には詳しくないが凄いと思う。

「流石に文化祭前にはけっこう仕事やって頂かないとならないので、できれば少し急かして下さい」

「ん。言うだけ言ってみる」

 言いながらも言わないで置こう考える。当子も満足が行くものをお願いしますと言っていたし、仕事なら優秀な当子がいるのでいざとなったら何とかするだろう。駄目ならそこらへんの男子に手伝わせればいい。

「あれ。そういやオレンジは?」

 貞月が左九がいないのに今気付いたように言った。

「華ちゃんは剣道部行ってます。華ちゃん朝は暇なんで暇つぶしに」





 水道の水を頭から被る。オレンジ色に染め上がった髪が水の流れに従って揺らめいた。

 既に汗でびしょびしょで今更濡らしても問題ない。少し生え際の黒が解る様になってきたから、そろそろ染め直さないとならない。派手な色のためプリン頭はかなりダサすぎる。

 そろそろ色変えしようかなと考えながら頭の水気を絞っていると、横峰がはいとタオルを渡してくれた。

「部のタオルだから、どうぞ」

「サンキュ」

  流石に女の子のタオルは借りるのは気が引けるが野郎臭い部の物なら気も使わない。女マネは計4人いるがほぼ毎日顔を出すのは横峰だけだった。中学の時は部 活で剣道をやっていたらしいが、やるより見るほうが好きらしい。その感覚は全く理解できない。他人の試合でも見ているとやりたくてうずうずしてしまう。

「華君すごいね。祖崎先輩にも二本勝ちだもん」

 さっきまで二手に分かれて団体戦をしていた。チームとしては負けたが左九は二本ストレート勝ちをしていた。

 この学校の剣道とは相性がいいらしく、相手が同等か少し上の実力でも勝てる事が多い。

「まぐれ。あの人試合前の打ち込みで足捻ってたし」

 練習中派手にこけてコールドスプレーで冷やしているのを見た。袴の長さが長いと踏みやすいし、短いとつんつるてんで格好悪い。あの調整は難しい。

「でも凄いよ」

 熱っぽく言われる。

 まあ褒められて悪い気はしない。それがそこそこ可愛ければなおの事だ。が、当子ならあの場合駄目だししてくるかもなぁともどこかで考えてしまう。

「・・・・あのさぁ華君。今度の日曜暇じゃない? 部の備品の買出し行きたいんだけど・・・」

 日曜は確か暇だった。

「別にいいけど」

 と何も考えず二つ返事をした。







 大和が予定を入れてくれたのは有り難かった。悶々と一日考える等嫌だった。

 まあ、大和はそのネタで突いた反面邪魔をして悪いとでも思っているようだが、

 仕事なら仕方ない。明日は朝一でオメデトウメールでも入れておこう。ふとそんな事を考えている自分を省みて、溜め息が出た。

 計算でそれをするならまだしも、自然とそんな事を考える自分が気持ち悪い。打算的で猫かぶりだと自覚しているのに、素がこれだと辟易する。

 ホントにヤバイ。

 丁度携帯が鳴ってメールを告げた。反射的に夏深?と考えてしまうのにも嫌気が差す。

「・・・女狐」

 口の中で呟いた。

 無意識の期待が裏切られて気落ちしつつも、珍しい母親からのメールを開いた。

「ちょっと待てぇ!」

 ついウッカリ大きな声で叫んでしまってハッとする。

「・・・どうしたの当子ちゃん」

 生徒会室にいた燐火が唖然とした顔をしていた。これはこれで恥ずかしい。

「いえ、何でもないですスミマセン。ちょっと電話してきます・・・」

「あ、うん。解った・・・」

 今までこんな失態を犯した事がないので、燐火がUFOでも見たような顔をしていた。

 生徒会室を出て、人気のない最端のの階段へ向かいながら通話を押す。

『唯今電波の・・・』

 機械的な女性の声を耳にして苛立ちを覚えつつ電話を切った。改めて別の番号を押す。

 しばらくの呼び出し音の後、ガチャリと音がする。

「くそババアっ!何で家にいる!!?」

『いやん。当子ちゃん。今、ママの事ばばあって・・・言った?』

 言葉とは裏腹にドスの効いた声が鼓膜を揺らす。

「・・・・何、この今日の晩御飯何がいい?って」

 メールの内容を思い出して寒気がした。当子の母 桜の飯は食えたものではない。いや、わざと喰えないものを作っているのかもしれないが、少なくとも今まで喰えたものを作ってくれた例がない。

『一人娘がちゃんと生活しているか不安で不安で、休暇を取ってしばらく家に居ようと思ってるの』

「何が『るの』じゃ! 何企んでんのよ。録でもない事だろうけど」

 母親のぶりっ子に嫌気が指し、毒づく。これが可弱いだの何だのと言われるのだから腹が立つ。

 第一、滅多に国内にすら居ない癖に何が今更不安だ。第一、休暇ってどんな仕事をしているのかは実際知らない。

『あらいいじゃない。部屋は一杯あるし。まあ夏深君とはイチャイチャできなくなるでしょうけど』

「そう言う問題じゃない。・・・・取り合えず帰ってから聞くけど、ご飯は帰ってから作るから絶対に台所に立たないで」

 どうせそれほどいちゃついていた訳じゃないと思いつつも、いつも苦手なネタを振っては楽しむ母親は邪魔ではある。

『母の味、たまに食べたくない?』

「まだ死にたくはない」

 笑顔で言いながら、相手が電話の向こうで悪魔のような微笑をしているのを感じた。

『早く帰ってくるのよ〜』

 それだけ言って強引に電話を切られた。

「・・・・・マジ何考えてんだか解らんから怖い」

 この世で最も敵に回してはならないものはあの女だ。オマケに利益よりも趣味に生きるだけに予測ができない。一文にもならないアホな事をしたがる事も少なくない。

 電話で問答をしても意味がないので生徒会室に戻る事にした。

 今日はなるべく早く帰る方がいい。台所がぐちゃぐちゃにされるか、食料を無駄にされるか火事を起こされるか解ったものではない。







 どうして、ケーキを作ろうとしたら新生命体のような物になったのかしらと桜は小首を傾げてみた。

 ちゃんと本を見て指示通りに作るのに毎回不思議なものになる。こんな本を売るなんてどうかしている。

 仕方がないので台所を片付けもせず放置して、別の部屋へ向かった。

 当子の祖父の・・・当子の父親の家でもあるこの純和風の平屋は好きだ。当子がこっちに住むのは桜としては嬉しかった。よく捜せば今はもういない愛しい人の痕跡を見つける事ができる。

「亡霊くらい住んでいないかしら?」

 会えるなら幽霊でもいいから、会いたい。

 ふらっと奥にある生前のままの部屋へ入った。

 小さな本棚とこの家には場違いな大きなグランドピアノのある部屋。

 調律されず音の外れたピアノに指を這わせてつくづく思う。何で舞台に立つ前に死んでしまったの? どうせなら、あなたとの子供を授かる前に死んでくれれば良かったのに。そうすれば何の苦もなく後を追えたのに。

 どうして、私をほって行ったの・・・?

 ねえ。アタルさん





 家に帰ると案の定臭いにおいがした。やっぱりやられたか・・・

「いやん。久しぶり当子ぉ」

 絶対似合わないエプロン姿で抱きつかれてウンザリする。

「その手があたしに通じるとでも? ちゃんと後片付けはしてもらうから」

 冷たく言うのを完全無視して仲良し親子でもあるかのように桜が言った。

「ちょっと身長伸びたんじゃない? それにしても色気のない格好ね。眼鏡なんて必要ないくせにっ。時代錯誤の学校じゃないんだから三つ編みなんて規定ないでしょ?折角いい髪してるんだから下ろせばいいのに」

「うっさい。で、何しにきたのよ」

 靴を脱いで部屋に入ると、今に入ると色々微妙な臭いがした。相変わらずどんなモノを作ればこうなるのだろう。ある意味天才だ。

「ちょっとしたリフレッシュ休暇よ。普通じゃない?愛娘が一人暮らしているのを心配してママがちょっとお泊りに来るなんて」

 確かに、一般家庭なら普通すぎるくらい普通だ。

「よう言うわ。いつ母親らしい事したっちゅうねん」

「色々情報上げてるじゃない」

 確かに、桜から届く情報は中々いい。投資においてはかなり参考にしている。でかい会社でも欲しがるヤバイ情報もあるくらいだ。

「その前に家事できるようになって欲しいもんね。・・・・・・・・・うわっ。何これ!泥沼妖怪産まれてるしっ」

 もわんと黒煙を吐き出したオーブンの中に気持ち悪いねばねばしたものが蠢いていて本気で後ずさった。

 ホラー映画もビックリだ。








 23日の夜

 夏深は、予想通り過ぎて顔が引き攣るのを必死に堪えた。

「詩織さんのお父様は夏深もご存知よね?」

 歳の割には若い母が当子とも一度来た事のある料亭のテーブルで、かなりの政治家で権力者の娘を紹介した。

「ええ、色々とお世話になっていますから」

 案外強いカードを切ってきた。家柄学歴年齢全てが揃っている。外見も美人だ。それ程外見に固執して女性と付き合ってきてはいないが、正直最近は当子以外は女と見れない。どんな美人を連れてこようが一緒ではある。ただ、親が親だけに無碍な断り方はできない。

 向こうとしてもここまで揃った相手はいないのだろう。嫌でも熱視線を感じる。

 花の女子大生でもあるらしいが、今ではその魅力も曇って見える。

 こんな茶番に付き合うより当子と一緒にいられればどれほど良かった事か、高が一通のメール等では満足できない。

 今日の穴埋めで夏休み中に当子とどこかへ行けるだろうか? 二学期に入れば向こうは文化祭でそう会えないだろう。

 ついそんな事を考えてしまう。

 後々親馬鹿な父親に泣き付かれても後々の始末が面倒なのでそんな事おくびにも出さないように取り繕うので大変だった。だが、変な期待をされて断る時に変な確執が生まれても困る。

 この性格の曲がった母親は、又面倒な相手を選んだものだ。





 23日夕方。

「大和さん、これから晩御飯付き合いませんか?」

 思ったよりも長引かせた話し合いの後、当子は残った大和に声をかけた。

  もっと早くにも済ませられたのだが、夏深と会う予定もなく家に帰ってあの女狐の相手をさせられのも気が滅入る。それにバンダリの所属する事務所の加藤との 話は中々面白かった。色々と裏話を聞けもした。そんなこんなで予定よりも延ばしたが、このまま家に帰ってご飯を作るのも何となく面倒だ。

「あら、でも夏深君と会うんじゃないの?」

「向こうは仕事なんですよ」

 軽く肩を竦める。メールの返信で明日は会えると短い返信があったのを思い出してそれで我慢すればいいと思いながらも、どうにもこの後桜の相手をする気力はでない。

「ああそれじゃ仕方ないわね。そーね・・・旦那今出張であたしも寂しかったからいいわよ」

 この大和の旦那は是非一度拝見してみたいものだ。

 あえて、寂しかったの前にもを付けられたのはあえて無視した。別に寂しいわけじゃなく。家に帰って母親のご飯を作るのがだるかっただけだ。

 別に、寂しい訳ではない。

 今更こんな些細な事で寂しさ等感じない。





「おいしかろ?」

 汚く小さな店内で、大和は横でラーメンを啜る当子に得意げに聞いた。

「ええ。多分魚の出汁が入ってるんでしょう」

「・・・まじ?」

 言われて見ればそういう気もする。

 別に出費をケチったわけでなく。ここはおいしいし、当子は制服姿の為あまり洒落た所よりこういう所の方がいいだろうちょっと遠出して来たのだ。

 眼鏡を外した当子はやはり嫉妬を足しても美人だ。これなら夏深と並んでも歳の差があるとはいえ兄妹でなく恋人同士に見えるだろう。あんな自信に満ちた塊にはやはり似たものが似合うのだろうか?

 そういえば、最長記録で(噂の範疇だが)2・3ヶ月だったのを考えるとやはり夏深にしてはもう十分長い。まあ当子に対しては異常な程優しいのを考えれば当たり前か。ただ、かなりの美人とも付き合っていた(噂のある)夏深がこんな歳の離れた子供である当子にのみ過剰に反応するのかは不思議だった。恋は盲目という奴だろうか?

「そう言えば、大和さんって社内恋愛で結婚したんですか?」

「んん。見合い」

 ずぞぞと啜りながら軽く答える。

「会社の男はあたしより仕事できないから。ま、夏深君は私は足元にも及ばないけど」

「そうなんですか」

 興味あるのかないのか解らない生返事が来た。恋愛関係には疎い分他人の話にもさほど興味はないらしい。まあ、あそこまでそろった野郎と付き合っている当子には言っても哀れまれも内心で勝ったとも思われないだろうと軽く返した。

「リストラされて今売れない建築家してるの。今知り合いに遠方の別荘任されてるからそれで旅に出てるのよ」

「・・・確かに出世は無理そうですね」

 餃子を取りながら当子が答えた。

「でも、幸せそうでいいんじゃないですか? いつもいない訳じゃないんなら」

 一回り以上年下の当子は大人びているというよりは子供っぽさがない為同年の友人と話している錯覚を覚える。

「むしろ家事はやってくれてるけどね」

 何だかもう、当子に見栄を張るのもカッコつけるのも面倒臭くなる。

「やっぱりバリキャリにはそういう人の方が会うんですかね」

「それはそれぞれだと思うわよ。十人十色ってね。私から見れば、当子ちゃんと夏深君はムカつくくらいお似合いだとおもうしね。何?もう倦怠期」

 やっぱりどんないい男でも慣れれば飽きるのだろうか?

「そういう訳じゃないです」

 自分の話になると言葉を濁す。気を許すとか以前にそういうタイプでないのだろう。当子のベタベタに甘えた姿は想像し辛い。むしろ、夏深と当子が電車でイチャイチャするバカップルみたいな事をしているのはギャグでしか考えられない。何だかんだいって堅物なのだろう。

「当子ちゃんって、たまにぎゅうってしたくなる可愛さがあるわよね。それも嫌がらせで」

 男だったら絶対モーションかけていた。





「・・・あそこのお店は穴場ですね」

 お腹が痛いほどに食べたのはかなり久々だった。それに、大和相手だとあまり作らなくて済む。夏深が付き合っていただけはあるといった事だろうか。大和が夏深のもと女と聞いてもなんか嫉妬の類には入らない。まあ、会う前に嫉妬しても意味はないのだし。

「でしょ? まあ〜ちょっと汚いけど、味はいけんのよ」

 確かに味はいいが外見は一瞬入るのを躊躇う物だった。

 大和の運転する車の中で相槌を打ちながら何となく外を眺めた。

 案外いい、暇つぶしにはなったし、美味しいラーメン屋さんも知れた。今度ああいう店に夏深と行くのも面白いかもしれない。そんな事を自然と考える。

 送ってもらう帰りしなに偶然というには確率的にあまりにも有り得ないモノを見た。

 先程までの車内の程よいクーラーはまるで北極の外気のように感じた。

 背筋が、凍る。

 頭が冷静に回らない。歯車が、抜け落ちた。







 運よく仕事の電話が入ってくだらない茶番はお開きにできた。

 仕事のお陰で当子を乗せる助手席に弥生の差し金を乗せて送らなくて済んだ。

「すみません。お仕事お忙しいのに時間を取って頂いて」

 はにかんで笑うが、当子とは全然違う。会った頃の猫被りと比べてもどこか品位に欠ける。

 適当に返して、とっとと弥生の待つ車に乗って帰ってくれと呪った。

 道に寄せて止まったハイヤーを車が鬱陶しげに避けていく。

 車の流れが止まって待たせている車を避けて停車していく。少し先の信号が変わったらしい。

 急な仕事が当子と約束している明日に長引くものでないか考えているときに、隙を付かれて、親が権力を持つご令嬢が精一杯のアピールとでも言いたげにそっと口に唇を付けられた。

「今日はとても楽しかったです」

 一瞬何があったのか判断する前に、自分の事を恥らったように呟くと詩織が車に乗り込んで、そのまま直ぐに走り出した車の流れに乗って走り去ってしまった。

 夏深がその後姿を見て明らかな嫌悪感を浮かべた苦笑いを漏らした。

 実際に遊んでいるかどうかは知らないがとても奥手には見えない。隙を付かれたとはいえ、あんな事をされるいわれも許可もしていない。

 至極迷惑な話だ。