十一
夏深がたらし込まれているのはすぐわかった。 別に他の女の子供なら気にもしないが、あの女の子供と言うのが気に喰わない。 「どうやって虐めてやろうかしら」
「もしもし?」 『なあに?』 受話器から母親が可愛く尋ねてくる声がする。 「四季弥生の情報くれない? 四季家の奴には入ってなかったから」 しばらくしてから、はあと溜め息が聞こえた。 『弥生ちゃんに会ったの?』 「夏深のオカンが生きとるとは知らんかったわ。知っとったらもうちょっと早うに挨拶いっとったっちゅうねん」 『んなのあんたの思い込みでしょ? ああー、あの弥生ちゃんにばれたか。あの子あたしの事嫌いだから何やっても無駄よ』 身も蓋もない事を言われて溜め息が出る。 「おべっかが無理なら弱みを握るわ」 『そのうち刺されるわよ?そんな生き方してたら』 のうのうと言いながら笑われる。 「いいから情報をちょうだい」 イライラする。 何もかもが、
胃がキリキリする。 薬を飲むと、脱力してベッドへ倒れこんだ。 そう言えば、昔もこんな痛みを受けた気がする。 酒に弱いのと同様に、消化器が弱いのも血らしい。もっとも、一番色濃く『四季』の血を継いでいるらしい。仕事ではストレスを感じないのに、女一人にここまで悩まされるとは・・・ どこでこんなに好きになったのだろう。
「はいやり直し」 トイレ掃除の具合を見て、当子が言った。 「げえっ」 サッカー部部長があからさまな表現をするが、そんな事気にせず当子が眼鏡をくいっと上げた。 「やり直し」 ニコリともせずに言った。 正直、いくら点検でも恥らいもなく男子便所へ入ってくるのはちょっと反則だよなと一人左九は苦笑した。 「西澤先輩と違って厳しいのでね。それに日に日にサボってますから」 「りょーかい」 何となく自分ひとり一週間で切り上げるのが悪い気がして、そのまま罰掃除をしていた左九かモップにも垂れ込んで力なく言った。 「じゃ」 それだけ言って立ち去ろうとした当子に、ラグビー部が待ったと声をかけた。 あからさまに当子が訝し気に眉根を寄せた。 「何か?」 明らかに顔を紅潮させて、鼻の穴まで膨らんでいる。この顔を見て事務的にそして文句を身構えた顔で、言う当子にあーあと思う。 どうして、こう変な所鈍感なのだろうか? 見てるこっちが可愛そうだ。 「そ・・・その」 口ごもった後、意を決して言をおとした丁度その時に当子の携帯が鳴った。 「・・・・・・・悪い。何か聞いといて華ちゃん。あたしこれから用事」 携帯画面を苦く見た後、当子がそれだけ言って小走りで去って行った。携帯に出るその後姿が何となく愁いて見える。 いや、愁いているのはこっちか・・・・ 「何の用かきいとこうか?」 同情しながら聞くが、最早耳には入っていまい。 「彼氏とデートなんじゃないんスか? 明日休みだし、お泊りの」 「裏じゃ案外スゲーとか?」 「ポイですよね」 男同士の話に盛り上がるのは勝手だが、当子をネタにされるのは面白くない。 左九がキレる前に、ラグビー部の人が暴れだした。 案外、このメンバーで仲良くなったっぽいよなと思うと妙な感じだ。
「毎度悪いわね」 乗り込むと、当子がにこりとした。 その笑顔に裏があるのだろうかと思うが、それ以前にこれから繰り広げられる実母と当子の小競り合いを想像すると、胃が思い。 「全くだ」 隠し切れない苛立ちに、つい口に嫌味が出た。
「学校はサゾ愉しいんでしょうね」 「はい。色々とやりたい事を進められるので、とても遣り甲斐があります」 にこっと笑って当子が返すと、弥生が笑顔のまま続ける。 「付き合っている男の子なんかもいるんでしょ?夏深じゃあちょっと年上過ぎるものね」 その本人を目の前にして、そんな事を飄々と聞く実母の言葉に腹が立った。 「そんな事ないです。歳の近い男の子は子供過ぎて、恋愛感情では見られません。でも、夏深さんには私は子供過ぎてしまって」 顔を赤らめてそんな事を抜かす当子にも腹が立つ。よくそんな嘘を平然と言えるものだ。 「ホント、夏深の馬鹿な父親の所為で無理矢理にこんな歳の離れた子供が婚約者では、夏深が大変ね。まあ、父親が父親だから、別に女を作っているだろうけど」 吐き気がする。 「父に対する嫌味ならこちらに言えばいいでしょう」 親父の節操なしのお陰で、実母でありながら風当たりは厳しい。兄弟の中でも最も父親方の血を濃く受け継いでいるらしい夏深へ最近では目の敵のようにいびってすらいた。 昔はそうではなかったが、留学をした頃から夏深への態度はかなり悪化した。夫婦間で恨み忌み嫌うのは勝手だが、それを子供に向けるのは全くいい迷惑だ。 「気に障ったかしら、でも父親が父親だけに有り得るんじゃないかと思ってね。先に教えて上げた方が親切だと思ったのよ」 胸中で罵声を浴びせる事はできても、実際そうする事は歯を食い縛って耐えた。 ここで弥生に宣誓布告し憤怒し出て行く事は容易い。だが、そうすれば夏深だけでなく、当子へさらに反感を与える事になる。唯でさえ当子の母親に対する反感が当子へ向いているというのに、それに輪をかけて当子への敵意を与えさせる事になる。 下手な反感を買わせたくはない。 「そう言った議論をわざわざ受けに来たつもりはありませんが」 意がキリキリと痛み吐き気がするのを感じながら、辛うじて夏深は苦くそう言った。 とても会話を楽しむ雰囲気ではない。 仕事の時のような冷静さが出てこない。取引先に対する冷静さはなく。なんとか防波堤を築くくらいしかできない。隣に座る当子の姿へ神経を立て、観察もできない。当子が今どんな顔をしているのかもわからない。 「あら、ごめんなさい。歳をとるとぽくなるって本当ね」 弥生が笑って済ませると、再び嫌な言葉を紡ぎ出す。 「でも、流石にこんな歳の離れた子供相手に本気にはなれないでしょ?女の子に王子様みたいに思わせておくのは勝手だけど、それじゃあ当子さんが別の男性へ興味を示せないでしょ?」 横の当子が唇を全く動かさず、弥生には聞こえない絞った声で、「世話焼きババアか手前は?」と囁くのが夏深の鼓膜を震わせた。 取引先との連絡ミスでかなりのピンチに追いやられた時、あれはかなりイラつかされたが、これはもっと酷い。 拷問以外の何物でもない。
「素敵なお母様ね」 しこたま小言を言われるのを笑顔で耐えた当子が、部屋に入るなりそう言った。 「それにとても親切だわ」 アレくらいの言葉何でもなかったと言い聞かせながらも、夏深にあたっている自分がいる。今日来たのは自分が決めた事で、夏深の所為ではないのに、夏深の所 為にしようとしている自分に嫌気がさす。それは甘えでしかない。解っていながら当たっている自分は酷く子供染みている。 だが、ネチネチ言いながらも部屋は夏深と同じとは、本当にいい性格をしている。しかも、ベッドはキングサイズの物が一つだけだった。時間も眠るには早いときている。 ああもつり合わないだ親に決め付けられて可哀相だといいながら、親公認なのだからやりたければどうぞ言わんばかりのお気使いには感服する。あの根情悪のオバハンのやる事だ、もしかすればどこかで盗撮か盗聴されていても可笑しくはない。 一期は寝心地の良さそうなベッドに目が入ると、思わず息を詰めた。 恐怖心ではない。言い聞かす。 「安心しろ、俺はソファーで寝る」 当子の後ろから夏深が冷ややかに呟いた。 「あたしがソファーでいい」 突っぱねて言いながら、振り返ると自然とごくりと喉が鳴った。 「夏深、顔・・・青くない?」 淡々としていてあまり表情を作らない夏深の顔が、明らかに苦痛を隠し切れていない。その上、汗ばんで見える。 「気のせいだ」 声だけはしっかりと聞こえるが、可笑しい。 取り合えず寝かせて弥生に医者を呼んでもらおうと思い行動に移す前に、夏深の顔が歪んだ。 大きく咽こみ、膝を突くように夏深がその場に倒れこんだ。 行き成りの事に、体が動かなかった。 「夏深・・・」 愕然として、一気に血の気が引いた。馬鹿みたいに指が震える。 「夏深っ! ちょっ・・・夏っ」 倒れた夏深の肩を押して仰向けにすると、泣きそうになった。 これが、恐怖心だ。喪失感への激しい恐怖。背筋に冷たいものが流れて、氷水の風呂にでも入ったように芯から冷え冷えとして震えだす。 夏深の口から血が流れ、夏深の掌は赤く染まっていた。 祖父を亡くした時のような何とも形容できない痛さが脳を侵食する。 涙がボロボロと溢れ出て、息すら苦しく嗚咽がこぼれる。 「夏深・・・・夏深ぃっ!!」 恐怖だけが頭いっぱいに広がる。
いつの頃だったか、もう思い出す暇もなかったし、思い出しても何とも思っていなかった。 親の不仲は物思いがつく前からだった。 元が恋愛感情でない政略結婚だった上に、海外出張時に別に女を作られ、子供まで産ませていれば弥生が春夫に対して憎悪を持っても可笑しくないのは解る。愛 のない結婚をせざるを得ず、せめて他所に女を作った春夫の気が知れないともいわない。だがそれは成長してからで、流石に子供の頃はボロボロの家族へ動揺と 怒りすら持っていた。 母方の家のせめてもの救いが夏深自身だった。冬祈が産まれる前に弥生が跡取り息子の夏深を産んでいたのは後々のお家騒動をかなり削減した。だが、絶対に負 ける事も許されず、他の兄妹とは比べ物にもならない厳しさで育てられた。それでも、両親に褒めてもらう為に健気に頑張ってきた。それを、両親はやすやすと 蹴散らす。 会えばなじりあい、常に冷ややかな空気の流れる世界が全てだった。せめてもの救いは既に他界した乳母やだけだった。 体裁を整える為だけの夏深が意外なほどに有能に育ったのは奇跡的だった。 その奇跡に弥生は満足はすれど、春夫に似た実子に憎悪が向いているのが解ったのはいつ頃からだったろうか? 親は子供を無条件に愛すなんていうのは、別の世界の話だ。無条件に愛してくれたのは血の繋がらない乳母だけだった。 今更何故こんな事を思い出すのか不思議だ。もうあの頃のような子供ではあるまいし、割り切ってしまった事だ。 親の愛情欲しさに手を伸ばす事はなくなった。 一人で生きる事を覚えてしまった。
「多分ストレス性の急性胃炎ですって」 弥生が青い顔をして待っていた当子に告げた。 「出血が酷かったらしいけど、命に関わる事はないだろうって」 安堵で涙が出そうになり鼻声になった。 安堵と同時に昔の事が脳裏に過ぎった。 あれは夏深が小学校に入った頃、同じように夏深が倒れた事があった。 始めは学校の問題かと思ったが、酷い思い違いだった。 結局はその事が原因で別居の形を取った。形だけの夫婦がいくら家が広くとも同じ屋根の下に暮らし、その姿を見て夏深があんなにストレスを感じている等夢にも思っていなかった。 頭がよく、聞き分けもよかった夏深は子供ながらに問題の解決ができるタイプだった。それが、どう頑張っても解決できない家の重圧にああなるまでストレスを持つとは思っていなかった。 あれ以来、こんな事はなかった。あんな事で夏深が倒れたのが不思議なくらい。どんな状況になっても倒れるほどの事はなかった。いたって健康だった・・・ 「ストレス・・・」 次は当子が倒れるんじゃないかと思うほど青い顔で、当子がうわ言のように呟いた。 夏深は自身よりも当子に対する弥生の言動で当子以上におかしいほど過敏に傷ついたのだろうか? あの馬鹿な春夫が当子の母親にこがれていた様に、惚れているのだろうか。 今回も、私があの子を苦しめた・・・
眠る夏深を前にして、当子は涙をほろほろと流していた。 何度も嗚咽を漏らして、すすり泣いた。 もう手遅れになっている。 頭の中で危険信号は止んでいた。 離れられない。もう・・・駄目だ。 危険を知らせる感覚は、もう麻痺してしまって、機能できない。
左腕から、冷たいものが流れ入ってくる感覚で夢うつつの世界から目が覚めた。 薄暗いが電灯が点っている為、辺りを窺う事ができた。同時に、急速に記憶が蘇り苦笑いが漏れる。 ここまで情けなくなると、もう救い様がない。 窓からは月明かりが差し込み、時はまだ遅いらしい。 ガタリと音がして右手を見ると、当子の姿があった。頬に涙の後が見えた。 「夏深ぃ・・・」 今まで聞く当子の声の中で聞いた事もないような情けない声を出しながら、当子の目からさらに涙がこぼれ出した。 「当子?」 訝しんで声をかけると、当子が崩れるように椅子に座り込んだ。 「・・・・っ、ごめ・・・なさい」 嗚咽の様に絞り出した声で言いながら、子供のように泣きじゃくる当子が今の自分の状況よりも頼りなく弱っているようだった。 「・・・当子」 点滴の入った左腕を気にかけながら、右腕で体を起こして、少しでも当子の距離を縮めた。 「あたしが・・・悪いのっ・・・苛めたか・・ら」 震える当子へ手を伸ばす。 「泣くな。頼むから」 夏深が擦れた声で言いながら、そっと当子の髪を掻き揚げた。 「お前は何も悪くない」 「・・・嫌いじゃない。から」 依然として涙を流し続ける当子が、何とか搾り出してはっきりといをうとするが呂律が綺麗に回らず稚拙な言葉に聞こえる。 「だか・・ら、不安にさせないで・・・」 あまりの可愛らしさに、悩殺されそうだ。 「お願い」 ゆっくりと、ベッドに寄りかかって当子から抱きしめられて、どうしようもない感覚が広がる。 右手だけでひっと当子を支える様に抱きしめる。 これは、誰にも渡せない。親の愛情のように時間とともに諦めをつけれる物にしたくない。 馬鹿みたいに腕を伸ばして、独占したい。 「心配をかけたな・・・もう、平気だ。安心しろ」 安心をさせようとかけた言葉を拒むように、首に回った腕に力を込めて、左右に小さく首を振られる。 「当子・・・?」 今までにない当子の行動にある種の動揺しながらも、当子の背中を優しく擦ってやった。 「駄目なの・・もう。離れられないの・・・」 耳元で当子の小さいほとんど囁きのような声がする。 「だから・・・不安にしないでっ」 左腕が重くなければ、当子の背骨が折れるくらいにきつく抱き返していた。 あまりにも、可愛らしすぎて、完全に反則だ。 「死んでも離す気はない」 耳元で、甘く囁く。 倒れている場合ではない。少なくとも、こんな情けない事で当子を泣かせたくはない。
エピローグ
「直ぐに退院すると思ってた」 休日な為、一度帰った後さほど時間を空けずに戻ってきた当子が、まだ少し赤い目のまま言った。 「元々来月には健康診断に来る予定だったからな。それを繰り上げる事にした」 夏深が肩を竦めた後付け足した。 「社長命令で、な」 夏深のぴしっとした格好以外は見た事がなかったが、やはり、パジャマ姿でも垢抜けているからムカつく。 外見重視で人を見ているわけではないが、この外見にあの有能ぶりを持たせるのは、神の不公平の骨頂だ。 「・・・・・・・・・・・如何わしい事は、安全日以外は念の為に却下。それに次はどんな理由があろうと強要したら胃癌で死ぬまで相手にしないから」 ベッドサイドのパイプ椅子に座ったまま、視線は夏深の目を直視せずに、それでもはっきりと言い切った。 「子供は災厄でも高校を出るまでは作らない。希望を言えば大学も出ておきたいけど」 そこまで言ってから、ちらりと夏深の顔が視線に入った。 出会った当時では見せなかった優しすぎる顔に背筋がぞわぞわとした。この男で抗体を作ってしまっては、とてもじゃないが他の相手を見つけるのはハードルが高すぎて難しすぎる。 「そう言ってもらえると、少なくとも当分はこんな病にはかからずに済みそうだ」 顔が赤く染まるのを制御できない。 夏深が馬鹿みたいな事で胃炎なんて起こしたように、こっちも馬鹿な病気にかかった様だ。 心臓が痛いくらいに動くのが解る。やっとの事で目線を上に上げて夏深の目を見ると、いつもの自嘲気味の苦笑いのような顔をされる。 なぜか、夏深の顔を見ると下手なお世辞や上手い言葉が出てこない。 硬いベッドに腕をついて、身を乗り出す。 そっと、こちらからキスをする。 触れるだけのキスの後、当子にとっては一杯一杯の背伸びの甘いキスをした。 リードするでも、拒絶するでもなく、当子のペースに合わせるような口付けをする。 誰が最初にしだしたのかわからないが、言葉よりも上手い感情表現がこれしか思いつかなかった。 |