六



 負けだ。

 急に気持ちが重くなり、両肩に岩でも乗せられたようだった。

「あーあ、最悪っ!まだ雨振ってるし」

 裕美は終礼が終わると共に言った。

 朝出かけしなは晴れていた空が、午後になった頃からバケツをひっくり返した様な土砂降りを降らす分厚い雲に覆われていた。

「傘持ってきてないのに、これじゃ帰れないし」

「ほんと。おまけに今日外連の日なのに、こんな土砂降りじゃあ練習なんてできないわよぉ」

 雨に向かって中指 をおったてる裕美に呆れたように小さく笑う。本当は面白くもなんともない。まるで自分の脳にも土砂降りの雨が降っているようだった。明日には3つの敗北が 決定する。リコールは恐らく不成立で現生徒会に負け、個人的に四季秋江にも負けた事になる。そして大元である夏深との賭けに負ける。

 自分の計算が甘かったのだ。仕方がない。甘んじて敗者の責務を果たそう。

 くっそ!くやし いったらありゃせん!! 次に生徒会長になれる機会があるなんて甘い事を考えちゃいないし、四季家での居心地が悪くなるのは目に見えている。何よりも約束 上夏深のいい玩具決定だ。その内憎まれ口を叩く気力さえなくなるわ。頭山を倒すのにはしばらく時間がかかる、それを諦めて女狐の所へ行けばそれらから逃げ ることができるが、女狐はさぞ楽しげに負け犬と罵り馬鹿にされる事だろうか。

 いっそ何者からも大切に守ってくれるナイトが現れてくれればどんなに嬉しいだろう。

「じゃあリコールがんばってね」

 生返事を返しながら裕美と別れると、重い足で美術室へと向かった。

 美術室の前で、拳を左の手に打ち付けて、気合を入れる。

 平静を装え。と、

「いらっしゃい当子ちゃん」

「どうでした?票集めは上手くいきましたか」

 少し困った顔で肩を竦めた。

「正直微妙。これだと1年生も投票権を持ってたほうが率としては高かったかも知れない。優しく見積もればこっちが有利なんだけど、手堅く考えるとどんでん返しがないとむりだと思うわ」

 下手な気休めできっと大丈夫よなどといわないところに好意はあったが、これで駄目だったら会うこともないだろう。

「当子、大丈夫か?」

 先に美術室にいた左九が覗き込んで聞いた。流石に古い馴染みだと動揺がばれる。

「・・・ヘーキ。それより御免ね華ちゃん。私の為に態々付き合ってくれたのに」

「別に俺の好きでやった事だし。剣道部にこの頭でってのも半分理由だし。まあ無理だったら一緒に剣道部荒らしてすっきりしよう」

 慰められる方が泣けてくる。涙腺をしっかり閉めてからいつもの笑みを浮かべた。

「まあ、最後は神頼みね。最悪でも4割弱は入ると踏んでるんだけど、後一割がどう動いてくれるかは計算つかないし」

 雨が地面に打ちつけ、植木の葉を重く濡らしている。いつもよりも肌寒く感じる空気は、じっとりと重かった。

「仕方ないですね」

 吹っ切れたように肩を竦める。後始末で四季家との繋がりを少しは修復しないといけない。こっちをすっぱり諦めて、事後処理に力を尽くし、なるたけ早くあちらの計画も進めよう。そうすれば四季家から出られる。

『1年A組滝神 当子さん、校内に残っていましたら至急事務室までお越しください』

 二度同じ事を繰り返して、放送が切れた。

「・・・すみませんちょっと行って来ます」

 何事だろうかと部屋を出て、1階の客用の出入口の横にある事務室に向かった。

「すみません、滝神ですけど。何か?」

 事務室を覗き込んで聞くと、事務員のガリガリに痩せた中年のおじさんが当子の後ろを指差した。

「すみません。呼び出したのは僕です」

 振り返ると、男子生徒が一人立っていた。いたって真面目そうな生徒。

「ちょっとお話があるんで、きてもらえますか?」

 薄っぺらな笑顔を浮かべて言われて、満面の笑みを返しそうだった。それを堪えて「はあ」と生返事をして、不審げについて行った。

 歩きながら、釘を刺す。これがホントのラストチャンスだ。ちゃんとしたカードを得るまでは大人しくしろ。

「あの、どこへ行くんですか?」

 自重して聞くと、少年が困ったように笑いながら、

「もうそこです」

 と前を指した。

 相手が前に向いてから指差していた方を見てにやりとした。

 生徒会室と描かれた札を見て、心でガッツポーズをした。直接生徒会室に呼べなかったのは、生徒会室にいる事を他の人間にばれない様にとの浅知恵だろう。

「どうぞ」

 中へ促されて従うと、やはり秋江がいた。ただし、とても生徒会のメンツとは思えないような数と顔ぶれと一緒に。

 んん、ちょっとこの数は予想外だ。だが、怯む訳には行かない。

「・・・何の用ですか秋江さん?」

 一つだけまるで校長が使うようなゆったりした革の椅子に、女王然と座っている秋江に、眉を顰めて聞いた。

 実際、ここでは秋江は女王様なのだ。だから学校内で仕掛けられると踏んでいた。

「冬兄に色目を使なと言ったでしょ? 今朝もかわい子ぶっちゃって」

 不快感を露にした後、にっこりと笑った。

「それに、何? あの女に付いてリコール側の会長があなたですって? 馬鹿にし過ぎるのもいい加減にしなさいよ」

 まあ事実なんだけど、ここではいごめんなさいと言うわけには行かない。

「そんな。馬鹿にするだなんて」

 驚愕の声を上げ、否定する。

「それに、私色目なんて使ってません。・・・・その方達は何なんですか?」

 あからさまな不安な目で、当子は当たりを見回した。

「悪いけど、あんたには家に居て欲しくないの。だから出て行きやすい様にしてあげるわ」

 夏深の忠告が頭に浮かぶ、確かに癇癪持ちの切れるとやばい女だ。だが、ほぼ当子の要望通りだ。

 秋江が何らかの手で当子に危害を加えさせる。そして、それをカードに脅して秋江が選挙を下りさせ、自動的にリコール側が生徒会の座に着くと言う考えだった。

 家や他の場所よりも一番権力の強い学校内で何らかの行動を取るだろうとは予想していた。無論、その行動には暴行も入っていたが、まさか婦女暴行、それもこの数で来られるとは少し甘く見すぎていた。

 このままいけば、こちらがばらされたくなければと脅されることになる。いや、それだけでは済まない。酷い代金を払わされることになる。

「捕まえて」

 反射的に振り返ると、連れてきた少年が当子の腕を掴んで捻り上げた。

 決め方からして何かの格闘技をしているのは明らかだ。結構痛い。

「いくら元彼にでも、こんな汚い事頼むなよ」

 薄い笑みをされて、ある種吐き気に似たものが沸く。これは確かに恐怖心だ。焦りもあった。まさかここまでやばい事になるとは踏んでいなかった。もうちょっと脅すのに程よいちゃっちい物であって欲しかった。いや、ぶうたれている場合ではない。

 このまま逃げれば夏深との賭けに負け、どっち道一緒なんだ。兎に角、何とかしてこのカードを自分の手中に入れなければならない。

「こんなに人数連れてきて、よく言うわよ。ちゃんと写真撮ってよね。でないと意味ないんだから」

「分かってるって」

 秋江は椅子から立ち上がると、当子の目の前に来て嘲笑った。

「せいぜい楽しめばいいわ」

 殴り飛ばしたい衝動に駆られ、押さえつけられている腕を必死に振り解こうとしたが無駄だった。

「こんな事をして、ただで済むと思っているの」

 勝ち誇った笑みで返された。

「少なくとも、夏深は愛想を尽かすわね。お父様も売女を家に置いておくほど心優しいかしら? ただで済まないのはあなたよね。帰る家もないんでしょ」

 素敵な悪役キャラだ事と、毒づく。

 こうなる様に仕掛けたのはこちらだ。だが、ここまでされて黙っている気はない。

「最低ね」

 大丈夫。最後に勝つのは私だ。いま必用なのはカードだ。

「ごきげんよう。あんまりやり過ぎて殺しちゃわないでよ」

「足腰立たないくらいにしとくよ。女王様」

 秋江が出て行くのを、半ば絶望しする自分を奮い立たせ冷静さをはっきり輪郭付ける。そして、決して泣いたりしないよう涙腺を引き締めた。

 ドアが閉まり、鍵のかけられる音が背筋を凍らせる。

「あなた達も、こんな事をしてただで済むと思っているの?」

「あいつが揉み消してくれるよ。あんたも強姦されたなんて事周りに知られたくないだろ。おい、しっかり撮ってやれよ」

 合図すると相手の口が唇に付くと同時に連続してフラッシュが光った。連写できるとは、わざわざいいカメラを使ってくれるその心遣いに苛立つ。

 口臭が気になって仕方ないなど、よくこんな状況で思うものだ。不覚にも、夏深と比べる自分に気づいて眉根が寄った。そんな事を考えている間に、押し倒されて腰を強く打った。

「先輩ばっか楽しまないで下さいよ」

 下賎な声を聞きながら、上にある顔をぐるりと見回した。

 後で生徒名簿で全員のクラスと名前を割り出してやる。

「安心しろよ、全員楽しめばいいんだ。そうだろ?」

 もう一度キスをされる。とても稚拙で、声など出やしない。顔が離れ見下ろしてくる男に、その男の臭い唾液を吐いた。



「あれ?当子ちゃんの携帯鳴ってない?」

 当子の置いていった鞄の中から、バイブルにしては大きいガガガと言う音がなった。

「ちょっと先輩鞄勝手に探って・・・」

 止めるのも聞かずにチャックを開けると、カンペンの横にあった携帯が揺れていた。その振動で鳴っていたのはそのカンペンだった。

「あ、電話だ」

「ちょっ、勝手に出るのは・・・」

「緊急だといけないでしょ」

 西澤の制止を無視して通話を押した。

「もしもし、当子ちゃんちょっと今ここにいないんですけど」

 しばらく間があった後、

『どちら様で?』

 男の声がした。向こうからも雨の音が聞こえて、少し聞き取りにくい。

「ああ、私新田といいます。当子ちゃん少し前に事務室に呼ばれて行ったんで、伝言がありましたらお伝えしますよ」

 またしばらく間を空けてから、

『何の用事で呼ばれたんで? どれくらい前に・・・』

「え? 放送で呼ばれたんで理由はわかりません。5分・・・10分前くらいかしら」

 携帯から聞こえる雨の音がより大きくなったと思ったら、電話が切られてしまった。

「誰から?」

 左九がクラスで今回っている漫画から目を上げて、燐火に聞くと、燐火は困ったように肩を竦めた。

「彼氏じゃない?」

「・・・当子には男いないと思うけど」



 アレくらい当然よ。冬祈を誑かそうとしたんだから、胸がすっとするのを覚え、当子を放って先に家に帰ろうとしていた。

「やっだ。土砂降りじゃない」

 靴を履き替えながら思わず毒づいた。こんなに凄い雨は久しぶりだ。

 傘を差そうとした時、すぐそばの客用駐車場に見慣れた車が置いてあるのを見てラッキーと思った。

 昔はこんな雨の日には夏深が迎えに来てくれた。まあ最近は仕事の関係でお迎えなんてしてくれなかったが、

 車に近付くと、無人だった。ただし、エンジンがかかったままだ。

「・・・・!」

 私じゃなく当子を迎えに来たのではと思い、息を呑んだ。

 ついでに生徒会室にくるかも知れない。



「舐めてんじゃ・・・ないわ」

 窓際に追い詰められながらも、当子は不敵なほど強気に怒鳴った。

「んのやろ」

 当子の着衣は乱れ左頬が赤くなっていたが、向こうに比べればマシだろう。

 当子の手には箒が一本。いや、箒の柄が一本あった。肝心のはく為の部分は男達の中の誰か殴り飛ばした時に消えてしまった。こちらの方が重心が安定して振るい易い。

「ごめんなさいね。可弱くなくて」

 言いながらも、も う無理だと自覚している。スポーツ枠の剣道でなら一対一でルールもある。それなら勝てるが、この数でそれも隙を突く以外で全員に勝てるとは思えない。後ろ 手で窓の鍵を外し、窓を開けた。急に大きな雨音がした。そう言えば雨が降っていたと思い出した。雨が地面に当たる音が遠い気がして、そう言えばここは4階 だと気が付いた。

「おい、まさか飛び降りる何て事はしないよな」

 青ざめた声を聞いて、ざまあみろと思う。

「・・・これでもし死んだら、流石の女王様も揉み消せないわねぇ」

 窓に手をかけ、窓枠に座った。

「服が乱れていて、手には先のない箒そして、怪我をした男子生徒・・・馬鹿だって予想が付くわ」

「わかった。悪かった。あいつに脅されたんだ。わかるだろ?あいつはここの女王だ」

 当惑した最初の少年が言い訳がましく言うのに耳を貸す気はない。だが死ぬ気もない、まあ運が良ければ骨折で済むかも知れないが、そんな危険も御免だ。

「端に寄りなさい。殺人犯にはしないで上げる」

 今はこちらの優位だ。このまま外に出て、全速で職員室に駆け込めばいい。

 やはり秋江の元彼と言うあいつがリーダーなのか、手で全員に壁によるよう指示をした。

「あなた方のご好意、よく覚えておくわ」

 窓枠から下りて、逆の壁際を通って出口へ気を緩めず早足で足を進めた。緊張で心臓が口から出そうだ。

 ドアを背に、鍵に手をかける。慣れない鍵に、一瞬戸惑った。

 棒っきれが手から飛んで、左肩を打って押し倒された。やはり何かやっているのだろう。動きがいい。こんな事なら左九に連絡を取れるようにして置けば良かった。携帯は持ち歩かないと携帯の意味がないなと毒づきたい気持ちだった。窓辺で電話して人を呼ぶこともできたろう。

「最っ悪な奴ね」

「この状態でいつまで減らず口が叩けるか試して見ようぜ。まあ直ぐに喘ぎ声しか上げら

れなくしてやるけどな」

 さらに前を肌蹴させ、シャツのボタンが千切れた。臍まで露にすると意地汚い笑いが見下ろしてくる。

「足押さえろ。又蹴られたくないからな」

 直ぐに足を押さえつけられ、必死にもがいても自由にならない。

「くっそ」

 思わず毒づいた。

 太股に指が這うのを至極不快に感じた。

 何か、手立てはないか・・・頭を使え、

「聡っ!」

 誰かの声が聞こえた後、露出した肌に風を感じた。

「・・・なんで」

 ドアを開けて立っていたのは、あまりにも意外すぎる夏深だった。全く意味がわからない。これは幻か?

「・・・どう言う事だ」

 威圧のある怒気の含んだ声。今までに聞いた事のないその声に、萎縮しそうになった。少なくとも、ここにいる他の人間はそろって萎縮してしまったようだ。足から手が離れ、自由になると慌てて前をかき合わせた。

「当子立てるか?」

 気を使ってはいるが、こちらにも怒りが向いているのは明らかだった。

 足が震えているのを自覚しながら、壁を支えに立ち上がる。

「ええ。平気よ」

 こういう時に声が震えないのは我ながら天晴れだが、ここで泣きつける可愛い女ならいいのにとも思った。よりによってこんな無様な所は見られたくなかった。

「どう言う事だ? 今言えないなら警察に話すか」

「か・・・会長に頼まれたんです」

 反射的に返ってきた答えに、苦い顔しかできないと言った様だった。

「全員生徒手帳を渡して帰れ」

 動揺が走ると、夏深が一期は威圧のある声で一喝した。

「それとも今殺されたいか?」

 慌てて、ポケットから生徒手帳を取り出して、夏深に手渡しながら出て行く男子生徒を見ながらはっと思い出した。

「カメラ・・・カメラをよこして」

 順番を待っていた一人が、恐る恐るにカメラを差し出す。受け取ろうとすると、先に夏深の手が伸びてカメラを取ってしまった。

「まって!開けるな」

 カメラの爪に手をかけたのを見て慌てて叫んだ。

「こんな物を記念写真にでもする気か?」

「いいから・・・何のために私が馬鹿な真似をしたと思うの?よこして」

 半ば懇願するように手を伸ばす。

「・・・後でだ。他にないだろうな」

「そ、それだけ・・です」

「手帳を渡したらとっとと消えろ。ああ、そいつも連れて行け」

 さっきまで圧し掛かっていた男が伸びているのに気づくと、恐怖心が生まれた。たった一撃蹴り飛ばされただけで、気を失わせたのだ。ただ気を失っているだけで死んでいない事を祈る。

 数人か係りで気絶した男を運んで行くのが遠のくのを見やりながら聞いた。

「どうして・・・・こんな所にいる?なんで」

 まだ心臓が激しく打っている。あまりに血の巡りが良すぎて逆に考えが纏まらない。

「・・・どこまでされた」

 いきなりの問いかけに、眉を顰めた。

 冷静になれ。冷静に・・・カードは手に入ったんだ。これで上手くやれる。そう、落ち着け、

 ゆっくりと息を吐いて、ゆっくり湿気た空気で肺を一杯にしてから、口を開けた。

「お陰様で最後までされた訳じゃない。パンツは履いたままよ」

 憎まれ口は言っても、夏深を見上げることはできなかった。さっきまでの恐怖心が尾を引いただけだと言い聞かす。

「・・・下手なキスをされただけ」

 一向に何も言葉が帰ってこない。それでも、見上げることができない。

 もう一度深い深呼吸をした。

「下に車を止めてある。その格好でバスには乗れないだろう」

 きっと馬鹿みたいに高価であろう上着が、肩にかけられる。涙腺を閉めなおす。

「・・・荷物取りに行かないと」

 こんな時にそう言う事を思い出す自分が酷く馬鹿に思える。

「明日にしろ。その格好をどう言い訳するつもりだ」

「・・・・」

 うつむいて黙り込む当子に、夏深が溜息を付いた。

「お前の携帯に電話をしたら、何とかって言う人間に呼び出しがあっていないと聞いた。もしかしてと思ったてきたらビンゴだったんだ。電話して帰ると伝えろ」

 有無を言わさず言うと、その声とは裏腹に優しく髪を撫ぜた。

「歩けるか?」

「平気」

 足に意識を集中して、足を動かす。大丈夫、歩けない程ビビッてはいない。

 少し時間の経った放課後な為、ほとんど誰ともすれ違わずに下駄箱まで来れた。

 靴を履き替えると、夏深に促されて助手席に座らされる。今日は、横には座りたくはなかった。

 携帯を借りて、何とか左九の携帯番号を思い出して番号を打った。

 一度息をついて、きつく目を瞑ってから、通話ボタンを押す。

『はい?』

 見慣れない番号に疑問を浮かべる左九の顔が浮かぶ。目を開けて、平然と話し出す。

「あ、華ちゃん。私だけど、ちょっと急用できたから先変える」

『鞄おきっぱじゃん。定期入ってんじゃねーの?』

「ああ、迎えに来てくれてるから平気。悪いんだけど、鞄預かっといて、明日取りに行くから」

『・・・わかった』

「じゃ、よろしく」

 納得しきっていない左九の声を押し切って電話を切ると、押し付けるように夏深に返した。

「これで気が済んだか?」

「お陰様で」

 泣く気は失せたが、悔しさがあった。

 夏深が来なければまさに最悪な事になっていただろう。こんな事をした原因である賭けの相手に助けられた。これでは勝ったと胸を張って言えない。

 四季家の屋敷に着くまで、完全に静寂が続いた。



 こんに動揺するとは思わなかった。

 まさに強姦されている最中を見つけてしまい。当子に圧し掛かっている人間を手加減なく蹴り上げた自分に驚いた。確かに四季家は権力は強い。だが下手な事を起こせばその家に泥を塗る事になる。そのヘマをしかねない行為だった。

「カメラ、くださる?」

 部屋に着くと、一向にこちらを見ない当子が口を開けた。しばらく何も話さなくなったと思えば、口を開けた途端これだ。

「お前は自分がどうなっていたかわかってるのか?」

 カメラも学生証もソファーに投げつけると、両手で当子の頭を掴んで真っ直ぐにこちらを向かせた。

「犯される所だったんだぞ。言っただろう、秋江は切れると何をするかわからないと。少しは俺の言う事を聞け」

 一向に涙を見せない目が、恐々とこちらを見ている。当たり前だ。これでも反応が大分と薄いくらいだ。しばらくは男に触られるのも嫌悪していいくらいなのだ。

「仕方ないじゃない。これが確実な策だった。確かに読みが甘かった。助けてくれた事には感謝している。・・・・賭けはチャラよ。あなたの手を借りた以上、生徒会長になっても勝ちにはならないわ」

「どう言う事だ?」

 何を言いたいのか解らずに聞き返すと、馬鹿な答えが返ってきた。

「この事件をカードに秋江さんを脅し、リコール選挙を辞退してもらう。自動的に私は生徒会長の椅子に座る。でも、あのまま助けが入らなければ勝ち負けの話ではなくなっていたわ。だから賭けはチャラよ。それから、あいつらの処置は私がする。手を出さないで」

 どうしてこんなにも向こう見ずなのだろう。一歩間違えば一生物の心の傷を受けていたのに、あの賭けの所為で馬鹿な事をさせた。

 こんな事なら手放してやればいいじゃないかと、良心が囁くが、そんなものを聞き入れはできなかった。

 他の男に奪われるくらいなら。放しはしない。手許の籠に入れて、一生出さない。

「いや、賭けは賭けだ」

 冷たい声をわざと出して、当子を抱き上げた。

 奥の部屋の寝室へと向かう。

「っ、放して」

 暴れようとした当子に感情を入れない声で命令する。

「まだ会長になっていない以上。抵抗はするな」

 その言葉に息を呑み面食らっている当子を無視して、ベッド投げる様に放った。

 今こんな事をすれば唯でさえ嫌われているのに、完全に嫌われる事くらいわかっている。それでも、明日になればあんな賭けを信じてあんな馬鹿をして生徒会長の座を手に入れるだろう。賭けに遵えば、今日以外、当子に触ることはできない。

「・・・・」

 口をきつく結んで、見上げてくる当子の顔から目を逸らして胸元を見た。あんな格好で男に組み敷かれているのを見たとき、怒りと共に恐怖心があった。自分の上着のボタンを外し、ボタンのないシャツの間から手を滑り込ませる。

 今までで一番濃い口付けをする。長く、深く。

「っ・・・や」

 薄い唇から、喘ぎに近い声が漏れた。

「やだっ・・・」

 泣きそうな声を出して、腕を伸ばして突っぱねようとするが、手には力がこもらないようで、軽く引き剥がせる。

「あんな狼の群れの中でされるよりはマシだろう。泣いて頼めば奴らは止めてくれたか?」

 頭部を支えて、貪るようなキスをする。今まででここまで自分の事を嫌いになった事はないかもしれない。

「・・・・・・泣くのは卑怯だ」

 当子の目じりから伝う涙を指で拭う。

 こんな年下の子共に、翻弄されるのは馬鹿らしい。

 体を離すと、寝室を出た。

 生徒手帳を手にとって、一枚一枚をチェックしていく。昔から学生書の携帯は義務付けられていた。急な持ち物検査の趣味のある学校だったが、その時にこれを持っているか確認される。2度目で反省文を書かされた。今思うと中々立派なやり方だ。

 これくらいの顔と名前とクラスを頭を入れていられる頭はある。

 今回は、とりあえず当子の勝手にさせるつもりだが、今後どこかで会った時にはそれなりの態度を取らせてもらう。人間行動には責任を持たなくてはならない。

 カメラが目の端に 入り、フィルムを駄目にしてしまいたい気持ちと、現像して本当にキス止まりだったのかを確かめたい卑しい事を考えてる部分とがあった。そこまで思うなら、 当子の体に聞いて確かめればいいものを高々泣かれただけで身を引いて、夏深にしては生易しすぎた。本当はもっと泣かせてしまいたいのに、

「・・・貸して」

 いつの間にか後ろに来ていた当子が、涙を拭って手を差し出した。

「あたしから相応の罰を与える。生徒会の権限は強いんでしょ? それに何か向こうが仕掛けてくるようにつついたのは私自身よ。それから、他言は無用よ、まあおじ様に言えばあなたからでも婚約はなかった事にしてもらえるでしょうけど」

 見終わった生徒手帳を渡してやると、当子も同じ様に手早く目を通していく。全くこの回復力には感服する。

「今日は妹殿に交渉しないといけないから勘弁して欲しいけど、明日なら約束通り泣かずにお相手しますよ。今日の代わりに。多少集中すれば涙腺の開け閉めはできますから、泣くも泣かずもできますから」

 見終わった手帳を机の引き出しにしまうと、カメラを手に取った。

「まあ、これに主犯の顔が写っていないのは残念ですけど、これだけあれば芋蔓方式でばれるのは目に見えてる。十分な物的証拠よ」

 真っ直ぐに見返してはこない目に、確かな恐怖の色があるのを夏深は悲しげに見ていた。






   七



 これで、秋江がプライドと独占欲が強いが為に傷心自殺されれば、いくら夏深との賭けに勝っても本業では再起不能になる。何せ自殺に追いやった人間と婚約させたままいてくれる親兄弟等そういまい。

 そして、これからは秋江との関係を改善しないとならない。無闇に恨まれて敵を増やすのは危険だ。

「来たわね」

 ノックをして入ると、秋江が青い顔で言った。まあ仕方ない。強姦しようとした相手から強姦教唆をつきつけられるのだ。最後までしていない以上、どちらが優位かくらいは理解していてくれているようだ。

「未遂に終わったのはご存知ですか?」

 わざと優しい笑みで聞いて、秋江を観察すると手の震えが見て取れた。

「まさか夏深がくるなんて思わなかったわ。それで、お父様に言いつける?」

 言葉の割にはそうされる事を恐怖している。まあ当たり前だ。

 自重した笑みを漏らしてから、

「怒っていないとは言いません。けれど、確かに秋江さんがヒステリーを起こしてあんな事をしたのは解らなくもないんです。私は、あなたの居場所を奪ってしまっていたんですね。それに気づかなかった私もいけないんです」

 相手が下手に出たのを見て、秋江が言い返してくる。

「そうよ。あんたのせいよ。・・・お父様に言えばいいわ。そうすればどっち道あなただって終わりよ。本当は最後までやられた事にしてやる」

「残念ですけど、夏深さんが助けてくださったんですよ。それに、あの生徒方もレイプ魔よりも未遂でしたと罪を軽く証言するに決まってます」

 事実を付きつけられて、秋江はぐっと黙り込んだ。

 確かに未遂だが、夏深も愛想尽かすわと言った分に関してはその通りになった。確かに、あんな危険を冒すような女を好きになる男はいまい。当初の淑やかな私ならまだしも、今の私は魅力のない無謀馬鹿でしかない。

「おじ様に言いつけ る気はありません。ただ、いくらなんでもあそこまでされてお咎めなしなんて事ができるほど私も優しくありません。・・・燐火先輩の熱意に負けて、駄目元と 知っていながらリコール側についていましたが、このままあなたを会長にしておくのは、私にとってとても恐怖です。会長の権限であんな事までするなん て・・・明日のリコール選挙は、辞退してくださいますよね」

 これがこの女王様にとってどれだけプライドを傷つけられる事かは大体予想はつく。それはそれは腹立たしい事だろう。

「嫌だと言えばどうする気」

「学校側に事実を言 います。そして、選挙の一時延期を要求し、全校生徒に私の口から言います。係わった生徒の名前も公表します。そうすれば皆リコールに賛成しますわ。無論、 理事長の娘がそんな事を校内でしたとなれば、おじ様はお怒りどころではなくなりますわね。学校自体の品位を下げることにもなりますし」

 より一層青褪めながらも反論をする。

「そんな事になれば、話に尾鰭が付いて酷い目に合うのわそっちよ。お父様だって、イイ顔をしないに決まっている」

「それがなんです? 確かに、私には帰る家もありませんわ、でもあなたから慰謝料を頂いて、どうにか暮らしていけますわよ。 私もあなたと一緒で切れると何をするかわからないタイプみたいですね」

 肩を竦めてから、

「こんな事をしたと冬祈さんにばれれば、優しい彼は何て顔をなさるかしら」

 止めを刺す。

 あんな事を起こす脳たりんにはこれで十分苦い薬になる。

「・・・・・・わかったから、言わないで」

 震える弱りきった声がするのを確認してから、自分の涙腺を弱め、目を潤ませて涙を流す。

「私が・・・どんな気持ちだったと思いますか?」

 相手に罪悪感と言うものがあれば、動揺しつつも正気に戻りつつ頭で自分がそんな事をされたらと想像してくれるだろう。

「・・・・ごめ・・・なさい」

 相手がつられて泣き出した。さながら探偵にお前が犯人だとつきつけられたみたいに膝を折って泣きじゃくっている。

「秋江さん・・・すぐに全てを許せるかはわかりませんが、私も無神経なところがありました。人間としては冬祈さんの事はとても好きです。でも、夏深さんに対する好きとは違うんです」

 唯のセリフだと言い聞かせながら言う。ただの、セリフよ・・・




「・・・・どゆ事?」

 四時間目を授業を潰して集められた2・3年は、一動ざわめきっ放しだった。

 左九が、現生徒会が選挙辞退を申し出たのを聞いて訳が分からないと聞いてきた。

「さあ。面倒臭くなったのかな」

 同じ様に不思議そうな顔をすると、左九と一緒に小首を傾げた。

 選挙演説をする予定だった為、生徒の列から外れた体育館の端っこに四人並んで待っていたのだが、この分だと何もする事がなさそうだ。

「あ」

 燐火が突然声を付いた。

「全ッ然引継ぎ準備してないわ」

 そう言えば、生徒会長になったら生徒会を運営して、行事の先頭切って働かなければならないのでは?と、あまりにも当たり前な事を思い出して頭が痛くなった。

 暇な人間ではないのに、最悪だ。それもよりによって会長。

「・・・6人でも一杯一杯働いてやっとなんですけど、四人でそれをこなすとなると、寝る暇ありますかね」

 西澤が投槍に近い声で言った。

「まさか向こうが辞退してくれるなんて思わなかったですから、手回しで一杯一杯で、先の事何も考えてなかったですから・・・ヤバイですよ」

「まあ、頑張ってね会長さん」

 そう言えば、何の為に私は会長になんてなりたかったのだろうとと思うと頭が痛かった。これでは勝っても負けても、マイナスではないか。



「滝神・・・さん」

 当子の背に、秋江が躊躇気味に声をかけた。

「先に行っていてください」

 燐火達に声をかけてから、向かってくる当子には罪悪感を感じている。

 何よりも、当子は夏深が好きなんであって、冬祈のことはそういう目で見ていないと言う。ただ、冬祈は当子に好意を持っている。だから当子が冬祈から離れてくれれば問題はない。

 何よりもあれはやりすぎた。

「当子でいいです」

 誰にでも見せる笑顔で言われて、躊躇してから名前で呼んだ。

「当子さん・・・本当に、ごめんなさい。一晩考えて馬鹿な事をしたと反省したわ。・・・本当に、冬兄の事は何ともないのよね」

「私一人っ子だから、あんな優しいお兄さんがいたら嬉しいなって・・・それだけです」

 柔らかい笑顔が返ってきて安堵した。

「できれば・・・秋江さんの様なお姉さんも欲しいんです。確かに、すぐには全てを許せる自信はありませんけど、お兄様の事をあんなにも大切に思える方ですもの」

 昔見たマリア像を彷彿とさせる柔和な笑みを見せられ、又泣きそうになった。自分は、あまりにも当子に酷い事をしようとした。

「本当に、ごめんなさい」

 もう一度深く頭を下げてから、振り返らずに逃げた。普通なら、罵倒されても可笑しくないのに、笑顔を向けられて逆に腹立たしくすらあった。あまりにも自分の醜さを浮き彫りにする。



「当分許せるわけねえだろ?ブラコン女」

 腹話術のように口を動かさず、誰にも聞こえない声で、秋江の後姿に吐いた。

 あの家では優しく愛くるしい少女を演じている方が得策だ。まあ夏深にはばれているが、べらべらと当子の本性を喋る気配もない。秋江ならば喋ってしまうだろうが。

 秋江がいたって操縦しやすいタイプの様なので助かった。冬祈にはあまりべたべたしない様に心がければ問題なく付き合えるだろう。何よりこちらは大きなカシをしたのだ。それにこのカードは時間が経ってもある程度は有効だ。一度きりのカードではない。

 何とか全体を見れる形に纏めたが、これから生徒会で生徒の為に扱き使われることになる。やるからには好き勝手の独裁政権を目指したいし、歴代で語り継がれる女帝になるつもりだ。だが、それにはそれに見合う労力がいるだろう。

 これだから責任感の強い完璧主義なA型困るんだ。二重人格と言われるABでないのだから、血液型占いなんてそう当てにはならないのだが、

「さて、昼飯昼飯」

 伸びをすると、美術室に向かった。今日、現生徒会は生徒会室から撤収するらしいが、今日一杯は美術室で話し合いをしないとならない。正直、あの部屋に行くのは気持ちが重くなりそうなので避けたかったから丁度いい。

「・・・・」

 第一女帝案として、いい事を思いついた。




 休日出勤になった新生徒会の初仕事は、大方当子の手によって片付けられていた。

「例年通りクラブ紹 介と学校紹介で行きます。前生徒会の計画を大体引き継いで、紹介順は変えるわ。軽音にはもう一曲分くらい時間を裂いて盛り上げて貰って・・・まあ一度聞か せてもらって聞くに耐えなければ時間を削るかもしれないけど。ブラバンは準備に時間がかかるので初っ端に、一曲目に校歌をやれるか聞いてください。今日 やっている所だけでも部活周りをして、実際の活動状況を見て行きたいんで、燐火先輩案内してください。月曜に代表を集めて軽く説明会を開いて、火曜に舞台 を使って実際の時間を計りましょう。その段階で不備があった場合は伝えてください対処します。本番の水曜の午前中までなら多少の変更は可でいきますが、無 断で内容変更は厳罰を持って対処していきましょう。出る人は昼の・・・12時20分に集まってもらえばいいですね」

 早々に喋る当子に、燐火は驚いた風だった。

「何か意見があれば言ってください」

「私は、それで言いと思うけど、ぱっぱかよく決められるわね。一度もやった事ないのに」

「今までの記録を見ただけです」

 肩を竦めると、男子二人にも顔を向けた。

「お二人は?」

「僕も構わないよ。ブラバンには聞いてみよう。燐火先輩と違って文科系なら少しは知り合いがいるからね。やる事があったら言っておいてくれた方が助かりそうだ。何かやることは?」

「歓迎会で配るクラブ紹介の冊子のチェックをお願いします。レイアウトは任せます。後、生徒会からの一言を入れてもらえると助かります。後、四つ星評価をつけたいんで、星は実際に見てから塗りますから、白星を4つ並べておいてください」

 ちゃっちゃと西澤に指示を入れると、左九が手を上げた。

「俺何したらいいの?」

 にっこり笑うと、

「華ちゃんやることないからここの書類整理しておいて、歓迎会終わったら生徒会室の場所変えるから。荷物まとめて置いて」

「何で、態々場所変えんの?」

 素朴に聞いてくる左九に肩を竦めた。

「一々4階まで上がるのが面倒臭いし、こんな奥まった所よりも何やってるかがわかりやすい所に置いた方が生徒との交流がしやすいでしょ」

 納得いかなさそうな左九を無視して、燐火に向き直った。

「じゃあ案内してもらえますか?」

 情けない事に、こ こに入る時に事を思い出して心臓の動きが激しくなった。窓を見ても、床を見ても、女王様の椅子を見ても、そして戸口を見ても、不快な事を思い出す。同時に 夏深のあの時の顔を思い出して仕方がなかった。この部屋でずっと仕事をするのは気が滅入って仕方ないことだろう。




「もっと眠いかと思ったけど、結構面白かったよ当子ちゃん」

 裕美が教室に鞄を取りに来た当子に声をかけた。

「でもどうして女バスが★三つな訳?」

 攻めている口調ではないが心外だと言った風ではある。

「確かに強いけど、裕美ちゃんみたいな中学から上手い子を引き抜いて作っているからまあ当たり前よ。でもその分一般入学してきた子は嫌煙されがち。ま、あたしの独断と偏見でつけた一つの目安よ。あまり気にしないで」

「・・・まあ確かに・・ね」

 言葉を濁す裕美に手を振って早々と生徒会室へと向かった。

 特にまだ使い道のない左九に生徒会室にある必要な荷物を一階の空き教室へ運ばせていたため、下で運営できる程度にはなっていた。無論教師陣からは使用許可を得ている。一階を会議用。四階を物置にする事にしている。

 あの日以来顔を会わせていない夏深の顔を思い出すのは、妙に虚しくて嫌だったが、これで少しはマシになる。

「当子ちゃんお疲れ様。これでひと段落つけられるわ」

 一階の生徒会室に入ると、燐火が当子に抱きついてぎうっとした。

「・・・・この後部費の見直しと、球技大会の優勝クラスへの商品の検討、及び種目選びのアンケートをします」

 ぱっと当子から手を離すと、燐火がむうっと拗ねた顔をした。

「折角無事終わったんだから、達成感を噛み締めましょうよ。それに球技大会なんてまだ一ヶ月先よ」

「だからですよ。絶対優勝したいとなればクラスで団結力が生まれます。その為には今までにない特典と、早々に種目を決めて練習をできるようにしないといけませんから」

「当子ちゃんの堅物ぅ〜」

 もう一度ぎゅうっと抱きしめる。

「何レズやってんですか」

 入ってきた西澤が、抱き合う女子二人を見て呆れたように言った。

「羨ましいんでしょ」

 ははんと鼻を鳴らす燐火を押しやって逃げる。

「あれ、そう言えば華ちゃんまだきてないの」

「上じゃないの?」



 生徒会に入ったはいいものの、実際当子の手助けができているかと言われると疑問である。

 元々何でもできる奴だから、自分の手助けなんていらないのだが、近くで何かしていたい。

 あいつ落ち込んだりイラついたりしないと稽古こないし。

「荷物運びもなあ」

 当子に指示された書類や荷物をここ数日運び、書き物をいくらかしただけで、とても役立ったとは思えない。最後の箱を持ち上げると、ついぼやく。

「華ちゃん」

 ひょっこり覗き込んできた当子を見て、いつもは怒っているといわれる顔がほころんだ。

「それで、荷物ラスト?」

「一様は。鍵そこあるから閉めて」

「ほいほい」

 いたって平気な顔を装って机の上にある鍵を手にする。この部屋で何かあったのかと思っていたが、やはり気のせいだろうか?

 鍵を閉める当子を見ながら、小首を傾げる。

 並んで歩きながら、何気なく聞いた。

「当子男できたの?」

「・・・なんで」

 こいつって、凄く鈍感なのか、俺が男の類に入れられていないのか?と考えながら、続きを聞く。

「前の大雨の日に当子の携帯に男から電話あったから、燐火先輩が彼氏じゃないって言ってたから」

「あー」

 頷きながらも、表 情が硬くなった。やっぱり男なのだろうか? まあ、知られたくないなら無理に聞こうとは思わない。実際に当子を彼女にしたいとは思うが、下手にこの関係を 崩すくらいなら、一生友達の方が楽しいだろうとも思う。好きな人間がいるのを振り向かせられる自信はない。

「彼氏と言うのではない」

 変に観察力があるのも損だ。当子は隠し事が上手いのに、ちょっとだけ、顔が赤くなるのを隠しきれていない。

「じゃあ片思いの相手か」

 あ、動揺してる。

「あたしそう言う乙女っぽいタイプじゃないの知ってるでしょ? なんで冷やかそうとするかなぁ」

 何で素直じゃないかなぁ。稽古でも倒れる前は青い顔して息切らして全然平気とか言うし、よくやるよな。そこまで人に弱み見せたくないかな。やっぱ素直じゃないのは人に弱みを見せない為?

「ふーん。どんな奴」

「だーかーら」

 否定しようとする当子に左九が意地悪っぽく遮って言う。

「その電話の相手」

「・・・」

 バツ悪そうに見返してくる相手に肩を竦めて、

「この前稽古来て死んでた当子迎えに来た人? 前の当子当番の人辞めたって聞いたけど、新しい運転手?」

 困った顔で思案するのを見ながら、当たったなと思う。

「運転手じゃないけどね。確かに迎えに来た人」

「へー。まあ当子と並んでも可笑しくない人だったけどね。前の運転手といい、当子の趣味は年上長身・・・か」

「勝手に人の趣味決めないでくれる? それだと年下のチビは眼中にないみたいじゃない。基本的に金持ちならオッケーよ」

 同年代でまあ当子より身長は高いけどそんな高い方でもなくて、まあ家柄だけはいい自分は眼中に入れてもらえるのだろうか?

「てっきり当子のハードルは高いと思ってたなあ。・・・でも運転手でもない男から電話が来るの始めて見た」

「偉くつっつくわね」

「今まで男のおの字もちらつかなかったから興味も沸くよ」

 荷物を抱えて肩を竦めるのは結構疲れるなあ。

 多分当子はその男の事が好きなのだろう。全く残念な事にこういう感は女よりもある。まあ恋愛関係以外も結構当てれるけど。今まで当子を見てきて、男の話で顔を赤らめるなんてなかったし。

 アレだとこっちも 戦う前に負けたって気がするからぱっぱっと諦めがつけれそうで助かる。チビで中年でビールっ腹の当子と並ぶと家畜とお姫様に見えるような相手だったら流石 に攫いたくなるだろう。まあ当子をお姫様抱きした姿はドラキュラがお姫様を拉致ってるようにも見えたが、どっちにしろ家畜とドラキュラならドラキュラに 持っていかれた方が当子っぽい。

 悪魔とでも契約しそうだもんな。当子は。

「そう言う華ちゃんにも見えないけど?女の影。それに、剣道部の方はどうなったのよ」

 あ、話し変えた。

「これでも中学の時付き合ってたけど、ほら、髪染めた頃。でも3日で別れたからなぁ。あんまそう言うの向かないんだよ」

 あのままつっついて墓穴を掘らせるのも楽しいだろうが、当子にそんな事をすると可哀想だし、仕返しされそうなのでやめて話を変える事にした。

「今まで暇なかったから見学にもいけてないし、やっぱ入るの止めるかも。会議とかで来てた部長。あれ怖そうだったし」

「大先生の頭叩く度胸はあっても高校の主将をケツを蹴る勇気はないわけ?」

「だってあれ酒の席で大先生も俺も気分上々だったし」






   八



 全く一週間会わない日が続いた。

 まあ仕方がない事だ。割り切りをつけて、ただ婚約者と言うカードを持っていられればいいんだから、別に仲良くする必用も、ちょっかいを出されて黙っている必要もない。むしろこの状態は好都合ではないか。

 放課後残って今ま での行事に関する書類や、ウケが良かったイベントを調べる為ここの所は生徒会室に詰めていた。必用なものは既に下に持ち込んだ為、態々上に取りに行く必要 はない。それでも、あの時の夏深の顔だけは何度も頭にちらついた。その時の状況に対する恐怖心がまだ残っているから、まだマシな部分の記憶が浮かぶのだと 言い聞かせる。

 今日は土曜で、他のメンバーには今日はなしと伝えてある為一人残っていた。学校関係以外の私的な事もできるように追い払ったのだが、昼食に買ったパンを食べようと封を切った時にポケットの携帯が振動した。

「・・・誰よ」

 お腹が空いていた事もあって不貞腐れたぼやきをしてから電話に出た。

『俺だ』

 その声に息を呑む自分に動揺する。

「何?」

 声が強張ってしまい、それがばれない様に短く返す。

『まだ学校か?』

「そうだけと、それが何?」

 そう言えば、何で夏深はあの日学校にいたのだろうと、ふと思い返す。

『なら出てこい。校門の所にいる』

「ちょっ・・・」

 一方的に切られた電話を睨みながら唇を噛む。一体どんな顔して行けと言うのかと、当子は唖然した。

 かといって、このまま無視するわけにもいかない。仕方なく、鞄を手にした。戸締りをして、鍵を閉めてから溜め息に近い息を吐いた後気合を入れる。当子自身、気持ちの整理が付いていない。

 靴を履き替えると、早足に校門へ向かった。見慣れた高級車が停まっている。その横には、見慣れた男が立っている。自然と歯を食いしばるのに気づき顎の力を緩めた。

「何の用?」

 眉を顰めると、腕組したまま地味に髪をまとめ眼鏡をしたスクールスタイルを観察される。

「昼飯は済ましたか?」

 聞かれて首を横に振る。

「食い損ねてる状態よ。できれば直ぐに戻って食べたいんだけど」

「なら都合がいい。乗れ」

 有無を言わさない物言い呆れさえする。

「どう言う事」

「乗れ」

 命令されて、逆にこのまま逃げ去りたくなったがまさに逃げる事になる。それは悔しいので車に乗った。ただし、助手席ではなく助手席の後ろに乗る。

「いい加減用を言ってくれる?まだ用事があんのよ」

 つッけんどに言うのも聞かずに、車は道路に入った。

「ちょっと!」

「黙っていろ」

 バックミラー越しに睨まれて、口をつぐんだ。

 大丈夫。賭け上手出しされる心配はないと、言い聞かす。

「行き先くらい教えてくださる?」

 学校に戻るのを諦めて、シートに座りなおしながら当子は夏深を睨んで聞いた。

「親父が海外出張から帰ってきた。折角だからお前と飯が食いたいとさ」

 それを聞いて安堵する。

「その席で婚約の話をなかった事にするのかしら」

 当子がわざと挑戦的に聞くのを夏深は無視した。何も聞かなかったようにミラー越しに当子を一瞥してから、

「その格好じゃあ店に入れないな。店に寄ってやるから適当に服を選んでこい。その頭も止めた方がいい。・・・眼鏡がいるほど目が悪いとは知らなかった」

 ムッとして、眼鏡を外した。

「あんまり派手過ぎると集団生活では馴染み辛いの」

「そういうのも嫌いじゃないがな」

 さらりと言われて、そんな何でもない言葉に反応する自分がムカついた。

「態々おじ様の機嫌取りも大変ね」

「それほどじゃないさ。仕事を潰してまで都合をつけろとは言わないからな」

 いつもより反応が柔らかい。そんなお心遣いに嫌気が差す。こんな事なら辛辣に扱われた方がマシだ。

 物を言うのも億劫になって黙り込むと、次は空気が重くなった。

 当子のことなど気にせず、車は黙々と走っていた。



 全く、女とは確かに化ける。

 三つ編みを解いた髪にはウェーブがかかり、それが肩にかかり胸元へ流れている。

 淡いブルーの柔らかいワンピースに身を包んだ姿とさっきまでの学生服姿とでは大分と差があった。こんな姿で学校に行かれるよりは、極力目立たなくして置いてくれた方が夏深としては安心だった。

「これでいいでしょ?」

 初めて実物を見た時と同じ、とても15には見えない雰囲気を出しながら、面倒臭そうに言った。

「ああ、これなら門前払いを食わないだろう」

 頼まれもしないのに態々女に物を買うこと等しなかったが、当子になら笑顔でカードを出せる当たりが既に間抜けな男だ。

 その服で父親に呼び出された店に向かう。わざと距離を置いて後ろに座るあたり、拒否が見える。高が賭けのあんな馬鹿な事をされたんだ。どれだけ触りたくともそんな事はできないのに、その距離が妙に悲しい。



「お久しぶりですおじ様」

 出張疲れも飛ぶな。と、春夫は内心で呟いた。

 琴の音が響く店内で、鈴の様な当子の声は唄のように聞こえた。

「聞きましたよ。秋江をリコールしてしまったとか」

 椅子を引いてあげながら、ケンのないように聞いた。

「秋江から仕事場にまで電話が来ましてね。もう面倒になったから、当子ちゃんにリコールをさせて、そのまま辞退して生徒会長辞めた・・・と。すみませんな、勝手な娘で」

「いえ、私からお願いしたようなものなんです。・・・何かやっていないと、おじい様を思い出してしまって・・・・」

 一瞬声を詰まらせる当子に、こちらまで悲しみが感染しそうだった。

「秋江さんがわざわざ気を使って下さって・・・優しい方ですわ」

 とても優しい笑みに、昔の桜さんをそのまま投影したような錯覚すら起こす。

「困った事があれば言うといい。いくらでも力を貸しますよ」

「はい。ありがとうございます」

 秋江は常々生徒会 なんて面倒臭いつまらないと言っていたが、そうは言っても色々と頑張ってはいた。それを当子にあげたと電話で聞いたときは、不思議でならなかった。選挙も じきにあるのだから、その時に会長を変わってやればよかったのでは聞けば、秋江が溜息を付いて、何か仕事を与えてやらないと選挙までにノイローゼで死ん じゃうわと言った。わざわざ不名誉なリコールをさせてでも生徒会長をさせれば自分の居場所もできるし気も紛れると思ったからと、自分勝手だと思っていた秋 江がそこまで人の事を思って行動してくれたと思うと、名誉にすら思えた。

「解らない事があれば夏深に聞くといい。学生時代は偉く力を入れていたからきっといいアドバイスをくれますよ。なあ夏深」

 ほとんど忘れていた息子に声をかけると、夏深は困ったように肩を竦めた。

「昔の話でしょう」

「資料で見ましたけれど、夏深さんはとても凄いんです。今までで二番目に長く会長をされているし、その間の功績も素晴らしいんです。とてもああはできないと思いますけど、自分なりに頑張りますわ。・・・その時は色々相談をしてもよろしいかしら」

 熱っぽく夏深を見る当子は、とても元気そうに見えた。確かに、何か仕事を得たことで、気が紛れたのだろう。自分がいなかった間に相当気落ちしていたのかと思うと、やはり心配だが、息子達とも仲良くやっているようだ。安心した。



 助手席のドアを開けて、当子を乗せた自分の父親に苦笑う。

「私はこれから会議があるから、安全運転で家までお送りしろよ」

 車を隔てて、当子に対する物とは全く違う物言いで言われて笑いそうになった。

「了解。そっちも相手にあまり脅しをかけないように」

 皮肉を言ってから車に乗り込む。外面のいい笑顔で、開いた窓から当子が春夫に礼と別れの挨拶をしている。

 春夫の秘書が遅刻しますよと声をかけるのを聞いて、長たらしい別れの挨拶を中断させた。

「じゃあ父上、失礼します」

 嫌味っぽく言うと、車を発進させた。

 春夫が見えなくなると、窓を閉めてから当子が疲れたと言わんばかりに肩を揉んでいた。

「いつの間にあそこまで秋江に手を回したんだ?」

 春夫を丸め込んでおいたことに感心しながら聞くと、面倒臭そうに答えが返ってきた。

「おじ様に怪しまれて、学校に調べるように言われると秋江さんの立場が悪くなってしまいますから、私の為に会長を辞任してくださったと先にお話してはと優しく諭したのよ。これであんたの妹の株を下げることなく尚且つ平和的に解決をしたの。ヌカリない性質でね」

「秋江を飼い慣らした訳だ」

 ここまで上手く事が運んだのは運が良かったのか、当子の完璧な計算か解らないが、自分も上手く操られていたりしてなと苦笑った。もう半分飼い慣らされている。

 嫌味っぽく溜息を付くと、

「学校に行ってもらえる? まだやりたい事があんのよ」

 距離の近い学校へ向きを変えるよう要求される。

「又今度にすればいいだろう。それとも襲われた部屋の方が俺といるより落ち着くってのか?」

 真っ直ぐ前を見たまま、微かに強張った声が返ってきた。

「生徒会室の場所は変えたわ。そこまで神経が疎いわけじゃない」

「なら又今度にしろ。俺だってああもタイミングよく次は助けられない」

 しばらく黙った後、当子が眉を顰めて聞いてきた。

「そういえば、どうしてあの日学校に来てたの?」

 会議が急に中止にならずあの日あんな大雨でなかったら、今頃当子はどうなっていただろうと考えると、胃がムカついた。

 雨に濡れない様に迎えに行った等と恥ずかしくて言えずに肩を竦めた。

「たまたまだ」

「学校に行ってくださる?」

「駄目だ」

 つっぱねる夏深の声に、当子はムッとした顔をした。

 他人には終始笑顔の当子が、夏深といる時はそんな顔を作らない事に、可笑しな事に満足感があった。

「あいつらにはもう仕返しはした。それに生徒会長のわしを襲うようなアホはおらん」

 春夫がこれを見たらどんな顔を見せてくれるかと思うと笑いがこぼれた。

「何が可笑しい」

「別に」

 笑いながら答えても効果はない。当子は明らかに気を害している。

「どうせ3年は手を出せないんだから、他の女の所へ行った方が男として健全なんじゃない?」

 嫌なものいいだ。確かに、当子ならギリギリまで会長でい続けるだろう。その間は一切のセクハラ行為は行なえない訳だ。

「心配されなくても、女なんて向こうから寄ってくる」

「ご愁傷様」

 興味なく返されると、もう一度当子が夏深に学校に行けと要求をしてきた。

 あまりにしつこいので、夏深は結局折れた。

「その代わり直ぐに戻ってこい。調べ物なら家に帰ってしろ」

「・・・わかったわよ」

 傲慢な態度で当子が言った。




 部屋で、学校から持ってきた資料を眺めながら確かに夏深は歴代でも3本の指に入ると感心した。

 飴と鞭の政治だが、やる気のある人間にはあらゆる後押しをしている。各部活の成績も、年々に良くなっているのは唯の偶然なのか、それとも夏深が何か手を出したのだろうか?

「頭山もいい補佐官やってるしね」

 その間ずっと副会長をしているのは滝神草だった。これだとあの二人は親友に近いだろう。夏深が頭山と繋がっているのは明らかだ。

 まあ仲良しなほど自分としては有難い。

 後は顔も知らない父親から受け継いだ情報網から届く便りを待つだけである。

 ノックの音がした。

 書類を引き出しにしまってから声をかけた。

「どちら様ですか?」

「冬祈だけど入っていい?」

「・・・・どうぞ」

 秋江の導火線である冬祈とは不必要に近づきたくはないのだが、追い払う訳にも行かない為、ドアを開けて冬祈を招き入れた。

「この前言っていた薔薇。鉢かえをしたから良かったらどうぞ」

 いくつかの蕾を膨らませた薔薇の鉢植えを抱えている冬祈を見て顔をほころました。長男が冬祈だったら操りやすかったのに、と思うとついつい。

「窓際に置いていい?」

「はい。お願いします」

 よいしょと窓際のテーブルに置く冬祈を見ながら、そういえば目の上の瘤の兄に婚約者まで取られて、本当に怒ってないのかと疑問に思った。当初は注意を払っていたが、夏深と言う目下の敵を持った事と、秋江へのカードとしてしか見ていなかった為、その事を忘れていた。

「あら・・・じっとしていて下さい」

 わざわざ運んでくれた冬祈の服に泥がついている事に気づき、少し屈んで払ってあげる。鉢に付いた乾いた土だった為、軽く叩いただけで大方落ちた。

「態々ありがとうございます」

 にこりと笑って御礼を言う当子に、冬祈が唐突に質問した。

「兄さんの事好きってホント?」

「え?」

 秋江が言ったのだろうかと思うと、どう答えるか一瞬とまどった。

「おじいさんがどうとかって・・・言ってなかった?」

 やばい、墓穴を掘ったかもしれない。

「初めは、おじい様の最後の頼みだったんです。でも・・・夏深さんと接するうちに・・・」

 顔を背けて言う当子に、冬祈は笑顔のままだった。それが、怖い。

 夏深がうちは皆癇癪持ちだからと言っていたのを思い出した。アレは秋江の事を指したものと思い、皆のところを軽く感じていた。つまり・・・冬祈も癇癪持ち、つまりは切れる人。

「冬祈・・・さん?」

 後退りは好きじゃない。引きそうになった足を踏み留め、不安げに見上げる。夏深と同じぐらい高い位置にある顔が見下ろしてくるのは、笑顔に影ができてさながらホラーだ。

 秋江の所為で身の危険だったのに、その兄にまた危険にさらされるのは、やっぱり薄幸の美少女の定めと言う奴か。やっと夏深から逃れ、秋江を丸く収めたのに、どうもどこかヌカル性質なのだろうかと、当子は自分をなじった。

 ゆっくりとまだ三つ編みでできたウェーブが残る髪に冬祈の手が伸びる。

「でも、本当は僕と結婚するはずだったんだ」

 指で髪を弄びながら、囁くように言う。

「兄さんは何でも持っているのに、昔から、僕の物を盗りたがる」

 コンプレックスの塊を、どう解そう。必死に頭を動かそうにも、夏深とは色は違えど形の似た目が見下ろしてきて、頭の一部が麻痺している。それでも、本能的な部分が冷静に危険信号を発信する。

「・・・僕の事は嫌い?」

 甘くすらある囁きが似合うのは美形の特権だ。これで思い違いダサい男が言えば爆笑できるのに、

 そう言えば、夏深にも似た言葉を囁かれた事があった。ただ、あれば自嘲の言葉。甘さより苦い。

「冬祈さんの様なお兄さんがいたらと思っていますわ」

 どうして、こんなに肝が据わっているのか自分でも不思議になるときがある。答えは残念な事に遺伝によるものだろう。

「妹なら間に合ってる」

 イギリス訛りの英語で当子に囁きかける。言葉が変わったのを冬祈は理解しているだろうか?

「欲しいのは、君自身」

 青い瞳が近付くのを思わず避けてしまった。夏深の時は、ヤバイと思った時には一瞬凍らされる。

「当子・・・ちゃん?」

 攻める様に言われると、髪を引っ張られる。痛みで眉を顰めた。

 日本語で、囁かれる。

「兄さんにはあげない」

「つ」

 髪が引っこ抜かれる感覚がする。ブチブチと嫌な音がする。

「痛・・・いっ」

 当子が訴えても無視される。このままはヤバイ。兎に角逃げなければならない。

「冬祈さんっ」

 正気を戻せば何とかなるのではと名前を呼んでも一向に反応ない。

「兄さんには・・・あげない」

 もう一度囁いた時に、一瞬手が緩んだ。その時に身を捩って手から抜けた時何本か髪の毛もくれてやると、冬祈との距離を空けた。

「やばい兄弟」

 ほとんど何を言ったのか聞こえない声で呟くと、そのままドアに向かって逃げ出した。

 逃げるのは嫌いだ。それでも、逃げなければならないときもある。