七



 自分の情けなさに反吐が出る。

 泣いている当子に無理やり手を出して、まだ誰のものにもなっていないと解っても、止める事ができなくなった自分に吐き気がする。

 当子を、傷つけた。

「・・・・・・っそ」

 拳を手加減なく床に打ち付けて、酷く後悔の念にかられた。

 気を失ったまま眠る当子を一瞥して、自分のした事に泣きそうになる。

 どんなに有能と言われようが、金持ちの息子であろうが、モテようが、こんな子供の前ではただの馬鹿な男に過ぎなくされる。

 他に渡すぐらいなら、殺してしまいたいと思った自分が恐ろしい。何よりも大切に護りたいものなのに、

「くっそ」





「・・・・・・・・・・はっくし」

 当子が生徒会室に入ると同時に親父臭いくしゃみをした。

「ちょっと!当子ちゃんずぶ濡れじゃない」

 まさに濡れ猫状態の当子にぎょっとてし、慌てて鞄を探ってタオルを出した。朝から雲行きが怪しかったが、学校に付いた頃にはもう既に地面がくずくずになる程雨が降っていた。その中を傘も差さずに登校するなんて、どうしたのだろう。

「へぶし」

 もう一度くしゃみをして鼻を啜る当子に、球技大会でかいた汗を拭くために持ってきたタオルをかけてやる。

 一様早めに登校していた猛がずぶ濡れの当子を見て目を丸くしているのに気付いて、溜め息が出た。

「猛君退場。当子ちゃんジャージ持ってきてる?」

「・・・・・・・・・あ」

 揺さぶられて、トロンとしていた当子の目が大きく見開いた。

「さっぶ、げ・・・寒」

 行き成り正気に戻った当子が自分で自分を抱いて、周りに視界を巡らせた。

「・・・・すみません燐火先輩、ジャージ貸して下さい。今日は球技大会中止ですね」

 鼻を啜りながら当子が今雨を知ったように言った。

「・・・当子ちゃん熱ない?」

 心配と言うよりは不審顔で燐火が当子を覗き込んだ。

「平気です」

 とても平気には見えないが、とりあえず当子をジャージに着替えさせた。

「傘ささなかったの?」

 眼鏡を拭いてかけなおすと、髪を乾かしながら当子が小首を傾げた。

「ああ」

「ああじゃなくって」

 ここまで間の抜けた当子を始めてみた。

 常にハキハキとして、常に頭を動かさないと気が済まない様なタイプの当子が、魂の抜けかけた状況になると異様だ。

「猛君入っていいわよ」

 廊下で待たされていた猛を呼ぶと、猛と一緒に左九が入ってきた。

 当子とは一番付き合いの長い左九の登場には正直ホッとした。

「・・・・・・・・・・・あわわ」

 当子を見て、左九がぼそりと呟いた。



 この前当子のお爺さんが死んだ時もヤバかった。目に輝きがなく。ただただ稽古を行ない、吐こうが過呼吸起こそうが稽古を続けてぶっ倒れた時の当子に近い当子が目の前にいて、頭が痛くなった。

「当子、保健室行こう」

 腕を掴んで引っ張っていこうとしたら当子が過敏なまでに冷たくなった腕を引いた。

「・・・・・・・平気」

 怯えた目をした当子は始めて見た。あの道場の先生に睨みつけられても真っ直ぐに見返す当子が、こんな目をするとは思わなかった。

 何があったのだろうか。

「・・・待って」

 深呼吸してから、ジャージ姿の当子が背を向けて壁に向かったかと思うと、いつも試合前にやる壁への軽い頭突きをした。おまじないと言っていたが、コレをやると当子は集中するらしく、道場ないでは試合前にこれをするのが一時流行った。

「ごめん。ちょっと寝惚けてた」

 振り返った当子はいつもの当子だった。

「天気予報士の馬鹿野郎と言っても意味がありませんので、来週の火曜に延期ですね。月曜にまた準備しないといけないんで。ああ、後燐火先輩今日中止の放送入れてください」

 ぱっぱと言う当子に溜め息が出た。

 本当に、人に弱みを見せたくないらしい。

 当子に何があったと聞いても絶対答えないだろうなあと心の中でぼやいた。ただ、気をつけるくらいならしてやれるだろう。



「燐火先輩ジャージありがとうございました。明日体育ありますか?」

 生徒会室で乾かした制服に着替えた当子がいつものように淡々と聞いた。

「ん。ないわよ」

「じゃあ洗って返しますんで」

「あら、別にいいわよそんな気使わなくても。それより、風邪引いてない? あたし折り畳みあるから傘使っていいわよ」

 本当に、世話焼き姉さんタイプの人だ。

「大丈夫です。すみません心配かけて」

 至って平静を装って、返事を返してから、外を指差した。

「今日はそのまま知人に会う用があるんで迎えにきてもらってますから」





「お久しぶりですねお嬢様」

 又従兄弟であり、当子の祖父の会社を引き継ぎ社長に座った滝神 草が皮肉っぽく言った。

 社長になる為に当子を騙して他人としてしばらく当子の運転手をしていた草は今も皮肉で当子をお嬢様と呼び、当子は当子で草の事を昔名乗っていた頭山と嫌味で呼んでいた。今では当子が会長に無理やりなって、何とか丸く納まっている。

「まあ定期的に状況調査は見てるけど、薬関係を切るのは止めた方がいいんじゃないの」

 社長室のソファーに品もなく座り込むと、つっけんどに言われた。

 当子が地を出す相手はほとんどいない。その中の一人に戻れた事をどこかで喜んでいる自分は酷く馬鹿にみえる。

「会長の意向が同じで助かりますね。上連中が切りたがっていましてね。若社長だけの意見ではそれを止めるには軽かったのでね」

「・・・まあこんな若い女が会長じゃ、軽い意見だけど」

 いってから、ごほごほと当子が咳き込んだ。

 それに眉を顰めながらもあえて素知らぬ振りをした。

「お嬢様のご婚約者様も同意権だとでも言えばいいだけですよ」

 当子の婚約者である夏深とは高校時代会長副会長の仲だった。夏深にならこの馬鹿娘をやってもいいかと思っている。

 四季財閥の跡取り息子と会長である当子が婚約と言うのはこちらにはかなりのメリットもある。ふと、その婚約者の事を話題にしただけで、いつもは真意を隠す当子の表情が硬くなった。

「夏深と喧嘩でもしたんで?」

「・・・そんな所」

 目の前の紅茶を啜りながらぼやいて返す様を見て、何があったのかと気にかかった。

「で、あたしからのプレゼント。爺の会社潰されたくないし、ここはあたしの資産だしね」

 鞄からCDを一枚テーブルに置くと、立ち上がった。

「こっちからの話は以上。今日疲れてるのよ。もう帰らせてもらうわ」

 以前から当子が来るのは予定されていた。わざわざ学校まで車を向かわせた為、制服のままの当子を見れたが、スクールスタイルでなく髪を下ろして眼鏡を取ったままのこの姿は逆に垢抜け過ぎて学生服から浮いてしまっている。

「少しお時間をもらえると有り難いな。少し連れて行きたい所があってね」

 とっとと帰ろうとしている当子を呼び止めると、明らかに嫌そうな声がした。

「又今度にして下さるかしら」

 椅子から立ち上がって、当子のすぐ後ろに行くと、何気ない動きで当子の額に手をやった。

「今日病院に連れて行きたいんですが?」

 よくこんな高熱で平静を装えるなと感心する。

 運転手をしていた時にも、一度高熱を出した当子を見たことがあった。誰に気付かれる事もなく、誰に心配をかける事無く学校に行って、誰の目もなくなってから誰の看病もなく寝込んでいた。小中でそれだったのだ。今当子が病気かどうかを見抜けるのは草と母の桜くらいだろう。

「明日は学校休んでくださいよ」

 優しく諭すように言うと、困ったなと苦笑われた。

「学校は休まない。病院にも行く気はない。大抵一日寝れば治る」

 断言口調にウンザリする。

 絶対に曲げない。その上今晩は絶対に抜けられない食事会が入っている。まだまだ下っ端の会社の社長が抜けれる訳はない。

 仕方ない。殿様に任せるか、



「悪いが今晩は用がある」

『まてまて、別に一緒に飲みに行こうとは言わないんだ。理由を聞けよ』

 電話の悪友を心底恨めしく思う。

 草が影で当子と婚約するように仕組んだのだ。これならいっその事弟の冬祈に渡せばよかった。

 そうすれば当子を傷つけなくてすんだものを、

『ところで、うちのお嬢様と喧嘩でもしたのか?』

「・・・・・・」

 思わず、ぎょっとして口を噤んだ。

『今日お嬢様と会う用があったんだ。それでちょっと気になってな』

 勘のいい草の事だ、あの沈黙で何となく勘付かれたかもしれない。

「それで、今晩は何のようだ?」

『お 姫様が熱を出していてな。こっちはちょっと用があって看病は無理だし。病院は行かないと聞かないのでは入院と言う手も使えない。それであのプライドのやた ら高いお嬢様の事だ、気の許していない人間が行っては逆に安静にならない・・・お前なら仕事くらい都合つけれるだろう』

「残念だが無理だ」

『じゃあ仕方ないな。いや、忙しいのに悪かったな。お嬢様も平気だと言っていたし、こっちのただの取り越し苦労だ。じゃあな』

「おい、ま・・・」

 用件だけ言ってとっとと電話を切った相手をつくづく恨めしく思う。

 自分のした事の後始末は自分で付けろと言わんばかりだ。

 当子が熱を出したのも明らかに自分の所為だ。

 むしろ、今行かなければ、一生当子の目を真っ直ぐに見返せない気がした。態々電話をよこした草には感謝するべきかもしれない。

 良くも悪くも、





「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ」

 本当に、女狐の血を引いているよなと思う。

 ここまで熱が上がると明日あたり死んでたりしてなと思う。

「うあー、40℃」

 体温計を見て、余計に脱力する。

 間接が痛くて、頭が倍くらいに重くて、吐き気がして寒気がする。

 ふらふらしながらレトルトのお粥を食べて、市販の薬を飲んでひえぴたを貼って、倒れるように床についた。

 熱で一杯になった頭で、幻覚を見た。





「うっそ」

 鳴らなかった目覚ましを見て、愕然とした。

 もう八時前だ。

 皆勤狙いだったのに、熱でダウンしたからって遅刻なんて最悪だ。

 熱を測ると相変わらずの回復力。38℃前半だ。これなら十分学校に行ける。

 取り合えず何か食べて薬を飲もうと台所に入って、その光景に足を止めた。

「・・・・夏深」

 台所に立って物を作る姿が全く似合わない男が立っていて、意味が解らず動揺した。

「・・・熱は」

 こちらに気付いて、夏深が気遣いげに声をかけてきた。

「下がった」

 答えてから、夏深の顔を見た途端に事を思い出して一気に顔に血が上った。

「何で、いる」

 動揺しているのを見て、夏深が自嘲気味な苦笑いを浮かべた。

「安心しろ、お前が治ったらもう来ない」

「何で・・・」

 言いかけて口を噤んだ。夏深の怒りが消えていつもの冷静さを取り戻したら罪悪感に苛まれた訳だ。

「言っとくけど、わしはヤメテともイヤやとも言わなかった。変に罪の意識を受けられてもムカつくだけよ」

 ガンガンする頭でどなりつけると、唯でさえ熱で潤んでいる目から涙が出そうになって必死に涙腺を閉めた。

「着替えてくる」

 自分の反応に面食らっている夏深を置いて、羞恥心と怒りと重い頭で纏まり切らないまま部屋へ戻っていった。



 当子の言葉に唖然とした。

 確かに、止めてとも嫌とも言っていなかった気がする。むしろ、声を押し殺していた。

 だが、泣いていた。

 強がりで負けず嫌いな当子の言葉をどこまで鵜呑みにすればいいのかが解りかねる。

 ただ、どうしようもなく心が軽くなった気がする。

「・・・まさか、学校に行く気じゃないだろうな」

 制服を着て戻ってきた当子を見て、してしまった事を思い出して軽くなった気持ちが又重圧を増した。

「行くに決まっているでしょう。それに今日は午後までだし、明日は休みだから平気」

 言い切る当子を寝かしつけるのには縛り付けても無駄な気がする。

 自分の所為で熱を出させておいて行くなとは言えなかった。

「・・・授業が終わる頃に迎えに行くから、学校で待っていろ」

「忙しいのにわざわざ嬉しい限りだけど、そこまでしてもらわなくても平気。行きだけ送ってくれれば結構よ」

 台所に入ってきた当子が、勝手に広げた料理の本を見て、小さく鼻で笑った。

「さすがに料理までは上手くないようね」

 実際、料理などした事のない身だ。逆に仕事を増やしてしまった。

「スマン」

「後で片付けるから置いておいて、急がないと遅刻するから」

 いつもと表情の変わらない当子に不安になる。

「・・・・まだ高いんじゃないのか?」

 いつもの屈託のない目が黙って見上げてくる。

 一番ずるいのはこの目だ。

「夏深の真意が解らない時がある」

 行き成りのあまりにストレートな言葉に、答えが出てこない。





「午後からの予定は何が入っていた」

 珍しく遅刻してきた夏深が来て早々に聞いてきた。

 自分の予定くらいは把握している夏深が聞いたのは確認だろうと思い、足の長い夏深の歩くスピードに合わせる為に早く歩きながら、有能アナウンサー並みの舌捌きで答えた。

 顔が良くてスタイルはモデルでもいけそうないい男で、仕事ができて極めつけに社長の跡取り息子と揃いすぎている夏深は、あまりにも地位が高すぎて大っぴらにモーションをかける女はいないが、狙っている女は多い。

「社長との食事は俺から断る。後の細かい仕事は全て11時までに済ませるから回してくれ」

 いつものように凛とした夏深が平然と無茶を言った。

「・・・承知しました」

 染崎 多恵は仕事が速いため、仕事上の夏深の主な秘書業を任されている。帰国して以来近くにいるが、こういう行動は珍しいと胸中で考えた。

「午後からの御予定は全て空きにしてよろしいですね」

「ああ」

 仕事一番のどこかストイックな色のある夏深には、特定の女の影は今までに見えた事はなかった。同じ秘書課の牛乳女がもう夏深さんはメロメロよと言っていたが、結局は本人の妄想に終わっている。その夏深が婚約したのは女子の間ではいい噂の種だった。

 まさか、その婚約者と会う為に仕事を空けたのではないかといぶかしんだが、それよりも内密な仕事が入ったと考えるほうが自然だった。

 社長の息子にしては努力家で、有能な夏深を密かに慕っているのは染崎も他の女と同じだった。ただ、外見や肩書きよりも他社を出し抜き迅速に事を進める行動力と勘の良さに惚れ込んでいた。

「明日の予定は?」

 エレベーターに乗り込むと、その問いにも素早く答えた。

 日曜はさして用事は入っていない。

「来週に回して今日の午後から明日一杯は空きにしてくれ」

「承知しました」

 何の用なのだろうかといよいよ訝しみながら、表情に出さずに答えた。

「それから、大和を呼んで来てくれ」

「かしこまりました」

 珍しい人物の名前に内心だけで疑問を持ちながら気にならない風に答えた。



「どうしました」

 珍しい呼び出しに何かと不審がりながら大和 音が入って早々に聞いた。

 態々呼び出した相手に目も向けずに相変わらず横柄な態度で命令される。

「午後から少し時間を空けろ」

 ひっつめた頭を崩さないように注意しながら頭を掻いた。とうの昔にそういう関係を切れている女に真昼間から何の用だと言うのか、

「お食事のお誘いじゃないみたいね」

 ドアを閉めてから軽口を叩くと、愛想の一つもなくああと返される。

「診てもらいたい人間がいる。十一時過ぎには車に行くから駐車場に下りていろ」

 医師免許を結局は取らなかったが六年間医大に行っていた女を医者代わりに使う気かと溜息を付いた。

「何?女でも孕ましたの」

 この男がそんな可愛いミスを犯すのなら是非見てみたいものだ。

「いや、熱がある」

「・・・他の症状は?」

「解らない」

 わからないってねぇとぼやきたい所だ。

「正規の医者でもないし、別に闇医者でもないのよ? 適当に息のかかってる病院で見てもらった方がいいわ」

「病院は嫌らしい」

 珍しく夏深が顔を顰めた。

 仕事一本過ぎて一切構いもしない男だったが、今思うと2番目にいい男だった。

「それって命令事項?」

「・・・・・いや、頼みだ」

 命令ならば社員である以上従わなくてはならないが、あえて頼みだと言われて軽い頭痛がした。この男が頼みだって?

「わかったわよ。でも変な噂されたくないの。行き先教えて、勝手に向かうから。それにこっちはロボットじゃないの、時間を作るのにも少し時間が要るわ」

 どんな病人を見せられるのかしらと思いながらも、頼みと言われて断れない自分を叱った。もうこんな鉄壁男に心を奪われるなんて馬鹿よ。

「すまないな」

 ウンザリしてお手上げと肩を竦めた。

「それ以上らしくない言葉吐いたらあんたを先に診察するわよ」







   八



「あれ、今日は生徒会なしじゃなかったの?」

 貞月が生徒会室の前を通りかかると、電気が点いていた為に戸を開けてみると鍵がかかっておらず、当子が奥で机に突っ伏していた。

「もしもーし、当子寝てんの?」

 無反応な当子へ近づくと、いっこうに反応がない。

 生徒会の他の人間もいないという事実を見て、悪い心が燻ぶった。

「寝てるなら襲っちゃうぞ」

 耳元で囁いても何の反応もない。

 後ろに回りこむと、そのまま抱きすくめて甘く囁いた。

「本当に襲ってもいい?」

 その時当子の携帯が鳴って、当子が反射的に起き上がった為に顎に頭がクリーンにヒットした。

「もしもし・・・・・・別に来なくて良かったのに」

 こっちに全く気付いていないような当子に、あまりにも空気扱いをされて少しムカついた。

「わかった。そっちに・・・えっ」

 携帯を奪い取ると、以前にも聞いた男の声がした。

『当子?』

 まだ別れてなかったのか毒づく。

「もしもし、どちらさん?」

「ちょっ、返しなさい」

 教師に対して命令口調をする当子が眼鏡を外しているのに気づいて、ついニマリとした。

 こんな美人、年下でも美味しい。無理にでも欲しくなる。

「チューしたら返したげる」

 わざと携帯を高く上げて取れなくして意地悪く言う。

「・・・・正規ルートで首にするわよ」

 噛み付くような物言いにぞくりとする。

「電話の相手は彼氏?」

「・・・もういい」

 嫌味な溜息をしてから当子が鞄を持って出て行こうとする。

「待ちなよ。下手な男より俺の方が絶対楽しめるし気持ちいって、一回試してみない?」

 その言葉で振り返った当子がにっこりと笑うと低い声で言った。

「無能には興味ない」

 男にこんな言葉を投げれる高一の女なんてそういない。

 無理やりキスに持っていって、大人の味を教えてやろうとしたときに激痛に頭が真っ白になった。



「何かあったのか?」

 電話で聞いた事をもう一度聞くと、同じ答えが返ってきた。

「ちょっと冗談が過ぎたのよ」

 後ろに乗り込むと、そのままぐったりと寝転んだ。ここまで歩いてくる様はいつもと全く変わりなかったのに、急に熱が上がったようにぐったりしている。

「大丈夫か?」

「平気」

 眼鏡を取って顔を隠すように手を持っていっている為に表情が読めないが、とても平気には見えない。

 無茶もはなはだしい。





 夏深がきてくれるんじゃないかとは甘えた考えがあった。それでも少し休んだら帰ろうと思っていた。甘えの反面、来ないで欲しいと思っていた。

「・・・・40℃近い」

 体温計を見て、夏深が苦い声を出した。

「こんな熱でよく学校に行ったな」

 怒気さえ含んだその声に反論はできなかった。ただ、罪悪感に少しでも駆らせたくなかったのも理由の一つだった。

 半分は同意の上だったんだ。

「・・・平気」

「嘘は聞き飽きた」

 心配をかけまいといった言葉を苦々しく打ち消される。

「寝ていろ」

 優しく髪を撫ぜられながら、眠りに落ちた。





「滝神って・・・・婚約者の家?」

 家に通されて、あんまりにも時代のある旧家を見回しながら聞いた。

「ああ」

 こんな情けない夏深を会社で見た事のある人間等きっと私が最初で最後ねと苦く笑った。夏深が沈みかけの会社の娘と婚約したというのは噂ではよく耳にする。弱みを掴まれたとか、裏取引があったとか、中々面白い噂もあったが、あながち嘘ではなさそうだ。

「それで、診て欲しいのはどこ?」

 あの淡白な男がこんな不安気な顔もできるのかと思うどうしようもなく可笑しい。

 通された部屋は幾分純和風なこの家からは浮いていた。

 壁の一面を全て本で埋め尽くし、モダンな家具は必要分だけでいらないものを極力取り除いていた。質素ですらあるその部屋の奥のベッドで寝ている人間は、一番この家には似合わない。

 熱で寝込んでいても綺麗な顔は、眠りの森の美女を日本版で映画化でもするならピッタリだろう。

「お人形さんね」

 額の濡れタオルは生温くなっていた為、近くに置いてあったボールに投げ込んだ。喉許に手をやると思ったより熱は酷くなさそうだ。

「薬は?」

「飲ませた」

「何時?」

「1時前だ」

 薬が効いているのねと思いつつ、折角寝ている病人を起こすのも何だと冷たくなったタオルを額に置いていったん部屋を出た。

「咳はない?」

「それ程多くはない」

 インフルエンザにしては季節外れだ。肺炎を誘発した風もない。ただの見習いでしかなかったが、何か大きな病気を持っているようにも見えない。

「取り合えず飲ませた薬見せて」

 一旦部屋を出て、薬を見せてもらってから台所へ向かった。

「・・・もしかして、料理にチャレンジでもしようとしたの?」

 台所の無意味な散らかり方を見て、思わず眉を上げて聞いた。

「失敗だがな」

 付き合っていた当時風邪をひこうが虫垂炎になろうがまともに心配しない男の行動とは思えない。

「病人はアレルギー持ってない?」

「多分ない」

 多分ですかと溜め息が出た。

「取り合えず、ポカリ2・3本買ってきて。本当は点滴させたらいいんだけど、病院行かないとできないし。・・・後氷も買ってきて、それと薬もうあまりないからこれと同じ奴もお願い。その間に私は簡単な物作るから」

 冷蔵庫を物色しながらこっちが命令する立場になるのは中々気分がいいと感じていた。常に優位の男が婚約者一人の為に慣れない家事をしようと紛争するのを見学するのも楽しかろうが、流石に上の方の上司でもある夏深にそこまでさせて後で仕返しされるのも嫌なのでやめた。



「どちら様ですか」

 真っ直ぐ背筋を伸ばし、髪はボサボサだがとても寝込んでいたとは思えない物腰で当子が聞いた。

「ああ、おはよう。夏深君は今買い出しに行ってもらってるから」

 明らかに泥棒には見えない女が、台所に立っていた。

 自分の家の台所に知らない女が立っているのはあまりいい気がしない。

「大和 音よ。元医大生の現会社員。食欲はある?」

 ある程度の疑問を解消する答えを先に与えられる。ただし、夏深との関係については無回答だ。

 別に、夏深が他所で女といちゃつこうが当子の知った事ではないが、自分の家でいちゃこかれるのは流石にムカつく。

「さっき食べたばかりなのでいりません」

 まだ実際は熱で頭がぼうっとしているが、見知らぬ人間に甘えなどできないししたくもない。

「あら、そう? 熱計って、それと吐き気とか寒気とかはない?」

 言われる通りにするのは癪だが、テーブルに置いてある体温計を手に取った。

「唯の風邪ですから、それ程気を使っていただかなくても結構です」

 雨に濡れた程度で熱を出すとは、自分も焼きが回った。

 それにしても、元医大生だか知らないが、夏深も大袈裟過ぎだ。それに重病だったとして、医者もどきに何ができるというのか。

 体温計が鳴った為に見ると、まだ38度後半だ。

「何度?」

「37度8分です」

 しれっと嘯くと、牛乳を一杯だけ飲んで部屋へ戻った。

 部屋に入った途端に息苦しくなる。

「っそ」

 小さく毒づくと、布団に潜り込んだ。

 熱が出るとやはり少し頭がおかしくなるらしい。無性に寂しさが込み上げる。



「婚約者さん。案外いい性格みたいね」

 薬局のビニール袋があまりにも似合わない夏深が言われたものを買って帰ってくると、大和が肩を竦めた。

「・・・起きたのか?」

「少し前に一度ね」

「様子は?」

 あまりに心配そうな夏深が尋ねた。それ程大事がる女としては当子は予想外だった。もっと守ってあげたいお姫様タイプ化と思ったら、他人を寄せ付けない鉄火面だ。

「37度後半まで下がってるって、一様ポカリ一本持って行って、できるだけ飲むように言って、水分補給は大切だから」

「・・・悪いが持って行ってくれるか」

 少し予想外な申し出だった。ここまでする相手に会いたくないらしい。

「私が行ったら不安になるんじゃない? 知らない人間って苦手っぽいし、昔の女に看病させるなんて思われたいの?」

 今更夏深と復縁したい気などないし、人の恋路を邪魔して馬に蹴られたい訳でもない。それでも、この男の対応の違いはいささか腹が立つ。

「・・・・・・・・・」

 苦い顔をする夏深に、ふと質問を投げかけた。

「婚約者さんと何かあったわけ?」

 仕事ではいかなる事態が起きても冷酷なまでに冷静な男が、こんなわかりやすい顔をするとは思わなかった。

 見事な図星を突いたらしく、一層困り顔をした。

「あたしそんなとこまで面倒見切れないわよ」

 本当うんざりする。この歳になって人の恋愛相談なんて鬱陶しい。




「当子、起きてるか?」

 声をかけるが、何の反応もない。仕方なく部屋に入ると、布団に入ってはいるが、寝転んだまま何かを読んでいた。

「・・・何」

 一瞥もよこさず、当子が短く言った。

「水分補給はしっかりしろとの事だ」

 ベッドサイドの机にコップと一緒にペットボトルを置くが、一向にこちらを見ない。

「・・・当子、後でできるだろう」

 諭すように言うと、やっと当子がこちらを向いた。

「私の勝手よ」

 突っ撥ねる当子に微かに怒りすら生まれる。

「熱が引くまで我慢しろ」

「関係ないでしょ」

 辛抱強く言うが、苦く返されるだけだった。

「もう大体良くなってるから、彼女を連れて帰って下さって結構よ」

「・・・」

 今までにない言葉に、唾を飲み込んだ。

 ふいっと又書類へと目を向けてしまった当子から、その薄っぺらい紙を取り上げた。

「・・・返して」

 声を低くして言う当子の目が潤んでいるのがわかった。ただ、熱の所為かそれ以外の為かがわからなかった。

「寝なさい」

 子供を叱るように言うと、まるで向きになった子供のように当子が身を起こした。

「指図される覚えはない。どうしようが私の勝手でしょう」

 言いながら涙を溢れさせた。

 それを拭おう自然に伸びた手を、当子が弾いた。

「・・・触るなっ」

 あからさまな拒絶に、胸が痛い。

 手荒く涙を拭うと、深く息を吸ってから当子が苦々しく言った。

「もう、いらない。夏深なんて、いらない」

 涙を拭いた頬へ、又涙が伝った。

「悪いが、俺には必要だ」

 言い返される前に、いつも以上に細く弱く見える当子を抱きすくめた。

 暴れられるかと思ったが、予想外に無抵抗だった。

「頼むから、熱が下がるまで安静にしろ」

 囁いてから、当子の体の熱さに眉を顰めた。

 額に手をやると、とても37度台には思えない。

「・・・熱が高い」

「これくらい平気よ」

 淡々と答える当子を見ていると悲しくなる。

「いつもいつも、平気だ大丈夫だ? 強がるのもいい加減にしろ」

 こんな性格だと、その内無理のし過ぎで死ぬんじゃないかと本気で心配になる。

 少し体を離して見下ろすと、止まらない涙を流しながら、困ったような目が見上げてくる。

「出ていって、もう、私に構わないで」

 拒絶されても仕方ない。それでも、手放せない。

 当子の言葉を無視して、強く抱きしめないように気をつけてそっと抱きしめた。

「夏深なんかもういらないのぉ」

 腕の中から、弱々しい声が漏れた。

 熱の所為だ。普段なら絶対こんな弱音なんて吐きはしない。例えそう思っていても、四季 夏深と手を切って出る損得を比較すれば、当子なら口にしない言葉。

 これがたとえ本心でも、熱が下がれば、嘘を付き通される。いらないなんて言わなくなる。

「嫌わないでくれ」

 これが、自分の真意なのかもしれない。

「頼むから」

 声が、擦れる。

 こんな身勝手で、何でもできて弱音を見せないように馬鹿みたいに強がった嘘を付く子供に嫌われる事が怖いなんて馬鹿みたいだ。





「大和さんって、夏深と付き合ってた事あります?」

 野菜入りのお粥を食べながら、当子がまるで昨日何食べましたとでも聞くように聞いた。

「・・・・・・一ヶ月弱だけよ。それも何年も前」

 しばらく間を開けてから、大和が肩を竦めて答えた。

 どこかスクールスタイルの自分に近いが、着る物をかえれば結構美人だろう。何となく、江角まきこに似ている。

 別に、夏深の交友関係をどうこう言うつもりもない。もし現在の会社での女と言われても、別れてくれなんて言わないだろう。そういった権利はない。

「変な誤解を受けたくないから言っておくけど、コレでも去年結婚したてよ」

 まあ、結婚しても可笑しくない歳だろう。多分夏深よりも年上だ。

 夏深は再び買出しに行かせている。フルーツヨーグルトとプリンと果物を食べたいと言うと二つ返事に出て行った。

 変な罪悪感をたらふく抱えているのが嫌でもわかる。仕事も態々休んでいるだろう。こんなくだらない事をする為に休むなら、仕事をすればいいものを。

 普通の女の子なら喜ぶ所かもしれないが、今の夏深の行動は非建設的で、当子の求める所ではない。

「私、それ程嫉妬心を持っていませんから」

 にこりと返す。熱で味などわからないが少なくとも不味くはないお粥を食べる。レトルトのお粥よりはマシだろう。

「女の方が彼にベタ惚れって言うのはよくあったけど、あの堅物がここまで女を思えるとは正直意外だったわ」

 長テーブルの向かいに腰を下ろした大和が、頬杖を付い言った。

「そうなんですか? 私まだ付き合いが浅いのでそういうのはわからないんです」

 夏深が女に溺れ固執するとは思えない。夏深が自分に感じているのは罪の意識と独占欲くらいだろう。

「少なくとも、恋人が寝込もうが入院しようが仕事優先。全て揃ってる男だけど、冷たすぎるタイプだったもの」

 昔の男を褒めた所で、何の徳があるというのだろうか?

 このまま夏深がいかに自分と他の女との対応の違いを聞かされるのもウンザリだ。

「大和さんの旦那さんって、どんな方ですか?」

 話をそらしたくて、どうでもいい事を聞いた。

「優しいわよ」

 今までで一番柔らかい表情で続けた。

「夏深君ほどの男じゃないけど、私にはあってる人だから無理をしないですむの」

 長い人生を同じ家で暮らすならば、確かにそういう相手がいいだろう。夏深と当子の関係とは違いすぎる。

「のんびりし過ぎで昇進できない人だけど」

 そういう男とは自分なら相性は悪いだろうなと胸中で呟いた。

 当子自身が野心家で、やれる事をしないのは逆に疲れるタイプだ。のんびりと平穏な生活が悪いとは言わない。それもそれぞれの生き方だ。だが、自分にはむかないのだ。

「幸せそうですね」

「程々にね」

 苦笑うが、実際幸せそうに見えた。

 しばらく、沈黙が流れて黙々と食事をする当子に、大和が唐突に言った。

「何か喧嘩してるみたいだけど、相談くらいなら乗るわよ? 口は堅いし、会社で言っても夏深君がメロメロなんて誰も信じないから」

 こっちが苦笑う番だった。

「喧嘩と言うほどの事じゃありませんから」

 むしろ、人に言えるような事ではない。

「・・・それならいいけど、あんまり苛めちゃ駄目よ。あんな情けない彼見たことないもの」

 言われて、辟易する。



「当子は?」

 帰ってきた夏深は哀れな男に思えてきた。

「薬を飲ませてから部屋へ」

 こんな従順な夏深は気持ち悪い。なにより、片思いがここまで似合わない男も少ない。

「多分大丈夫だと思うけど、もし熱が下がらなかったら電話して。熱があんまり高くなるようなら、無理矢理にでも病院へ連れて行くように。食べたい物は何食べさせてもいいから、それと、7時にお粥が炊けるようにタイマー入れてるから、明日起きたら食べさせてあげて」

「色々迷惑をかけた」

 流石に、昔のあの素っ気無い男が他の女にはここまでベタ惚れになるとムカつくものがある。

「いいわよ。あなたにこんな事で貸し一つ作れるなら安いものよ」

 プライベートとビジネスは完全に別物な夏深だが、この男に貸しを作っておけば少しは仕事を融通してくれるかもしれない。仕事が無理でもあって損はない。

「じゃ、そろそろダーリンが迎えに来てくれるから」







   九



 バレーボールの状況を見にきた当子は、猛が酷い運痴だと言うのを実感した。

 全く早くもないボールが猛に向かって行き、それを猛が打ち返そうと下へ構えた。目測が悪かったのか、運動神経が鈍かったのかは知らないが、ボールは腕でなく顔面に落下しバウンドした。それを綺麗にチームの人間がアタックして点を決めた。

「西澤!ナイストス!」

 爆笑するチームメートに助け起こされながら、猛が鼻を擦った。

「そこまで笑う事ないだろ」

「だって、おまえ。今のはドリフでもできないようなベタさだぞ?」

「五月蠅いっ! 矢崎お前転げ笑うな」

 転がって爆笑する男子に猛が怒った。

「猛サイコー!。カッコ良過ぎ! 惚れたっ惚れたぜ猛っ」

 地味なタイプの猛だが、案外クラスでは人気者らしい。

 運動場の半分を使ってバレーをしている為、横のグラウンドでドッジをしている当子としては、バレーは様子見はしやすい。少し暇ができた為バレーを見にきたが、面白いところを見てしまいついつい出た笑いを必死に殺した。

 こっちは今のところ何の問題もないらしい。

 こういう機会に各学年各クラスの雰囲気と性質を見るのは便利でいい。クラスの仲の良さや、グループ的対立があるか、又いじめが発生していないかも何となく見て取れる。

 そこまでヤバイ状況のクラスはないが、あんまりいいムードのクラスばかりではない。

 学校と言う偶然に振り分けたクラスのメンバーで全てが仲良くできるかと言われれば無理に決まっている。ただ、過度の悪化や特定者への迫害だけは未然に防ぐべきだろう。

「西澤先輩頑張ってくださいね」

 まだだいぶ時間がある為燐火とクラスメートの裕美のいる体育館へ行くついでに少しまわって猛の試合コートの横を通って茶化し半分に声をかけた。

「会長こっちも応援して欲しいね」

 言われて気付いたが、対戦チームにはサッカー部の問題児がいた。

「喧嘩にならない程度にどうぞ」

 そう返したときに、サッカー部部長含む三年C組チームのコートにボールが落ち、二年に再び点が加算された。

 盛り上がるバレーコートを見物するのも面白そうだが、取り合えずバスケットも見に行きたいので長居せず体育館へ向かった。

 小中の一階建ての体育館と違い、下には食堂と柔道場と剣道場、二階に体育館とサブアリーナがある。

 体育館へ入ると、すぐに燐火は見つかった。

「あら、当子ちゃんどうしたの?」

 試合を終えたてで汗を拭いている燐火が当子に気付いて声をかけた。

「少し見物に。勝ちましたか?」

「当ったり前よ」

 ガッツポーズをする燐火は、生徒会室にいるときよりも溌剌としている。髪をポニーテールに纏めているため、感じも違う。

「あ、噂の会長さんだ」

「ねえ、文化祭飲食店制限なしってホント?」

 燐火のそばにいた女子たちに囲まれて、少し汗臭いと思う。

「燐火先輩がばらしたんですか? 文祭の事はもう少し話し合いがいるんではっきり言っちゃ駄目って言ったのに」

 じろっと見ると、軽い調子で手を合わされた。

「先輩たちのいい思い出になるように頑張りますけど、今は秘密です。教えません」

 小動物系のとぼけで人差し指を唇に当てて言ってから、自分のクラスが今試合をしているのに気付いた。

「友達の試合見たいんで失礼しますね」

 そそくさとその場を立ち去って、奥のコートへ向かった。

 バスケはコートが少ない為、2クラス合同でチームを組んでいる。体育も合同しているクラス同士なため、少しはやりやすい。

「日比さん。うち勝ってる?」

 クラスメートの女子に声をかけるとガッツポーズが帰ってきた。

「裕美ちゃんすッごいよ。それに、B組の左藤さんもバスケ部じゃん。二人で超カッコいいの」

 運動系の人間は水を得た魚だ。だが、クラスでギクシャクしている人間は運動神経がよくとも控えめになる。本人にやる気がなければ仕方ないし、強制もできない。何よりも生徒会は個人の問題を全て解決してやる便利屋ではない。そこまで面倒は見てやれない。

「裕美ふぁいと」

 声をかけると、ボールを左で操りながらこちらを見ずに右手で手を振った。

 玉の汗にほとばしる青春。

「いいわね。皆必死で」

 のほほんと呟く。



「当子、元気ないな」

 左九が、戻ってきた当子を見て唐突に言った。

「・・・元気あるよ」

 不思議そうに首を捻る当子に、左九が同じ様に首を捻りながらもう一度言った。

「元気ないな」

 断言する左九に、当子が少し眉を寄せた。

 この前の雨の日は明らかに様子が可笑しかった。あの後は至って普通に振れていたが、絶対にしんどかったはずだ。休み明けは肉体的疲労はなくなったようだったが、何か考え込んでいた。

 あんな無茶な稽古をするのだから、肉体疲労についてはあまり気にしないのだが、考え込むのは珍しい。企みを考えているのはしょっちゅうだが、全くの個人的問題を抱えている気がする。

「悩み事?」

 あまり気かない方がいいと思っていたし、聞いて答えるとも思えなかったのだが、取り合えず聞いた。

「・・・・なんで、バレルかな? そ、悩み事。あんまりにも突飛過ぎるからちょっとまだ皆に話すのはどうかと思ってたの」

 肩を竦めると、辺りに視線をめぐらせてから、ちょいちょいと手でこまねかれた。

「まだアポ取れてないし交渉できてないから駄目だったらカッコ悪いから言いたくなかったけど・・・他の人に言ったら絶好よ?」

 小声で話すため自然と顔が近くなる。眼鏡の奥で、悪戯を考えているときのキラキラした目をしている。これは自分の気にしていた当子の悩みではないだろうと勘繰れたが、言わずに頷いた。

 口元に手をやって、当子が内緒話をした。

「文祭で『バンダリ』呼べるかもしんない」

 『BANDALI』は人気のあるグループで、男女二人で歌を歌っている。と言う事くらいしか知らないが、少なくとも高校の文化祭に呼べる様なアイドルではない。

「・・・又突飛」

「ちょっといい方法があってね。でも、もしかしたら別のバンドになるかも」

 当子が文化祭で音楽関連に力を入れるとは意外だった。

 道場の先輩に引きずられて行ったカラオケで、当子音痴説は見事に打ち消されたが、当子は音楽好きとは思えなかった。程々には嗜むが、さして興味なしだと思っていた。

「当子がバンダリのファンだとは知らなかった」

「え、別にファンじゃないよ」

 さらっと言った後、

「音楽に特に興味ないから。でもあれって結構人気あるんでしょ?」

 もしかして、ただの知識で言っているんじゃないかと思う。

「オリコンでも上位の常連だから人気はある、と思う」

 左九も特定のアーティストしか聞かない偏った人間な為、どうかと言われれば困るが人気はあるのは事実だった。

「それならイイ目玉商品になれるでしょ。話が通りそうだったら生徒会で話し合って、色々と考え纏めるつもりだけどね」

「ふーん」

「あ、もう試合だ」

 結局悩み相談にもならない。

「役立たずだなぁ」

  生徒会で当子は中核だ。猛は副会長としては役に立っていないが、美術班として役に立っている。燐火も運動部へ話を通す以外も色々と役立っている。が、左九 は雑用しかせず揉め事まで起こして迷惑をかけている。少しは役立てると思ったが、てんで無意味だ。むしろ足手まといだ。

 こんなのではいつまで経っても当子に男として見てもらえない。



「流石に燐火先輩の入ってるとこは強いですね」

 午前の試合結果を眺めた当子が、顎を掻きながら言った。

「バスケ部じゃないけどそれにひけとらないからねん。うちのチームはバスケ部が3人いるようなものだもの」

 おにぎりを頬張りながら燐火が答えた。

「午後まで残ったのは女子だけジャン」

 貞月が例の如く女子にちょっかいを出しにきたが、当子と燐火の間でなく当子から距離を取っている様だった。

「西澤先輩のとこ負けちゃったんですか?」

 話を振られて、肩を竦めた。

「嬉しい事にね」

 二度も顔面でボールを受けてしまった上に午後も試合があったりしたら笑えない。

「滝神さんの方は強いの?」

「組み合わせが良かったんですかね」

  ドッジはバスケとバレーと違い男女混合の上、運動音痴やヤル気のない人間でも適当にしていて文句を言われない。本当は猛もドッジ希望だったが、性悪仲間に 引きずり込まれた。仲はいいが人を小馬鹿にしている連中だ。本来は数合わせでおまけ的な競技のドッジの盛り上げとして、今年はドッジの優勝クラス対先生 チームで交友試合をする事になっている。

 ムカつく教師のどたまに正攻法でボールをぶつけられると変な目標を立てている連中もいる。

「もしかして、教師にボールぶつけてやりたいからだったりして」

「実はその為にちょっと本気出してます」

 笑いながら言う当子の目は笑っていない。

「それに、勝負事は何事でも勝ちたい性質なんですよ」





「夏深に、婚約者ぁっ!?」

 四季 弥生が眉根をぐっと寄せて、さもありなんと唸った。

「あれ、お義母さん知らなかったんですか?」

 言わない方が良かったのかなと思っているのだろう、四季 冬祈は少し困り顔をした。

「あの鉄男ジュニアの婚約者・・・あの鉄男、まだ事業拡大狙ってるの」

 侮蔑を含んで唸り声を上げた。

  弥生は四十過ぎ女性で、その父親は大手銀行の頭取であり、古くからの名家の者でもあった。十代で四季 春夫に嫁いだが、その結婚生活はとても愛があるとは 言えなかった。夏深を産む時には既に別居。その後間もなく春夫がイギリスで冬祈をつくってきてさらに仲は悪化。その後長女秋江を産んで以来、春夫とはほと んど会っていない。

 ただ、皮肉な事に自分で産んだ息子はすこぶる父親に似て仕事第一男になり、他所でできた冬祈の方が繊細で優しい青年へと育った。今ではこの屋敷へは冬祈と秋江に会いに来る以外はやって来ない。

 会いもしない息子でも息子は息子だ。それを母親に何の断りもなく婚約者を設けるなど腹立たしいこの上ない。

 夏深も夏深だ。一言くらい母に言うべきだ。勿論、その婚約者も、だ。

「それで、冬祈君。どこのご令嬢?」

 品のいいお上品な笑顔で聞くと、冬祈は困り顔をした。

「あー、僕そろそろお暇しようかな」

 立ち上がろうとする冬祈の腕を掴んで、笑顔で引き止めた。

「冬祈君」

 夏深と違い髪も眼も日本人とは違う色をし、柔らかな物腰は紳士的だ。理想的な息子だが、少し押しが弱い。

「お・し・え・て」

 歳の割りに若々しい顔で、凄む。

 冬祈が視線を泳がして口を割った。

「滝神 源氏さんのお孫さんです」





「ご愁傷様」

 鼻血を噴いた貞月は保健室で休んでいた。

 当子のクラスは準決勝で負け、結局3位に終わっている。貞月の顔面にボールを当てたのは、ラグビー部の部長だった。

 当子はにこやかに見舞いの言葉を口にした。

「本当は私がやりたかったんですけどね」

 笑顔で言う当子が、ベッドで座り込む貞月に優しく語りかけた。

「残念だわ。わたし、やられた事へはそれなりの仕返しをしたかったのに」

「やられた事って、俺はこの前お前にタマ潰されかけたんだぜ?」

 忌むべき思い出を思い出して、鼻にティシュを詰め込んで鼻声で不恰好になりながらも怒気を含んだ声を返した。

 それを無視して、当子が携帯を取り出して画面を見せ付けてきた。着信履歴の一つらしい。

「人の携帯に勝手に出るだけならまだ許せますけど?どうも子供みたいに馬鹿な真似、してくださったようね」

 当子は貞月の発言は無視して、笑顔で言った。

「何の事だ?」

「この日のこの時間、球技大会が雨で延期になる日の前の日、準備してた時です。その時、生徒会室は出払っていました。あなたを除いてはね。それで、通話してるんですよね」

 携帯を眺めてから、当子が皮肉んだ笑みを見せた。

「何の事か、思い出されましたか?」

「ああ、思い出したよ。でも出たらすぐ切れた」

 下手な嘘は付かずに白状すると、また笑顔を戻した。眼鏡を外すと、笑顔が際立つ。

「何を言ったか知りませんけど、把握しときたいんですよね。ああ、あの電話の相手誰だかご存知ですか?」

 胸中で当子の男だろと思うが口には出さない。

「さあ」

 素知らぬ顔を決め込むと、当子がもう一度携帯を見せた。

「四季      夏深。ここの理事の息子よ」

 夏深としか出ていない着信履歴を見せ付けてから、

「ここに未練なく、首になってもいっかとお思いなら答えないで結構ですよ。夏深が首切りをしてしまうだけですから。でも、辞めさせられたくないなら、教えてくださるかしらね?何言ったか」

 当子ならこんな嘘を付くくらい造作もないだろうが、当子の嘘にしては突飛過ぎる。何より、実際に理事長の息子に夏深と言うのがいる。普通の生徒なら理事の息子の名まで覚えていないだろう。

「・・・・・・もし言ったとして、それを当子に教えても首にするんじゃないの?」

「したいのは山々ですが、鬼じゃありませんから」

 未練はそれ程ないが、流石に辞めさせられたとなると叔父にどやされる。

「冗談で当子の彼氏っぽい事を言っただけだよ」

 あんな馬鹿げた事を理事の息子に言ったとなると素行的にヤバイよな。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それだけ?」

 当子は間の抜けた顔をした後、頭を抱えた。

「当子?」

「あんの間抜け」

 呟いた後ばっと顔を上げると、いつもの秀才の堅物の顔になっていた。

「人の電話で問題起こした償いは個人的にしてもらいますから。では、お大事に」

 それだけ言うと、さっさと当子は立ち去った。

 あそこまで、男として意識しない女は珍しい。まあ学校ではエロオヤジみたいな事をしているのが悪いかもしれないが、それでも、全く眼中外とは腹立たしい。

 嘘を付いてやればよかった。







   十



 夏深は頭痛がするのを感じた。

 会議後切っていた携帯電話の電源を入れると、同一人物からの13件の着信と7件のメールが入っていた。

 弥生からのメールを見る前に、他の始末をした。仕事関係の物は一件で、後は弟冬祈から着信2回とメールが一通。

 あの父親は、あの母親に自分が婚約した事を言っていなかったらしい。

 むしろ、あの馬鹿な弟が口を滑らせたと言ったほうがいい。あの母親がこの事を知っていたらもっと早くこうなっていたはずだ。

 よりによって、こんな時にバラスとは。

 言い訳を考える間もなく、弥生から着信が入った。

「・・・・・・はい」

『夏深ちゃん。今日暇ね』

 怒気を含んだ甘い声が決め付けで言われる。

「忙しいです」

『婚約者連れて家にきなさい』

 命令口調を出されて、溜め息が出た。

「無理です」

『きなさい』

 どうにも溜め息が出た。

「文句なら父に言えばいいでしょう」

『言いました。聞く耳はありませんでしたけれどね』

 つッけんどで硬い声が帰ってきた。

 両方とも頑固すぎて性格が合わないのはもう改善しろとは言う気にはなれない。

『それに、どういう相手か見ておきたいのは母親として当然でしょ?何、そんな見せれないような人なのかしら』

 今まで、そんな母親めいた事を口にもしなかった癖に、今更ここまで過敏になる理由は簡単に予想が付いた。

 あの父親の愛しのマドンナである桜の娘であると言う所が気に喰わないのだろう。社交界で桜が出たとき、男の視線は一点に向かい。その中には初恋少年のような視線を送る四季 春夫もいた。

「そう言う事ではなくて、こちらが忙しいのは十分承知でしょう」

 実際、当子の看病で休んだツケで仕事がいつも以上に多い。

『少しくらい遅くなっても構わないわよ』

 断固としたその口調に、嫌気がさす。

「・・・解りました。努力はします。しますが、あまり期待しないで下さい」

 思い立ったらすぐ実行しないと気がすまない母親の我が儘に胃が痛くなる。いや、その所為で当子へ連絡しないとならない事に胃が痛い。

「今日が無理でも近い内にそちらへ向かいますから」

『じゃ、期待して待ちましょ』

 それだけ言って電話が切られた。

 今日行かなければ唯でさえイライラしている弥生の機嫌を損ねるだろう。冬祈や秋江に対してはベタベタに甘やかすくせに、夏深に対しては厳しい。それに加え、弥生の忌み嫌う女の娘が婚約者では攻撃の手が緩まるはずもあるまい。

 当子ならそれで婚約破棄などしないだろうが、それでも当子がいびられるのは避けたい。

 一方通行の思いやりと言うのは、思っていたよりも辛い。





 しょうもない嫉妬でブチ切れるとは意外だった。

 どこまで貞月を信じるかもどんな内容だったのかも詳しくは解らないが、誰かが夏深の電話に出ていて、夏深は裏切ったと勘違いしている。それで何となくは予想が付く。

  慣れた男は生娘か遊び魔かが判ると言うし、喰われてしまった分遊んでいる女だと言う勘違いは解けているだろう。遅かれ早かれああいった事になるのは覚悟の 上だったし、一流の男である夏深に男としての文句はそうないが、無理強いされたのは癪に触って仕方ない。確かに抵抗すれば止めてくれたかも知れないが、あ の状況で何故かしら抵抗する気が出なかった。それに、抵抗していて余計な誤解をまねくのも正直面倒だったろう。

 ただ、ムカつきと恐怖とは別の感覚があの時にはあった。でなければ熱を出すようなヘマはしない。一人暮らしで誰も看護してくれないのに寝込むような事をするほど本来は無謀ではない。

「やっぱ熱出てると頭動かないもんね」

 薬膳粥を作りながら一人ぼやいた。

 もう完全に平熱に戻った。多少体のだるさは残っているが、完治と言っていいだろう。熱が出ていると考えがまとめられない上幼稚になる。

  夏深がああも優しくおまけに情けなく看病してくれるとは思わなかった。あの大和とか言う女性を連れてきたのは特に意外だった。どんな鈍感男でも、昔の女を 連れてきて喜ぶ女はいまい。それでも態々連れてきて看病の手伝いをさせたのは合理的と言える。あの温室育ちでは飯も看病もろくにできまい。いい気分ではな いが助かったのは確かだ。

 今更夏深の手広さに文句を言う気はない。桜が不倫はばれないように+問題を起こさないようにさえするなら勝手にすればいいんじゃない、男なんだしと言っていたのを思い出す。

 当子も夏深が他所の女とよろしくしていても文句を言う気はないが、あちらが束縛する気なら相手もそれなりのハンデを負ってもらわないと気は済まない。

「・・・・・・・」

 夏深の事を好きではないと言い切れない自分が情けない。

 このままだと、ホントに拙い。

 又熱を出した訳でもないのに顔が熱くなるのを感じた。

「はずい」

  不可抗力みたいな事でもやってしまったのに変わりはない。正気に戻ってしまった今、夏深にどんな顔をして会えばいいと言うのか?情事のさだ何て動揺しきっ ていてほとんど覚えていないが、それでもあの行為に恥じらいは大いにある。まだ成長しきらないような子供でもあるのだから当たり前だ。 おまけに相手は罪 悪感の塊で人を腫れ物のように扱う。全くどんな顔をしろと言うのか!?

 丁度お米が開いてそろそろ食べようかと思った時に家の電話が鳴った。

『俺だ』

 その声を聞いて顔が熱くなるのがわかった。今鏡を見ればガラにもなく頬を染めている事だろう。

「何?」

 わざと素っ気無く言うと、自嘲気味な声がした。

『・・・体調はもういいのか?』

「お陰様で、それで、何か用?」

『俺の実母が、今夜お前に会えないかと駄々をこねているんだ。もし、暇なら・・・』

 言葉を切った夏深が電話の向こうで肩を竦めているのが想像できた。

「てっきり母親は亡くなられていると思っていたは、一度も聞いた事なかったし、挨拶もしてないから」

 実際、死んだろだろうとわざとその会話は避けていた。当子の父親は大分前に他界していて記憶の中にもいないが、亡くなった祖父の話を他人に聞かれるのは嫌だった。だから、あえて言及しなかったが、生きていたらしい。

『暇でないなら態々会わなくても・・・』

「行くわ」

 言いかけた夏深の言葉を止めて短く答えた。

『・・・わかった。こっちの仕事が済み次第そちらへ迎えに行く』

 諦めと脱力の入った声がした。

「会わせたくないなら別に行かなくてもいいけど」

 案外酷いマザコンで見られたくないんだったりしてと思いつつ、興味なさげに言った。

『いや、きてもらった方が有り難いが、性格がいいとは言えない人だから、少しでも相手の要望に答えた方がまだ攻撃が軽くなるかもしれない』

「・・・それで、何時頃こちらへ着くの?」

  四季家の屋敷で少しの間だが世話になった。その間にその母親に会わず話にも出なかった理由として考えられるのは、死んでたからと思っていたが、生きている となると、別居か仕事で単身しているか、病弱で入院しているかだろう。何にしても、金持ちの家に嫁いでいるのだ、普通は名家か有力者の出だ。生きているな ら早く挨拶したほうがいいだろう。むしろ遅いくらいだ。

『9時前には着けるはずだ』

「ディナーに呼ばれてるわけじゃないわね」

『値踏みをしたいだけだろうからな』

 これで少しは空腹を満たしても問題ないだろう。

「そ、じゃあ精々お高い服を探すわ。それではごきげんよ」

 ガチャンときってから、時代遅れの黒電話に凭れかかった。

「顔戻さなきゃ」

 こんな事で頬を赤らめていては顔など見られない。

  恐らく、男一人にここまで動揺させられるのは夏深相手くらいだろう。初めからあんな優良物件に住まわされては、他のもので満足するには大分妥協しないとな らない。普通から見ればいい物件でも、絶対飽きる。最悪のぼろアパートなんて住む気すら起きずに解体して土地を売るだろう。

 夏深を本気で嫌えたら、少しは楽に別の所に住めると言うものを、



「顔色は良くなったな」

 とことん心配してくれてはいるが、罪悪感がそうさせるのだ。

「お陰様で」

 シートベルトを締めると、窓に映る自分の顔を見て、いつも通りなのを確認した。

「できれば道中どんなお母様か教えてくださるかしら」

 以前得た四季家の情報にはすっぽり抜け落ちていた。

「・・・四季 弥生。43・・・だったはずだ。俺と秋江の母親だが、俺よりも冬祈の方が実子扱いしてる。親父の事は犬猿していて家にはほとんど寄り付かず。銀行系統への意見力は結構な物だ。まあ、敵にまわさない方が得策だ」

 流石にただの女ではないらしい。

「それから、親父の愛しの君である女の娘である時点で、お前は敵だろうな」

 夏深の父 春夫にはよくしてもらったし扱いやすくもあった。そのツケがこれなのだろう。

「女狐は男の羨望と女の嫉妬は快感としか考えてない人だからね。この結果は当たり前と言えば当たり前よね」

 桜が元凶で四季家と婚約が決まって、桜のお陰で春夫が優しかったなら、桜の所為で弥生に疎まれてプラスマイナスが0に近づく。それでもまだ桜が間接的に当子へ与えている影響は+だ。

「あまりな事をされたら別に我慢をしなくていい」

 ハンドルを切りながら、こちらを全く見ずに言った。

「それで後始末はしてくれるって訳?」

「ああ」

 嫌味を言ったつもりが、あっさり肯定される。

「自分でどうにかできないような事を、一時の情に流されてやったりしないわ」

 甘すぎる態度に表情が強張る。

「そうしてもらえるなら有り難いが、無理だけはするなよ」

「無理はしても無茶はしないから。それと・・・」

 一度目を瞑ってから、ゆっくりと息をついた。

「もう気を使うのはやめて。息が詰まる」

 目を開けて、夏深を見る気がしなかった。

「・・・それで、あんな親と同じ様になれ、と?」

 予想外に苦い言葉に、目を開けた。

  気にもしていないと思った。自分は両親が揃っているのを見た事がない。父親代わり祖父も桜の事は好いていたし、女狐だから喧嘩なんてしたところを見た事が ない。当子と祖父は喧嘩ばかりする仲だが、仲は良かった。普通とは違っていても、家族と言う枠で括った人間たちは皮肉は言っても裏では思いやりと優しさが あったのはしぶしぶ認める。それが、夏深にはちゃんとなかったのは想像できた。

 そして、形式だけでもしばらくは婚約者で、このまま行けば籍も入る。お互いだけでなく、周りを考えれば例え形式だけでもそうなる。

「夏深?」

 それでも、夏深がそんな事を口にすると思わず。不安になる。

 変な脆さを見せないで欲しい。

「何でもない。たが、俺も自分のした事の尻拭いは自分でしたい性質でね」

 何事もなかったように答えてくれてほっとする。

 ただの優良物件でいてもらわなければ、愛着が湧いてしまってはいけないのだ。住み慣れてはならない。

「・・・しょうもない嫉妬さえしないでもらえればいいわよ」

「・・・・・」

「詳しくは知らないけど、そうなんでしょ」

 夏深が、なんとも言いがたい表情をした。

「ああ」

 短く返すのを見て、視線を夏深から外した。

 それからは、どちらも口を開かなかった。



「母さん、彼女が滝神当子さん。当子、これが母親だ」

 どこか投槍に夏深が紹介をした。

「はじめまして、お会いできて光栄です」

 礼儀正しく会釈をしながら当子が言った。相変わらずの猫被りぶりだ。

「私はそれ程光栄ではないわ。今まで挨拶の一つもしなかった小娘に会ってもね」

 普段からこれほど悪意の満ちた人間ではない。現に冬祈や秋江に対しては優しい母親だ。

「母さん、それは父さんの手違いでしょう」

「あなたは黙っていなさい」

 優しい口調だが目が笑っていない。

「夏深さん、私が悪かったんですもの」

 いかにも温室育ちのお淑やかな女を演じながら、当子がそっと夏深の腕を掴んだ。

「ご挨拶が送れて、申し訳ありませんでした」

「・・・立ち話も何ね。いらっしゃい」

 当子を見ると、背を向けた弥生に夏深には向かない優しさすらある色が見えた。

「いきましょ」

 見られているのに気付いて、当子が視線を上げた。

 黒い目がにこりと微笑んだ。

 演じている時は全てにおいて慈愛に満ちている。その目が自分にまで向けられて、胸がムカついた。嘘の優しさなどいらない。



「酷い母親ね」

 弥生の発言に、確かに酷い親だと思った。

 話が桜へ向き、自然と一人暮らししている事や昔からほとんど外国にいた事へも聞かれた。

「・・・確かに、普通の親としてはいい物ではないですね」

 香りのいい紅茶を一口飲んでから、

「でも親として最低限の義務は果たしてくれていますし、親と子は別の生き物ですから母の生き方をもうとやかく言う気がしませんわ」

 実際、桜に文句や反発の時期は過ぎ、今では勝手に生きてくれと思っている。

「随分自立精神が強いのね」

 棘っぽく言われると、にこりと微笑み返した。

「よく言われます」

「もうそろそろおいとましたいんですが? 時間が時間ですので」

 夏深が腕時計を一瞥してからイライラした声で言った。

 確かに、夏深の言ったように弥生の性格は良いものとはいえなかった。夏深の母と言うよりは、秋江の母だ。顔は夏深にも面影はあるが雰囲気は全く違う。

「あら、泊まって行けばいいじゃない」

 しれっと言うのを夏深は苛立った声で返した。

「明日は早朝会議があります」

「なら当子さんだけでも泊まって頂けば?」

「・・・これ以上我が儘を言わないで下さい」

 夏深たちの住む家でなく弥生が住むのは住宅街の大きな洋館だった。使用人の数と家の大きさは一人暮らしには多すぎる気がする。

 夏深が立ち上がると、当子の椅子を引いた。

「行くぞ」

 促されて、夏深の手をとって立ち上がった。

「泊まっていってはくれないの?」

 悲しげに言われて、頭でソロバンを弾いた。

「明日は学校がありますので又後日お邪魔させて頂いてよろしいですか?」

「あらホント? じゃあ週末にでもどう」

「母さん」

 夏深が咎めてきつく名を呼ぶが、全く相手にしない。

「夏深さんのお母様とは仲良くしたいの」

 自分でも反吐と笑いの出る顔を向けてから笑顔を弥生へ向けた。

「では、土曜日にでもお邪魔してもよろしいですか?」

「そうね。いいわね?」

 夏深に向かって聞くと、うんざりしながらも夏深は承知した。

「仕事によっては来れませんけどいいですね」

「相変わらずの仕事魔のようね」

 鼻で笑った後、弥生も立ち上がった。

「今日は私の我が儘に付き合ってもらってありがとう。気をつけて帰って」

「いえ、私もお会いできて嬉しかったです」

 社交辞令を言う当子の腕を掴んで、夏深が引っ張って早々に車へと乗せていった。

「失礼します」

 相手の言葉も聞かずに、夏深がアクセルを踏み込んだ。

 見えなくなってから、夏深が溜息を付いた。

「わざわざ面倒を受けるな」

「仲良くして損はないでしょ」

「チクチクといびられるのが好きらしいな」

 言われて、眉根を寄せた。

「アレくらい痛くも痒くもないわ。そういう面は無感情なタイプなの。ま、嫌われる奴にはトコトン嫌われる性質だから、今までにも嫌味も嫌がらせも受けてきてる」

「俺がそんなとこを見たくはない」

「なら見なきゃいいじゃない」

 言い返すと、苦い顔をしたが、何も言っては来なかった。