九



  夏深はこれで多忙だ。当子を家に送ってから、会社に行って会議に出て仕事を済まして家に帰った。アメリカで大学在学中にアメリカ支部に置いて社長代行の仕 事をさせられていた時に比べれば、勝手もわかっている分楽ではあるが、疲れるのに違いはない。その上性質の悪い禁欲生活まで強いられそうだった。

 ドツボにはまった感が生々しくなったのはグラマラスな秘書を見ても当子のあの生意気で可愛い様が離れなかった時だ。

 これでキスもできないどころか頭を撫でる事も許されないのだ。まだまだ勢力のある男として、拷問に近い。

「・・・・」

 部屋の鍵が開いている事に気付き、顔を顰めた。

 自室には会社の丸秘資料をいくつも持っ帰っている。例え家の使用人だろうと入られては困るのだ。鍵をかけ忘れるなどあり得ない。

 神経が逆立つのを感じながら、部屋へと入る。電気をつけて見回すと、荒らされた様子はない。

「何なんだ?」

 ボケたかなと思ったが、寝室へのドアが細く開いている。ゆっくりと戸を押すと、誰かがいた。

 電気を点けて確認すると、もう一度呟いた。

「何なんだ?」

 どうして自分の部屋で当子が寝ているのか解らずにぼやいた。



「・・・?」

 トロンとした寝ぼけ眼の当子が寝室のドアの前に立っているのに気付いて、夏深は苦笑った。

「お前がここにいる理由を聞きたいんだが?」

 寝ている当子をそのままに、夏深は持ち帰った仕事をしていた。あまりにも無防備な寝顔にやましい心を擽られつつも、仕事に集中するのは中々至難の業だったが、一度集中できればその後は問題はなかった。今の当子を見るまでは、

「ふぁっ・・・」

 夏深の話を無視して、大きく欠伸を掻いた。当子の姿はワンピースのままで、買ったばかりのそれはくしゃくしゃになっていた。頭も鳥が巣でも作ったようだ。

「当子?」

 眠い顔で寄ってくる当子に声をかけるが、反応はなかった。

「当・・・」

 椅子に座る夏深に、当子が圧し掛かって来て。言葉を呑んだ。

「おい、寝ぼけてるのか?」

「うんっ」

 子供のような返事の仕方に、夏深は溜息を付いた。可愛いと思うあたり、実はロリコン趣味があるのだろうかと考えてしまう。

「と・・・」

 名前を呼ぼうとした口が、当子に塞がれ唖然とした。何度もキスをしては離れる当子をくすぐったい気持ちで受け入れていた。

 15にしては幼過ぎる眠い目で、ゆっくりと舌を忍び込まされて、自然と脈が早くなる。

 当子の下手なディープキスをリードして侵略したい気持ちに駆られたが、罪悪感で全くの受身でただ甘んじる事にした。手を出さない約束をした以上、仕方がない。

 飽きたのか口を離して、そのまま首に手を回して抱きついてきた。

 育ちきらない胸が当たり、くしゃくしゃの髪が顔に当たってくすぐったい。

「嫌いじゃない」

 当子が寝言の様に呟くのを聞いて、顔が熱くなるのを感じて照れている事に気付き、余計に恥かしくなった。

「当子・・・」

 寝息のような音が聞こえ出して、まさに拷問だと、いっそ当子を引き剥がしたくなったが、できるはずはない。

 だが、いつまでもこんな状態でいられたら、欲求を抑えきる自信はない。抱き付かれているだけで体は欲情しだしているというのに、



「・・・・ゲ」

 モーニング・スイッチが入った頭は一気に覚醒し、男に抱きついたまま寝ていた自分に気付き、突き離れて抱きしめていたのが夏深だと気付いて自然と呻き声が漏れた。

「どうしてここにいるのかを説明してからそう言うあからさまな声を上げて欲しいが?」

 体の向きを机に直しながら夏深が呻く様に言った。

「・・・・・・・・あたし寝惚けてなかった?」

 真面目な顔で聞く当子に、夏深は溜息を付いた。

「寝惚けずにお前が俺に抱きついてくれると思う程、思い違いをするタイプじゃないさ。まさか寝惚けて鍵のかかった部屋に忍び込んだなんて言うんじゃないだろうな」

 しばらく考えてから、当子は肩を竦めて言った。

「計算をミスったの。冬祈さんに言い寄られてね。確かに兄弟そろって癇癪持ちみたいね、兄弟間のジェラシーにまき込まれそうだったから、とりあえず逃げたの。残念ながらここ以外にいい隠れ場が思いつかなくってね。この家の事さほど詳しくないし」

 夏深が明らかに不快そうに眉を顰めている。

「鍵は?閉まっていただろう」

「何でもできる人間ってのがこの世にはあるのよ。あんな鍵じゃあってもなくても一緒ね。もう少しセキュリティー面を考える必要があるんじゃない?」

 目を細めて観察されて、戸惑った。

  何かヤバイ事でもしたのだろうか?昔から、少し夢遊病がかった癖があるらしく、明日でいいやと置いといた宿題が次の日目が醒めたら完璧に仕上がっていた り、夜な夜なお菓子を作るだけ作って食べずに寝たりと、寝惚けたままアホな行動をとる節があった。夏深に何か馬鹿な事でもしたのだろうか?

「寝惚けて変なことしなかった・・・?」

 不安になって聞くと、夏深はふいと机に向き直って仕事を初め、何も言って来なかった。

 やっぱり、何かマズったのだ。

「部屋に戻り辛いなら今日はここに泊まって行け。どうせこっちは徹夜だ」

 ぶっきら棒に言われて、何をしたのか必死に思い出そうとしたが、抱きついていた時点で意味がわからないのに思い出せるわけもない。

「・・・・? 藤山って・・・取引でもするの」

「仕事の事には口を出さないでもらえるか」

 鋭い目で睨み上げられても、目に留まった机の書類から意識は殺がれなかった。

「あそこは止めたほうがいいわ。近い内に不当たりを起こすから、支障がでる」

 真っ直ぐに夏深の目を見ながら教えてやる。別に夏深個人に助け舟を出している訳ではない。四季の株が下がればカードの価値も下がる。

「どうしてそんな事がいえる? 確かに低迷気味だがまずまずの大手だ。バブルでもないのに暴落するとでも言いたいのか?」

 皮肉んで言われても、意地悪く笑う顔から目を逸らしはしなかった。

「そこまでにはならないけど、結構な損失が出ることになるわよ。宝石事業はあなたが任されていたのよね。あまり躍起になって手を出すよりも、今はまだ手堅くしておいたほうが身の為よ」

 訝しがられて見られて、肩を竦めた。

「ま だ婚約のカードの代価を払っていないでしょ。それに色々と進言をしていただいたでしょ。まあ聞かなかったけど・・・・ガキが何も分かっていないのに口を出 すなって顔ね。聞こうが無視しようが勝手よ。ただ、私は恩を仇で返さないし、下手な情報源で言ったわけではないから」

「考慮しよう」

 ふいに優しく笑まれて、心臓が痛くなった。

「部屋に戻る」

 これ以上ここにいる理由はない。何よりも、夏深の部屋に忍び込んで冬祈をかわした後、直ぐに部屋に戻るつもりだったのに、うっかり寝てしまっただけでアホなのに、部屋に戻りたくないなどクソである。

 第一、野郎のベッドが石鹸の匂いぽくて、変に清潔でふかふかで気持ちいいなんて可笑しいだろう。

「まだ帰らない方がいいぞ」

「?」

「あいつはストーカー型だからな」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 さらりと自分の弟の事をそんな風に言う夏深を、ホントっぽそうでヤバイと思う。

「特に、お兄様の女となればさぞ奪い甲斐がある事だろうな。まあ俺と付き合ってた女は大抵別れた後は冬祈に走ってたけどな」

「・・・・・・」

 まあ無愛想な男よりも優しいタイプの冬祈の方が付き合いやすいだろう。

「・・・ソファー借りる」

 いくら優しい男でもあんなコンプレックスを固めたのが元だと何をされるか分かったものではない。それに男に今言い寄られるのは抵抗がある。まあ集団でレイプされかけたのだから当たり前といえば当たり前だ。その分夏深は手出しできないのである意味で一番安全だ。

「ベッドを使え」

 夏深の言葉を無視して自室のソファーよりも広くて十分寝れそうなソファーに寝転がった。

 夏深が溜息を付くのが聞こえた。



 当子の安心しきった寝息を聞きながら、このままだと本当に徹夜させられそうだ。とても眠気が来ない。

 眠る当子に頭から足先まで隠すように布団をかけると、こんな子供がどこからあんな情報を得ているのだろうかと不思議になった。

 滝神にそれほどの情報源がある等聞いたことがない。むしろそんな物があれば、草に乗っ取られる前に当子なら何らかの策を立てただろう。

 趣味も好きなものも嫌いなものも、そう言えば誕生日も知らないなと苦笑った。興味を持ちながらもそんな話をできないなんて、高校時代よりも子供っぽくはないだろうか。

 当子の助言を裏打ちしてから判断て、微かにそんな影があれば取引は中止し、しばらくは事業拡大は先に延ばそう。

 流石に仕事まで言いなりになったらそのうち会社まで乗っ取られそうだ。

 それが草の企みだったら笑えないな。

 兎に角、冬祈を何とかしてやらないと、このまま当子をここに置いておけば歯止めが効かなくなって約束を破りかねない。何より絶対に約束を守ると思って安心しきっているのを裏切るのは男としてどうかと思う。



「夏深!」

 バンバンとドアを叩かれる音を聞いて目が覚めた。

 頭まで毛布がかかっていて、息苦しい。音も少し丸くなって聞こえる。

 鍵の開く音がした後、春夫の怒鳴り声が入ってきた。

「当子ちゃんに何をした!」

 目が覚めれば一気に頭が働く体質な為、今出るのは不味いのではと体を硬くした。

「いきなり何なんだ? 何をしたって・・・何を言いたいのかが全く分からん」

 憮然とした声で夏深が言うのを、春夫が遮るように言う。

「私の出張中に、お前が当子ちゃんを連れて帰ってきたらしいな。それも、まるで乱暴された様だったと聞いた。ばれていないつもりだったかもしれんがな、当子ちゃんは怯えていたそうじゃないか。言ったはずだぞ。泣かすような真似をしたら勘当すると!」

 まずったらしい。確かに、あそこだけ見れば夏深に無理やり襲われたと見えなくもない。ばれない様にボタンも自分で繕ったと言うのに、きっと使用人にでも見られていて、ちゃっかり春夫に告げ口されたのだ。

  ここまで可愛がられるのは嬉しいが、夏深を勘当されれば色々とこちらに支障が生じる。見計らって出て行き、誤解を解く必要がある。だが着衣の乱れをどう言 い訳する? まさか事実を言うわけにも行くまい。たまたま痴漢にでもあった事にするか?いや、見え見えだ。どう言い訳をする?

「・・・何か誤解があるみたいだ。その事については否定させてもらうが、婚約し結婚する以上、性交は行なう事になる。それでも勘当するって言うなら、初めから養女にでもするなりあんたが再婚するなりすれば良かったんじゃないか?」

 実の親で上司的な相手でもある男に嫌味を言う所は、あまり出世向きじゃない。

「同意の上と無理やりでは話が違うだろうが、相手はまだ15だ。分かっているのか?」

 父親らしいライオンのような声に、びくりとしそうになる。今下手に出て、なぜここにいると聞かれたらどうする?

「残念ながらまだ手を出してはいない。俺だって無理やり女を抱くような趣味はない。大体、良家の娘でもない当子にそこまで気を使う理由は何だ?利己主義のあんたらしくない」

 怯むどころか喰らいついて行く夏深の声がする。二人が一体どんな形相で怒鳴りあっているのかは興味はあったが、見る勇気はどうにもわかなかった。

「桜さんの娘だと言うだけで十分だ。なぜ冬祈でなくお前のように素行の悪い男をわざわざ婚約者にしてくれと言ったのか理解に苦しむ。もういい、彼女に直接話を聞く、場合によっては本当に勘当だ。当子さんにも冬祈と婚約してもらう事にする!」

「勝手にしろよ」

 吐く様に言ってから、苦く付け加える。

「当子が冬祈の事が好きだというなら冬祈を跡取りにすればいい、あいつが欲しいのは俺じゃなく四季の跡取り息子だ」

 確かに、ある意味ではそうだ。それと頭山の旧友である事も理由だが、比では夏深の言った方が大きい。冬祈と夏深とでは後々の権力が変わる。そう、婚約者が夏深と言う一個人でなければならない理由などない。理由など無かった。・・・

「ああ、それはいい提案だなっ。お前ほどの才覚を持った息子を下っ端にするのは心が痛んで仕方がない!だが自分の行動には責任を持てん様な男に代がわりをさせるわけにはいかんからな!」

 語尾の強い怒鳴り声が耳についた。春夫が部屋を出て、バンとドアを乱暴に閉める音を聞いて、顔を出した。

「・・・よかったな。俺みたいな男と夫婦にならずにすんでっ!」

 獰猛な目で吼えられて、泣きそうになる。これは恐怖ではない。

「・・・・・・・そっちこそ、父親の命令で子供の相手をしていたくせによく言う」

 声を震えを殺しきれないのは、凄く久しぶりだ。大抵は平静を装えるのに。

 夏深の顔が歪んで、大股で近づいてくると、胸座を掴まれて鼻先が触れそうな位置で怒鳴りつけられる。

「あ あ、初めはそうだったさ! とんだ狐だ。まさかお前みたいなガキに本気になるなんて思ってなかった。馬鹿みたいに意地の強いわがままで可愛げもない女の為 に必死で仕事を成功させてきた男がその地位をいらないと言うのがどう言う事がどんな事かなんて分かりはしないだろうな。・・・それともここまでお前が計算 したことか?」

「ちがっ・・・・ん」

 大の大人が泣き出しそうな声で叫ぶのを呆然と聞いて、いざそれを否定しようとすれば全て乱暴に相手の唇に吸い取られてしまう。

 むしろ頭山の策なんじゃないかと思ったが、今はそんな事を気にしている暇はなかった。

 力が入らなくなってしまわぬ前に、当子は夏深は引き剥がした。

「今はこんな所でいちゃついてる暇はないのよ。解ってんの!? 悪いけど今更婚約者を換える気はないっ!」

 確かに、わがままで可愛げがない。それでも、意地は強いのだ。

 夏深を押し退けて部屋を出る。どちらにせよこのまま行けば春夫は空の当子の部屋を見ることになる。

 何とか言い包めなければならない。当子びいきと言えども、ああも気が立っていてまともに取り合うかどうかは解らないが、兎に角、何とか言い包めなければならない。

 意地でも言い包めよう。

「・・・・つっ」

 いきなりの事で何があったかわからなくなる。

「捕まえたよ。当子ちゃん」

 時はもう深夜、薄暗い証明の廊下で冬祈の声が耳元で囁かれた。

 眠気と言うにはあまりにも強い睡魔が全身の倦怠感と共に襲ってくる。






   十



 黒く長い髪に東洋と言うよりは日本らしい美人が、赤いスポーツカーから四季家をのぞいていた。

  本当は夕方頃にはここに着く予定だったのだが、飛行機の関係でこんな夜の夜中に着いてしまった。当子に電話をして出てこさそうかと思ったが、寝起きの当子 は面白過ぎるか起こされて不機嫌になるかだ。唯でさえ怒られているのに不機嫌にさせては困ると出直そうとしたのだが、屋敷の電気が急に点き出した為サイド ブレーキに手をかけたまま止まった。にやりと笑うと、ハンドルに凭れかり慌しくなりだした四季家を見上げた。

「なぁ〜にかあったのかな?」

 面白そうに呟いた。



「・・・どう言う事だ」

 春夫が戻ってきて、渋面顔で当子がいないと言った。

「聞きたいのはこっちだ」

 当子は、春夫を追って行ったと思っていた。逃げたのだろうか? いや、当子が逃げる等ありえない。

 又道に迷ったのか? いや、流石にもうある程度の方向はわかっているだろう。何より自室への道がわからなければしょっちゅう迷子になっているはずだ。

「待て、夏深!どこへ行く」

 春夫の声を無視して、目を凝らして当子を探した。

 嫌な予感がすると言うのも嫌なものだ。

「当子!」

 声を上げて名前を呼んでも、何の返事もない。

「くっそ」



 薄暗かった廊下には電気が点けられ、屋敷が俄に騒がしくなった。

 その内、冬祈の部屋にも誰かが来るだろう。

「・・・おやすみ」

 眠る当子の頬にキスを落とすとしばらくの別れを告げた。

 自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、案の定夏深が自分の部屋を激しくノックしている姿が見えた。

「どうしたの? 兄さん」

 何食わぬ顔で聞くと、動揺を隠し切れない夏深が振り向いてきた。

「どこに行っていた?」

 不躾な質問に肩を竦めた。

「トイレ。それよりこんな時間に何の用?」

 聞き返すと、一瞬戸惑った後口を開けた。

「当子がいなくなった」

「当子ちゃんが? 本当に?」

 冬祈が不安そうな声で返すと、夏深が心配しきった声を出す。愉快でしかたない。

「ああ、悪いが捜すのを手伝ってくれ」

「もちろん」



「夜分にすみません。滝神当子がこちらにいると思うんですけど」

『申し訳ありません。少々立て込んでおりまして、後日にして頂けませんでしょうか』

 ふーんと思いながら、

「当子の母の桜です。春夫さんがいましたら伝えてください」

 しばらくすると、門が開いた。車で玄関までつけると、両開きの大きな扉から春夫直々に出迎えられる。

 何年も会っていなかったが、随分と歳をとった様だ。まあ自分が歳の割りに若すぎるのだが、

「桜ちゃん。一報をしておいてくれれば良かったのに」

 最近は当子の件で何度か電話を入れた為、声にはさほど歳をとった感はなかった。それでもいきなりの桜の登場に動揺しているようだ。

「明日にでも来るつもりだったのだけど、前を通ったら灯りが点き出して、何かあったのかと思って寄らせてもらったの。・・・何かあったの?」

 渋面を作ってから、春夫が隠さずに言った。

「当子ちゃんが部屋にいないんだ」

「当子が?」

 あの馬鹿娘は人の家でまた何をやらかしてるのか、逃避行でもしたのか、夜遊びにでも行ったのかは知らないが、何をしているのか。




「当・・・子?」

 近付いてくる父親の横で歩いている人間は、当子と雰囲気が似ていた。ただ、服も身長も髪の長さも違う。

「夏深。こちら当子ちゃんのお母さんの桜さんだ。桜さんは一度お会いしてましたな」

「ええ、でもまだ覚えていてくれているかは不安ですけど。・・・・当子がいなくなったと伺いましたわ。私も捜します。後はどこを捜せばよろしいかしら?」

 大人になった当子が喋るのをどこか遠くに聞いた。

「・・・・外だっ!」

 捜していない場所と聞かれて嫌な考えが浮かんだ。

 もし当子がどこかに逃げたならば違う。だが、もし、冬祈が絡んでいたら?

 秋江の時といい、兄弟の不始末が当子に向かうというのは、嫌と言うよりは至極馬鹿らしく悲観的だ。

 懐かしき副会長殿が昔言った言葉を思い出す。自分の兄弟の性格くらい把握しておけよと、馬鹿にした声で言われた理由を思い出すよりも早く、向きを変えて走り出していた。

 後ろから何事か言われたが、解らなかった。秋江ですらあんな馬鹿な事をしたのだ、冬祈が当て付けで連れ去るくらいしても可笑しくない。

「嫌な考えだな。全く」



 何か思い立ったように背を向けてかけて行く夏深を桜は面白そうに見送った。

「もう申し開きもできない。大切な娘さんを行方不明にして、夏深は夏深で礼儀を知らない態度で・・・当子ちゃんが見つかったら、婚約者はやはり冬祈にしようと思っているんだ」

 春夫の声は桜へ嘘が全く通じないのを知っているが為に正直で、心底申し訳なさげだった。

「あら、あんなに一生懸命当子を捜しているのに、夏深君ではいけないの?」

 昔と変わらぬ愛らしい微笑みで聞き返してくる桜に言葉を詰まらせた。

「・・・確かに、夏深らしくないくらい一生懸命だが、当子ちゃんが嫌なら直ぐにでも代えさせるよ」

 まさか唯でさえこんな状況に桜がきただけでも申し訳ないのに、お預かりしている娘さんに息子が何かしたかもしれないなどとは流石に言えなかった。

「とりあえず当子を見つけないと駄目ね。夏深君が心当たりがあるような感じだったし、追ってみましょ」

 娘の行方不明と言う事実にも全く動じず、それどころかどこか面白いものを見るように桜は言った。



 冬祈の温室の中でもひときは力を入れている薔薇園で、夏深は悪態をついた。

「早かったね。・・・僕を疑ったからこそ、ここに来たのかな?」

 自分と歳の近い弟がいつもの落ち着いた柔和な声で問いかけてきた。それに、無性にむかっ腹が立つ。

「ここに当子がいると言う事か?」

 怒鳴りたい声を必死に殺して聞くと、冬祈は肩を竦めた。

「さあ、どうかな」

「何が目的だ。こんな事をすればどうなるかくらい解れ! ・・・今ならまだ親父を言い包められる。当子はここにいるのか?」

 もう一度辛抱強く聞くが、冬祈はそれを無視した。

「兄さんは何でも盗って行くよね。そして何でもできて、いつでも褒められてる。今までずっと羨ましかったけど、でも、兄さんに勝つ早い方法が見つかったよ」

 温室の薄暗いライトと、半透明のフィルムを透ってくる月明かりが薔薇を照らし、幻想的だったが、今はその神秘ささえ不気味に感じる。

 一拍おいてからの冬祈の声が気持ち悪いほど耳につく。

「当子ちゃんを僕のものにすればいい。だって、何でも持っているくせに当子ちゃんまであげる必要はないからね。それに、兄さんが持ってるもので一番兄さんにとって価値がありそうだ。それを僕が貰えば、兄さんが持ってるものより上って事だろ」

 嫌な弟だ。確かに思い込みが激しくて被害妄想的だとは思っていた。それでも万人に優しく、夏深にはないものがあると認めてもいた。例え仕事が下手でも社交では冬祈の方が愛想がよく人当たりもいい為夏深より好印象を与えていた。それが甘い評価になったのだろうか?

「そんな馬鹿げた理由が通じると思っているのか? いい歳をしてふざけた事をするな。当子はどこだ」

 詰問しても、冬祈は全く動じなかった。

「聞いてどうするの? 当子ちゃんが僕を求めたんだよ。父さんを納得させるまで隠れているだけだから、そんなに心配しなくても」

 冬祈が人を馬鹿にした笑いを漏らす。夏深の顔が強張ったのは、薄明かりの中でも解ったからだ。

「ならば当子に説得させればいいだろう。親父にはあいつの声が鶴の一声になる様だからな。お前が説得するよりもよっぽど確かだと思うが? それともできないのか」

「当子ちゃんは夏深が怖いんだって、だから今は出てこれないんだよ」

 明らかに冬祈の言葉は矛盾している。当子が俺を怖がるだと?有り得るはずがない。そう思いながらも、動揺している自分が馬鹿らしかった。兎に角居場所を聞き出すことが先決だ。本人に聞けばいい事だ。

 でも、もし当子が冬祈の事を好きだと言ったら?



 自分の娘が夏深を怖がる?思わず噴出しそうになった。

 温室のドアから漏れてくる言葉に耳を傾けながら、色々と頭を回す。案外もう当子は冷たくなっていたりしてねと冷ややかな考えを浮かべる。

「全く、あいつらは何をしているんだ」

 横で少し息を切らした春夫が囁くのが聞こえた。

 まあここは、優しいお母様が一肌脱ぎましょう。当子の足を発見した桜が微笑んだ。

 温室の薔薇と薔薇の間の通路に転がっている当子の姿を認めて、胸を撫で下ろす。丁度動揺している夏深が、渋い声を出すのが聞こえた。

「だったら今すぐ親父に話をつけて来ればいいだろう。こんな所で油を売らずに」

 正論を並べる夏深に、加勢の声を上げながら温室に入ることにした。

「そうね。全くその通り」

 二人の許には行かず、寝転がっている当子の所へ向かった。

 脈と呼吸を確認して、ただ寝ているだけと確認する。久しぶりに見る馬鹿娘の顔は自分の若い頃と似ている。父親の面影はほとんどないのに、死んでしまった愛しい人を思い出した。

「春夫さん。今回の事は私に任せてください。いいですわよね」

「それは・・・」

 異議を申し立てようとするのを無視して、二人の若造へと歩いていった。

「夏深君は当子を部屋に運んでください。起きて動揺するといけないので私が行くまで見ておいてくださるとうれしいわ。・・・さて、困った坊やには」

「ちょとま・・・・っ」

 言い訳をしようとした冬祈の溝内に膝蹴りを入れ、苦痛に屈み込むと同時にその首に手刀を叩き落すと相手は昏絶した。これで相手を一発で落とせるようになるには中々大変だった。首の太い大男なんかには流石に効かないが、やっぱりこれが決まるとかっこいいわと一人悦に入る。

「さて、春夫さんはこの子を連れて行ってください」

 四季家の弱点を突けば、春夫は忘れてくれるだろう。後は手刀同様の必殺技で冬祈にカタをつけ、当子を起こせばいいだろう。




 急な展開で訳が分からないまま言われた通りに当子をベッドに寝かせると、夏深は安堵で微笑んだ。

 規則正しい寝息を立てる当子のそばに顔を寄せたが、額に触れる前に身を引いた。

 当子の寝言を思い出して、苦笑う。あの時、当子は自分に対して言ったのではないかもしれないではないか、第一、嫌いじゃないからと言って好きだと言う訳ではない。いつまでもセクハラをしていたら嫌われかねない上、いくら寝ている相手にでも手を出すのは反則だ。

  どうせ本気になるなら政略結婚になって、しとやかで素直で、何にでもイエスと言う女にすればよかった。無一文で目的の為になら手段を選ばず、意志が強くて 身勝手で、約束を破って嫌われるのが怖くて手を出せない女、それもずっと年下の子供。そんな相手にはまってしまうなんて予想外すぎる。



「あら、寝ちゃったの?」

 問題を解決してから当子の部屋を聞いてやってきたが、夏深はベッドに寄りかかって寝入ってしまっていた。

「可愛い寝顔だこと」

 夏深を跨いで当子の馬鹿面を眺めながら、思い立って手を伸ばした。

 鼻を摘まんで、父親似の薄い唇に長い指に手入れのいった肌理の細かい手を乗せ空気の行き場を絶った。

 少し待つとぶはっと空気に溺れた魚が身を跳ねるように起き上がった。

「・・・・クソ婆っ!」

 目の前になぜかある愛母の顔に唾を飛ばして短く叫んだ。

「しばくぞクソ餓鬼」

 今までの桜の声とは全く違う般若のような声で呟かれて、流石の当子も身を固めた。

「しーっ★ 起こしちゃ可愛そうでしょ?」

 茶目っ気のある可愛い声で囁くと、口に当てた人差し指を夏深に向けた。

「とりあえず出ましょ」



「そ・・・そんな事が」

 当子は頭を抱えて唸った。

「さっき調べたけど体に害が出る様な薬じゃないから安心してええよ」

 タバコを吹かしながら桜が素の顔で言った。とても可憐な桜は連想できない。

「そんで、どうやっておじさんを丸め込んだわけ? それに冬祈の方もカタをつけたった、殺った訳じゃないよね」

 この女ならやりかねない。

「ああ、その前に答えなさい。あんたは夏深君の事、好きなの嫌いなの?」

 素で真面目顔をされてゾッとする。絶対にセレブより極妻の方が合っている。ドスを持たずにこの迫力をだされると、流石に当子ですら逆らう気が出てこない。

 これで可弱い女かと、毒づく。

「嫌いではない」

「そ れで答えてるつもり? あんたのそれって、好きの部類って事だってのは知ってるわ。でもライクとラブは違うって昔言った事なかったっけ? あたしはその どっちかって聞いてるの。言っとくけどな、わしは離婚許しても再婚に関しては許さんで、まだ婚約の段階といえども正式にする以上無闇に解消なんて許さな い。一生一人の男とは言わんわ、あたしは先に逝かれたからそう言うの解んないし、記憶の内で美化してるかもしれないけど、本気で好きになれたのはあの人だ けだから、でもね、自分の行動に責任持って決断できないようなあの人の娘はいらないから。それに、ラブに発展しない『嫌いじゃない』なら今言いなさい。あ んたの計画に四季家が関わらなくてもやっていける様にしてあげるから」

 この女なら、本当に手を回してくれる。やれないこと等ない女だ。

 ラブかライクか・・・

「わかんない事を、言えない」

 真っ直ぐに睨むように親子で目を見合う。これは昔からの根競べだ。

「どうして自分の事をわかんないの?」

 嘲笑うような女の目が、無性に嫌いだった。滅多に帰ってこない、国内どころかほとんど外国にいて相談もできない親、お陰で全部自分の事は自分で決めてきた。身勝手な母親の子供を馬鹿にした目。

「・・・後の事なんてならないとわからない。絶対なんていわない。でも、このままの計画で、わたしは後悔はしないし、とんだ選択であっても責任は取るわ」

 にこりと微笑むと、母親でなく、桜としての優しい声で言う。

「ならはっきり言いなさい。好きだって」

 踊らされている気はする。踊らされているのは解っているが、嘘を言うわけではない。

「好きよ。少なくとも、約束を守るし、無理強いもされないし、勝手で今一考えわかんないけど、惹かれてないとは言わない」

 これが天使の微笑みと言われるんだから同じ女としてムカつく。その笑みを浮かべて、クスクスと囁かれる。

「それで、どこまでやったの?少なくともAはしてるわよね。当子は可愛いし、そこまで欲なしの歳でもないし」

 顔を赤くしないようにしようとしたが、少なくとも頬は染まっている事だろう。唐突に女子どうしの様な話題をされて、動揺した。

「うっさい。そう言う仲良し親子みたいなネタを洗いざらい話さなきゃなんないわけ?死んだって嫌!」

 くすくす笑いのまま言われる。

「やだ、照れてる可愛っ♪ それで、まさかもう全部済?」

「だあっ!してない! それどころか賭けで勝ったから向こうからは手出しもできなくなってる!そうやって勘繰られるのは嫌いなの!気がすんだ!? それでどうやって丸め込んだの」

 話を逸らすのを承諾した桜が、ほほほと笑った。

「いじめちゃったお詫びに面白いこと教えてあげる。四季家の血と言っても過言じゃないから多分夏深君にも言えるわよ」

 もう一度堪えきれない笑いをもらしてから、

「あ の顔で一家そろって下戸なのよ、それも超付きの。春夫さんは特に酷いから1杯飲ませたらばたんキュー、その耳元でらしいデマをお話すればいいの。拉致犯の 子には催眠術で当子の事は可愛い妹みたいなものとすり込んであげたから安心していいわよ。かかりやすい子だったからまず問題ないわ」

「下戸って言う所より、催眠術なんてできたの?」

「絶世の美女はそれくらいできないと身を守れないのよ」

 心底困ったように言うと、ほほほと笑った。

「今回の問題はママが解決してあげたから、また明日来た時にいじめないでね」

 何で桜が帰国したのかと思い出してハッとした。

「・・・いい報告と思っていいのよね」

 ごくりと唾を飲んで聞くと、桜がにやりと笑った。

「首尾は上々よ安心して、それじゃあママはもう戻るわ。色々と用事があるの」

 当子のホッペにキスをした後出て行く桜の背を見送った。すっと背が伸びだ姿は百合に喩えられるのがわかる。ドアを閉める前に、振り返って桜が心底面白そうに笑って、それを隠し切らない笑いを含んだ声で囁いた。

「途中から夏深君起きてたわよ」

 バタンと閉まるドアに凍る。

 どこから聞かれていた?

 あの女狐め、通りで途中から関西弁でなくなったわけだ。

「・・・・・」

 向こうから声でもかかるかと思ったが、反応はなかった。嫌な事を先に済ましてしまいたいのと、夏深の反応が気になって、ゆっくりと半開きの寝室のドアを押した。

「・・・・どこから、聞いてたの」

 さっきよりも顔が熱い。暗がりでなかったら、赤くなっているのがよくわかった事だろう。

 一瞬いないかと思ったが、ドアのすぐ横の壁に座り込んでいた。顔を伏せている為に表情がよく見えないのが余計気になった。

「・・・夏深?」

 無反応だった夏深が顔を上げた時、ぞくりとした。それは恐怖心からきたものではない。

 ドアから入る隣の部屋の光に、夏深の顔が照らされる。

 とても10近くも年上には見えない笑顔に、母性本能系の心を擽られる。

「何が可笑しいわけ?」

 わざと見なかったことにして、不貞腐れて聞くとあまりにも可愛い答えが返ってきた。

「嬉しいからだ」

 夏深が立ち上がると、全く形勢逆転だ。見下ろす形から見上げる事になる。

「それで・・・・一様聞いておいていいかしら、好きじゃないか」

 わざと皮肉んだ声と表情を作っても、無効化だった。

 約束通りに手を出さないまま、可愛い笑みを浮かべられる。

「好きだ」

 息が、詰まる。

「好きだ」

 もう一度言われて、何かいをうと口を開けたが、言葉が見当たらない。

「当子、好きだ」

「う、うるさい。解ったからっ」

 ある意味、これも手を出すに入るのではないかと思う。心臓が痛いほどに早くなる。

「婚約のカードの支払いは、賭けの無効よ。それでフィフティ・フィフティよ」

 動揺しすぎて、きっと口走ったのだと口を慌てて閉じた。

 だが、もう遅い。

 そっと、夏深の手が顔に触れる。

 あまりにもカードの価値が違うのに、夏深はそんな取引を飲んだ事に対して唇をきつく結んだ。会社の社長になれば、誰を婚約するかだけでも大きな損得がある。あまりにも強いカードと、こんな馬鹿みたいなカードとを交換して、どうするつもりだというのか、

「それだと俺が得をしすぎだ。嫌がれば、俺はそこまでで止める努力はすると付け加えよう。ただ、保障はできないが」

 そんな事を言って口付けをされては、逃げ場がないではないか、






   十一



「当子さ、婚約したんだって?」

「うん」

 生徒会室に鍵をかけている当子が、左九の問いに即答した。

「あー、そういや華ちゃんちって華道の旧家だっけ? それでか」

 先日、四季夏深と滝神当子の婚約が正式になった。四季の株が一時下がったらしいが事が大きくはなりそうもない。その代わり滝神の株は上昇気流に乗った。

 ひとりで納得した当子の横を歩きながら、左九は胸中であーあとどこか投げやりな溜息を付いた。

「当子の貰い手がつくとは意外だったなぁ。まあ捨てられたら俺んとここいよ」

「あたしみたいな可愛い子を捨てる男がいればね」

 さらりと流されて、少しは照れて欲しいなと思いつつも、どこか満足げな顔と言うかこれからを楽しみにしている節が見えるからまだ奪う事はできないなと計算する。まあチャンスができたら遠慮なく頂こう。

「そういや、燐火先輩がどうしても生徒会入りたかった理由っぽいの見付けた」

「え? やっぱ裏があったの」

 当子が以前、燐火の真意が今一掴めんとぼやいていた事があった。ただの秋江嫌いだけが理由なのかと疑問を呈していた。

 左九は頷くと、

「ついでに名前で呼んでってのも。燐火先輩の家って離婚してて燐火先輩は母方の姓に変わってる。だから苗字で呼ばれたがらないんじゃない? それに、父方にお姉さんが引き取られてて、その人が昔生徒会長してたんだってここで」

 今までの記録に新田の苗字は見たことがなかったが、何年か前にも生徒会長が女性だったことがあった。多分それだろう。

「それで、やりたかったのかぁ」

「そのお姉さんはただいま失踪中。もっぱら死んだとうわさされてる」

「・・・」

 意外だったのか、当子は口をつぐんで左九の顔をまじまじと見た。からかってでもいると思ったのだろうか。

「本当だよ。滝神さん」

 丁度靴箱で靴を履き替えていたらしい西澤がタイミングよく口を出した。

「そんな面白い過去話があるようには見えないけど、それが調べたとおりだよ。そんな訳で借りもあるから僕も生徒会に入ったんだ。ささやかな恩返しにね」

 眼鏡越しに棘のある視線を左九に移しながら、

「人の事を詮索するのは止めることだ。あまりいい趣味とは言えないな」

「ごちゅーこくどーも」

 わざとやる気なく返す左九を無視して、当子に向き直る。

「先輩は前期しか時間がない。特に文化祭には力を入れたがるだろう。暴君でもなんでも構わないから、馬鹿騒ぎにしてくれるかい?」

 好きは好きでも西澤は燐火を恋愛的に見ていないと思っていたが、恋愛的好き意外でこんな事にまで付き合えるものかと、昔から好かない従兄を左九は客観的に見ていた。

「もちろんやるからにはとっておきにしますよ。扱き使われたからって、辞めないでくださいね」

「ああ」

 小さく笑うと、立ち去った西澤の背を冷ややかに眺める。血がなければ嫌いな男ではなかっただろうが、それはあくまで仮定だ。嫌いなものは仕方ない。

「あーあ。そういや文化祭があるのよね。二学期の初めに、おまけにそれが終わったら体育祭。当分しんどいねぇ」

「まぁな」

 靴を履き替えながらぼやく。ふと、来客用駐車場に高そうな車が止まっているのが見えた。

「あれって、当子のお迎えじゃね?」

 嫌な考えはよく当たるらしく、当子がわざとげっと嫌そうな顔をした。ただ、顔がほころんでいるのは隠せていない。

「俺チャリだから。じゃーな」

「あー、うん。バイバイ」

  上の空の返事をする当子に背を向けて、自転車置き場に向かう。やっぱ道場に迎えに来たのが四季夏深だろうかと思いつつ、運転席の男をわざわざ見る気はしな かった。あの外見であの財閥の長男では、華道の家元の末子など歯も立たない。おまけに長男ではあっても上に女3人もいて、確実に長女が家も継がれていくの だから、家元の力も半減だ。

 ただ、人生どう転ぶかわからない。運があればゲットしたいものだ。当子を、



「直々に迎えにこなくってもよかったんやけどね」

 眼鏡を外しながら当子が苦笑いながら言った。

「それともよっぽど暇だったのかしら?」

「お陰で仕事を一つ潰してきた」

 憎まれ口に返しただけのつもりで軽く言ったのだが、当子はムッとしたように表情を強張らせた。

「・・・そこまで入れ込まないで貰いたいわね。私の所為で会社倒産になんてなられたら笑えないのよ。別に構われないからって拗ねたりしないし」

 これがいつまで普通の女のごうつくさを身に着けないでいてくれるのかが見ものだ。子供ゆえの無垢さなだけか、本質なのかは最早当子に対しては盲目のただの男にさせられている夏深には計りかねた。

「そっちは平気でもこっちはあまり構われなさ過ぎると拗ねるかもしれないぞ」

「勝手に腐ってろ阿呆」

 ぷいっと言う当子に笑いを漏らす。

「馬鹿にせんでもらえる? て言うか、そうやって女誑かしてきたってわけだ」

「こんなセリフで誑かされてもらえるなら楽でいいんだがな。ところで、滝神本社に送ってくれと言っていたが、理由を教えてもらってもいいかな? まさか、殴り込みじゃないだろうな」

 茶化して言われて、当子はにやりとした。

 当子が学校が終わった後、本社に行く用事があるので送って欲しいと言われた。当子は適当に車を回してくれればいいと言っていたのだが、理由が気になった事もあってきたのだ。理由を聞いても笑って誤魔化されていた。

「おじ様には話を通してるし、まあ夏深に黙ってたのは頭山には内緒にしときたかっただけだからいいかな」

 焦らしてから、にっこり笑顔で言った。

「社長の上になりに行くのよ」




 アポなしできたわりに、ここ数日の内で唯一といっていい空き時間に当子はやってきた。やはり狙ったのだろう。

 少しデザインが変わってはいるが懐かしい制服に身を包んだ当子が、社交的で悠然とした態度で部屋に入ってきた。

「お久しぶりですね。頭山さん・・・ああ、草さんと呼んだ方がよろしいかしらね。頭山さん」

 以前までのおおっぴらで嫌味っぽく、元気な当子はいなかった。いつも当子が外向きに使っていた笑顔の仮面をしたままだ。

「お嬢様、もお元気そうですね。呼び方はお好きなようで構いませんよ。それで、わざわざ見たくもない顔を見にきたご用件は何ですか?」

 ゆったりした心地よい椅子から立ち上がると、懐かしい悪友にちらりと視線を走らせた。

「ああ、ご婚約おめでとうございます」

 思い出したように言う草に、当子はにっこり微笑んだ。

「どうも、冬祈さんよりも夏深さんの方が後ろ盾としては力強いから予定よりもラッキーといった所ですかしら」

 確かに、そう思っていた。それに、どうせやるなら冬祈より夏深にやった方が安心だ。憎き源氏の孫に近づきすぎて情が移ったのは、ミスだったかもしれない。

「話がずれましたわね。わざわざきたのは婚約の知らせではありませんわ、もちろん。今日こさせて頂いたのは、会長になりたくって」

「生徒会長にでもなりたいんで?」

 当子が目を細めて笑うのを背筋が凍る思いで見た。

「生徒会長にはもうなっていますのよ? でも、本当になりたいのはここの会長ですの」

「残念ながら、前社長のお孫さんでも、そんな重要なポストをお渡しする訳には行かないんですよ? 子供の遊びとは違う事は理解してくださるでしょう」

 正論を笑顔で当子が消し去った。

「あら、知りませんでしたの?私先日こちらの大株主になっているんですのよ」

「まさか」

 自然とついた言葉に、当子が嘲笑う。

「調べてくださいなそれくらい。まあ、色々とご多忙なお仕事の合間にそこまで気は回りませんわよね? ああ、それと無下なご返答がある場合、夏深さんとのご婚約は破棄させてもらいますから。さすがに手痛いかしらね?そうなると」

 してやられた。

「それで、婚約者を夏深にしたわけか」

 呆然と呟くと、勝ち誇った声が返ってきた。

「一度釣った魚は、逃げられるとショックが大きいわよ。釣ってない魚よりね」

「四季の傘下にでも入れる気ですか。そんな膨大な資金を出して買うほどの会社ではないと思いますが?」

 小さく笑いを漏らすと、当子が言った。

「一 つ大きなミスがありましたわね。爺の資産意外に私に個人資産がないとでもお思いだったのかしら?家を素直に手放したから?素直に四季家のご厄介になったか ら?あなたの選択肢の中を泳いでいたから? 言ったでしょ、選択肢なんて山とあるって、自分の求める選択肢は自分で掘り出すわ。まあ、今回は私があなたに 選択を突きつけている訳ですけど」

 そう。滝神当子と言う人間の性格を甘く見ていた。目的の為になら泥まみれになってでも達成する意思と頭と行動をもつ、悪魔のような女。

「それで、会長になったあとはあなたの座るはずだった椅子に座る憎い男を叩き落としますか?」

 あまりにも意外な手で打撃を食らわされ、動揺していると自覚する。こちらもくだらない恨みで当子を潰そうとしたのだ、そうされて文句は言えない。

  幼い頃から大人の恨みを聞かされて育ち、根底に埋められた憎しみ。それがあっても、当子を完全に無力で雨風をしのぐ場所もない生活にまで追いやる事はでき なかった。それでも、祖父の死と同時に受け継ぐはずだったものを奪われて、政略結婚のように見知らぬ家に追いやった事実はある。手緩い処置であっても手厚 い処置とはとても言えない。

 しばらく思案顔をした後、以前の後部座席で見せていた世を小馬鹿にした笑いを浮かべた。

「・・・ それがね。最初叩き潰して社長になるつもりだったのよね。でも、まだあたし女子高生だし、まだ色々遊びも覚えたいのに社長なんてしてたら忙しすぎるで しょ? それに思ったよりも頭山は頑張ってるし、まあしばらくはこのままでやらせたほうがあたしやるより伸びると思うのよ。てか、嫌いだけど憎くはないの よ。前の運転手さんはね」

 草の動揺した反応に満足したのか、当子はいつもの調子で続けた。

「て、訳だから。まあ負けっぱなしって好きじゃないから会長にはなるわよ。あんまりアホな事できないようにはしときたいし・・・・?何」

 くっくっと口に手をやって笑い出した草に、ショックで壊れたのかと眉を寄せる当子に、笑いを漏らしながら言った。

「夏にはもうその性格を出してるんですね」

「へ?」

 行き成りの話題に、当子は少し間の抜けた事を言った。

「どうだ、惚れないではいられなくなったろ?」

 笑いを含んだ声で問いかけると、今まで当子から少し離れた位置で無感情に佇んでいた夏深が肩を竦めた。

「ああ、癪だがな」

「今度の会議でお嬢様の申し出は受ける事になるだろう。まさかこんな正攻法で真正面から来られるとは思わなかったよ。完敗だ」

 お手上げと手を上げると言った。

「偉くアッサリしてるわね」

 つんと顎を上げて威嚇する当子に、草はあっさりと返した。

「四季が得たかった特権を、あなたを会長にする事でこちらにも得られる。それだけあれば子供を会長にするマイナスがあっても受けて損はない」

 夏深がそれを聞いて眉を顰めた。

「それは、どういう意味だ」

「その内知らされますよ。次期社長にはね」

 左九の真似をして、教師に発言許可でも得るように手を上げてから当子が不快気に口を開いた。

「あたしには教えてくれないわけ? なんかあたしを買うともれなくおまけが付いてきます見たいでうざいんだけど」

「お嬢様には口止めされてましてね。うざいまんまでいてください」

 むうっとして、手近の椅子にどっかと座ってから拗ねた口調で言った。

「なにそれ。仲間はずれ? マジうっとい」

「駄々をこねても無駄ですよ。どうしても知りたいなら桜さんに聞いて見ればいい」

 鼻で笑ってその提案を蹴散らすと、

「あの女狐が教えてくれるか・・・・ん?」

 自分で言って眉を顰めた。

 父親から遺伝子意外で受け継いだものは一つしかない。情報網と言うカード。四季の事はこれに頼んだ。最近はあらゆる企業の情報も不定期に送られてくる。その内容は半ば産業スパイの様でもある。そして、その情報網への接触は電話でしかない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰る」

 嫌な考えの回路が繋がって、当子は立ち上がった。

 嫌な回路が一度繋がると、それの裏づけがなされていく。否定的考えを消されていく。

「当子?」

 当子の無表情に強張った顔を見て、夏深が心配げな声をかけたがほとんど聞いてはいなかった。

「又後日、今度はアポを取ってから来させて頂きます。まあ悪いご返答にはならないようですけど。・・・お邪魔しましたわね」

 一礼してから足早に部屋を立ち去る当子に肩を竦めてから、夏深は草に目をやった。

「昔からお前の真意は読めないな」

 一言言い残して去って行く夏深がドアの向こうに消えてから、小さくほくそ笑んだ。

「全くだ」

 呟いてから、何事も無かったように仕事に戻る。

 胸中で、従兄妹でも結婚できるのだから、しようと思えばあの馬鹿娘と結婚できたなと考えていた自分を間抜けだと思う。




「御免、気を使わせて」

 しばらく黙っていた当子が、ぼそりとそう言った。

 何か考え込んでいる為、夏深はあえて何も聞かないまま車の運転に集中していた。

「構わないさ。それで、考えはまとまったか?」

「うん。とても阿呆な盲点に気付いたわ。まさかこんなオチだとは思わなかった」

「そう・・・か」

 何がとは聞かれないのは有難かった。とても言いたくはない。

  父親から受け継いだと思っていた情報網は、母親から知らされた。別段個人的に知りたかった物も無かった為、一方的に送られてくる書類をファルイにまとめ て、面白半分で始めた株に生かしたりした。情報が正確だった為に、今回の資金源にできるような一財産を儲ける事ができた。乗っ取られ、取り返せたのはこれ のお陰。四季 春夫も滝神 草も欲しがったのは『それを持つ当子』。

 当子は別に情報料を支払っていた訳ではない。桜は父親が先払いしたと言っていたが、その代金だけでこの情報網が成り立っているとは思えない。別の客があると考えるのは当然だ。そして、その客になる為に当子と係わると考えては変だろうか? 

 そして、ろくに家にいてくれなかった母親。






   エピローグ



「やっぱり来たか」

 墓石の前に座り込んでいた当子が、桜の姿を見て残念そうに呟いた。

「当たり前よ。命日だもの」

 どこから持ってきたのか、花のついた桜の枝を持ち、真っ黒なドレス姿の母親がしれっと言った。

「あなたが来るのは初めてじゃない? 顔も知らない人間の墓に行っても思い出がないから悲しくならないって」

「あたしは爺の墓参り。後、父親からの最初で最後のプレゼント何てよく言ったなと文句言いたかったのよ。ただ単にあんたがやってる産業スパイ情報をまわしてただけじゃない」

 黒い日傘を折りたたむと、ふーんとやる気ない声がかかった。

「ま、それほど馬鹿じゃなかったわけだ」

「それで、爺やおじ様もお客って訳?」

 当子の横を通って桜の木を墓石の前に置いた。

「客になれる資格はあたしにいい男と判定される事。それから、顔を合わさなと言う条件。だからあたしがそれと知ってるかは解らないけど、客になれるかの選定に係わってるくらいは知ってるんでしょ。でなきゃ夏深君との婚約は二つ返事ではできなかったでしょうし」

 手を合わせて目を瞑ってから、桜が静かな声で言った。

「知ってる?当子って名前はアタルさんが付けたのよ。あんまりにもそのままだから絶対違う名前にするつもりだったの。男の子なら当時で女の子なら当子ってセンスなさ過ぎるでしょ? でも当子が生まれる前に死んじゃったから他の名前にしそこねちゃったわ」

 この女がここまで優しい声で語るのは記憶の内では初めてかもしれない。

「昔から情報屋をしていて、あの人に近づいたのもスパイしにいったの。でも、まさかあんな普通の男に惚れちゃうなんて思わなかったわ」

 立ち上がると、すらりとして背の高い桜が、当子を見下ろして母親のように微笑んだ。

「あなたがあの人の子である以上、味方だし守っていくわ。だから、あの人からの贈り物に他ならないのよ。あなたの持ってる確かな情報源と言うカードは」

「いらないって言ったら」

 つっけんどに言うと、男には見せないにやりとした顔で桜は答えた。

「あれがなくしてやってけるほど強かないでしょ。やってける自身があるなら別だけど、あんな好カード捨てれるほど馬鹿じゃないでしょ」

「ごもっとも、まあ婆が死ぬまで・・・・いっ」

 拳固で殴られて、頭を抱える当子にはんと鼻で笑った。

「お母様が死んでも情報が切れないようにしておいたげるわよ。あんたと違ってぬからん女やで?」

「ゆ・・・指輪で殴るなよ。まじ痛い」

「若い娘に婆なんて言う口がいけないのよ」

 本当に若い娘ならそんな事でどつかないと言いたかったが、又殴られたくないので流石に言わなかった。

「あたしはこのまま趣味の仕事を続けるけど、あんたはどうするの?」

 父親の横の源氏の墓に軽く小突くようにパンチを入れると、

「好きなように動くわよ。とりあえずは高校で女帝して楽しむ予定。その合い間にもう一つの会長やって、とある情報を利用して小金稼いで、責任を背負った生活を送るの。それで滅多に合わない母親より長生きするの」

「それで夏深君といちゃいちゃするのかしら?」

 ほほほと笑いながら茶化す桜にしかめっ面をした後、眉を上げてふふんと言う。

「言わなかったっけ? 一人暮らしを始めたの。爺の家なら学校まで通学圏内だし、あそこの中庭は好きだから人手に渡すには惜しかったから」

  あそこの一本桜はさほど大きくないが見事なものだった。月夜には中庭のこじんまりした池に月と桜が映りこみ、小さい時その美しさに息をする事まで忘れた。 小さいときに母親に会いたいのに帰ってこないときは、こっそり源氏の家に入り込んで眺めていた事はなんとなく癪で言わない。

「あら、そっちの方が余計にいやらしいことしやすいじゃない。止める人がいないんだもの」

「う、うっさい! エロ婆女狐!!」

 顔を赤くして、大きな声で叫んでから殴られる前に逃げ去った当子を追いかけて愛の鉄槌を喰らわせようかと思ったが、あまりにも可愛く育った自分の娘を笑って見送るにとどめた。

「あなたとの子供があんまり可愛いから、そっちに行くのはもうしばらくおあづけね。アタルさん。せいぜい源氏さんの自慢話を聞いて、とっとと死んじゃった事を悔しがりなさい」

 墓石に投げキスをすると、ハンデをあげた当子を追って一発お見舞いする事にした。

 鬼のように足の速い桜に追いつかれるのは時間の問題だ。