四



 見ていてウザイ。

「ねえ当子、いつでもいいから暇空かない? 奢って上げるからさご飯食べに行こうよ」

「あんまりしつこいと今度の職員会議で生徒との行き過ぎたスキンシップをする馬鹿な教師への対応について話し合って頂きますから」

 カタカタと持ち込みのノートパソコンを打ちながら、当子は目も向けずにあしらっていたが、目の前で当子にしつこくちょっかいを出す貞月の姿はウザイこの上なかった。

 素を糺せば自分が悪いのだが、当子が可愛いとわかったとたんのこの態度は腹が立つ。

「怖い事言って、当子が嫌なら他の子にはちょっかい出さないよ。な、一回試しに外で遊ばない?」

 甘えたように下から覗き込む貞月を完全無視して、当子が左九に声をかけた。

「華ちゃん、今朝剣道部の顧問の先生が一度公式戦に出てみないかって言ってたわよ」

「俺も朝剣道部の主将に声かけられた。個人的に謝ってもらったから別に出てもいいけど髪染め直さなきゃなんないなら出ない」

 笑いをこぼしながら当子が笑顔で返す。

「私も華ちゃんのその頭は似合ってるからいいと思うよ。オレンジ頭の一年がインハイ優勝ってのも面白いとは思うし」

 染め出した頃は爆笑してくれたが、あの頃から似合うとは言ってくれている。最初は緑頭で人間毬藻と笑いのネタにもされたが、

「主将が女子剣道はないけど、当子だったら入部してくれたら有り難いとか言ってた。当子も履歴書作りになんかの大会優勝してきたら?」

 剣道部の奴らも当子への見る目が一新していた。正直あんまりやって欲しくない。

「高校では剣道する気ないからなぁ。それに、優勝狙いだと本気で稽古しないと無理だし色々大変だから止めとく」

「当子って何歳の時から剣道始めたの? すげー強かったけど」

 貞月を無視する事に決めたのか、ノートパソコンを閉じると当子が左九に近づいてでこピンを喰らわせた。

「剣道部だったから良かったけど、他の部でもめ事起こしたら承知しないかんね。解った?」

「気はつける」

 当子への中傷でキレて手を出せば結局当子に迷惑がかかる。それくらい解っていても、あまりにも酷い事を言われてもキレないと保証はできなかった。

「今日ちょっと野暮用がありますんで先に帰らせてもらってもいいですか?」

 荷物を手にとって当子が言うのに燐火がいいと言う前に、猛が入ってきた。

「サッカー部とラグビー部の野球部で喧嘩です!」

 とろい足で走ってきたのだろう、息の荒い猛が告げた言葉で当子がつばを飲み込むのが解った。

 予定通りに帰れないと計算して、珍しく動揺しているのが解る。

 野暮用が何だったのかは知らないが、大事なのだろう。

「当子帰っていいよ。燐火先輩いるし、何とかできるだろうから」

 気を使って言ったが、何事もないように困ったのと笑って見せた。

「ありがと、でも聞いた以上仕方ないわ。それに燐火先輩に全て任せるわけにはいかないし」

 結局何の力にもなれない。

「兎に角向かいましょう。場所はグラウンドですか?」




 上靴のまま、グラウンドに飛び出して目に付いたいざこざに吐き気がする。

 用事がある時に態々青春しないで頂きたい。ほんと頭悪いんじゃねーの?

 流石に足の速い燐火の後を左九と追い、その後ろから貞月、少し離れて猛が付いてきていた。

「ちょっと、何揉めてるのよ」

 燐火が飛び出して、ラグビー部の巨漢が罵声を飛ばした。

「女はすっこんでろ」

「燐火ちゃんに当たってんじゃねーよ!ブオトコが!」

 サッカー部の二枚目が目を青紫に腫らして、同じサッカー部員抑えられながらも怒鳴り込む。

「悪いがこれは俺たちの話だ、口を出すな」

 野球部の人間が燐火には目もくれずに後の二つの部を睨みつけたまま言った。

「今からこの場は生徒会の管轄です。こちらの指示に従わずに殴り合いをしたいと言うなら各部全員に連帯責任で処罰を取らせます」

 もめる三角の中心に立つと、当子が大人数の男たちに臆することなく強い口調で告げた。

「なめてんじゃねーぞ。こっちは何も悪くねーのに何が処罰だ」

 完全にアドレナリン全開の男に啖呵を切られ、ラグビー部へ顔を向けると、キツイ口調のまま言う。

「各部部室で待機。野球部以外は部長が問題児のようですね」

 溜息を付いてから、

「この状況を説明できる人は残ってください。各部で最低二人、その後当人にも事情を伺います」

 それに従ったのは野球部だけだった。

 口端から血を滲ませた問題の部員を部長がなだめ、他の部員にも戻って置く様に指示をして、女子マネージャーと部長の二人だけを残して立ち去らせた。

「西田君。悪いけど部室で待機しておいて、ちゃんと話をつけないと停部じゃすまないわ。あなた一人の責任じゃないのよ」

 燐火がサッカー部の部長に気遣った声をかけて納得させようとしている。

「だけどよ。あいつらが!」

 子供じみた言い訳をしているが、こちらは燐火に任せておけばいいだろうと判断して、ラグビー部に向く。

「やってられるか!」

 鼻血を流して目を血走らせたラグビー部部長でもあるその男が思いっきり地面を蹴り飛ばした。数センチ土を抉ってから、鼻息荒く他の部員が止めるのも聞かずに当子に詰め寄った。

「お前らがりべんは家に帰って勉強でもしてろ! 女にとやかく言われる筋は・・・」

 あまりにも臭い息間近でかけられたのと、このままではとっとと話を終わらせて帰れないと苛立ちを募らせている当子の胸座をラグビー部が掴み上げた。

 左九が当子を助けようと伸ばした手は宙で止まり、

「うーわー。痛い」

 その光景に同じ男として苦痛を感じて、手を顔にやって呻きを上げた。

 当子の胸座を掴んでいた手は力なく離れ、巨漢の男は顔を青くし、その場に蹲っていった。

 イライラの絶頂に達した当子が、男の急所を蹴り上げた為に、そうなった。

「当子今の反則」

 手加減を知らない当子の技に左九が脱力した声を上げた。

「言う事きけっつってんのが解らんのか?このボケがぁ!」

 般若のような当子をマジで怖いなあと、左九だけでなくその場の男たちはひしひしと思う。

「そっちも、とっとと言う事聞いてろタコ!」

 サッカー部に向かって怒鳴りつけると、いたって素直に従った。

「あんたらもこいつもって帰ってな。ちゃんと説明できる奴おいてけよ」

 超絶に機嫌の悪い当子に素直に従って、その場には各部2・3人を残して、後は回りに数人の野次馬だけだった。

「・・・取り合えず生徒会室でお話を伺いましょう」

 やっちまったと言う後悔と、まだこれから事情を聞いて解決し何ら処罰を考えないとならないと思うと既に脱力しきった当子が頭を抱えていった。



 当子の噂は先日の剣道で広まり出していた。これで良くも悪くもいい噂の種になるだろうなと思う。

 一年でリコールで生徒会長になった女子が、実は超が付く美人であんな体格の差のある男を一撃で困絶させる様な鬼であった等、尾鰭が付く前から面白いものになっている。

「それで、結局は単なるグラウンドの使用で揉めていて、積もり積もった敵意が爆発したわけですか」

 一通りの話を聞いて溜め息が出し、馬鹿げすぎて呆れた声で当子が言った。

「杉田はもめていた二人を止めに入ったらとばっちりを受けたんです」

 野球部部長がさも悪くないと言う態度を取った為、他の部員が異議を唱えた。

「よく言うぜ、お前あいつが殴り返してもしばらくとめに入ってなかったじゃねーか」

「あれはとばっちりじゃなく喧嘩に参加してたんだろ!」

 口論しだした三人を無視して、当子は何事かを考えた後、立ち上がった。

「殴り合いをしたのはあの3人だけ、素手での殴りあい、それは間違いないですね」

「止めに入ったときに部員が何人か殴られた」

「殴ったの間違いだろ!?」

「蹴りも入れられてた」

 又口論になる。どうしてここまで協調性がないのかと、ことなかれ主義の猛が苦笑った。

「各部に戻って頂いて結構です。代わりに殴り合いをした人間にここに来るよう言ってください。直ぐに来なければ承知しませんから」

 承知しないと言う脅し文句も少し前までは効かなかっただろうが、今ではその意味がわかる分逃げない限り直ぐに来るだろう。何せ臆すると言う言葉を全く知らないような生徒会長が相手だ。

 代表を帰した後、当子が大きな溜息を付いて突っ伏した。

「あいつら叩き殺してやろうか」

 ぼそっとそんな事を呟く当子に、流石の貞月も静かにしてた。

「教頭にはこちらから報告しますので、まあ、教師が出るまでもなくカタはつけますから」

「どういう風にカタをつけるんだい?」

 貞月の問いに肩を竦めて、

「平和的解決ですよ」

 とだけ答えた。

 何度も時計をちらちらと見て、時間が経つほどに落ち着きがなくなっている。

 開けっ放しにしていたドアから不貞腐れた野球部員が最初に入ってきた。次に口を真一文字に噤んだラグビー部。最後サッカー部が入ると、左九に指示をしてドアを閉めさせ、至って落ち着いた声で、当子はにこりと笑って言った。

「誰が初めに手を出したのかしら、自分だと思う人間は手を上げて」

 無反応なのをみて、さらに笑顔で一言、

「上げろっつってんのがわからねぇのか?」

 ほとんど腹話術に近いなと思う。当子のここまでキレた姿は今日はじめて見たが、ドスのあり方がとても年下の女の子には思えない。

 そろそろと、ラグビー部の部長の手が上がった。見事な蹴りに逆上してくるかとも思っていたが、偉く小心だ。

「なぜ手を出したの?」

「サッカー部の奴のボールを思い切り当てられて、謝りもしねぇから」

「だからって殴られる筋はないぞ」

 二枚目台無しの皿屋敷にでも出てきそうな目の腫れっぷりを指して文句を言う。

「それで、あなたは止めに入ったとか?」

 サッカー部を無視して野球部に顔を向けると、一番まともそうな野球部が首を横に振った。

「丁度ボールがそっちに行って、拾いに行ったときに、どっちかの足が当たって、カッとなってそのまま手を出しました」

 三人の意見を聞いてから、当子はアホらしいと呟いた。

「結局血の気の多い馬鹿が馬鹿な事で喧嘩をした。それで間違いないわね」

 サッカー部以外の二人は頷いたが、サッカー部は異議ありと立ち上がった。

「俺はボールを当てただけで殴られたんだぞ?」

「それできっちり謝ったと言えるのね」

 直ぐに切り返された当子の言葉に相手は口を噤んだ。

「血の気が多いのも、勝手に対立するのも、喧嘩をするのも勝手よ。でもね、各人自宅謹慎、各部はしばらく休部、グラウンドの使用規制、今学期の試合・合同練習の禁止、それだけの副産物を生む事も考えてから殴りあいなさいね」

 それだけ言うと、肩を竦めた。

「全員多少の差はあっても自分の非は認めるでしょ。それならそれなりの責任も取らないとね。これから、教師陣に報告します。明日、こちらから放送で呼び出し処遇を伝えますので今日の所は帰って結構です」

 それだけ最悪な事を言い付けて、どうするかは明日とは鬼だ。

「ちょっと待ってくれよ。クラブは無関係だろ!」

「退部しますから、それでもう野球部には関係ないでしょう」

 それぞれ文句を言うのを、鼻で笑い飛ばした。

「部活中に喧嘩しといて何ぬかすか!とっとと帰りな少なくとも今日くらいは大人しく自分の軽率さを反省する事だな。ま、退学廃部だけはしねぇでやるから感謝しな」





 七時を少し過ぎた頃に当子の家に着いた。

 一人暮らしには広すぎる平屋の日本家屋の前に車を止め、インターホンを鳴らしたが、一向に誰も出てこない。おまけに家に明かりはなく、月明かりの下静寂していた。

 もしかしたら秋江が連絡ミスでもおかしたのではないかとも考えた。

 当子の携帯に電話を入れても誰も取らない。

 しばらく待ったが、いないのでは仕方ないと車に戻って、エンジンをかけなおした。



 バスの時間を丁度すぎてしまい。左九に自転車を借りて猛スピードでペダルをこいた。

 家に付く頃には七時等ゆうに過ぎている。

 涙が溢れそうなのを必死に堪えて、前屈みにひたすら自転車を飛ばした。チェーンが外れでもしたら終わりだなとおもいつつも、自転車が壊れそうなほどにスピードを出した。

 ろくな料理もできていないのに、今更こんなに必死になっても無意味だ。無意味だと思っていても、ひたすらに走り続けた。喉が痛くなって、頭が酸欠でガンガンする。それなのに、目の前はハッキリしていて、耳を掠める風の音が五月蠅い。

 後少しで家に着く。速いスピードのまま角を直角に曲がった時、当子と当子の家の向こうに、見慣れた車の後姿が見えた。電灯に照らされたそれは明らかに夏深のものだ。

 安堵もつかの間で、それが進んでいるのに気付いて唖然とした。

「・・・・っ」

 涙が勝手に溢れてきて、声が出ない。






   五



「!」

 目の前に行き成り人影が飛び込んできて、反射でブレーキを踏んだ。

 轢いていないよなと慌てて外に出ると、違った意味で唖然とした。

「当子」

 車からほんの数センチのところで屈みこんでいるのは紛れもない当子だった。

 ゆっくりと当子が立ち上がって、泣いているのに気付いて余計に意味が解らなくなった。

 轢いたとは思えないが、どうしてふってきて、どうして泣いたのかが解らない。

「当子?」

「ごめっ・・・ごめん」

 泣いたまま謝る当子が汗だくで、肩でするほどぜいぜいと荒い呼吸をしている。

「大丈夫か当子?」

「はっ・・・へ、平気。ちょっと、・・・はぁ、過呼吸気味な、だけ・・・ごめん、学校でごたついて・・・遅刻」

 息を整えようと四苦八苦している当子があまりに可愛くて、抱きしめた。



「・・・死ぬかと思った」

 牛乳を一杯飲み干して、一息ついた当子が脱力した声で唸った。

「まさか学校から走ってきたのか?」

 呆れ顔だがどこか嬉しそうな夏深の顔を見て、後一歩で遅刻で済まなかったと思うとゾッとした。

「友達に自転車借りて、家まで爆走。車見つけたときにはもう動き出してて、もう少しで無駄な努力に終わるとこだったわ」

 軽い感じで言うが、あの涙は確かに絶望感で流れた。

「それでどうして上から降ってきたんだ?」

 当たり前な問いに、肩を竦める。

「大通りに出るなら、その角を右に曲がるでしょ?その道なら家を抜けて出た方が早いから」

 自転車で庭を直進して、木を使って塀を駆け上って飛び降りたらぎりぎり間に合った。もう一歩で轢かれそうだったが、全く運がいい事に無傷だ。今思うと恐ろしい事をしたものだ。

「10分待ってて、予定してたのは無理だけど、折角だし、有り合わせで作る」

 ブレザーを脱いで何のフリルもないエプロンをしようとした時に、夏深が声を受けた。

「先に着替えて来い。風邪を引く」

 確かに、暖かくなり出した季節とはいえ、夜にこの格好ではじき寒くなる。

 妙な所気が利く。

「・・・すぐに戻る」

 祖父の生前時から使っていた自室に向かう。



 どれほど必死に走ってきたのかがよくわかるシャツの湿気様だった。シャツが透けて下着のラインが浮き上がり、その上制服にエプロンなどされれば目のやりどころに困る。

 生徒会長は生徒会長でも、その権力が他の学校と比べて格段強い百合乃下では、逆に何か起きた時に普通では教師に任せるような事も生徒会で処理しなければならない。生徒会長になるように仕組んだ本人である以上、それで文句は言えない。

 たとえ、当子の手料理を食べ損ねたとしても、だ。

 このままどこかに食べに連れに行ってもいいなと思いもしたが、何か作ってくれるというのだ、しばし待つ事にしよう。

「お待たせ。飯は期待しないでよ」

 髪を後ろで纏めながら、出てきた当子は青いチェックのラフなワンピース姿で、相変わらず何を着ても似合う。

「ああ、期待せずに待とう」

 台所の前に立つ当子の後姿を見ながら、大きな一枚板のテーブルの前にあぐらをかいて待ちながら、いつもこんな拾い場所で一人食事を取って寂しくないのかと思う。

 当子が小さい頃に父親は亡くなっていて、仲の良かった祖父も高校入学前に亡くなっている。当子の母・桜は外国暮らしで滅多に帰国もしないらしい。亡くなった祖父の家に越してきて、完全な一人暮らしをするのは15では寂しすぎるのではないだろうか?

 それに、自炊をするにも一人だと毎日の食事も手抜きでインスタント物ですまして栄養が偏るんじゃないかと、親のような事まで考えてしまった。

 匂いだけは美味しそうなものが漂ってくる。

「今日の仕事はもう終わってるの?」

 何気なくかけられた言葉に、下心を出すまいとしながらも燻ぶるやましい物があった。

「ああ」

「じゃあ朝帰りでも平気ね」

 軽く言う当子のその言葉に身を硬くした。

 今までに中学時代からもてていたし、大学はアメリカに留学していた事もあってとてもウブな男だとは言わないが、当子に対しては別なようだった。

 引け目がある為、できることなら当子が生徒会長をやっている間は手を出さないように務める積もりだった。正直それまでに欲求不満で死にかねないとは思っていたが、できるだけ、間を空けてやるつもりだった。

「はい、当子ちゃんスペシャル」

 魚の煮付けに白粥、野菜と鶏肉の炒め物、それにキュウリの漬物と梅干を並べながら困ったような顔をされた。

「ホントはもう少しマシなの作る予定だったんだけどね。ご飯も朝の残りだったりする」

 そう言えば、喧嘩別れした仲直りで呼ばれたのを思い出して少し可笑しい気がした。

 いきなり当子が車の前に飛び出してきて、おまけにああも可愛い姿をさらされてそんな事すっかり忘れていた。

「でも一様全部自家製」

 ぬか床を毎日まぜているのかと思うと似合わなくて仕方ない。

「頂くとする」

 見た目は悪くない。だが、それに反して食べられないほど不味かった時どう反応するかを考えてしまっていた。

 その身構えに反して、いるのも困りものだ。

 確かに高級料亭とまでは行かないが、この歳でこんな料理をこの味で作れるのもどうかと思う。本当に何でもできる奴だ。

 一通り食べて美味いと言をおとしたら、当子が立ち上がって台所へ何かを取りに行った。

「ちょっと和食には合わないんだけど、結構美味しかったのよ。これ」

 笑顔で差し出されたコップを見て眉を顰めた。

 淡い桃色の発泡した飲み物を硝子のから注ぎながら当子が笑顔で進める。

「少し甘いけど、美味しかったから、安物のジュースだから口に合わないかもしれないけど」

 進められるままに口をつける。

 一口飲んだところでコップを置いた。

「・・・甘い」



 母親から夏深は下戸だと聞いていた。

 車で来ている為、このまま返すなら酒を飲ましたら飲酒運転になるが、泊まっていけるなら少しくらい飲ませるだろうと思った。これは折角の機会だからどれくらい下戸なのかと思って、母・桜が置いたままの桜の香りのするお酒を飲まして見たが、一向に反応は見せなかった。

 お粥を二杯お代わりして、出した料理も梅干まで全て平らげた夏深を観察しながら、少し残念に思っていた。

 夏深の酔いどれ姿などそう観れたものではないと思ってわくわくしていたのに、

「当子、こっちにこい」

 今までほとんど喋りもせず黙々と食べていた夏深が急に言った。

「どうして?」

「・・・・」

 聞き返すと黙り込んでしばらくした後、喋った言葉を聞いてぽかんとした。

「なら俺かいく」

 呂律の回らない言葉を言いながら立ち上がると、テーブル一枚隔てているこちらへ来ようと畳みの上を歩いたときに、何もないのに素っころぶ。

 あのきりっとした夏深がコメディアンのような見事な転びっぷりを見せ、一瞬唖然としてしまう。

「・・・・か、かわいい。や、ホントに一口で酔ったの?」

 こけた夏深を見てどうしようもなく可愛らしくて噴出して笑ってしまう。笑ったまま酔っ払った夏深を助け起こしに行く。

 飲んでからしばらく経ってからのこの反応に余計に面白さが煽られる。

「大丈夫?」

 小さな唸り声を上げて顔を手で隠している夏深を覗き込む。顔色が変わらない酔っ払いもあるのだなと思う。桜はザルで酔った所を見た事がないが、祖父は酔うとサルのケツの様に真っ赤になる。

「わっ・・・」

 行き成り髪を引っ張られてそのまま夏深の上に倒れ込んでしまう。

「ちょっ、夏深?」

 そのまま抱きすくめられ、行き成りの事に動揺する。

「当子」

 耳元で囁かれてぞくりとする。

 器用に半回転して、組み敷かれる形で見下ろされて動揺する。

「ホントに酔ってるの?」

 いつもよりも潤んだ瞳に見下ろされて息を呑む。

「ああ」

 ゆっくりと口付けをされる。どうしてこの目に見つめられると逃げる事が一瞬できなくなるのだろうかと不思議でならない。

 そのまま夏深の唇が首筋に下りて、鎖骨まで何度も口付けを落とされてくすぐったい。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・夏深ぃ?」

 夏深の唇が胸元にまで下りてきたところで、そのまま夏深の動きがフリーズした。寝息が聞こえて安堵と共に、大の大人に圧し掛かれる重さに眉を顰めた。

 おしやってどけると、どうやら完全に寝たわけではないらしい。

「お前、盛ったろ」

 脱力仕切った夏深の顔を覗き込みながら、あまりの可愛らしさにこちらから触れるだけの口付けを落とした。

「ホントにお酒弱いんだ」

「おまえなぁ〜」

 掠れた呆れ声で批判をするが、然したる効果はない。

「カワイっ」

 もう一度酔った夏深にキスをする。





 頭が痛くて目が覚めた。

「・・・・っ!」

 目の前に当子の顔があって、息を詰める。

 居間に当子が布団を敷いてくれたのだろうが、どうして当子まで横で寝ているのかが解らずに身を硬直させた。

 スヤスヤと寝息を立てる当子を見て、以前にもこれに近い事はあったが、状況は全く違う。あの頃から見れば着々と当子の方が立場が上になっている気がする。

 これが悪魔だと言われたら信じそうだ。

 どうすれば、当子を手中で転がせるのだろうか? 

 如何わしい事を考えているときに行き成り目覚まし時計がなってびくっとした。

「・・・・・!」

 けたたましい音が頭に響いて反射的に目覚ましを止めた。

 そういえば、当子に酒を飲まされたのだ。血筋でアルコールにてんで弱い為、少量で酔う上に目覚めれば二日酔いだ。普段はアルコールアレルギーで通している。これでもまだ飲めるようになった方だったりする。

「はよ」

 見下ろすと、当子が目を開けた。

 以前当子が寝惚けていておいしい思いをしたが、どうやら今の音で完全に目覚めたようだった。

「・・・色々聞きたい事があるんだが?」

 わざと機嫌悪く言うと、当子がそれを無視してくすくす笑いを始めた。

「マジで酔っちゃうんだもん。子供みたいにすぐ寝ちゃうし」

 眠気に捕まる直前に、酔っ払ったまま当子を喰ってしまいそうになったのを止めれた自分に同情と称賛を与えたく思う。流石は理性の男と呼ばれるだけはあるらしい。

「次はどうなっても知らないぞ」

 あんな情けのない姿を当子に見せてしまい、強い脱力感と二日酔いでそのまま布団に突っ伏した。

「えー、予想外に可愛かったから気が向いたら又飲ませるかも・・・まあせいぜい私の渡した物は注意する事ね」

 笑った声で布団から当子が抜けるのを見て、少し勿体無い気がした。

 ちゃっかりパジャマに着替えている当子が大きく伸びをした時に細い腰が覗いた。

「朝はパンでもいい?」

 さっき止めた目覚まし時計を見るとまだ5時半だった。

「いつもこんな時間に起きてるのか?」

 こんなに早く起きなくとも学校には十分に間に合うだろうに、

「大体は、昨日は寝たの早かったから眠くはないでしょ?」

 台所に立ちながら皮肉を言われる。相変わらず可愛げのない女だ。

「卵は何?目玉?スクランブル?」

「任せる」

 朝に目覚めたら同じ布団に女の二人、そんなシチュエーションで何もなかったなど男として悲しすぎるなと皮肉に思いつつも、いつまでも一人布団に潜っているのも馬鹿らしくて、頭痛のするのを押して当子の暖かさの残る布団を出た。

「それで、どうしてお前がわざわざ添い寝をしていてくれたんだ?」

「・・・・・・・・・ごめん」

 予想外に当子が謝罪の言葉を入れてきて、理由が解らなくて当子の後姿を観察した。

「当子?」

 泣いてでもいるのではないかと思って、意味が解らないながらに台所で背を向ける当子へ向かった。



 馬鹿だとなつくづく思う。

「当子?」

 訝しげに夏深が様子を見に来こられて、そ知らぬ振りして誤魔化せばよかったと自分をなじった。

「目玉焼きでい?」

 何事もなかったように夏深を見上げて問いかける。

「今なんで謝った」

 無視してくれればいいものを、問われて返答に困る。

 知らない振りをしてしまをうとも思ったが、この目に見下ろされるとどうにも困る。

「寝苦しかったでしょ?」

「当子?」

 誤魔化しきらないうちに、優しく髪を撫でられてドキリとする。

 一呼吸置いてから、目線を離せずに喋ってしまう。

「さみし・・・かったのっ」

 投げ槍に言ってから、あやすように髪を撫でられる。

  まだ祖父が死んでさほど経っていない家で、一人きりでの生活は自分で決めた事だった。爺とは喧嘩友達のように仲が良かった。元々父親は記憶にないが、その 分、唯一身近にいてくれた祖父が死んだのは堪えた。母親は勝手に海外でさかさか動いている。桜を嫌いだとは言わないが、滅多に帰ってこない母親に恐怖心は あった。たった一人のこの家は、孤独で、桜まで消えてしまいそうで、失う恐怖心が募る。

 いつかは、夏深も当子の前から消える。

 そう思うと、馬鹿みたいに隣に潜り込んで、少しでも夏深の側にいたくなった。

 そんな馬鹿さ加減と、ちゃっかり目覚ましまで用意しておく計画性に呆れて、謝ってしまった。ホント馬鹿みたい。

「・・・っ」

 何も聞かずにそっと抱きしめられて、泣きそうになるのを堪えた。

 胸が詰まるとはこういう時に使うのだろうか? 夏深への依存度が高くなっているのを感じて、余計に危惧してしまう。

 中毒になっては離れられなくなる。相手に嫌われても、







   六



「はぁ」

 溜息を付く当子を見て、やっぱり昨日の用は駄目になったのだろうと思った。

「あれ、当子ちゃん首怪我したの?」

 首筋に三つもバンソーコーが張ってあるのを見て、燐火が小首傾げて聞いた。

「ええ、ちょっと・・・」

 苦笑いを漏らす当子を見て、まさかキスマークじゃないよなと思う。

「当子、まさかキスマーク?」

 朝早くからウザイ貞月が思っていた事を代わりにズバリ言う。

「・・・・貞月先生、その呼び方、しないでもらえます? 正直、気持ちが悪いんです」

 相変わらずキツイなあ。

「なら当子も薫って読んでいいよ。なあ、今日は暇だろ?」

「貞月先生。あんまり面白くないジョークばかり言ってると、もてませんよ」

 言われて、貞月が当子の前の机に手を着いて、見下ろす形で囁いた。

「当子だけが振り向いてくれれば、他の女にもてなくてもいい」

 今までにない真剣な声に、ああやって女を落とすのかと感心した。ただ、当子には効かない事くらい解りきっていて、哀れにすら思える。

「・・・・・・・・・・駄目ですね。話しになりません。ダサ過ぎです」

 ここまで言われて笑顔でいる貞月には好かないがお見事だと思う。

「当子って、もしかして強引な方が好み?」

「先生はロリコン趣味ですか?」

「当子くらいしっかりして強かったら、歳の差なんて気にならないよ」

 しばらく黙った後、立ち上がってにやりと笑った。

「思われてる程しっかりも、強くもないです」

 言い切ると、パンと手を打った。

「さて、サンバカを呼び出してください。放課後までヤキモキさせてもいいんですけど、死刑執行は早い方がいいでしょう」



 予鈴の鳴る十分前に呼び出しをかけて、一人でも揃わなければ連帯責任で処罰を告げるのは放課後まで延ばしてやろう思っていたが、残念な事に三人とも直ぐに揃った。

「あら、中々さっぱりしましたね」

 野球部員は元々ほとんど坊主だったが、それでもそれをさらに短く刈り込んでいた。

 3人とも坊主にしてきたのは反省の意だろう。

「少しは反省したという事かしら?」

 並んで立っている三人が、ばっと頭を下げて、今一揃わない声で『すみませんでした』と言った。

「では、どんな処罰も甘んじて受けますね」

 次は揃って『はい』と答えた。

「各部への処罰は今回は見送ります。ただし要注意だけはしますが」

 それにほっとしているのを隠してそのままぴしっと軍人のように立っている3人の前まで椅子から立ち上がって歩み寄ると、ぐるりと見回した。

「処罰を言い渡します」

 厳しい声で続ける。

「トイレ掃除2週間。以上!」

 さながら軍の教官のように言い切ると、さっきまで硬い表情をしていたのが面食らっている。

「そ、それだけ・・・ですか?」

 野球部員が情けない声を出す。

「え、不満?」

「そんな軽くていいのかよ」

 一気に緊張の抜けたサッカー部部長が脱力した声で言った。

「ありがとうございます」

  ラグビー部部長がびしっと礼を言う。こいつには悪い事をしたと反省している。部活動はそれぞれ何度か見学させてもらっているが、このラグビー部部長はアド レナリンが全開になると暴走するのは何となくはわかっていたし、あの場はアレが手っ取り早い最善策に思えたのだから仕方ない。今後自分も軽率な行動をしな いよう注意しよう。

「あ、 先に行っておきますが、放課後、学校のある日は全て3人で掃除をしてください。毎日チェックを入れさせますが、隅々まで綺麗になっていない場合はペナル ティをかします。それに、又このようなアホな騒動が起きた場合は厳罰に処します。二度も三度も私が甘い顔をするとは思わない事です」

 元々機嫌が良い為、まともに処罰を下す積もりはなかった。何よりも若気のいたりで喧嘩をするのも度が過ぎなければ構わないと思っている。確かに馬鹿な事はしないに越さないが、何もせずにただ適当な学生生活を送るに比べれば余程健康的だ。

 何より、左九が剣道部員を殴る事件を起こしている以上、キツイ処罰などできないのだ。

「あ、華ちゃんも一週間トイレ掃除一緒にやっといでよ」

「え?」

 行き成り矛先を向けられ、左九が抜けた声を出す。

「一様カタはついてるから一週間減にしてんだから文句はなし! 西澤先輩、チェックお願いできますか?私も何度か見に行くつもりですが、なにぶん場所が男子トイレですから」

「了解」

 猛が笑いを殺しながら頷いた。

「それとあんまり楽な処罰だと言わないように、掃除の取り組み方如何によっては反省の色無しと見ますから」

 次暴力事件が起きた時に同じ様な処罰は下せないかもしれないのを考えながら、次はこう楽に始末がつかないかもなと胸中で苦笑う。

「はい。これにて一件落着!解散」





「最 近馬鹿な事で執務を煩ってしまいましたが、ぶっちゃけ球技大会まで休みを過ぎたら四日だったりします。まあ既に予定通り事は進んでますから、前日に運動部 員に運動場・体育館の整備の監督とか予定されていた事をするだけですから、明日は審判をする生徒への説明会を開きますが、予定通り燐火先輩はバスケ西澤先 輩はバレー私はドッジの説明を見てください。各審判長を立ててますし、バスケ・バレーに関してはクラブの人に率先して審判に出てもらってますから、大して 問題は出ないと思います。明後日には各運動部部長に来てもらい、仕事分担と説明をします。後は問題が起きた場合臨機応変に対処して、私への報告をお願いし ます。以上、質問はありますか?」

 放課後、左九を除いた生徒会メンバーに当子が説明を入れると、いつも通り異議は出なかった。

「今日は西澤先輩は全校生徒に配る冊子の最終チェック、燐火先輩は正規ルールを簡単に変えているのでそれでいけるか見てください。明日から忙しくなりますから、今日はそれをだけでいいです。西澤先輩はお手数ですが馬鹿達の仕事ぶりをチェックしてください」

「厳しくチェックを入れてくるよ」

 この生徒会長は多少の不備トラブルを見越して事を進めていて、指示に従っていれば問題はないように思える。

 今までの生徒会記録で予想されるトラブルと、それの対応・防止策は人知れず練っているのだから、とことん完璧主義なのだろうと半ば呆れてしまう程だ。

「私は野球部とサッカー・ラグビー部へ説教しに行きますんで、先に帰る時は施錠お願いします」



「でもマジでこれですんで助かったよなぁ」

 モップに凭れ込みながら、サッカー部部長が気の抜けた声で言った。

「まさか揃って坊主頭にしてくるとは思いませんでしてた」

「部長としてのケジメだ。ま、考える事は同レベルって訳だ」

 ラグビー部部長が当子の前と違って堂々とした態度で便器掃除をしながらぼやいた。

 その中で一緒にトイレ掃除をしながら、間抜けだなぁと自分の光景を思う。

「でも、あんだけ脅しといてこれって、性格悪いよな、あの会長。扱き使われてんだろ?」

 行き成り話を振られてサッカー部を振り返る。

「当子が一番働いてるからそうでもない」

「そういえば、あの会長ホントは凄い美人ってマジ? 男バスのダチが惚れたってさわいでっけど」

 嫌な事を言われて肩を竦めた。

「内緒」

「部長がアレは別人だろって言ってましたよ。燐火先輩より美人はありえないって」

「お前見たのかよ」

 クラスでも似た会話を聞いた。正直、噂がホントだけにもうあの顔は学校ではだささないようにしないとファンが増える。

「見てませんけど」

「なら言うなよ」

 その言い方にムッとしたようだが野球部員は喧嘩になる前に口を噤んだ。

「・・・・生徒会長に彼氏はいるのか?」

 当子ネタばかりでうんざりしていたところに、ラグビー部部長が顔を強張らせ、むしろ顔を紅くして真剣に聞かれて辟易した。

「本人に聞いてもらえます?」

 当子狙いがいくら増えても当子が相手にしなければいいのだが、当子にはすでに好きな奴がいる方がきつい。それを自分の口からこんな男に言うのは嫌だった。

「マジ惚れか!? お前Мかよ! タマける女だぞ?」

「いるかいないかだけでいいから教えてくれ」

 サッカー部を無視して巨漢に懇願される。絶対これは当子のタイプじゃないなと思いながらも、溜め息が出る。

 一人で便所掃除したほうがマシだよとつくづく思う。

「俺に聞かれても困るし、それにあいつ自分より下の人間は男とは思わないから聞いても無駄だし」

 言いながら、友達であって男とは見られてないんだろうな俺もと言ってて悲しくなる。

 当子は確実にテストはトップを取るだろうし、剣道は一様強いが全勝できるほど差はない。正直当子の頭を超える自信はない。

「お前それストレート過ぎじゃね?」

 サッカー部が呆れて言うか事実だ。

 思いを告げる前から駄目だと解っているのも心苦しい。それで諦めがつかないならなおの事だ。





「燐火先輩、運動部に運動場に出るように放送入れてきてくれますか」

「はいはい、了解」

 球技大会前日の放課後、いつものように当子が指示をして、燐火が生徒会室を後にした。

「私達もう出ますけど、貞月先生出る前に鍵お願いしますね」

「いってらっしゃ〜い」

 昨日は夜遊びをしすぎて眠いため、テンション低く返してうとうとしたまま返した。

 生徒会に貞月以外いなくなり、静かな部屋でうとつきだしたときに携帯が鳴る音がしてばっと身を起こした。

 女からの電話かと探ったが自分のものでない。生徒会の誰かのかと思うと、当子の携帯鞄のポケットが着信でちかちかと光を通している。

「へー、携帯もってんだ」

 寝惚けたまま当子が携帯をいじっているのを見たことがなかった為、ちょっとした興味で携帯をとった。

 『夏深』と画面に映っていて、女の子かなと軽い気持ちで通話ボタンを押した。

『当子、今晩は暇か?』

 唐突に聞こえたそれは男のもので、餓鬼の声でなく、明らかに大人の男で有無を言わさないものに、ピンときた。

「悪いね。今日は俺と過ごす事になってんだ」

 頭をかいて意地の悪い声を出す。

 狙いの女に男がいる場合、その仲を裂いて落ち込んでいる所を落とすに限る。

『誰だ。貴様は』

 警戒した慎重な声に、釘を刺す。

「決まってるだろ?当子の男だよ」

 しばらく間を置いた後、静かな声が返ってくる。

『当子を出せ。お前では話しにならん』

 このままじゃあ確固たる亀裂にならないと思い。大分意地が悪い事を言った。

「悪いね。今シャワー浴びに行ってるから用なら後でかけなおしてよ。ま、しばらく出れないだろうけど」

 これで喧嘩別れしてくれるかなと打算しながら続ける。

「・・・・つーかさ、あんたの方が当子の何?」

 ツーと機械音がして切れた。

「あらら、俺って悪い男」

 さして悪びれなく笑うと、何事もなかったように当子の携帯を鞄に戻した。

 後は優しく優しく慰めればいいだけだ。

 過去の経験でそう考えた。



「ご苦労様でした。天気予報ではまず間違いなく晴れるようなので、後は明日頑張っていきましょう」

 何事もなかったようにきりっとした当子が生徒会室で挨拶をするのを笑顔で見つめた。

 何日後に別れるか、早ければ今日のうちだな。

「何ですか、にやにやにやにやと」

 眉を顰める当子が不審げに言う。

「今日も可愛いね」

「華ちゃんは私の補佐よろしく。まあ大きな問題がない限りはドッジコートにいますから何かあった場合は呼び出しでもかけてください」

 いつものように無視して話を続ける当子を、仕事ができる女が挫折したらどうなるのかなと想像しただけでもぞくぞくする。

 やっぱり女は無力で従順に限るだろう。





 電話を凝視して、しばらく動けなくなった。

 頭が、真っ白になったあと、真っ赤になる。






 門をくぐって、眉を顰めた。夏深の車が止まっている。

 小首を傾げて玄関に着くと、そこに座り込む人間に声をかけた。

「夏深?」

 車からして何かの用で夏深が来たのだろうと声をかけたが、息を飲んだ。

「な、つみ?」

 今までに見たことのない表情に、動揺する。

 月明かりの闇でもわかる程、顔に憎悪が表れていた。理由が解らずに動揺している内に夏深が立ち上がって、腕を取られて引き寄せられる。

「どこに行っていた」

 掠れた声に不安がよぎる。

「どこって、学校」

 腕を放された為、取り合えず中へ入ろうと鍵を開けた。

「えっ、ちょっ・・・何!?」

 ドアが開いたとたんに抱え上げられて抵抗しようと暴れようとした途端、冷たい声が降りかかる。

「黙れ」

 以前にも少し馬鹿な事をした時に言われた言葉が、冷たく切羽詰った声で言われる。悲しげな顔に見えて、混乱して動きを止めた。

「いきなりどうしたっての? ねえ、ちょっと・・・あたし靴・・・」

 一番近い部屋に置かれると、夏深が上を服をおもむろに脱ぎだして一層不安をかきたてられる。

「マジどうしたの。ねえ、夏深っ」

 起こした半身を畳みに押し付けられて、恐怖心が沸いた。

「許さない。言い訳も聞きたくない」

 無理やり荒い口付けをされ嫌な事を思い出した。

 夏深の兄弟がイッてしまったのは見たことがあったが、キレた夏深を見たのは初めてだった。

「何・・・怒ってるの? っ!」

 冷たい手に触れられて息を詰める。

 この状況への恐怖よりも、夏深の目が怖い。このまま抵抗すれば又止めてくれるかもしれない。でも、それをしてしまったら、夏深が離れてしまいそうで、怖くて動けなくなった。

 ただ、いつもは止められる涙が、止めようとしても止まなかった。