葬儀や告別式の間中、顔を繕って悲しみの中の女狐を演じた。何も考えないように努力することで、その役は楽にこなす事ができたが、その代わりに頭は寝てい るときよりも働きが悪く、爺の会社が爺の姉の孫である滝神 草、つまり頭山が社長の座に乗る事へ何らかの阻止も考え付かずできなかった。いや、しなかっ た。

 全てが終わってから、家へ戻ると丁度夕方だった。

「お嬢様、ふらふらじゃありませんか」

「平気。それより防具持ってきて。頭すっきりさせたいから汗かいてくる」

「こんな憔悴しているのに剣道なんて、駄目です。おやすみください」

 イライラする。

「いいから待ってこい」

 神経を緩めていたのか張っていたのかもわからなかった。怒気の含んだ声で言うと、戸惑った後、防具袋と竹刀を持ってきた。




「何だ」

 苛立った声で電話に出ると、困った様な声が返ってきた。

『忙しい君の貴重な時間を裂くのはとても気が引けるのだけど、道場でぶっ倒れている馬鹿子を迎えに行ってやってくれないかい?』

「なんで俺が」

『婚約者だろ? こっちはお迎えにさんぜれる状況じゃないんでね』

 怒鳴りつけてやろうとした言葉を飲み込んだ。

「場所は?」



 お寺の中にある古い道場の廊下で、手拭いを顔に被せて転がっているのを見て、死んでいるようだった。ただ、胸が大きく早く上下している。

 上下共に白い胴着に身を包んで事でより死人の様だった。

「何、当子のお迎え?」

 場違いにオレンジに頭を染めた少年がこちらに気づいて顔を上げた。手はそのままうちわで当子を扇いでいた。

「ああ」

「今日の調子だと丸い一日は起きないと思うよ」

「寝てるのか?」

 聞くと、呆れた顔で当子を見た。

「吐いた後も稽古続けて過呼吸起こした後も又稽古入って、立ってられなくなるまでかかり稽古やってぶっ倒れて、そのまま爆睡。よくここまで自分追い詰めれるよ」

 胸中で、全くだと呟く。

「・・・・ところでいつもの兄さんは?」

 答えるのに間ができた。

「辞めたんだ」

「ふ〜ん」

 やる気ない相槌を打つと立ち上がった。

「防具は道場においててもらうから、そいつ家に運んで寝させといてやってよ。俺カタの練習あるから」

 少年が入っていった道場からは、威勢のいい掛け声が漏れてきていた。

「立てるか?」

 声をかけても微動だにしない当子を仕方なくお姫様抱っこで担ぎ上げた。

 独特の剣道臭に汗臭さと微かな胃液の臭いがして、見た目よりいい状況ではない。それでも、華奢な体は思っている以上に軽かったのはせめてもの救いだった。

 顔にかかっていた手拭いがずり落ちて、瞼を閉じて寝息を立てる当子の顔が露になった。

 興味、ない。




「・・・・体だりぃ」

 身じろぎすると胴着の分厚い布の感触がした。

「起きたか」

 男の声がしたが、返事をするのも面倒だった。

「うっさいなぁ。ああ・・・筋肉が重い。上腕二頭筋がぁっ」

 もう一度身じろぐ。掛けられた布団がうざくて跳ね飛ばす、軽く緩められただけの袴に手をやってもぞもぞと脱ぎだした。

 汗で湿った胴着が気持ち悪い。袴が捲れて太股まであらわになるのも気にせず袴の紐を解こうと腰に手を入れた。

「悪いが着替えは後にしてくれるか」

 強張った声が耳に届くと、はたと聞こえた方に目をやった。

「げ」

 一気に脳に血流がまわる。

「・・・・ど、どうしてここに?」

 慌てて身を起こして、はだけた袴を正した。ついでに猫も被りなおす。

「私、道場に居たはずじゃあ・・・」

 ぼさぼさな頭を何とか直そうと手櫛を通しても、汗でびっしょりぬれ、そのまま寝ていた後がばっちり残っていた。

 面白そうにこっちを見下ろしてくる夏深は見ているだけで何も言わない。

 この部屋は見覚えがない。道場でも、自分の家でもない。

「ここは、どこですか?」

 意地の悪い笑みを浮かべた夏深を見上げる自分の顔に憔悴の色がないことを祈った。ここ何日はろくに眠れず、物も喉を通っていなかった。

「俺の家だ。一度お前の家に行ったが、そこの人間が自分ではお前を止めれないからと言われてここに連れてきた」

「そうですか、ご迷惑をおかけしました」

 とんだ誤算だ。今はお淑やかでいたい気分じゃない。とことん体を酷使してやっと眠れる精神状態で可愛らしく等いる気にはなれない。

 何とか帰る口実を作ろうとしたとき、夏深が言った。

「以前言っていたな。何か要求しろと」

 いきなりのことで一瞬なんの事だったか分からなかったが、しばらく間をおいてから頷いた。あれは本心だった。ただ貪られるのも貪るのも好きではない。世に言うギブ アンド テイクである事を好んだ。

「まず手始めにその猫っ被りを止めろ」

 驚くというよりも、ある種の恐怖で下唇を噛んだ。

「どう言う意味です?」

 ぼろが出たとは思えなかった。何よりも、本性がこれだとも思っていまい。

「そのままだ。それともずっと健気な女い続ける気か?」

 頭でソロバンを弾く。それには、頭の動きが鈍すぎた。

「女の地はえげついわよ。それを見て嫌気がさしたと婚約破棄でもなさるおつもり?」

「安心しろ、親父が許さん。お前からならできるだろうがな。それに女を草食動物だとは考えていない。・・・こう見えても懐は広い」

 皮肉んだ物言いが、ボケた頭の中の爺とも頭山ともつかないものとダブって見える。

「男の二言は見苦しいと先に言わしてもらっとく。確かに下手をすれば長い付き合いになる身。てめえには素で相手してやるよ」

 苦いものを吐くように言った。

 相手の顔に驚愕かうろたえでも出るかと思ったが、意外だった。面白いものを見るように笑っている。

「ああ、そうしてくれると有難い。起きたんなら風呂に入ってきてくれるか? 汗臭い上に防具臭い。おまけにその格好は・・・」

 言葉を濁して肩をすくめられると、思わず視線を追って自分の姿を見た。

 肌蹴た胸元から、ちらりとレースの下着が覗いていた。慌てて掻き合わせるときには、顔が熱くなるのがわかった。



 ロリコン趣味はないが、あれだととても15に見えない。だが、それにしても、10近く年下の子供に性欲をそそられるとは、

「お兄ちゃんどう言うつもり」

 服を貸してくれと言った自分に、秋江が不審顔をした。

「俺が女装趣味があると思ってんのか?」

「違うわよ。お父さんいない時にあのガキ連れ込んで、おまけに服かせって、何してたのよ」

「何もかれもない。とにかく服、もっていってやれ」

「はぁ〜あ」

 あからさまな溜息を漏らす秋江に、こちらが溜息をつきたくなった。



「しくったぁ」

 広い風呂場でシャワーを被りながら、苦く呟いた。

 暖かい湯に打たれて、頭の動きがましになった。どうして啖呵を切ってしまったのやら。

 こんな性格をさらけ出しては、相手を操縦できなくなるではないか。

 今から可愛くなっても遅くないかしらと思考をめぐらせても、血糖値が低く、まともに脳が動かないのか頭がすっきりしても一緒だった。

 取り合えず何か食べてから落ち着こう。

 やってしまったからには仕方ない。下手に媚を売らなくて済んだと割り切ろう。それに、そんな事よりもやらなければならないことがある。

 元々、夏深にはこの性格の情報は漏れるのは計算済みだったのだ。早まったくらいで焦るな。




「いやいや、折角だから今晩も泊まって行って下さい」

「うれしいんですけれど、うちに戻って色々と後始末もありますので」

 春夫を軽やかにあしらうと、夏深の車に乗り込んだ。

 発進してまもなく、今までの可愛らしかった目とは思えない挑戦的な眼差しを向けてきた。

「本性出せて言うご要望、一様聞くわ。最も、本心までは言わないけどね」

 優しく守りたくなさせる態度から、まるで手折られないようにささやかな努力をする薔薇のようだと心中で思った。

「ああ」

 苦笑って頷くと、ちらりと盗み見た。

 冬祈の畑仕事を手伝うときにいつも着ていた秋江の服の中でも一番安いTシャツとジーンズに身を包んだ当子は、平凡に見えるどころかより異色性を出していた。確かに綺麗な子だ。

「それで、心配していた会社は別の親戚が持っていった様だが?」

「オブラートに包んで言わなくってもいいわ。どうせ調べくらいついてんでしょ」

 湿った髪をかきあげると、

「爺が蹴落とした爺の姉の孫、それも今まで名前を偽ってあたしの運転手に甘んじてた男が、ガキとはいえ正当な後継人まで持っていた私を仕返しのように蹴落とした。ギリギリまで気づかなかったわよ。きっちり根回しまでされてた何て」

 足を組むと、信号待ちになった夏深を睨み上げた。

 恐怖心をあおる類の迫力はないが、どこかぞくりと来る目だ。

「先に聞いておくわ。私と頭山・・・現社長と言うべきかしらね。もし対立したら、あなたはどちらに着くの?」

「どちらって、婚約する以上君に」

「嘘はつかない方がいいですよ。四季家としては、おじ様としては、あたしに着かなくとも叩き潰されるようにはしないでいて下さると勝手に思い込んでいるけれど、あんたはあっちに傾いてるんじゃなぁいの?何てったって学生時代の会長と副会長の仲だものね」

 体が固まるのを感じた。

「中々いい情報網を持っているようだな」

「信号変わってますよ」

 鼻で笑うように顎でしゃくる。

「まあ私の力になってくれなんていいませんから、ただカードは使わせてもらいますよ。何てったって私のジョーカーですから」

 興味・・・ない。

 やばいなと考えた。草の奴の思惑通り、ドツボに入りそうだ。

 当子を家の前まで送ると、ドアを開けてやった。

「ありがとう」

 立ち上がるが、夏深が当子を車との間に挟むように立ちはだかったままいた。

「どいてもらえる。ちょっ・・・」

 顔に手をかけて当子の顔を無理やり上向かせる。

「アッシー代だ」

 屈んで、当子の薄い唇に自分の唇を優しく落とした。至極短い触れるだけのキス。なぜなら直ぐに当子が身を引き、夏深の脛を蹴り飛ばして車と怯む夏深の間からすり抜けて逃げたからだった。

「いって・・・ぇ」

 後ろで思いっきり戸を閉める大きな音がした。

 一瞬排骨が折れたと思うほどの激痛が走ったが、その痛みと同じくらい、可笑しさがあった。

 こんな事をした自分にも、可憐な少女を演じたり粗暴さすら見せたりする女の子が唇を触れるだけのキスであんなに真っ赤になったのも、馬鹿馬鹿しさがあった。同時に、泥沼に片足を入れてしまった自分に軽い同情をした。

 我らが副会長殿は、会長の趣味を見事に熟知している。こんなにも簡単に乗せられたのだから、



「さいって・・・」

 口を手の甲で拭いながら呟いた。

 あんな事をする男だとは思わなかった。何よりも、こんな些細な事で顔が熱くなるのが腹立たしい。

 こんな事で動揺している暇はないんだ。

 ・・・爺さんが死んだショックは深く考えないことにした。人間死ぬときは死ぬ。今は、明日爺に会うことになっても気が済むように進めるしかない。計画を、



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イね」

 ほとんど聞こえない声で呟いた。

「わたくしどもとしても、色々と手を回したんですが、残念ながら・・・」

 爺の家で何度も見たことのある『重役』のおっさんが言った。どこか遠巻きに聞こえるそれは、つい先日まで素で会話をできる相手だった『頭山』が、自分から絞れるものをほとんど搾り取ってしまったという事実を語っていた。

「・・・・・・・分かりました。裁判沙汰にする気はありません。確かに、会社はひんぱくした状況である以上、少しでも予算の削減が必要なのもわかります」

 重役のおっさんが重々しく頷くと、

「さっそくわたしどもの給料は大幅カットされました。事業所の方にも・・・・ああ、お嬢様に関係ないことでした」

 疎外感と見下した物言いに頭が痛くなる。

「社長が、お嬢様にはご婚約者である四季様のお宅にお住まいになってはどうかと申しておりまして、四季様の方からはいつでもいらして下さって結構とご返答頂いてります。・・・当社的にも四季家との繋がりがより深い事に越したことはございませんし」

  このおっさんの後頭部禿げを思いっきり殴りたい衝動に駆られる。確かに、当子が四季家の長男と結婚すれば色々と有利な事が生じる。それは当子が社長の椅子 に座っていなくても十分に発揮される。それが既に内縁の妻状態になり、おまけに今当子が住んでいるこの家も売るなり何なりできるのだ。全く、根性曲がり が、そこまで孤立させたいか、

 一様は最後の砦となりつつある四季家の縁談を、死ぬ前にとっとと進めた爺には感謝より少し腹が立った。そんな事をするくらいなら、会社が自分に渡るようにしておいてくれればいいものを、

「わたりました。少し考えさせてください。急に色々な事を言われても頭がこんがらがってしまって」

 紅茶を一口飲んでから、涼やかに言った。

 重役のおっさんを返してから、自室に戻って頬杖ついた。

  頭山のつきつけた二択の内、女狐の所へ行けば少しは困らせることができるだろう。何せ当子がいなければ四季家とのいいパイプライン消えるのだ。だが、夏深 と旧友である以上、全くラインを絶つ訳でもない。最悪の状況にはならないのに、女狐の加護に入ると言う事は、逃げ出すと言う事だ。それも頭山が作った逃げ 道を通って、

「こうなったら意地でも叩き落したくなるわね」

 無意識に指の背で唇を突いた。はたと、動きを止めた。

「こっちにも何か予防線張らないと・・・」

 一瞬の事でほとんど覚えていない唇の感触を半ば想像で思い出してしまって、頭をもたげた。

 確かに、当子としてもあれ位までなら許容範囲内だし、同世代の男など男とも思っていない節がある為、逆にあれくらい年上でないと意識もしないだろう。

「・・・ただの駒としてしか意識してないわ」

 きつく目を閉じた。

 確かに、贅肉も筋肉も過多ではない。顔は目鼻立ちがハッキリしていて嫌味っぽい口も強気な眉も嫌いではない。身長はあの家の血か高いし、嫌いなタイプじゃない。

 ゆっくり目を開けて、本棚に目をやった。漫画から専門書までバラエティに飛んだ本の中で、敵に恋してしまうストーリーの漫画の題名が目に付いた。

  いっそ憎き頭山に復讐相手なのに好きになってしまって嗚呼泥沼の恋。みたいな方がマシだ。無論、もしそんな風な感情が生まれれば、大きく成長する前に婆の ところに行く。だが、小さい頃からいた頭山に恋できるほど器用ではない。あれは種類的には兄みたいなものだ。まあ実際親戚のお兄さんだったが、何にせよ、 元がそういう家族的分類であった以上、アイ ラブにはなり得ない。

「つかあたしを騙し続けた男に愛を感じるような乙女じゃないのよね」

 ぼやくと、溜め息が出そうになったが、それを思わず飲み込んだ。

 しまった。高校の事を忘れていた。






   四



「・・・漫画なんて読むタイプだとは思わなかったな」

 ダンボールから本棚ら本を移し替えている当子を横目に、夏深が馬鹿にする。

「うっさい。手伝う気ないなら出てってよ。まだ用事が山とあるんだから」

「本くらいそのままにしとけばいいだろ?」

「物考えるときに本棚に本がきっちり入ってないと気になるのよ。あ、勝手に箱開けないでよ」

 結局四季家に同居もとい居候する事になった当子は、春夫の用意してくれた部屋にお嬢様の割には少ない荷物を持ち込んでいた。春夫には部屋の片付けは自分でするようにしたいので使用人を入れないでくれと頼んでいた。色々と見られて困るものがあるのだ。

「アルバムか?」

 分厚いファイルを取り上げようとした夏深からファイルを取り上げて、ダンボールの中に戻した。

「これは開けなくていいの!」

 怒鳴るとダンボールごと部屋の端に持っていった。

「大体何しにきたのよ。何、哀れな娘を馬鹿にしに来たわけ? お陰様でガッコにも行かせて頂けるし、衣食住も足りてるわ。おまけにおじ様は気持ちの悪いほどに親切よ。それに対してわたしは何にも返せないわ。ひどい屈辱よ」

 ヒステリーと言うよりは、ひどく苦悶的な物言いだった。

 振り返ると、顔を歪めて問いかけた。

「ああ、それとも前みたいに体で払いましょうか?」

 よくもまあこの状態でここまで啖呵を切れるなと思う。

「素直に払ってくれるってのか?」

「さあ」

 肩を竦めると、本棚の整理に戻った。

「・・・ところで、どうして爺ん所出向いてまであたしを百合乃下に入れたがったわけ?こんな状況で男にうつつが抜かせるタイプとでも思ってましたか?」

 黙々と作業しながら皮肉を飛ばす。

「そんなに嫌か?」

「そんなに籠の鳥にしたいか?」

 直ぐに反論が帰ってきた。

「ああ」

 短い答えに、当子が手を止めてじろりと夏深を睨んだ。それを甘んじて受けながら意地悪な心が擽られる。

「結婚する事になれば跡取りがいる事くらい子供のお前でも分かるだろう。何の権力もなくなったお前に俺の子供を生む以外何の使い道がある?」

 立ち上がって、本を手一杯抱えている当子を追い詰めるように近づいた。

「・・・威してるつもり? お稚児趣味はないって言ってなかったかしら」

 些細なキスで真っ赤になった子供とは思えない目でこちらへと体の向きを変え、真っ直ぐに見据えてくる。

「その歳で十分女に見えるのは損だな」

 一歩も後じさりせずに、見上げてくる当子の顔は大人の女ではないが、子供臭さがない。大の男に全く気圧されないその態度は、逆に独占欲をそそられる。

 前のように顔に手をかける。額に口付けを落とした後、唇にいく。

 逃げも身動ぎもせず、受け止める当子の目には、人を嘲笑う色があった。

 ゆっくり離れる夏深の顔を見上げながら、

「私がいつまでも籠から逃げれないトンマだと思い違いしないで」

 冷たさすら孕む声が耳を刺激する。歳相応に泣くなり恥ずかしがるなりしてくれれば手を出す気が失せるのに、強気を決め込むその態度を崩させたくなる。

 もう一度口付けを交わす。無防備な唇に舌を這わせ唇を割って舌を入れる。

 余裕をかましていた目に焦りが見えた。

「ンッ・・・・」

 相手の口内で舌を遊ばせると、当子の目が潤みだした。

本が当子の手からずり落ちる時に、痛みで夏深は身を引いた。

 口に鉄臭さが広がる。

「あまり、人を馬鹿にしていると・・・・後ろから刺されるわよ」

 腕の中に残った何冊かの本を放り出して、赤らんだ唇を拭った。

 こうも強情でどんなに些細でも反撃をしないではいられない攻撃性を見せ付けられた所為か、ふいにあの生徒会で遊ばせたいと言う草の声を思い出した。

「賭けをしよう。お前が勝っている間は俺は手を出さない。その代わり俺が勝っている間はお前は抵抗しない」

「あ?」

 不快気に眉を顰める当子に、偉く意地の悪い賭けを持ちかけている自分が馬鹿に見える。

「生徒会長である間は手を出さないでいてやる。その代わり、落選したりリコールされた場合、噛みつかないでもらおう」

 こちらの真意を測る様に目を細めて睨んでくる当子は、色々な事柄を脳内の秤にかけているのだろう。

「偉く親切に見えるけど、よっぽど倍率が高いのかしら? それとも一年は入れないとか」

「いや、俺は一年の時から3年会長職をやり通した。もっとも、俺の時よりは障害のある学園生活になるだろうがな」

 じっと見上げてくる目は卑怯だとすら思える。

「わかった。受けましょ」

 一瞬目を閉じてから、何か引っかかったように聞いた。

「普通入学して直ぐに選挙はないはずよ。それにリコールなんて高が高校であるの?」

 入学してからそこらへんの事を知って焦る所も見たかったが、抜け目なく聞いてきたことに答えないのは卑怯だろう。

「ああ、選挙は5月と10月が通例だ。生徒会が絶大な権力を持つ学校だからな、不正や横暴が発覚すれば生徒がリコールを行なえる」

「つまり、たった1ヶ月の為に早々にリコールしないと駄目ってわけ?」

 流石にたった一ヶ月の間に手篭めにする気はなかったが、その間に全く手を出さない保障はしかねた。

 全く、あいつは何を考えてこいつをここに来させたんだかと、旧友の思惑に苦笑う。それほどストイックな男でない事くらい承知の癖に、

 夏深の苦笑いをイエスと捕らえたのか、顔を顰めた後、鼻を鳴らして笑った。

「あんたの妹が現会長なんでしょ。悪いけど、その可愛い妹を引き摺り下ろさせてもらうわ」

 言われて思い出したと言ったら、秋江はどんな顔をするだろう。そして、当子なら理事長の娘を引き摺り下ろしてしまうのではないかと思うと期待すらする。

「ああ、性格の悪いもの同士、どう戦うのか見ものだ」

 一度睨みつけてから、落とした本を拾って本棚に入れだした。

 黙々と作業する当子を冷やかすように眺めていたい気持ちもあったが、これで寝る間も削らなければならない程忙しい身だった。仕方がないので部屋を去る事にした。



 ドアの閉まる音を聞いて本が手から滑り落ちた。

 指が震えだすのをよくもまあ堪えさせれたものだと自分で自分を褒めたいほどだった。

 鼻腔をつく微かな血の臭い。全くの恐怖心がないとは言わないが、それよりも恥ずかしさと緊張からくる震えだった。

 未経験者にアレは反則だ。

「・・・・これで賭けに負けたらされるがままかよ」

  かといって、いくらスポーツをしているとはいえ大の男の力にいつまでも抵抗が効くとも思えない。何せ相手が自分に手を出してはいけない法などどこにもな い。強制わいせつ罪で訴えれる立場でもない。何せ早かれ遅かれ夫婦になれば夏深の言うようにそれなりの事になる訳なのだ。

 だが、しばらくを凌げれば何の力もないただの子供から脱して、されるがまま与えられるがままの状態も抜けられる予定だった。だから、あの賭けは思ってもいない申し出だった。何らかの手を打って置く必要があったのは事実だ。

 だが、賭けに負ければ一層の危機的状態に陥る訳だ。賭けである以上、負けたからなかった事にしてくれ等とプライドの低い事ができる性分ではない。負ければ黙って受け入れなければならない。

せめて行くはずだった方なら知ってる奴多かったからのし上がれただろうが、何せ誰も知っている人のいない学校で入学早々理事長の娘を叩き落してその座に座り込まねばならない等無茶も甚だしい。

「・・・・・ん?」

 抱えた頭から手をどけ、ふと思い出した。左九が、確か百合乃下に入ると言っていなかったか?

「ぶつぶつ言ってた気が・・・」

 ぶつぶつと言いながら携帯を手に取った。

 無茶な稽古をしてぶっ倒れたとき、うちわで扇ぎながらぶうたれていた中で、公立に落ちたから百合乃下に行かなきゃなんないとか言っていた。そして、反りの合わない従兄がいる・・・と、

「さて、どう風向きが変わるか」

 呟きながら通話ボタンを押した。




「おはようございます。冬祈さん秋江さん」

 ブレザーの制服に身を包んだ当子が朝食の席にやってくると、秋江はウンザリした。

「おはよう。当子ちゃん制服似合ってるよ」

 優しい笑顔で冬祈が答えるのを胸がキリリとしながら眺めた。

 婚約は正式でなかったにしろ、それを破棄した女にまで優しく接する姿が嫌だった。

「ご馳走様。お兄ちゃん行って来ます」

 頬に挨拶のキスを落としてからさっさと出て行った。

「ごめんね愛想のない子で」

 頬を擦りながら肩を竦めた。

「いえ、お兄様思いなんですよ。私が冬祈さんに不躾な事をしてしまったのを冬祈さんの変わりに起こってくださっているんですよ」

 本当に綺麗な子だ。それに優しいし、この子なら本当に結婚しても良かった。

「そのせつは本当にごめんなさい。冬祈さんが悪いわけではないんです。・・・おじい様が、なくなる前に・・・」

 急に目を潤ませて、それを慌てて拭う姿に胸が痛む。先日亡くなったおじいさんの事を思い出しただけで泣いてしまう弱さが守ってあげたい欲に訴える。

「僕は気にしてないから、ね?」

 気遣い深気に顔を覗き込むと、少ししてから気持ちが落ち着いたのか、照れた笑いを見せてくれた。

「早くご飯食べないと、入学式に遅れちゃうよ」




「滝神当子・・・さん?」

 西澤 猛が新田 燐火の言葉を復唱した。

「あのクソ女に唯一勝てそうな子よ」

 指を組んでそれに顎を乗せると、にっこり微笑んだ。

「聞き覚えがないと言いたいんですが、先日ここに入学する従弟からその名を聞きました。暇であれば入学式が終わってから会いたいと言っている・・・と」

 その発言は予想外だったのか、セミロングの髪を揺らして燐火が小首を傾げた。

「燐火先輩と同じ目的で話したいそうです」

「・・・嘘」

「本当です。ところで、どうして先輩は新入生に白羽の矢をたてたんですか」

 聞かれて、燐火がよくぞ聞いてくれましたと目を輝かせた。

「理事長の長男の嫁なのよ。私のクイーン役には中々いいと思わない? あのクソに対抗するには役不足だけど、これは最後のチャンスなの。やってやれない事はないはずよ」

 三年になった燐火には後がなかった。その意気込を止める方法を猛は思いつかなかった。

「もちろん私もクイーンに会わせてくれるわよね?」



「華ちゃん」

 オレンジ頭の華 左九が呼ばれて振り返った。

「スカートもっと長い方が似合うと思うけど」

 まじまじと当子を眺めてから、左九が言った。

 髪を二つの三つ編みに分け、ほとんど度の入っていない眼鏡を胸ポケットに入れた当子はいつもの美人度を前面に押し出さない、一見では地味な普通の女の子に見える。スカートの丈は膝が丁度隠れるくらいと、女子高生にしては長めだった。

「御免ね。好きじゃなかったんでしょ。その先輩のこと」

 並んで歩き出すと、窺うように覗き込んだ。

「別にいいし。それより当子やっぱ剣道部はいんないのか?」

「うん、あたし高校では会長最長記録を作るつもりだから。華ちゃんは入るんでしょ」

 鞄を肩に掛けなおすと、左九が短く嘆息した。

「髪このままでいいなら入るけど、切れとか黒くしろって言われるならはいんね」

「それなら一緒にやらない。生徒会」

「・・・もうやる気満々?」

 少し呆れ気味に返しながらも、どこか優しい笑顔を向けていた。

「おうよ」

 心中で当子が、性格の知れている手駒はあるに越したことはない等と呟いたことに、少年は気づいてはいないようだった。

 校舎の奥まった所にある美術室まで行くと、戸の前で眼鏡をかけたいかにも学級委員長な男が立っていた。

「はじめまして、西澤です」

 親戚のわりに、左九とはあまりにも差のある男に当子ちゃんスマイルを浮かべた。

「来た?」

 ガラッと美術室の中から、セミロングの黒髪の正統派の美人が出てきた。

「滝神さん?」

 目が合って問われると、浅く頷いた。それを見てにこっと笑うと、美術室に招き入れた。

 美術室の木でできた四角く汚れや傷の目立つ椅子を勧められて、当子と左九は座った。

「はじめまして、新田 燐火です。苗字で呼ばれるの嫌いだから、燐火の方で呼んでね」

 当子も猫被りバージョンでは燐火にも負けないが、今の髪型では引けを取った。

「猛君にあなたの事を聞いて、私と同じ目的を持っているなら力を合わせられないかと思ってここに来させてもらったのだけど、いけなかったかしら?」

 トントン話に行きそうで、当子は眉を顰めた。

 西澤と会いたかったのは以前生徒会をやっていたからだ。文面だけのルールを聞くよりも、人に聞いたほうがいいと思ったし、上手くいけば上の学年に伝ができる。だが、この燐火と名乗る女の出現は話が上手すぎる。

 一体何を考えている。

「目的・・・とは、リコールのことですよね?」

「ええ、何でそんな事をしたいのか分からないけど、少なくとも、新生徒会を作りたいって訳でしょ?」

 女は男以上に注意が要る。色香や女だからと言う武器が使えない。まあ高が高校だ、会社を賭けた策略や魂胆に比べればましだろう。だが、何故この女はリコールしたがるわけを聞かない?

「・・・・・・私が聞くのもなんですが、高が1ヶ月を待たずに態々リコールしたがる訳は何ですか?」

 少し考えてから聞くと、それくらい聞かれると見越していたのか、答えはすぐに返ってきた。

「あ なたは新入生だから知らないかもしれないけど、選挙はしても実質は後任に引き継がせているようなものなの。そして、四季さん率いる現生徒会の人間と生徒会 を運営したくはないの。リコールで選挙をする時は現生徒会とリコール側とのグループで選ぶの、全く新しい生徒会か、それまでの生徒会かを選ぶわけ、だか ら、私としてはリコールして勝てば万々歳なのよ」

 それは、生徒手帳で早々とチェックしておいたが、実質は後任への引継ぎの形になっていると言うのははじめて知った。

 この女が何故そんな事をしたいのか、事実を知る必要がある。

「グループと言う事は、それなりの人数が要りますよね。それについての目途は立っているんですか?」

 にっこり笑うと、

「最低四人いればいいの。あなたがイイと言うのなら、猛君に会長あなたに副会長私は会計で三人はそろうの。後最低一人くらい何とかして見せるわ」

「失敗すれば中々痛い状況になるのに、態々そんな事に参加する人がもう一人もいるんですか? それに、ただやっても負けるのは目に見えてます。何か根回しか策でもあるんで?」

 挑戦的に質問すると、優雅さすらあった笑みに崩れが出た。

「そうね。確かに失敗したら赤っ恥よ。それでも、勝てばいいだけでしょ。・・・それに、運動部には顔が利くの。これでも運動神経がずば抜けてるから色々お世話してあげてたのよ。後いくつか考えがあるは、全く勝ち目のない勝負を挑むほど馬鹿じゃないわ」

 野心家で自信家、時には平気で人を踏み台にするタイプ。

「・・・手を組む、と言う事については一日考えさせてください。ただし、最低条件として、私を会長に据えて下さい。そうでなければ考える価値もない物になりますから」

 そう、賭け上生徒会長にならないと意味がない。

「こっちは構いませんよ」

 話を聞いていた西澤が燐火に肩を竦めて同意した。

「なる人がなかったから西澤君に頼んだだけだし、やりたいっていうならあなたを会長ポストにして戦いましょ」

 左九が、発言の許可を求めるように手を上げて、「俺入ってやってもいいけど」と短く言った。

 それに明らかな不快感を西澤が示したが、燐火の方は少し驚いた顔をしてからうれしそうに笑った。

「じゃあ書記をお願いしていいかしら。滝神さんも知り合いがいる方がいいでしょうし」

 どう言う風の吹き回しだ。そういう面倒な事はされるタイプだと思っていたのに。

「じゃあ取り合えず考えてもらわないとならないから、又明日、放課後に来てもらえるかしら」




  ここまで、上手い話が転がってくるとは思わなかった。詳しくは分からないが、燐火と秋江の確執は一年の半ばから始まっている。まず一年の時燐火がミス百合 乃下を秋江から勝ち取った。その年の後期選挙で秋江が燐火を蹴落として生徒会に入っている。その後二年の前期に二人とも出馬、秋江は会長に、燐火は落選し ている。そして、その年は文化祭でミスコンは行なわれていない。完全に個人的にイガミ合いだ。今回のリコールもその一つだろう。

  燐火の言うように、色々な運動部で燐火は活躍している。選手としての出場でなくともコーチをしただけでその部の成績が例年よりも上がっている。確かに運動 部からの票は期待できるかもしれないが、運動部に入っている生徒は全体の3割か多く考えても4割、まあ他の学校に比べれば多いが、それでも手堅い数字を確 実に稼げている訳ではない。

 夏深や他の人間も他の学校と違って生徒会の権力が強いと言う話がある以上。真っ向勝負で勝てる訳はない。

 自分なりに裏工作の必要はやはりあるだろう。

 それでも、話は思ったよりも早く付きそうだ。第一関門である人間の問題がこうも早くクリアするとは正直思わなかった。

 怨恨理由の燐火と、今一考えは掴めないにしろ左九はそう問題ないだろう。左九の従兄の西澤猛は理由は今一ハッキリしないが、何か裏があるのではと深読みしても始まらない。兎に角、このグループで勝ち、新生徒会を発足させなければならない。

 リコール申請後一週間後に選挙が行なわれる。つまり、その間に現生徒会が根回しをできるわけだ。

「どう良く見積もってもギリギリ負け・・・か」

 それと同時にされるがまま決定である。

  一度リコール等と大それた事をして大舞台で顔が知れれば、それが一度失敗すれば次の選挙で落ちるのは目に見えている。まず秋江が生徒会にすら入れないよう にするだろう。今秋江に取り入って、5月の選挙で会長になれるように手を回せばある意味確実だろう。だがそれまでの一ヶ月間は負けの期間である。無抵抗の 女を弄ぶのはさぞ楽だろう。

 リコールに成功すれば秋江を完璧に敵に回した挙げ句、四季家へ泥を塗ったことになる。いくら女狐の娘と気に入ってくれているとはいえ、実の娘に恥をかかせた自分をおじ様はどんな顔で見るのだろう。

 こう計算していくと、あまりにも不公平な賭けを受けてしまったものだと痛烈に思う。賭けを受けなければ死ぬ気で抵抗もできただろう。それを棒に振ってしまったのだ。

「馬鹿だったなぁ」

 おまけに本当はこんな事に頭を使っている暇はないのに、もっと別のことで頭を回して策を練り、罠にはめる準備をしなければならなかったのに・・・

 自室のソファーに座って己の軽率さを侮辱していた当子の耳にノックの音が届いた。

 顔を上げると既にドアが開けられ、今は見たくもない男が入ってきた。

「魔の手から逃れる算段ははかどってるか?」

 ドアがしまってから、口汚く罵った。

「ウッサイ変体。勝手に部屋に入ってくんな。ちったあ気遣いとか優しさってもんを弟からもらったら?」

 口端を歪めて、苦く笑う。

 苦笑いばかりする男を怖いと言う感情のみで見た事はないが、全く怖くない訳ではない。賭けがなくても、いずれ抵抗心まで奪い去ってしまわれそうで、それが怖い。誰かの思うようになるのも、ただ奪われるのも好きじゃない。

「今日は少し面白い話を聞かせてやろうと思ったんだが、いらないみたいだな」

「面白い話ぃ?とてもジョークが言えるとは思えないけど」

 言い返す声には出ないことを祈る。近付いてくる夏深の所為で体が強張っている事を、

「憎まれ口を叩くなとは言わないが、抵抗はするなよ。特に舌を噛み切られちゃ話にならないからな」

 皮肉みながら、ソファーの横に座られる。

 表面を取り繕っても、内心は心臓が痛かった。

「草が大口融資を取り付け、新社長になってから、少しは株も上がりだしたようだ」

「そ れくらい知ってるわ。リストラの変わりに他の無駄は馬鹿みたいにカットしてる。それに、あたしがいなければあんな融資を受けれたかは疑問ね。何せ世界の四 季家の跡取り息子の所に親類の娘が嫁に行くんですもの。おじ様も頭山の事業に一枚噛むらしいし、四季の子会社にでもなるつもりかしらね」

 それくらいの調査をしない程抜け目な訳でわないと鼻を鳴らすのを見て、夏深が面白そうに当子を見た。

「その程度で面白い話になると思ったの?せめて頭山が交通事故にあったくらいの話でないと笑えないわね」

 睨むように見上げると、目が合った。ただ、逸らすのは気圧されたと思われるのが嫌でそのままガッチリ視線が合ったままだった。

 夏深の顔が近付いてくるのを避ける事無く、ただ真っ直ぐに見据える。唯でさえ神経の多い唇を意識してしまう。

 大きい手が、今日は腰に回される。逃げたければいくらでも逃げられる。いつでも賭けを無効にしてと抵抗できる。でもそんな事をすれば戦う前に負けを認めたことになる。

 女の二言は見苦しい。考えが甘かった自分が悪い。

 キスの味なんて覚えてはいられない。唇をせっついて、歯をなぞり、口腔を荒らして舌を弄ぶ。15歳相手にしてはとてつもなくいやらしい濃厚なキス。

 これで平凡な顔が相手なら、夏深でなければ、飲まれる事なく平静でいられるのだろうか?それともこの行為自体に抵抗力を奪う魔力でもあるのだろうか? どちらでも、危険に変わりない。

「ッ」

 息が苦しくて、合間の息継ぎで声が漏れる。情けなさ過ぎて涙腺が緩くなる。

 夏深の空いていた左でそっと目を覆い隠し、そのまま今までで一番長いキスが続いた。

 やっと開放された口から、吐息がもれた。

「親父が今度俺とお前の婚約を正式にするそうだ。まだやっぱり変えてくださいとおねだりするなら間に合うぞ」

 いつもの余裕のある声だが、少し掠れて聞こえるのは頭がくらくらするからだろうか?

「無計画に婚約者を替えたりしない。それに、それを言うならこっちよ。今ならまだ大事なカードを取り戻せるわよ」

 自分でもよくこんな場面でこんな事を口にできると感心する。

 目を覆っていた手がどけられて、初めて涙が流れていた事に気づいた。これは何の涙だろうと思案する。泣く理由は恐怖・苦痛・悲哀だ、それのどれとも言えない。

 しばらく何の皮肉も言わずに見下ろしてきていた夏深が口を開けた。

「賭けは無効だ。嫌なら抵抗すればいい」

 突きつける命令口調に息の詰まる腹立たしさが起こる。

「男の二言は見苦しいわ。数日中には指一本触れられなくなるのが惜しくなった訳?悪いけど私は賭けをやめる気はないから、私が勝てば嫌でも要望は飲んでもらう。言い出したのはそっちよ」

 怒鳴り声に近い声で言った後、思い違いでなければ、どこか苦しげな顔をされている事に気づき、屈辱心が沸き立つ。

「ああ、いくら抵抗しなくとも、泣かれては後味が悪いという訳だ。偉く優しい紳士だこと。今度からはそちらのご所望の反応を示しましょうか? 安心して今度からこんな失態は」

 大きな手が、口を塞ぐ。

 見下ろしてくる相手の目に説明しがたいものが揺らいで見えた。いつもの皮肉っぽい苦笑いを浮かべながら、小さく黙れと命令される。

「賭けを続ければいいんだろ」

 どこか投槍に言うと、優しく額にキスを落としてから、振り向きもせずに部屋を出て行った。

 心臓が、痛い。






   五



 夏深のお陰で、一つだけ強いカードを得る方法が思いついた。ただし、下手をすればカードどころの話ではなくなる。それに、全く通じないかも知れないという不安要素もいくつかある。

 燐火の言う伝を当てにし、又独自に手を回して、ギリギリラインの勝ちを目指すか・・・

 実際の燐火人気が大きく左右する。

 どちらも安全パイとは言い難い。

「華ちゃんが生徒会に興味あるのは意外だったな」

 少し思案顔をしてから、

「・・・生徒会に入れば、この頭でも剣道部掛け持ちできんじゃないかと思って」

「あー、道場でもそれで通してるもんね」

「まああの時の地獄の稽古に比べれば楽かなって・・・」

「あの時は緑頭だったけどね」

  中学の時にかなりの色に頭を染めてきた左九に道場の先生方は当初はマジ切れをしていたが、特別メニュー一週間やらせても一向に黒くしない左九に根を上げた のは先生方だった。結局左九の根性勝ちだった。まあ少しズレたプライドだが、あんな吐血するような稽古に根を上げないところは感服した。

「うん、色頭は俺のポリシー」

 道場でも仲が良かった左九と軽口を叩きながら美術室に向かっていた。

 左九をナイトの駒として使えば、秋江からカードが取りやすくなるだろうと考えながら、美術室の戸を開けた。

「いらっしゃい当子ちゃん。いい返事をしにきてくれたのかしら?」

 滝神さんから当子ちゃんと馴れ馴れしい呼び方に変わっている事には最早何も言うまい。

「ええ、それでいつリコールをするんで? あまり遅くなると前期選挙と被ってしまいますけど」

「あなた方がいいって言うんなら、今日にでも書類を出そうと思っているの。一週間後にリコールの選挙になるわ。新学年になってから前期選挙までの間は新入生に選挙権はないから、2・3年だけが狩り出されるの」

「それで・・・現生徒会に対するリコールの理由・・・つまりは不平は何なんですか?」

 ルールも大事だが、理由が一番大切だ。不平が多ければ新しくなることに賭けるだろう。が、普通だと変化は避けて今のままを選ぶだろう。最悪全体評価がよく、一部だけが不平となればリコール事態に大義名分が生まれなくなる。

「自 由な風校が偉く硬くなっているの、文化祭も飲食店が昔の半減、後夜祭もなくなったし、あたしが一年の時はバンドを呼んでライブも派手にやったのにそう言う のも一切なし。まあ百合乃下でしかできない派手な文化祭を取り戻そうが第一スローガン。それに愛好会ですら新設が厳しくなって、おまけに人数のない部は即 行愛好会に格下げで部費が出なくなるの。学校的に力を入れている部活には優しいけど、他は結構部費削減されてるのよ。これだけじゃあ理由には不十分かし ら?」

 まあまあ悪くない。これで超イイ生徒会なんかだったら100%無理だった。秋江嬢がいたってリコールされそうな生徒会をやっていてくれたのは拝みたいくらいに有難い。

「燐火先輩がそうさせたんですけど・・・・」

 ボソッと呟いた西澤の溝内を見事な技で燐火が抉った。

 悶絶する西澤を横目に、燐火が涼やかな顔で付け加えた。

「秋江さんって、入学当初から私と張り合うところが合ったのよ。だから私がやりたかった事をことごとく禁止したがるの。個人的恨みで全生徒の楽しみを奪い居心地悪くするのは駄目よね?」

 哺乳類人間属女狐科の女だと思った。

 まあこの女狐が居たお陰でいい風向きになっている。ただし、生臭い風だ。



「ホンット性格悪いですね。本気で勝てると思ってるんですか? 態々一年生を盾にして」

 当子と最悪な事にメンバー入りした左九を返してから西澤は呆れたように言った。

 確かに今日直ぐに選挙すれば勝つ自信はあるが、理事の娘である秋江が本気を出せばがっぽり資金をばら撒ける。燐火にいくら恩があっても、後輩やそれからを考えれば部がよりよく存続事を保証してくれる秋江に付くのは目に見えている。文化祭だって何とでもできる問題だ。

「正直、これが私の最後の賭けよ。チャンスを今まで待ってきたけど、もうギリギリなの。特に知りもしない子達の事を心配したりはしないけど、猛君、あなたは別に抜けてもいいのよ。言い寄ってくる男で穴埋めをすればいいんだから」

 スケッチブックを取り出すと、木炭で燐火を写生しだす。

「いいですよ。どうせ目立たないタイプですから、僕の事なんてすぐにみんな忘れます。それに、一年の時にモデルをやってくれたお陰で入賞もできましたからね」

  美術部のない百合乃下で、西澤は学校から特別に許可を貰って美術室を使わせてもらっている。家では気が散って描けない為、態々学校に居残って出品する絵に 取り掛かっていた。風景画を描いていた頃は全くかすりもしなかったものが、人物画を描き出したとたん、優秀賞に入ってしまった。将来これで食べて行きたい 西澤としては、モデルをしてくれるこの美人には大きな恩があった。

「その癖私になびかないんだもの、こんな美人も林檎も猛君には同じモデルでしかないのよね」

「僕みたいな地味な男に興味ないくせに、思わせぶりな物言いをあまりしているとストーカーされますよ」

 その物言いに呆れたように溜息をついた。

「ところで、どうして左九君の事嫌いなの?まあ派手でそので不良っぽくない掴み所のないタイプだけど、それほど犬猿しなくてもいいんじゃない?」

「御家柄、ってやつですよ。こればっかりは他人には分かり辛いでしょうね。まあ殴り合いの喧嘩なんて始めませんから安心してください。ただ全く喋らないだけですから」

 手に力が入って、線が太くなってしまった。

 そう、こればっかりは人に何といわれても払拭されない。植えつけられた憎悪だ。

 しばらく、会話なく、西澤が黙々と手を動かしていた。いつもなら読書なら音楽を聴くなりしながらモデル役をする燐火も、今日は考える事があるのか、時々視線をさ迷わせる程度しか動かなかった。

 月に何度か、昼休みか放課後に1・20分時間を取ってもらっているが、今一何を考えているのか分からない人だった。躍起になって生徒会等しなくてもいいのに、なぜ自滅しそうな策に出るのかも分からない。高が高校生活だ、ほどほどでいいだろうと思ってしまう。

「ねえ、猛君」

 壁に貼られたモナリザのポスターを見つめながら燐火が口を開けた。

「もし全校生徒の前で笑いものになるクソ女を見たら、私、きっと笑い転げるわ」

「はあ」

 秋江を馬鹿にする発言は今更な為、気のない返事を返す。

「でも、笑い種になる率の方が高いのに、何であの子は会長になりたがるのかしらね。このまま行けば負ける率の方が明らかに高いのに」

 モナリザとは似ても似つかない燐火が、不敵に笑んだ。とても、モナリザの持つ母性愛とは全く違う微笑み。

「今更私が他人任せなんて言ったら、驚く? 何が何でもなりたいなら、理事長にお願いくらいしてくれるかしら、当子ちゃんは」

 確かに、燐火らしくはなかった。

 よく知りもしない女の子に、勝敗を預けるなど。



 秋江が、冬祈の花の植え替えを手伝おうと庭に出たとき足を止めた。

 あのいけ好かない女が冬祈につきまとっている。

「・・・っ」

 冬祈がうれしそうな笑顔で当子と話している。内容は聞こえないが、話が弾んでいるのか、時折笑いまで漏れていた。

 冬祈がとても大切に育てていた内の一つである薔薇の鉢を、とても嬉しそうに当子が受け取ったのを見て、堪らずに回れ右をして部屋に戻った。

 当子が来てから、父親は自分の娘よりも可愛がって、夏深は何度も当子の部屋に入って言っている。そして、冬祈までもが当子に優しく笑いかけ、被害妄想をなくして見ても、明らかに秋江の居場所は当子に侵食されている。

 いつも笑顔で使用人たちにまで優しく接して、家族だけでなく家中からちやほやされている。

 あんな女目障りだから家から追い出してと言えば、きっと悪者にされるのは自分で、あの女は慈悲深く私を庇い立てまでするかもしれないと思うと、胃が痛い所ではない。

 汚れてもいい服にまで着替えて、冬祈の手伝いをしようとしたのに、冬祈は当子の方が余程気になるらしい。

 泣きたい気持ちでベッドに突っ伏すと、しばらくの間もないうちに携帯電話が鳴った。こんな時に誰かと喋りたい気分ではない。おまけにこの着メロは生徒会の連中だ。

 通話ボタンを押さずに電源を切ってしまうと、さらに胃が重みを増した。

  夏深が学生時代に生徒会長をしていたし、冬祈だって役員をしていた。何よりも父親が理事長をしている為、当然のように会長をしているが、夏深のように歴代 でも名の残る事をした訳でもなく、ただやらされていた。まあ、あの高飛車な女を少しでも日陰に追いやるのには役立ったが、その程度のものだ。何よりも生徒 会のメンツとは別に友達でもなんでもない。

 どうにかして、当子をこの家から追い出さないと本当に自分の居場所が根こそぎ奪われる。大体、当子の立場と秋江の立場なら、当子が虐げられて秋江のシモベ然としなければならないはずじゃあないか。

 泣いて鼻を啜りながら、秋江は起き上がった。

「弱みを握ればいいのよ」

 鼻声で一人呟いた。

 あの面の皮を剥がせば性格のえげついだけの女になる。それを証明すれば父も嫌になって家から放り出すだろうか?・・・いや、あの高飛車女は絶対に本性を現さない。なら当子の面の皮を剥ぐは難しい、下手をすればこっちが悪者だ。

 ノックの音がした。

「秋江さん、いらっしゃいますか? 当子ですけど」

 ドア越しでくぐもって聞こえる声に身を硬くした。

 涙を拭って鼻を啜ると、できるだけ平静を装ってドアを開けた。

「何」

 突き放すように棘のある声で聞くと、白い柔らかなスカートを揺らして当子が後ろを指し示すようにちらりと見てから、

「冬祈さんが、秋江さんが遅いと言うので、呼びにきたんです。私ではお手伝いができませんから」

 こんなに無垢で可愛らしい笑顔を向けられれば誰でもよろめく、と思っているのか?

「もう行くところよ。それと、婚約破棄した相手に取り入ろうとするのやめたら。夏深に可愛がってもらえばいいでしょ?」

 当子の顔に赤みが差して、焦ったように手を口に添えて弁解した。

「あ、ごめんなさい。冬祈さんが優しい方だから。つい甘えてしまって・・・」

 あまりにも憂い初恋でもしているような当子の様子に、カチンと来た。

「夏深に可愛がられてるんでしょ?知ってんのよ、何度も夏深があんたの部屋行ってんの。冬兄にまでちょっかい出すなんてサイテー」

 さらに赤くなった当子がどもって言った。

「そ・・・そんな。夏深さんとはお話以外は何もしていませんわ。だって、夏深さんみたいな大人の人には私なんて子供過ぎて・・・・そ、それに、冬祈さんの事は確かに私の勝手で婚約はしませんでしたが・・・・その、自然が好きで誰にでも優しい方だから」

 顔を背けて、言葉を尻蕾にして言う。この無知な女にむかっ腹立つ。

「・・・・・」

 もしこれで遊びまくっていれば、みんな愛想を尽かすんじゃない?

「カマトトぶって、どうせ今まで遊びまくってたんでしょ? それだけ顔がよればいくらでも男が言い寄って来るでしょ?」

 わざと嫌味を言うと、その発言に少し驚いた顔をした。

「そんなこと・・・いくらなんでも酷いです。私そんな人間じゃないです」

「まあ、そんな事になれば、婚約の話はぱぁーよね」

 当子の横をすり抜けて、冬祈のいる庭に向かっていった。当子が今にも泣きそうな目をしたのにいい気みだと思い、少し胃が軽くなった。

 処女で何も知らない女だから冬祈も優しいのよ。

 他人のものになっている当子を見ればあのシビアな夏深は婚約などしないだろうし、父親だって呆れるわ。

 事実があればいいのよ。




「当子ちゃん!」

 休み明けで学校に登校すると、まずまず親しくなりだした裕美(ゆみ)が当子に興味津々な顔で声をかけた。

「先輩に聞いたんだけど、当子ちゃんリコールして会長やるってホント!?」

 バスケでスポーツ入学してきた裕美は、早くも部活動を開始している。日曜も部活があったのだろう、他よりも早くに知ったのだろう。

「うん。そうなの。燐火先輩って言う人に、頼まれて、すごい熱意だったから負けちゃった」

「えっ!燐火先輩に会ったの当子ちゃん。うちの先輩がね。勝利の女神って教えてくれたんだけど、ええ、その人に頼まれたの?うっそいいな!」

 ショートヘアーの快活な感じは嫌いではない裕美が心底羨ましそうに言った。

「あたし絶対当子ちゃんに入れるから!」

 拳を硬くする裕美に柔らかく言う。

「一年生は選挙権がないんだって」

「ええ、そうなの。残念」

 席に鞄を置くと、他の男女も何人か寄ってきた。

 部活をやっている人間と、その人に聞いた人、後は掲示板を見た人間が、興味深げに集まってきた。

 さて、これでイイ子を演じれば、一気にこのクラスではやり易くなる。

 何せそういった操縦テクだけは女狐仕込。そんじょそこらのぶりっ子とは違う。



「・・・いい気味だったわ」

 頬に手を当てて、うっとりした顔で燐火が言った。

「秋江さんのリコールを知ったときの顔・・・。リコールを申請されるだけで既に不名誉なんだもの。そりゃあいいひん曲がった顔をしていたわ」

 見ものではあるだろが、これからが大変だと当子は心中で呟いた。

 カードが手に入らなければ負けは決定だ。

 こればっかりは相手にかまをかける以外に手がない。相手が自分の望む方法でカードを取りにくるとは限らない上に、失敗すれば大損。おまけに無反応だと自然的に夏深との賭けは負けである。

 意地を張った以上。負けられない。

「先輩」

 西澤の制止に燐火がはっとして咳払いをした。

「今 日集まってもらったのは、新政権に変わってから多少の引継ぎはあるけどほとんど1からやらなきゃなんないのよ。早急としては新入生歓迎会とそのオリエン テーションね。選挙後一週間も時間がないから、今の企画を引き継いで、それ+エンターテイメントって感じがいいと考えてるのだけど、当子ちゃん達の意見も 聞いておきたかったから」

「それで、いいと思いますよ。ただその三日で色々と手は加えたいと思いますけど、何せ落選すれば無意味になりますから」

 肩を竦めて、聞いた。

「それで、票は取れそうですか?」

「もちろんよ。・・・と言いたいけど、ホント言うとギリギリ箱を開けなきゃ開けるまで判りかねるわ。色々手は尽くしてるんだけど、どこまでこちらに靡いてくれるかわからないし」

 左九が当子を見て、

「負けたらどうする気だ?」

「そういうネガティブな事はギリギリまで考えないことにしてるの。まあ落ち込んだら又稽古に行くわ」

 心配そうに眉を顰めてからは何も言わなかった。

「そう、勝負は最後まで諦めちゃ駄目なのよ。まあ今日は会長さんに許可を取っときたかっただけだから。私はこれからしばらくは靡いてくれるように紛争しないといけないから、次の金曜日、選挙前日にここで会いましょ」

 そう、そこまでが制限時間。最悪を考えると、燐火に少しでも動いてもらうに越したことはない。




「・・・・・こんな事してる暇あんの?」

 思わず呆れた声を出した。

 部屋に入ると夏深が既に中で待っていた。

 ドアを閉めて、こんな口調で喋っているのが外に漏れないようにしてから、言うと、夏深は顔も上げずに生返事をした。

「漫画持ってて馬鹿にした癖に」

 ガラスの仮面14巻を手にしている夏深に独り言のようにぼやくと、夏深はそのままに放って置いて勉強机に向かった。

 漫画喫茶代わりに静かにしていてくれるならば大して気にもしないですむ。下手に刺激してちょっかいを出される方が厄介だ。

 ガラ面なら関数がある為、後しばらくは静かなはずだ。

  ノートパソコンを開けて、エアメールをチェックした。確かに、頭山はやり手だ。運転手をしていた傍ら、色々と勉強していたのだろう。爺さんが逝ってから一 次下がった株も、すぐに立て直している。緩やかだが上昇傾向だ。だが、このまま素直に渡すわけには行かない。その為に全財産を投げるような賭けに出たの だ。

  この賭けと、夏深との賭け、どちらが大変かと溜息をついた。頭山に勝つ為に色々裏で動いているのは頭を使うだけだ、ただばれない様にしなければならない。 が、夏深との賭けはどうにも困る。負けるわけには行かないのは同じだが、夏深との賭けは自分が動いて人を動かさなければならないため、あたらな勝負事を生 んでしまっている。生徒会長になる為に、秋江を引き摺り下ろすのが大変なのだ。秋江が思い通りの人間で、期限内に行動してくれるかで勝負が決まってしま う。

「続きはないのか?」

 振り返ると、41巻を本棚にしまっている。随分読むのが早い。

「今の所そこまでしかないの。42まで出たはずだけど買う間がないの」

 短く息を吐いてから、パソコンを閉じると小馬鹿にした口を聞いた。

「少女マンガなんて読むタイプだとは思わなかったわ」

「ちょっとした息抜きだ」

 肩を竦めた後、嫌味っぽく笑う。

「秋江が目を血走らせてたところを見ると、もうリコールの申請をした様だな。現職の人間を叩き落すのは結構な労力だろうな」

「お陰様で順調よ。来週からは無断で入って来ないで貰わないとならないわね」

 そう、しばらくすればこの男の呪縛は消える。

「俺が約束を守る保証もないのに、よくここまでやるな」

 例の如く距離を縮めてくる夏深に、思わず唾を飲み込んだ。

「守らなければそれなりの仕返しはさせてもらう。・・・それとも女には守らせて男は破っていいわけ?」

 夏深の指が後ろで緩く纏めている髪にかかり、止めていたゴムを解いた。にやりと笑いながら、

「キス止まりで結果を待っているやってる男の誠意くらい考えたらどうだ」

 この目は嫌いだ。いつも見下ろしてくる。いつも余裕がある。

「誠意ある男があんな賭けを持ち出すとは思わなかったわね」

 答えずに、唇が落ちてくる。今日は触れるだけの優しいキスで助かったと思うと、一度話した相手の口が耳のすぐ横に来て、直接耳に囁きかけた。

「そんなに俺が嫌いか?」

 自嘲気味の声に背筋が痺れる。

 当たり前だと言う声が飲み込まれ、言葉が生まれない。

「んっ・・・」

 耳を甘噛みされて、反射的にぎゅっと目を瞑った。

 同年代の男ならここまで翻弄されないのだろう。あまりにも経験値に差があり過ぎて、判断力が鈍らされる。

 これは反則だ。

 薄い耳朶を遊ばれ、その音がダイレクトに鼓膜を振動させる。

 耳の穴に息を吹きかけられて、反射的に身震いをした。

 ゆっくり目を開けると、目の前に顔があった。

「秋江が切羽詰った顔をしていた。うちは皆癇癪持ちだからあまり追い詰めないほうが身の為だぞ。特にあいつは一度切れると限度を忘れる」

 茶化しなく、真っ直ぐ目を見て言われると、軽い恐怖心が芽生える。

 確かに、失敗すれば危険だ。だが今更だ、もう後には引けない。

「ご忠告ありがとう。それで私が怯むとでも?」

 挑戦的に見上げると、又あの苦しげな苦笑いが帰ってきた。

「いいや。だが、たまには人の忠告は聞く方がいい」

 それだけ言うと、背を向けて帰っていこうとする。ドアノブに手をかけたとき、思わず引き止めそうになった。引き止めて何を言いたいのか分からず、息を呑む。嫌でももうすぐ結果はでる。